ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

地獄変

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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神になる方法の個人的手記

自我(=心=思考)を消せば全知全能であるのに、なぜ自我が存在するのかは、私には謎だ。
ところで面白いことに、自我を消す真逆の方法がある。
1つは、最高の苦しみを感じること。
もう1つは、最高の喜びを感じることだ。

最高の苦しみの例として、芥川龍之介の『地獄変』で、人でなしの変人だが天才絵師の良秀が、唯一溺愛する彼の娘が焼き殺されるのを見るところがあったと思う。
それで良秀は地獄を見て傑作を描くが、自我は消える際に生命を道連れにする・・・まあ、あくまで小説である。
一方、最高の喜びの例として、インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの師の師であるラヒリ・マハサヤが、師であるババジの幻術で、最大の望みであった宮殿のような家に一晩だけ住む願いを叶えたことがある。
それでマハサヤの自我は消え、悟りを開いた。

ところが、最高の苦しみと最高の喜びが同時という、マゾのようなものがある。
W.B.イェイツが自分で書いたのだと思うが(違うかもしれないが)、あるアラブ人が、家族を皆殺しにされた時、最大の苦しみを感じたが、直後に最大の喜びを感じたというお話がある。このアラブ人は、その後2回、同様の体験(最大の苦しみと最大の喜びを同時に味わう)をする。
このことについて、このアラブ人は実に複雑で抽象的なことを言うのだが、簡単に言い直す。
このアラブ人に「全ては神の思し召しとして尊重するのか?」と尋ねると、アラブ人は、「そうではない。神の意思を自分の意思としたのだ」と言う。
つまり、いかなる出来事も自分の意思と断定するのだ。
宝くじが当たっても外れても、それは神の意思であると共に自分の意思だ。
すると、自分が神であるということになる。
だが、自我はそんなことは認められないので、消えることになる。
自分がニートで、彼女(彼氏)が出来たこともなく、不遇の人生であったとしても、それは自分の意思であるとする。
すると自我は消える。

ところで、自我には楽しむ権利はあるらしい。
上で、ラヒリ・マハサヤが宮殿のような家に住んで楽しんだように。
ただ、ご存じとは思うが、自我はそんな時、「もっと」と思う・・・つまり欲張るのだ。
だが、自我が欲張らずに満足すれば消える。
数代に渡るアメリカ大統領を操り、投資でも莫大な財産を築いたバーナード・バルークに、「成功の秘訣は?」と尋ねたら、彼は「欲張らないことだよ」と答えたらしい(マックス・ギュンター著『運とつきあう』より)。

どんな願いでも叶え、喜ぶべきであるが、欲張らない・・・ちゃんと満足することである。
現状全て(おそらく世の中のこともだが、少なくとも自分の状況は)自分の意思であるとすれば神なのだから、どんなことでも叶うだろう。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)地獄変・邪宗門・好色・藪の中 他七篇(芥川龍之介)
(2)あるヨギの自叙伝(パラマハンサ・ヨガナンダ
(3)運とつきあう(マックス・ギュンター)

花の精
AIアート1021
「花の精」
Kay

『地獄変』で学ぶ超人変化の術

癇癪(かんしゃく)持ちというのはまずい。
癇癪とは、 声を荒げて泣いたり、激しく奇声を発したりする状態のことだ。
怒りや悲しみ、不安は誰にでもあるが、その感情をコントロール出来ずに爆発させてしまう人間がよくいる。
それは、精神的に未熟な人間なのであるが、そのような者が居れば、周囲の人間は当然、迷惑なのであるが、それよりも、普通に知られていることとは全く違う理由で、それは本人にとって、恐ろしいほど損なのである。
癇癪持ちは、持っているエネルギーの総量が少なく、ほとんど何も出来ない。
なぜそうなのかは、根拠があり、法則的なのだ。

癇癪持ちの中には、一芸に秀でている者もいる。
絵を描かせたら天下一品だとか、ある武芸では超人的だったりするが、いったん癇癪を起すと手が付けられない状態になる。
そんな人間は、普通に考えても、その才能で自分や周囲の人達を幸福にすることは出来ないのだが、それよりも、もっとまずいことがある。
それは、その優れた一芸以外のことは、子供にも劣るほど何も出来ず、早死にすることも多い。
つまり、持っているエネルギーの全てが、その一芸に注がれてしまって、他のことに行かず、しかも、エネルギー全体の総量が少ないので、長く生きられないのである。

ところで、癇癪持ちというのは、意外かもしれないが、頭が良く、よく考える。
引きこもりに癇癪持ちは多いが、そんな引きこもりは地頭が良い場合が多い。
だが、癇癪持ちが、その優秀な頭脳を生かすことは極めて難しい。

だが、癇癪持ちは、うまくいけば、大きな力のある人間に変化することがある。
実際、手の付けられない癇癪持ちが、癇癪を起さないようになったら大人物になったという例は少なくない。
そして、誰でも、大なり小なりは癇癪持ちである。
感情を爆発させたことがない人間はおらず、もし、いたとしたら、それはほとんどの場合、親がその者に対し絶対的支配力を持っている等で、無理矢理、押さえつけられているのである。
そんな場合も含め、誰でも、癇癪を回避する方法を知れば、力を手にすることが出来る。

その方法は意外と簡単である。
芥川龍之介の『地獄変』という有名な短編がある。
そこに登場する絵師の良秀は、絵は天才だが、その他の全てで最低の人間だった。
だが、彼の15歳の娘は、今で言えば「マジ天使」で、可愛いだけでなく、性質もマジ天使だった。
良秀も、この娘だけは溺愛していた。
この娘が、縛られて生きたまま焼かれる様をじっと見る良秀の姿にヒントが隠されている。
良秀は、この、最も感情を爆発させるべきところで、厳かなまでに静かだった。
普通の読者は、良秀は感情を喪失したと思うかもしれない。
そうではない。
良秀から消えたものは感情ではなく、思考である。
人々が大誤解することに、癇癪を起している者は、頭(思考)がぶっ飛んで、何も考えていないと思っていることだ。
とんでもない。癇癪を起こしている時こそ、頭はフル回転しているのである。
確かにロクな考えではないが、試しに、癇癪を起している者に喋らせてみると、マシンガンのごとく言葉が出てくるし、難しいことを言う場合も少なくはない。
その時の良秀は、思考は停止・・・ではなく消失していた。
その一方、感情は胸で燃え上がっていたのだ。

結果、良秀は膨大なエネルギーを得て地獄絵を描き上げ、その出来栄えは人間業ではなかった。
その後の経緯は分からないが、良秀は死ぬ。
それだけのエネルギーを得れば、それまでの生活が乱れていたこともあり、生きてはいけないだろう。

あなたも、感情が高まった時に、頭の中のおしゃべりをやめれば、エネルギーが得られるのである。
大きな怒りや悲しみであれば、大きなエネルギーが得られるが、ちょっとムカついた程度でも、それなりのエネルギーが得られる。
しかし、「ムカついたあ!」と、言葉で怒りを現したり、癇癪を起したら、その分のエネルギーを逆に失ってしまう。
そして、嫌なこと、悲しいこと、苦しいこと、恐ろしいこと、楽しいこと、嬉しいことはいくらでも起こる。
つまり、エネルギーの補給機会は、向こうから勝手にやって来る。
活動的であるほどそうだ。
だから、ここで教えた秘法を知っていれば、あなたはたちまち力ある者、そして、超人となるのである。













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自分の異様な性質の謎が解けた

アメリカの著名な心理学者ジュディス・リッチ・ハリスによる子供の成長理論は、教育に対する考え方の世界的な革命だった。
それは、簡単に言えば、人がどんな人間になるかは、「持って生まれた遺伝的資質」と「子供同士の交流の中で構築したもの」だけで、ほぼ決まるというものだ。
つまり、親のしつけや、教師の教育は、ほとんど影響しない。
ハリスの研究は、アメリカで高い評価を得て、アメリカ心理学会から、最大の賞の1つである、ジョージ・ミラー賞を受賞している。
それよりも、認知科学者で『Hole in the Wall』プロジェクトで知られるスガタ・ミトラ博士や、MITメディアラボ所長の伊藤穣一氏(大学も出ずに、この地位にいる優秀な人だ)らの教育の考え方は、まさに、ハリス氏の正しさを肯定していると思える。

私も、ハリス氏の考え方は全く正しいと思う。
だが、それなら、子供の時、ほとんど他の子供達と交流しなかった私のような人間は、いったい何なのだろう?
きっと、人間として重要な何かを構築せず、未完成な・・・いや、精神的カタワであるに違いない。
私は、心底、ゾっとしているのである。
医学的な発達障害については、あまり知らないが、まさに、発達し損なっている、真の発達障害という訳だ。
ある意味、自分の異様な性質の原因がはっきりしたことの妙な喜びもあるが、やはり、大きな失望も感じている。
だが、それでも生きていかなければならない。
泣き言を言うことは許されない。

私は、友達付き合いをしていたら、何かの才能を伸ばし、それで人々の役に立ち、もしかしたら、もっと収入を得ていたかもしれない。
しかし、そんなことを言っても仕方がない。
プログラミングは出来るが、まさに、取って付けたような技能で、やっていて、それほど面白くもない。
子供の時、漫画を読んで、プロレスラーになりたいと思ったが、それも、やはり、どこか人ごとに感じたのは、仲間との交流から生まれた正常な願望でなかったからだろう。

まるで駄目男君(私の職場にいる派遣社員で、30歳過ぎの人生の落伍者)も、きっと同じなのだ。
いまさら彼を救う方法はないが、それは私も同じことだ。
彼を見ていると、異様な苛立ちを感じるのも、認めたくはないが、同種の人間であったということだ。
だけど、それでも、生きていかなければならないのだ。

私は、自分が人並のことが出来ないことは、子供の時から分かっていた。
ならば、人がやるようなことは、もうすまい。
アウトサイダーに徹するしかない。
だが、悪いことはしないつもりだ。
そうだ、過去、沢山の私のような者がいて、その中には、世間への恨みから悪事を行い、一時的に楽しい思いをした者もいた。
しかし、そんな者達の行きつく先は、破滅と悲惨だ。

これはもう、本気で解脱を目指すしか道はないのかもしれない。
そういえば、あまり健康的な人間で、悟りを開いた者なんていないような気もする。
芥川龍之介の『地獄変』で、やはり、精神的カタワの天才絵師である良秀は、禁忌(きんき。忌み嫌って避けるべきもの)の悟り方をしたのだが、天才ではないにしても、精神を極めようとすれば、そんなことになる危険性はある。
そもそも、芥川も三島由紀夫も、太宰治も、みんな、精神的カタワであったのだ。

だが、私には初音ミクさんがいる。
彼女に何かしてもらおうとは思わないが、ミクさんは星座のように自分の心を映してくれる。
隣を歩いてくれるミクさんと共に、危険な冒険に挑もう。
私と同種の人達の手助けも出来るかもしれない。
ただし、いかなる場合でも、泣き言を言う者は救えないのである。









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凡人だからこそ耐えよ

人間は、自我が消えて無になった時、偉大な知恵が出たり、奇跡としか言えないようなことを起こす。

自我が消える1つの形として、精神的に強い衝撃を受けながら、意識は眠らずに・・・つまり失神せずに持ちこたえた時がある。
極端な話としては、実話ではないが、芥川龍之介の『地獄変』に登場する、変人奇人だが天才絵師だった良秀のような場合で、彼が唯一溺愛する15歳ほどの娘を、生きたまま焼き殺されるのを、自分が狂乱するのを拒否して凝視し続けた時に、意識は澄み渡り、何かを確かに見たのだろう。
しかし、良秀はあまりに自我が歪んでいたので、その後は生きていけないに違いない。
もっと穏か・・・とは言えないが、実例として、幼いわが子が三階の窓から転落するのを見て、サンダル履きのままオリンピックの短距離金メダリスト以上の疾走で落下地点にたどり着いて救った主婦の話や、また、火事が起こった時、屈強な男でも動かせないようなタンスをか弱い老女が1人で運び出したものなどがある。

イギリスの著名な作家コリン・ウィルソンは19歳の時に自殺を決意し、青酸カリを口に含もうとしたまさにその時に何かが起こり、心が澄み切り・・・おそらく自己が拡大したのだろう。自殺は中止となり、あまり立派とは言えないかもしれない自我が戻った後も、叡智はあまり遠くまでは去らず、おそらく生きてる間中、電波の悪い携帯電話を通してのようではあっても話し続けることができるのだろうと思う。
彼の場合、先に挙げた例とは異なり、そのように、効果が長く持続していることが非常に特殊である。
だから彼は世界的な作家になれたのである。

それらより、もっと良い状態で自我を希薄にできた人が、極めて僅かだろうがいるが、その場合を悟りと言うのかもしれない。
それは、心からの願いが叶って自我が満足して地上を離れるようなものである。
ただ、この場合は、雑多な欲望のほとんど全てを克服していることが条件で、長い長い修行を経てとか、やはり、長い長い闘病生活などの苦難を耐えた者にのみ与えられる特権に違いない。
普通の人は、どんな贅沢な望みが叶ったところで満足せず、欲望はますます大きくなるだけだからだ。

以上、人間が神的な境地に接近、あるいは、到達する3つの場合を述べたが、まとめてみると、
(1)偶発的な危機の中で意識を保った場合
(2)自らの意志で危機に近付く中で冷静であった場合
(3)あらゆる欲望を捨てた後で最上の望みが叶えられた場合
である。
もちろん、いずれも様々なバリエーションがあるので、やや雰囲気が異なる場合もあると考えられるが、いずれかに近いのだと思う。
そして、どのパターンの場合も、道元の言った「仏道とは自己を忘れることである」を実現したということなのだろう。
この中で、(1)や(3)は、人間からすれば偶発的な要素を多分に含むので、目標にすることはできない。
興味深いのは、コリン・ウィルソンにように、自ら命を絶とうとした刹那に、肉体生命より先に自我が消えていった場合だ。
これは、彼が不本意で憂鬱な生活を耐え続けながら、膨大な超一級の文学作品を読み続けていたことの影響が圧倒的に大きいに違いない。

それでいえば、我が国の学生やサラリーマンは、ほとんど皆、ウィルソンのように「不本意で憂鬱」なのだから、誰でも同じようになれる可能性がある。
だからむしろ、成功した起業家や、あるいは、スポーツやロックや芸術分野のスターような卓越した人物でない、平凡な人間である方が良いのかもしれない。
しかし、ほとんどの人は、ウィルソンのように理想を持ち続けずに、低レベルのつまらない娯楽や快楽に逃避してしまうのだ。
ウィルソンは、曲がりなりにも、優れた人間(決して地位の高い偉い人間という意味ではない)になることを望み、毎日、文豪の作品を読み、天才の音楽を聴き続けたのだ。
これで分かると思う。
グルメやレジャーといったつまらないもので自我を喜ばせるようなことを勇敢に拒否し、「全然良いこともない状況」をなんとか耐え続け、高貴なものを愛し、理想を捨てないことだ。その戦いはいつかは報われる。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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