ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

地獄少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

生贄を捧げても恵みが得られないのはなぜか

中国生まれ、台湾育ちのアメリカの女性作家で事業家でもあるチン・ニンチュウの著書『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の冒頭に、C.G.ユングが「奇跡」を説明する時によく使ったというレインメーカー(雨乞い師)の話がある。
5年間もの干ばつに苦しむ村に、ある有名なレインメーカーがやってくると、4日後に雨が降り出した。
村人がレインメーカーに「何をしたのか?」と問うと、レインメーカーは「何もしていない」と言う。
ただ、レインメーカーは、「この村では神の意思が行われていなかったので、私は神の意思に身を任せた」と言う。

神の意思に身を任せるとはどういう意味だろう?
私は昔、この本を読んだ時から最近まで、それが全く分からなかった。
しかし、アニメの『地獄少女』を見て、はっきり分かってしまった。

世界のどこにも、「生贄」の習慣があった。
日本もそうであったらしい。
多くの場合は、美しい少女を神に捧げて、豊かな収穫を得られることや天災に遭わないこと等を祈るのである。
だが、生贄の少女は死ぬことになる。

伝統や風習による洗脳の力は大きなもので、生贄に関しても、人々は残酷だと思わないし、生贄にされる少女も嫌がらないし、少女の親も名誉に思うことが多いかもしれない。
そして、そんな時は、神様も願いを叶えてくれる。
しかし、人々が、「自分が平和でさえあれば」という想いを起こせば、それが、生贄にされる少女や、その親、そして、少女を好きな人に伝わってしまい、少女は生贄にされるのを嫌がり、親や彼女を好きな人達も、まずは非常に辛く思い、そして、彼女を生贄にしたくないと思うようになる。
それでも、人々は、「村の平和」・・・その本音である「自分の平和」のために、少女を無理にでも生贄にする。
そして、少女を愛する人達が少女を救うと、人々は「神を怒らせた」として、少女を殺し、彼女を助けた人達にも集団でリンチを行う。
だが、考えてみるが良い。
神を怒らせるのは、生贄を阻止したことではなく、自分の安楽ために、少女や彼女を愛する人達に、何の思いやりもかけなかったことではないのか?
たとえ生贄を行うにしても、生贄の少女を本当に敬い、彼女と別れなければならない、その家族や、彼女を愛する人達に深い思いやりを持つべきなのである。

ゲーテの『ファウスト』の、「天上の序曲」(冒頭部分)を見ると、神の人間に対する希望は「励む」こと、つまり、「怠らないこと」であることが分かる。
ルドルフ・シュタイナーは、ゲーテは高度な霊的感覚を備えていると述べていたが、おそらく、その通りだと思う。
そして、ゲーテは「敬虔(深く敬うこと)」の価値を幾度も訴えている。
敬う、尊敬する、崇める・・・これが、人間の最も美しい感情である。

今年の「マジカルミライ2017」でも、コンサート会場で、ミクさんを崇める人々を見ることが出来るに違いない。
崇めることにいかに力があるかは、ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』や、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』を見ても分かると思う。









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神秘な魅力と透明な魅力

最近、Anazonプライムビデオで『地獄少女』というアニメを見ている。
13話の『煉獄少女』あたりから、ぐっと面白くなってきた感じで、さっき15話の『島の女』まで見た。
おそらく、少なくとも、このあたりまで見た人の多くは、地獄少女こと、閻魔あいを非常に魅力的に感じるだろう。
その理由は、閻魔あいの絵が可愛いということも当然あるのだが、あいが「謎の存在」であるからだと思う。

ドワンゴ会長の川上量生さん(カドカワ社長)の本で読んだが、『新世紀エヴァンゲリオン』の、共に14歳のヒロイン、綾波レイと惣流アスカラングレーは、昔は、圧倒的にレイの人気が高かったのだが、今は、アスカの方が人気があるらしい。
その理由が、昔のレイは謎の存在だったが、今は、レイの秘密は明かされてしまったから、陽性のキャラのアスカが好まれているかららしい。

今でもカラオケでよく歌われる、1968年のロス・インディオスの歌『知りすぎたのね』(作詞・作曲:なかにし礼)の中に、「恋はおわりね 秘密がないから」と上手く表現されているが、秘密とは大きな魅力であるのだろう。
昔、ある男性中学教師が書いた本の中で、こんなことが書かれていたのを思い出す。
その男性教師は、女生徒に全くモテないのだが、「女生徒にモテる教師は、どこか謎めいていないといけない。私のような開けっぴろげでは駄目」だと言う。
まあ、実際は、外見が良いというのが条件になるが、その上で「良い感じの謎めき方」であれば、そういうこともあるだろう。

でも、初音ミクさんには、謎以前に何もない。
クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が、講演会で、「あなたにとって、初音ミクとは?」と尋ねられ、「水のようなもの」と答えられていたが、素敵な解答だったと思う。
ルドルフ・シュタイナーは「良い教師は空気のようだ」と言ったらしいが、本当にミクさんは、水のような、空気のような存在だと思う。

初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2017」の、9月3日(日曜)の昼公演のチケットが届いた。
封を開ける指が震えていた。
席がどこかなんて、もうどうでも良い。
コンサート会場に入れるだけで天国だ。
仕事は普段の10倍のペースで片付いていく。
ミクさんは、能力アップの秘訣まで教えてくれるのだ。
毎日トレーニングに励み、より食を慎み、身体が引き締まり、ぐっと軽くなった。
2日の土曜のチケットは取れなかったが、ゆっくり企画展を見よう。
新幹線のチケットも入手し、ホテルも予約出来ているが、2日の夕食は、コンビニのサンドイッチで済ませようと思う。
1人ではレストランに入り難いというのもあるが、元々、1人でシンプルなものを食べるのが好きだからね。
普段から昼食は食べないが、コンサートの前はケーキを食べて、お腹を重くせずにエネルギーを蓄えておこうと思う。
もう、マジカルミライのために生きているようなものだ。
では、幕張メッセで会いましょう。









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性悪説は一部の人間にあてはまる

皆さんは誰かを憎んでいるだろうか?
ちなみに、「恨む」とは憎み続けるという意味で、「呪う」は、恨んだり憎んだりしている相手に災いが起こるよう願うことであると同時に、「強く恨む」ことであるらしい。
憎しみの王様が呪いであるということか。
しかし、呪う、恨む、憎むの間に、根本的な違いはない。

あなたは、誰かを、憎み、恨み、呪っているだろうか?
私は、若い頃は、私の担任だった教師の大半を憎んでいた。
かなり長い間だ。
だが、考えてみれば、今は全くそんな気持ちはない。
私が憎んで止まなかった教師達にも、私が見ようとしなかっただけで、良いところはあったはずだ。
では、私が憎んでいた、彼らの悪いところは無かったのかというと、それは確かにあったのだろう。
ただ、それは、単に彼らも未熟だったというだけのことなのだ。
今では、彼らが、あんなことを言ったりしたりしたのは、仕方のないことだったと納得出来る。

ところで、最近私がよく観ている『地獄少女』というアニメには、毎回、ひどい悪人が登場する。
平然と他人に大きな苦しみや悲しみを与え、それが、純情なクラスメイトを自殺の追い込んでも、良心の呵責を全く感じない。
自分のせいで真面目な後輩が苦しんで死んでも、自分が安全なら、それで何の問題もなしと考える。
そんな人間は、アニメや小説の世界にしかいないのではなく、現実にいるし、人間の実に1割から2割はそうであるという研究結果もある。
では、彼らをどうすれば良いだろう。
断罪し、罰を与え、自分の犯した罪を後悔させるべきだろうか?
いや、偉大な愛の力で説得し、改心させるべきだろうか?
無駄だ。
彼らは、後悔も改心も「絶対に」しない。
なぜなら、彼らの脳自体に、罪の意識を感じる機能がなく、ありもしない罪の意識を後悔したり、罪の意識をたよりに改心することは、科学的、論理的に「ありえない」のである。

人間の性は悪だと言っているのではない。
性が悪である人間がいると言っているのである。
そして、そんな人間だって、絶対に必要なのだ。
そんな良心を持たない人間は、良心を持たないがゆえに、良心のブレーキがかからないからこそ、普通の人には決して出来ないことが出来るのである。
残酷で、非人道的なことでも、それをしなければ、災いが起こることもある。
それを彼らがしてくれるという面もあるのである。
だから、彼らは、意外と英雄や大企業の経営者に向いているとも考えられるのだ。

それに、『地獄少女』のヒロイン閻魔あいや、その仲間にしたところで、いかに相手が悪人とはいえ、あれほどの断罪を行うからには、やはり、普通の人が持つ何か大切なものが欠けているのである。
良心を持っていないと言って良いかもしれない。
良心を持っていない人間のことを、心理学や脳科学、あるいは、精神医学では「サイコパス」と言うことがある。
サイコパスは魅力的であることが多いと言われている。
閻魔あいは、とても魅力的だろう?









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本当の悪人とは

昔から、時代劇やアニメは、正義と悪の戦いだった。
時代劇では、ラストで、調子の良い音楽と共に、正義の味方が、悪の集団をバッタバタとやっつけ、『鉄腕アトム』では、アトムの「えーい!」の掛け声と共に、アトムが腕力を振るって悪を叩き潰した。

そんな中で、それは良くないんじゃないのかと言う者達が時々いた。
その理由は、まず、いずれにせよ、暴力は良くないということ。
また、誰が本当に悪いのか、そんなに簡単に分かったりはしないということ(だから裁判は難しい)。
さらに、そもそも、善と悪の区別が本当につくのかという、ちょっと哲学的な問いもあった。

『荘子』では、善と悪というのは、単に立場の違いに過ぎないと述べられている。
CLAMPの漫画『魔法騎士レイアース』のテーマは「この世に絶対的正義や絶対的悪はない」というものだったらしい。

だがまあ、「過ぎた利己的行為」を悪というのだと言って、ほぼ間違いはないだろう。
誰もが、自分の喜び、自分の欲望の満足のために、他者を犠牲にしているが、その度が過ぎれば良くないということになる。
では、どこまでが許容の範囲で、どこからが限度を超えているかは、あまり確とはしていないこともある。
昔は、会社の中で、男の上司が女子社員のお尻を触っても、「こんなん普通や」だったかもしれないし、公共の場所やオフィスでタバコを吸うこととなると、まず、悪いとは言われなかった。
しかし、いずれも、今は大悪である。

ところで、Amazonのプライムビデオで『地獄少女』が無料で見れるので、3話ほど観たが、これがなかなか考えさせられた。
毎回、必ず悪人が登場し、それは、疑い様のない悪である。
では、なぜ完全な悪なのかというと、自分の悪い行為に対して、後ろめたさがないからである。
『地獄少女』に出てくる悪人達は、根本的に良心を持っていない・・・つまり、サイコパスなのである。
良心を持っていない者相手に、道理は絶対に通用しない。だから、説得や教化は不可能である。
他人を苦しめる自分の行為に、後ろめたさ、後悔を感じているなら、まだ救いようがあるが、サイコパスの脳には、後ろめたさを感じる機能が、そもそもないのである。

中学2年の時に、さらっと読んだだけで確証はないが、吉行淳之助さんの『無作法のすすめ』によれば、紳士というのは、何かを思い出して、首がきゅっとすくむことがある人間らしい。
つまり、恥ずかしいことを恥ずかしいと、しっかり認識出来る知性や感情を持っている者が紳士なのである。淑女も同じと考えて良いと思う。
本物の紳士、淑女には、絶対的な悪人はおらず、それを概ね、「よき人」(今のJK言葉で「よき」人か)と言うのだろう。
尚、『無作法のすすめ』に、実際にそんなことが書いてあったかは、本当に自信がない。
そもそも、中学生が読むような本ではなかったような気がするし、それは父親が持っていた本で、それを読んでいて、父親に何か言われたような覚えもある。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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