ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

地獄少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

意思の力

アンデルセンの『マッチ売りの少女』の最後で、アンデルセンが、「誰も、最後に少女が見た美しいもののことを知らないのだ」と書いたのが、私には、彼の強い訴えと感じていた。
心理学などでは、それは「白昼夢」と呼ばれる。
少女は、マッチ1本擦る度に、暖炉や、ご馳走を見、そして、愛するお婆さんが微笑むのを見た。
私は中学生の時、心理学の本に、マッチ売りの少女の話が白昼夢の例として書かれているのを知り、まずは可笑しくなり、心理学には一生関わらないようにしようと思った。
後に、心理学者なのか精神分析学者なのかは分からないが、岸田秀氏の本で、心理学はイカサマであり、科学などでは決してないと書かれているのを見て、岸田さんが好きになったものだ。岸田さんの論にも、非常に納得出来たしね(後に、納得出来ないところも沢山見つけたが)。

ユダや人で、オーストリアの精神科医・心理学者であるヴィクトール・フランクルは、ナチス強制収容所で、マッチ売りの少女に劣らない過酷な状況を生き、奇跡の生還を果したのだが、その体験と心理学的考察を綴った『夜と霧』の中には、マッチ売りの少女が見たような「幻」の話が何度も現れる。
1日の食事は、水のようなスープと「馬鹿にしたような」小さなパンが1つだけ。
極寒の中、粗末な服で手袋もなし、サイズの合わない靴が、時にないこともあったという中で重労働を強いられるが、ふらつこうものなら容赦なく殴られるだけでなく、そこでしゃきっとしなければ即座に処刑場行きだった。
骸骨の上に皮があるだけというほどに痩せ、自分が生きているという実感がない。
そんな中、彼は妻の鮮やかな幻を見る。
いや、それは幻などではなく、本物の妻であり、彼に生きる力を与え、それこそが本当の愛だった。
そんな過酷な生活の中、収容所の誰かが、慌てて仲間を呼びにくる。
夕陽を見る機会を逃させないためだ。
そして、彼らは言ったのだ。
「世界はなんて美しいのだ」
と。

長い断食でやせ衰えた釈迦も、同じことを感じたのだろうか?
私は、『あしたのジョー』(梶原一騎原作のちばてつやの漫画)で、丈が、力石徹と金竜飛(きんりゅうひ)と比べたことを思い出す。
金は韓国のボクサーで、戦争中だった子供の時、川岸に食べ物の入ったリュックがあるのを見つけ、飢餓に苦しむ彼は、躊躇なくそれをむさぼり食った。
そこに、リュックの持ち主の男が戻ってきて、金は必死で、弱々しく衰弱していたその男を、石で殴り殺した。
金は、軍人らしいその男が誰か判らなかった。
その男は、軍隊で支給される食事にほとんど手をつけずに溜め込み、故郷で腹を空かせているはずの家族のために、それを持って軍から脱走した金の父親だった。
そんな地獄を体験し、ほとんど食べることが出来なくなった金は、減量で苦しむ丈を見下した。
丈と金の試合は、金の圧倒的有利に進んだが、丈は、金にはあらゆる面で敵わないと思いつつ、なぜか、負ける訳にはいかないと感じた。
自分の意志で、自分との不思議な友情のために食べなかった力石と、強制された飢餓を自慢する金との差だった。
マッチ売りの少女も、強制収容所のフランクルも、強制された飢餓であった。だが、フランクルの仲間は(実際は、彼らに仲間意識はなかったが)、夕陽を見せてやりたくて仲間を呼んだ。それは、人間の意志の力である。
だが、マッチ売りの少女は、意思の力も奪われた。
『地獄少女 三鼎』で、全ての人に見捨てられ、幼くして死んで骨になった御景ゆずきの霊が、「誰も助けてくれなかった」と世を恨む声を思い出す。
目の前で、やはり世の中から排除された母親が病死するのを見、花を集めて弔ったゆずきに、生きる意思はなかった。

意思の力こそが人間である。
それを解るように言い表すのは難しいのだけれど、「譲れない願い」とでも言うものかもしれない。
それを持っていない人間は、弱いし、そもそも、生きてもいないのだろう。









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生きてることを証明出来るか?

誰かを恨んでいない人間はいないらしい。
いや、いるにはいる。
それは、誰も愛していない人間だ。
では、誰も恨まないような顔をしている聖者は、実は、誰も愛していない詐欺師ということになる。

そういえば、私は誰も恨んでない。
改めて考えるまで分からなかったがね。
しかし、それが立派かというと、それは、誰も愛していないということなのだから、さあ、どんなものだろう?

人間には、人を蔑むという慢性的な癖がある。
誰でも、必ず、人を蔑む。
もし、そうでない者がいるとすれば、その者は誰も崇めていないのだ。
誰かを崇めている・・・即ち、真に尊敬しているなら、必ず、誰かを蔑むのである。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、社会の最下層の惨めな26人の男達は、1人の16歳の美少女を女神のごとく崇めることで、人間性や能力を取り戻した。
しかし、それが何になるのだろう?
結局、男達は、その少女を最大に軽蔑し、捨てた。
誰かを崇めると、誰かを蔑むのだ。
あのお話の場合は、たまたま崇めた相手と蔑んだ相手が同じだったのだ。

そういえば、私は、誰も崇めていない。
ちょっと前は、何人か崇めていたような気はするが、その気持ちも消えてしまった。
そうすると、誰も蔑まなくなった。

誰も愛さず、誰も恨まず。
誰も崇めず、誰も蔑まず。
こんな人間が、生きていると言えるのだろうか?

大震災等で街ごと滅びた時、そこに幻想の街が出来て、人々の魂は、そこでの生活を続ける。
これまで通り、会社に行って働き、遊びに行き、飲み食いし、テレビやネットを見て寝る。
しかし、ものを買ってもお金を払わなくていいし、そんなにお腹も空かなくなり、やがて、何かおかしいと気付く。
そして、やっと、自分の死を悟るらしい。

私も、もう死んでいるのではあるまいか?
いや、ちょっと疲れているだけだ・・・なあんて、今は思ってるけれども。

つまりだね、私も、あなたも、自分が生きているということを、どう証明出来るだろうかということだ。
死者も、愛し、恨み、崇め、蔑むかもしれないが、それは、半分生きているってことで、現世の人間とどこかつながっているのだ。

人間は、恨みは隠すことが多いが、蔑みは大っぴらにすることがよくある。
蔑むことで、相対的に自分の優越性を主張したいのだろう。
誰かを声高に馬鹿にし、罵倒し、非難する者がそうだ。
それは確かに愚かであるのだけれど、そんな者は、まだ生きているのだろう。
しかし、ディール・カーネギーが、人間最大の願望と言った、そんな「自己重要感」を私は失ってしまった。
つまり、やっぱり死んだってことか?
いや、やっぱり疲れているだけだ・・・そう思いたい(笑)。

私のような人、案外いるのでないだろうか・・・と思いたい。
いや、種を明かせば『地獄少女 三鼎』の25話(最終回の1つ前)を観て、衝撃を受けてしまっただけなのだが(笑)。
昼間に金縛りに遭うほど(誰もいない部屋で笑い声を聴き、気配も感じた)、どこか疲れていた上にこれはちょっとマズかったのかもしれない。
だが、明日には復活するのだろう。
EA(えれくとりっく・えんじぇぅ)メソッドで生命力を高めよう。
・・・たちまち復活したようである(笑)。









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ちなみに愛とは

成功するかどうかは、本当のところは、愛の大きさで決まるのだろうなあと思う。
どんな成功のためのテクニック、技術、秘法を駆使しようが、愛がなければ、一時的に上手くいっても、ほどなく転落する。
一方、特に成功のためのセオリーみたいなことを何1つ知らなくても、愛を持ってやるべきことをやれば必ず成功する。

しかし、お気付きと思うが、愛とは何かが難しいのだ。残念ながら。
「好き」と「愛」とは似ているが、美味しいものが好きなことを愛とは言わないし、美男美女が好きなことも愛ではない。
世の中では「愛」で通ることが多い、母親の子供への愛着も、その正体は愛ではない。
これらは全て、執着であり、引力としては強いが、時として愛と正反対である場合も珍しくはない。
聖人の崇高なる善行すら、それが愛の発現かどうかは疑わしく、実際、ひいき目に言ったところで、それらのほとんどは愛ではない(実際は全て愛ではない)。

では、愛とは何だろう?
そんなこと、誰も教えてくれないし、どんな本にも書かれていない。
これに関して、「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのノーベル賞作家で神秘家であったウィリアム・バトラー・イェイツは、実に素晴らしいことを言っている。
「愛は神の領域であり、人間には解らない」
こう言ってくれると助かる・・・というのもおかしいが、納得出来る。
「なーるほど」だ。
そして、イェイツはもう1つ、やはり有り難いことを教えてくれた。
「だが、憎しみは人間の領域である。人間は愛することは出来ないが、憎むのをやめることが出来る」
「憎む」は、呪う、妬むでも良いし、それは、人の存在自体を嫌うことだ。

イェイツは、至高体験、大洋感情といった言葉は使わなかったが、それである、万物と一体となる忘我、没我の体験は、憎むのをやめた時に起こることに気付いた。
以前も書いたが、アブラハム・マズローは、「偉大な人間とそうでない人間の違いは1つだけ。至高体験があるかどうかだ」と言い、それは正しいが、イギリスの作家コリン・ウィルソンは、「至高体験はありふれたもので、単に、自分を幸運だと思うこと」と言い、マズローも認めた。
要は、至高体験への親しみ、馴染みの度合いの問題だろう。

それなら、やはり、憎むのをやめれば成功するのだが、それは、テクニックでもセオリーでもないが、納得出来ることで、これが、実際は人間には到達出来ない愛に近付くことである。
『地獄少女』を見ていて思うのだ。
「人を呪わば穴二つ」
あのアニメを客観的に観ていても、「別に恨まなくていいじゃない」と思うのだ。
恨み、憎しみ、呪い・・・言葉は違っても根は同じであるが、それをやめることは出来るに違いないし、やめるべき・・・少なくとも、やめた方が良い。
まあ、それがなかなか難しいのかもしれないがね。
とはいえ、答はそれなのだ。
憎むのをやめれば、確かに結果的に成功する。
だが、きっと、憎まない人には、成功なんてどうでも良いのだろう。

『あしたのジョー』のアニメの有名な主題歌に「憎いあんちきしょうの顔めがけ、叩け!叩け!叩け!」なんてあるが、丈は、「憎いあんちきしょう」を本当は愛しているのだ。
ジュリー(沢田研二さん)の歌にも『憎みきれないろくでなし』なんてのがある(作詞は阿区悠さん)。
好きが愛でないように、嫌いも憎しみではない。
一目惚れには愛は少ないが、初めは嫌いだったのが好きになった時には愛がある。
そこらにもヒントはあるのだろう。









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人を呪わば穴二つ

『クリスマス・キャロル』のスクルージは、なぜ、あそこまで愚か・・・冷酷無慈悲、守銭奴、エゴイストだったのだろう?
それは、おそらく、他人を呪う心・・・恨み、憎しみ、嫌悪が大きくなり過ぎたのだろう。
ジャイアント馬場さんは、あらゆるモメゴトは嫉妬から起こると言っていたが、あらゆる不幸は人を呪うことから起こる。
「人を呪わば穴二つ」というのは、紛れもない真実だ。
では、スクルージがなぜ生まれ変わったのかというと、自分の愚かさを客観視したからだ。
小説だからスクルージはそんなことが出来たが、普通は、たとえ気付いても手遅れだ。

ところが、私は、人を呪う愚かさに気付き、誰も呪わなくなった。
間に合ったのだ。
『地獄少女 二籠』を見ていると、本当に人を呪うことの愚かさが解る。
これを私は、「スクルージ効果」とでも言おう。
私は「スクルージ効果」で救われたのだ。
人を呪わないと言うことは、人を恨まない、憎まない、嫌わないということだし、自分も人に恨まれることはしないでおこうと本当に思うことだ。
人を呪わないことはお得だという、コスパの高さを理解したのではなく、人を呪う愚かさを思い知ったのである。

『地獄少女』は、第1期は、それほどの作品ではなかったように思う。
人気声優の能登麻美子を主役にしたのだから、それなりに力は入れていたとは思うが、人気が出てくるごとに高品質になっていき、『地獄少女 二籠』はもう名作だ。その後の続編もある。ただ、今年秋公開予定の実写版は・・・本音を言うとやめて欲しいが、人気ゆえに作られるのだから、そんなに嫌がらないでおこう。
ところが、私は『地獄少女 二籠』の18話あたりを観てから、1年以上、続きを観ずに放置していた。
『BEATLESS』を観始めたせいかもしれない。
別に、作品の優劣の問題ではなく、その時の自分のフィーリングに合ったのが『BEATLESS』だったということだ。
それで、長い間『地獄少女』に興味を失っていたのだ。
閻魔あいちゃん、あんなに可愛いのにね(畏れ多くて嫁には出来ないが)。

このようなことが起こったのは、今月(2019年3月)2日の記事腕振り運動以上の生命エネルギー活性化法に書いた、その生命エネルギー活性化法のおかげで、生命力強化というよりは、胸のつかえが取れ始めたせいと思う。
人を呪うことは、本当に損であるし、何より、醜い。私は醜いものが大嫌いである。
その方法をやることをお薦めする。胸に詰まった余計なものが溶けると、大抵のことはうまくいく。









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死ぬか生きるか

理屈の上では、修復不可能な機械は無いが、全体があまりに壊れてしまった場合や、全体の中で極端に高価な部分、あるいは、最も重要な中枢部分を交換しなければ直らない場合は、直さない方が合理的という理由で直さない。
人間の場合、脳か心臓が活動停止した場合に修復不可能な死ということになるかもしれない。
一説ではあるが、顕在意識は脳に、潜在意識は胃の後ろの膵臓(すいぞう)に、そして、魂は心臓に宿ると考える人達がいる。
ただ、他の臓器であっても、他人のものを移植すると人間性が変わるということがあるらしい。
臓器にも重要な情報が存在するのかもしれないのである。
だから、臓器の移植を受けるということは、予想外に重いものを背負う可能性がある。
人間は複雑で神秘的な存在であり、論理的に解明することは極めて難しいと言われる。
論理的に解明するとは、デジタルとして捉えるということであるが、人間とか潜在意識とか魂をデジタルで解明出来る時は、いずれは来るだろうし、AIの発達によって、存外に早く達成されるかもしれない。だが、とにかく、今のところは謎が多い。
その謎の多い人間の力を、我々・・・と言うか、私は使えないものかと思っているのだ。
普通の人間は「制限モード」で動いていて、世界の中で1人で生きるのに十分なパワーが無いので、群れていなければならない。
大きな力を得たからといって、必ずしも孤独でいる必要はなく、そんな新しい人間の他者とのつながりは、今の社会で見られる様々なコミュニティーとは根本的に異なるだろう。

つまり、人間は自分にならないといけない。

痛いくらい強く結んだ手と手を
振りほどくようにさ 君は君になってゆく
~『Birthday』(作詞・作曲・編曲:びにゅP。歌:初音ミク)より~

この歌は、子が親の手から放れることのプラスとマイナスの感情を感じさせるが、大人である我々もこうでなければならない。
親が子の手を掴むのが執着なら、我々も執着を捨て、自分を解放しなければならない。
地獄少女の「いっぺん、死んでみる?」は面白い言葉だ。
なぜ面白いかというと、普通の人は、いっぺんも何も、死んだらおしまいと思っているからだ。
だが、賢者達は、死んでから本当に生きるのだと言う。
それとは少し違うのだけれど、臨死体験というのは、死の疑似体験として貴重なものをもたらすことがあるかもしれない。
念仏を1日何万回も唱えると、やがて自我は死んでしまう。
「私」に意思を向け続けると、私は私を葬ってしまう。
しかし、普通の人は、なかなかそこまでやれない。
だから、やりたいことをやりたいようにやることが一番だ。
本当に、自分になってそうする時、誰かが支払ってくれる。
宇宙はそんなシステムになっているらしい。
体験上、分かっている人も多いはずである。
まあ、あなたの悩みは、今の(嫌な)環境から抜け出せないことだろう。
それなら、死の準備をすることだ。それから好きなことをすると良い。
死ぬ瞬間に悔いを残さないように。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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