善いことをすれば幸福になり、悪いことをすれば不幸になる・・・いわゆる因果応報だが、本当だ。
ただし、善いことも悪いことも、しようと思って出来るわけではない。
善いことをするのは、善いことをやらされているだけで、悪いことも同じである。
分かり易くい言えば、我々はロボットのようなもので、操っている誰かが我々に善いことをさせるか、悪いことをさせるかを決めている。
善いこと悪いことを含め、我々は自分の意思では何もしていない。
大きな事業を成しつつある事業家は実は何もしていないし、責任と熱意を持って仕事をしている財務長官も何もしていない。
どんな大悪人だってそうである。
これは、どんな悪いことをしても後悔しても仕方がないということになるが、そう言うと反発する人が多い。
後悔しなければ、また悪いことをすると思うのだろう。
しかし、後悔しようがすまいが、また悪いことをするかもしれないし、しないかもしれない。
後悔とは何の関係もないのである。
そして、後悔するというのは、後で述べる低い存在に支配権を与えるということだ。
不幸な者は元々不幸になる運命だったのだ。
そこで、親鸞は、念仏を唱えれば、そんな因果から解放されると言った。
それは本当かと言うと本当だ。
もちろん、念仏に何か特別な力があるというわけではなく、因果を超える力に一切をまかせてしまおうというのが念仏なのだ。
よって、どの神や仏に祈っても同じで、人間の概念でいう神や仏にまかせてしまうと良いだけである。
つまり、普通の人間は、頭の思考によって、低い存在に命運をまかせているのである。
だから、考えなければ、そんな悪魔の手を振りほどける。
そのために、ひたすら「私、私、私、・・・」と心で唱えるのが安全と思う。
なぜなら、考える主体は私なので、その私について考えれば、私は他には何も考えられないからだ。
念仏というのは、本当の私であるところの阿弥陀仏に心を向けて、表面的な私である心の活動を止める方法だ。
しかし、「私」と唱える方が効率が高いと思う。
以下の書籍が参考になる。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省翻訳)
(3)誰がかまうもんか?! (ラメッシ・バルセカール)
(4)スーパーマインド(ヴァーノン・ハワード)

AIアート2358
「純度100パーセント」
Kay
ただし、善いことも悪いことも、しようと思って出来るわけではない。
善いことをするのは、善いことをやらされているだけで、悪いことも同じである。
分かり易くい言えば、我々はロボットのようなもので、操っている誰かが我々に善いことをさせるか、悪いことをさせるかを決めている。
善いこと悪いことを含め、我々は自分の意思では何もしていない。
大きな事業を成しつつある事業家は実は何もしていないし、責任と熱意を持って仕事をしている財務長官も何もしていない。
どんな大悪人だってそうである。
これは、どんな悪いことをしても後悔しても仕方がないということになるが、そう言うと反発する人が多い。
後悔しなければ、また悪いことをすると思うのだろう。
しかし、後悔しようがすまいが、また悪いことをするかもしれないし、しないかもしれない。
後悔とは何の関係もないのである。
そして、後悔するというのは、後で述べる低い存在に支配権を与えるということだ。
不幸な者は元々不幸になる運命だったのだ。
そこで、親鸞は、念仏を唱えれば、そんな因果から解放されると言った。
それは本当かと言うと本当だ。
もちろん、念仏に何か特別な力があるというわけではなく、因果を超える力に一切をまかせてしまおうというのが念仏なのだ。
よって、どの神や仏に祈っても同じで、人間の概念でいう神や仏にまかせてしまうと良いだけである。
つまり、普通の人間は、頭の思考によって、低い存在に命運をまかせているのである。
だから、考えなければ、そんな悪魔の手を振りほどける。
そのために、ひたすら「私、私、私、・・・」と心で唱えるのが安全と思う。
なぜなら、考える主体は私なので、その私について考えれば、私は他には何も考えられないからだ。
念仏というのは、本当の私であるところの阿弥陀仏に心を向けて、表面的な私である心の活動を止める方法だ。
しかし、「私」と唱える方が効率が高いと思う。
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(1)歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省翻訳)
(3)誰がかまうもんか?! (ラメッシ・バルセカール)
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