ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

塩田剛三

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

エア・マーシャルアーツのすすめ

エア・ギターといって、ギターを持っているかのようにパフォーマンスするアートがあり、世界大会まである。
同じように、ボクシングで戦っているかのようにパフォーマンスするエアボクシングという公式競技がある。ライセンス制を取っており、ライセンスを取得することで大会に出場出来る。
ボクシングの場合は、元々、相手がいることを想定してボクシングを行うシャドーボクシングという重要なトレーニングがある。

我々は、自己流のエアボクシングのようなものをやれば、良い運動になる。
別にライセンスもルールもない。自分がルールだ。
自分がルールだから、ボクシングと言っても、キックも掌底打ちも、空手チョップも入れたければ勝手に入れられる。
気楽に格好良くやれば良い。
別に、本当の護身術のつもりもないので、実用性ではなく、面白さ、健康、あるいは、ダイエットが目的となる。
本物の格闘技は、健康やダイエットを目的としているわけではないので、不健康な部分、姿勢やプロポーションに悪影響がある部分もあると思う。

あくまで「エアボクシングのようなもの」であり、ボクシングと考える必要もないので、「エア格闘技」「エア・マーシャルアーツ(武芸)」と呼んでも良い。
ここは、格好良く、エア・マーシャツアーツはどうかと思うが、何と呼ぼうと構わない。こういった気楽が大切である。

パンチを打つ時は、ボクシングのようにしっかり構え、拳を堅く握り、あしたのためのその1のように(意味の分からない方、ごめんなさいw)やる・・・必要は全くない(笑)。
むしろ、拳は軽く握り、ぽんぽんと楽に打つと良い。
普通は、それが気持ち良いし、身体を痛めず、健康に良い。
ところで、本当に人を殴る練習をするわけではないが、この「軽く握ってぽんぽんと打つ」には、こんな逸話がある。
超人的合気道家として知られる塩田剛三が、「合気道で打撃の練習をすることはないが、打撃でもボクシングより強い」と言ったことがあるらしい。
実際、塩田の師である植芝盛平は、ボクシング日本チャンピオンのピストン堀口に挑まれた時、堀口のパンチを掴み取ったという。
また、塩田自身、戦争直後、ボクシング経験のある米兵を、ストリートファイト(路上での喧嘩)で、打撃でKOしている(塩田は打撃を試したかったらしい)。
その塩田が、「軽く握ってぽんぽんと打つ」のが良いと言っていたのである。
決して、人を殴ることをお勧めはしないが、実践で、ロングレンジ(長距離)のストレートパンチなど打って、当たるはずがない。
有効な殴り方は、当身(あてみ)というべき十センチ程度の距離から、拳を適当な力で押し込むことであるが、エア・マーシャルアーツでも、このようにすれば、良いフィーリングで打てるし、身体も痛めない。
総合格闘技で、相手に馬乗りになってパンチを打つ光景がよく見られるが、これがまさに、当身のようなショートレンジ(短距離)のパンチだが、これが実に威力があり、また、殴る方も拳や手首を痛めない。
同じように、肘打ちや掌底打ちも、ショートレンジで打つようにすれば、案外に良い護身術になるかもしれない。
また、キックも是非やりたいが、どうしても、キックというと、空手家が自慢気にハイ・キック(高所蹴り)をやるのを見るが、実践では、よほどの上級者でもない限り、ハイキックなどやれるはずがないし、相手が複数の場合は、脚は走り回るのが精いっぱいでキックなんてやってる暇はない。相手が大勢なら、キックなんかやってる間に倒されたら一巻の終わりである。
エア・マーシャルアーツも、多少は実用性があるものが自然に感じるが、普通の人がやって有効なキックは、相手の膝を踵で蹴ることくらいである。
よって、相手の膝を小さい動きで、踵で蹴る練習をすれば良い。
当たりさえすれば、相手の腹部へのつま先蹴りは有効であるが、空手家ですら、相手に膝でガードされたら、つま先を骨折することがあるらしい。まして普通の人では(笑)。
それより、キックに関しては、エア缶蹴り、エア・サッカーとして、床の上・・・それが低過ぎるなら、床上数十センチを脚の甲で蹴れば、素晴らしい脚の運動になるし、これなら、実際のサッカーや缶蹴りの(笑)練習にもなる。
まあ、実際に戦う訳ではないので、好きなら、どんな攻撃でもやれば良いが、自分にとって実用的な範囲のものが、楽しくて、続けやすいはずである。
また、実際には絶対にやらないが、相手の股間を蹴る(普通は足の甲で。つま先のこともある)、いわゆる空手でいう「金的蹴り」は、運動としてとても良い。
梶原一騎原作の漫画『カラテ地獄変 牙』で、拳法を使う美少女が、「金的蹴りは膝のバネを使わないと当たらない」と言っていたが、本当かどうかはともかく、膝のバネを生かすと、気持ち良く蹴れることは確かだ。
格闘技、格闘術の本を見ると、自己流マーシャルアーツを発展させていけ、楽しいことだろう。
それは立派なスポーツであり、「スポーツを何かやってますか?」と聞かれたら「エア・マーシャルアーツを少々」と言っても良いと思う。
頭の固い者が「そんな競技があるのですか?」と間抜けたことを聞いてきたら、「ない」と言えば良い。








ソフトタッチこそが極意

人間、力むとロクなことがない。
潜在意識による成功法則の世界的権威であるジョセフ・マーフィーは、代表的な著書『眠りながら成功する』で、願いがいかに強く熱意があっても、その願い方はどこかソフトタッチでなければならないと書いていたが、これは本当に重要なことと思う。
力むとは、自我(顕在意識と言って良いと思う)が優勢になっている状態であり、それだと、願いが万能の潜在意識に届かない。

スポーツでも、ダンスでも、講演でも、武道でも、力んで緊張していると実力が発揮出来ない。
本当に優れた者は、力が抜け、リラックスしているものである。

発明家の政木和三博士は、50歳を過ぎてから始めたゴルフも達人で、関西シニア選手権で優勝し、ゴルファーの夢であるエージシュート(年齢以下のスコアを出す)を2度達成している。
政木博士が言うゴルフの極意とは、インパクトの瞬間、力を抜くことであった。
最小の力でボールを叩くのである。
私はゴルフは全然知らないので表現が適切でないかもしれないが、政木博士はドライバーで370ヤードを飛ばしたことがあり(男子プロでも難しい)、300ヤードはいつでも飛ばせたと言う。

合気道の達人、塩田剛三が、こんな興味深いことを言っていたらしい。
「合気道では打撃の練習はしないが、打撃でも、ボクシングや空手より強い」
これは、ビックリ仰天発言だろう。
だが、塩田剛三の師である植芝盛平は、「拳聖」と言われた名ボクサー、ピストン堀口とスパーリングした際、堀口のパンチを掴み取ることが出来たそうだ。
塩田剛三も、ボクシング経験のある米兵とストリートファイト(早い話が喧嘩)し、楽勝したと言う。
塩田剛三が言う打撃のコツは、
「手は軽く握る。力を入れず、ぽんぽんと当てるように打つ」
だったと思う。
ここでもやはり、ソフトタッチが一番強いことをうかがわせる。

私が最近注目している言霊研究家、大野靖志氏の著書で、穢れを祓えば自分で決めたことが叶うが、その時も、軽く決めよと書かれていた。
やはり、「絶対叶えてやる」と力むと叶い難いのだと思う。
大野氏が製作した特殊なお祓いのCDや、それから作った音源をオーディオ機器やパソコンやスマホで流しながら、願いを「〇〇になった」と過去完了形で口で言うか心で思う、あるいは、紙に書いてそのパソコンの上にでも乗せておけば良いが、やはり、力まずに言ったり思ったりすることが大切で、紙に書いても、保存しておく必要はないと言う。

ソフトタッチ(あるいはフェザータッチ)こそ、究極の極意であることを、よくよく忘れてはならないと思う。








権力より権威を得る

権力者になりたければ、子供の時からよく「お勉強」して、テストで良い点数を取り続けたまま大人にならないといけない。
だが、政府レベルでは、日本はアメリカの一州みたいなものだから(一州の中の一郡に格下げの恐れがあるが)、日本の権力者は無能である。これは、良い悪いの問題でなく事実だ。
そして、日本の権力者は、少しも幸福ではない。
尚、いくら「お勉強」しても、家柄が悪いと、なかなか権力者になれない。
ただ、大きな権力者でなくても、「お勉強」すれば、わずかな人達に「先生」と呼ばれる程度の「乞食権力者」にはなれるので、それを目指す人も多いが、そんな乞食・・・じゃなく、乞食権力者達も皆、無能だ。
優秀な権力者になるには、「お勉強」と共に、実践的な実力を持たないといけない。
単に科学の博士であるだけでなく、企業の研究開発に参加して実績を上げる能力があったり、ビジネスの実力があるといった感じだ。
ある偉大な日本の数学者が、弟子達に、「企業に行け。実践で役に立たないなら無能なのだ」と言ったが、まさに至言である。

一方、ビジネスで成功して大金持ちになれば権力者になれるかというと、お金持ちというだけでは、一般市民と同じで何の権力もない。
その財力を利用して、権力者と仲良くなれば自分も権力者になれる可能性があるが、これはなかなか難しいし、危険も大きい。
仲良くなった権力者が失脚することもあるし、ある権力者と仲良くなったは良いが、その権力者の敵にハメられてしまったら(狙われたら逃げるのはほぼ不可能)、もう終わりだ。
それは、ジェフ・ベゾスやビル・ゲイツ、あるいは、イーロン・マスククラスでさえそうで、まして、「ただのビリオネア」なら、ケチな大望を抱かぬ方が安全だ。

だが、世俗的な意味でも、高次元的な意味でも、神様に優る権力はないし、人間の持てる権力など、神様の権力に比べれば銀河系とスッポンである。
人間が神の権力をまとうことを「権威」と言って良いので、これを持って、「権威は権力に優る」と言う。「権力」と言った場合は、普通は、人間が持つ物質的なものを意味するからだ。
ところが、映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』で、ローマ教皇が、乞食の若者でしかないフランチェスカの足に口付けをしたように、権威は誰でも持てる。
ローマ教皇の権威は、フランチェスカの権威に劣ったのである。
それが解れば、この映画が解ったことになる。
そして、フランチェスカは悟りすました聖人ではない。
ただ、空を飛ぶ鳥のように生きたいと思っただけだ。
イエスは「空を飛ぶ鳥は働かないが、神はこれを養う」と言い、「ましてあなた方は鳥より優れている」と言ったのだから、我々は働かなくても食べていける・・・かな?(笑)
合気道の超達人、塩田剛三は、金魚を7年見て、金魚を理解したのだから、我々も、鳥や金魚を理解すれば神の権威を得られるかもしれない。
無論、猫でも犬でも良いのだが、あくまで自然な姿を見なければならない。
YouTubeに載せるためにあざとい姿をさせようとしては駄目である。

あるいは、星を見ると良い。
星は、ボールや飛行機のように空気などの影響を受けず、純粋な法則に則った動きをするからだ。
でもねえ、鳥を見たり、星を見たり、あるいは、初音ミクさんを見ることは、結局のところ、自分の心を見ることだ。
科学者がやるように、冷静に自分の心を観察すると、権威を得て、すぐに、働かなくても生きていけるようになるものだ。








Never give up(決して屈するな)

残念ながら私には狩猟民族の知り合いはいないのだが、狩猟中の彼らと一緒にいたら、特異な能力に驚かされるのではないかと思う。
合気道の創始者、植芝盛平は、拳銃の名手6人を相手に、至近距離で、素手と拳銃の決闘をし、6人が銃を撃ったはずが、彼らを次々に投げ飛ばしたという、「いかにも作り話っぽい」話があるが、(あまり嘘をつきそうにないと思う)弟子の塩田剛三によれば、それは事実であると言う。
植芝盛平は、日頃から、「わしに弾は当たらん」と言っていたらしいが、ある狩猟家にもそんなことを言い、その狩猟家が「当たる」と言うので試すことになったが、狩猟家が撃つ直前になって、「お前のは当たる」と言って引いたという話を何かで読んだ。
大自然の中で命がけで生きる者には、文明人の想像外の特別な能力があるのだと思う。

一方、学校で、「勉強も運動も出来て友達いっぱい」という者が特異能力を発揮することはない。
そんなものがなくても快適に過ごせるからだ。特異能力とは所詮、必要が・・・それも、切羽詰った必要がなければ発現しない。
大成功する人間というのは、言葉で表現することが難しい特別な能力を持っていなければならない。学校で優等生の立場に甘んじていた者は、世の中でも、そこそこにはうまくやれるだろう。特に日本での場合でいうと、サラリーマンとして安泰で、しかも、ある程度は出世する可能性が高いが、特異な能力がないので、それ以上のことは出来ないのである。
学校に適応出来なかった者が皆、大成功する訳ではないが、目立たない存在ながら、密かに特異な能力を発揮している場合は多い。
そして私は、社会不適合者は、特異な能力を使って生き抜いて欲しいと思うのだ。特異な能力での戦い方は、まともなやり方ではないかもしれない。だが、かといって、不法、不道徳なやり方ではいけない。特に親愛なる引きこもり達は、その力を行使し、悠々と生きてもらいたいものである。
そして、社会不適合者の中には、学校時代から、特異能力を身に付け、実際に使用していた者もいると思う。その力は、魔法、超能力のようなものかもしれない、この世界を書き換える力である。
苦難の中にあっても、挫けず、勝利への執念を燃やせば、その力は発現する。

「南無三(なむさん)」という言葉がある。
私は、どこで覚えたのかよく分からないが、子供の時、いざという時は、この言葉を唱えて難を切り抜けた。
後で調べると、「南無三」の「三」は、「仏」「仏法」「僧」のことらしい。
だから、「南無三」とは、その3つに「帰依する」、つまり、完全に頼り切るという意味だ。
尚、この僧とは、お寺にいる普通のお坊さんとかでなく、高僧のことである。
また、3は、キリスト教でもだが、それよりずっと以前の、アリストテレスの時代からの神秘数、完全数だ。
もっと簡単に言えば、キリスト教では、最も貴い3つのもの、即ち、「父(神)」「子(キリスト)」「聖霊(純粋な魂)」のことで、ギリシャ哲学では「完全」を意味する。
しかし、それは、どうでも良いと言うのではないが、「三」が最高に力あるものを指すことが分かれば良く、「南無三」が、「完全なる力を信頼して頼る」ための言葉と思うなら、その力が味方してくれるのである。

少しでも科学的に言えば、その特異な力は、右脳によるものだ。
コリン・ウィルソンは、『右脳の冒険』で、彼の子供の時の体験から、右脳の力を発揮するには、左脳、つまり、理性が「しゃんと」しなければならないと述べている。
さっきも言ったが、それは、苦しい状況の中で弱音を吐かず、屈せずに、諦めないことである。
そのために、「三」の神秘で無敵な力に守られていると思い込むことが助けになると思う。
尚、1960年代から1970年代のキックボクシングの王者、沢村忠さんの伝記漫画『キック魂(ガッツ)』で、沢村さんが気合いを入れる時に「南無三」と唱える場面があって面白かった。
あんな凄い人だって神仏に頼るのである。
まあ、話の半分以上は梶原一騎さん創作のスポ根漫画であるが、嘘の中にも真理はあるものだ。








ぼーっとする準備

ぼーっとすれば無敵で、ぼーっとすれば、望まずとも幸運に恵まれる。
それは間違いないのだが、ある程度は修業が出来た人のことかもしれないと思うようになった。
植芝盛平の高弟の塩田剛三さんは、合気道の指導で力を抜くことを教えるが、若い人に対しては徹底的にしごき、練習後の若い弟子たちは、エスカレーターがなかった時代の駅では、手すりにつかまらないと上り下りが出来ないほどだったという。
植芝盛平も、歳を取ってからは力を使わずに戦って無敵だったが、若い時は剛力無双で知られたようだ。つまり、それほど鍛えたのだ。

若いうちは勝負するのが楽しいし、勝負にこだわるべきだろう。
しかし、若い時だって、自分と関係ないことでは、ぼーっとしているのが良い。
いや、何かに打ち込んでいる者は、若くても、他のことではぼーっとしているし、また、そんなヤツが格好良くてモテるんだな。
そして、若い間に、力を抜くこと、勝負にこだわらないことの威力に気付く者は幸いだ。

世の中に出て経験することは、若い時のスポーツや勉強とは比較にならないほど厳しいので、自分の無力さや、個人の力ではどうにもならないことに気付き易い。
そんな中で、いつまでも我を張っていると、どんどん苦しく、そして、駄目になっていくが、ぼーっとすることに気付けば、全てうまくいく。

若い時に、引きこもったりで、普通の方法で勝負が出来なくても、オンラインゲームなどで、上には上がいることを実感出来れば良い。
何でもいいから一番を目指せば良く、昔と違って、今はネットでそんなことが出来るのが羨ましい。
一番いけないのが、若いか年かに関係なく、自己満足で終わることだ。
大切なことは、自分の力の小ささ、自分の卑小さを知ることだからだ。
だが、それはあくまで、理屈の頭脳や筋肉の力などはたかが知れているということであり、一方、我々の内部に秘められた力は無限なのである。
その無限の力にアクセスし、一体化するためには、ぼーっとしなくてはならない。
若い間は、大いに勝負を楽しむが良い。
しかし、イチローだって、40を過ぎれば一流ではなく、40も半ばではプロでいることも難しいのだ。
我々は、なまじイチローのように努力が出来ないのは幸いかもしれない。
早くぼーっとした道に入れるのだからだ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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