おそらく、厳密には違法アップロードだと思うが、YouTubeで、合気道家の塩田剛三を特集した、かなり昔のテレビ番組を見たことがある(違法アップロードであることは明白だが、そんなことがありふれているのでこう表現した)。
塩田剛三は、合気道の開祖、植芝盛平の高弟である合気道の達人で、国内外で超人的なデモンストレーションを見せたこともあった。
この番組の中で、塩田剛三のある言葉が紹介された。
それは、
「一番強い力は、自分を殺しにきた相手と友達になることだ」
みたいなものだった。
これが紹介された時、明石家さんまさんの「カッコエエ!」の声が飛んだと思う。
まあ、確かに格好良いと感じた人も多かったと思うが、さんまさんのこの言葉で、塩田剛三の信念が「カッコエエ(今ならカッケか)」で終わってしまったような気がする(さんまさんはそうやって盛り上げるのも仕事だから罪はないだろう)。
しかし、それでは、この力が何なのかは全く無視され、どうすればそれが得られるのか、誰も意識しない。
これほど愚かなこともない。
そして、その友情とは、映画的に、自分を殺しに来た殺し屋と、お互いの技量や精神力を認め合って「こいつ出来るな」「おまえ出来るな」という安っぽいフィーリングのようなものと思ってしまうかもしれない。
たとえば「殺したければ殺せ」とか格好いいこと言って、殺し屋の心を動かしたとかね(あり得ねー)。
そもそも、現代人は、本当の友達というものが分からず、馴れ合う相手を友達と呼ぶだけである。
馴れ合う相手を「お友達」と呼んで区別すると、お友達どうしでは相手を否定しない。
相手が何かを主張したら、流行り言葉の「確かに」で返す。
「確かに」という相槌は、本当に同意したのではなく、「俺にはどうでもいいことだから否定はせんよ」という意味である。
では、殺し屋が、
「俺はお前を殺しに来た。お前に個人的な恨みはないが、仕事だから殺さないといけない」
と言われ、
「確かに」
と言ったら、友達にはなれずに、あっさり殺される。
私には「殺しに来た相手と友達になる」方法が分かるが、それをくどくど説明しても、ほとんどの人には分からないと思う。
だから、一応、他人のとしておくが、体験談を話す。
私が高校時代、他校の生徒で、高校レベルではだが空手の達人が私を締め(とっちめ)に来た。それも「半殺し以上」を依頼されたようだ(後で聞いた)。
その達人は、私とのトラブルがあった相手の友人だった。
私はただビビったが、ほんの少し、1人で来て「顔貸してんか」と正々堂々の態度の達人に感心もした。それに、友情の行いであることも、やはりほんの僅かだが好感を感じた。
もちろん、ほんの僅かだ。
それで、結論を言えば、私は、その達人君とは今も仲良しだ。とはいえ、滅多に会うことはないが。尚、彼は良いパパになった。
AIアート567
「浮かぶ神殿」
Kay
私がどうやったかというと、私と達人と達人の友人の3者で妥協点を探ったのだ。
いわば、Win-Winで終わったが、Win-Winもまた、甚だしい誤解が多い。
Win-Winとはハッピーではない。
100パーセントを望む気持ちはあるが、それは無理と諦め、お互い譲歩し合い、ことによっては相手を納得させるために、「90%の不満と10%の満足」で手を打つのである。
友達も恋人も夫婦も、あるいは、上司と部下、親子も、仲良くやっていくためには、妥協点を見つけないといけない。
親友や恋人と言っても妥協の上に成り立っているのである。これが分からない人があまりに多いと声を大にして言いたいものである。
漫画や小説や映画の世界では、100%の友情や愛情が描かれるが、人間どうし、それは絶対にない。
そして、国どうしの争いも妥協で解決するしかない。
どちらか一方が完全に満足でいこうとすると、和平に至らないか、至ったように見えて争いの火種がくすぶる。
まあ、わざとくすぶらせるのが大国のやり方でもあるのだが。
私の場合、泣いて謝り、お互いの親、学校、場合によっては警察(これはないと思うが)に私が自首(告白か)し、私が全ての責任を負うという落としどころを提示した。
まあ、相手(達人への依頼者)も話の分かるやつで、なんと私は無罪放免となったのだ(どう考えても私が悪かったのだが)。
こう言うと批判もあるだろうが、私は、個人的には塩田剛三とプーチン大統領はよく似ていると思う(剥げているところではなく)。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)塩田剛三の世界
(2)武産合気 ー合気道開祖・植芝盛平先生口述
(3)中村天風と植芝盛平 氣の確立
(4)中村天風先生 人生を走れ!(中村天風と植芝盛平の高弟、佐々木将人著)
(5)プーチンの世界―「皇帝」になった工作員
塩田剛三は、合気道の開祖、植芝盛平の高弟である合気道の達人で、国内外で超人的なデモンストレーションを見せたこともあった。
この番組の中で、塩田剛三のある言葉が紹介された。
それは、
「一番強い力は、自分を殺しにきた相手と友達になることだ」
みたいなものだった。
これが紹介された時、明石家さんまさんの「カッコエエ!」の声が飛んだと思う。
まあ、確かに格好良いと感じた人も多かったと思うが、さんまさんのこの言葉で、塩田剛三の信念が「カッコエエ(今ならカッケか)」で終わってしまったような気がする(さんまさんはそうやって盛り上げるのも仕事だから罪はないだろう)。
しかし、それでは、この力が何なのかは全く無視され、どうすればそれが得られるのか、誰も意識しない。
これほど愚かなこともない。
そして、その友情とは、映画的に、自分を殺しに来た殺し屋と、お互いの技量や精神力を認め合って「こいつ出来るな」「おまえ出来るな」という安っぽいフィーリングのようなものと思ってしまうかもしれない。
たとえば「殺したければ殺せ」とか格好いいこと言って、殺し屋の心を動かしたとかね(あり得ねー)。
そもそも、現代人は、本当の友達というものが分からず、馴れ合う相手を友達と呼ぶだけである。
馴れ合う相手を「お友達」と呼んで区別すると、お友達どうしでは相手を否定しない。
相手が何かを主張したら、流行り言葉の「確かに」で返す。
「確かに」という相槌は、本当に同意したのではなく、「俺にはどうでもいいことだから否定はせんよ」という意味である。
では、殺し屋が、
「俺はお前を殺しに来た。お前に個人的な恨みはないが、仕事だから殺さないといけない」
と言われ、
「確かに」
と言ったら、友達にはなれずに、あっさり殺される。
私には「殺しに来た相手と友達になる」方法が分かるが、それをくどくど説明しても、ほとんどの人には分からないと思う。
だから、一応、他人のとしておくが、体験談を話す。
私が高校時代、他校の生徒で、高校レベルではだが空手の達人が私を締め(とっちめ)に来た。それも「半殺し以上」を依頼されたようだ(後で聞いた)。
その達人は、私とのトラブルがあった相手の友人だった。
私はただビビったが、ほんの少し、1人で来て「顔貸してんか」と正々堂々の態度の達人に感心もした。それに、友情の行いであることも、やはりほんの僅かだが好感を感じた。
もちろん、ほんの僅かだ。
それで、結論を言えば、私は、その達人君とは今も仲良しだ。とはいえ、滅多に会うことはないが。尚、彼は良いパパになった。
AIアート567
「浮かぶ神殿」
Kay
私がどうやったかというと、私と達人と達人の友人の3者で妥協点を探ったのだ。
いわば、Win-Winで終わったが、Win-Winもまた、甚だしい誤解が多い。
Win-Winとはハッピーではない。
100パーセントを望む気持ちはあるが、それは無理と諦め、お互い譲歩し合い、ことによっては相手を納得させるために、「90%の不満と10%の満足」で手を打つのである。
友達も恋人も夫婦も、あるいは、上司と部下、親子も、仲良くやっていくためには、妥協点を見つけないといけない。
親友や恋人と言っても妥協の上に成り立っているのである。これが分からない人があまりに多いと声を大にして言いたいものである。
漫画や小説や映画の世界では、100%の友情や愛情が描かれるが、人間どうし、それは絶対にない。
そして、国どうしの争いも妥協で解決するしかない。
どちらか一方が完全に満足でいこうとすると、和平に至らないか、至ったように見えて争いの火種がくすぶる。
まあ、わざとくすぶらせるのが大国のやり方でもあるのだが。
私の場合、泣いて謝り、お互いの親、学校、場合によっては警察(これはないと思うが)に私が自首(告白か)し、私が全ての責任を負うという落としどころを提示した。
まあ、相手(達人への依頼者)も話の分かるやつで、なんと私は無罪放免となったのだ(どう考えても私が悪かったのだが)。
こう言うと批判もあるだろうが、私は、個人的には塩田剛三とプーチン大統領はよく似ていると思う(剥げているところではなく)。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)塩田剛三の世界
(2)武産合気 ー合気道開祖・植芝盛平先生口述
(3)中村天風と植芝盛平 氣の確立
(4)中村天風先生 人生を走れ!(中村天風と植芝盛平の高弟、佐々木将人著)
(5)プーチンの世界―「皇帝」になった工作員