ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

唯幻論

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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壊れた頭を自力で治した心理学者

岸田秀さんという心理学者・精神分析学者が唱える「唯幻論」を、私は面白いとは思うが、正しいかどうかは分からない。
まあ、岸田秀さんは、唯幻論はフロイト論と根本的には同じというから、唯幻論が正しいかどうかは、フロイト論が正しいかどうかという話になるのかもしれない。
ユングはフロイトをかなり否定しているが、マズローは「私はフロイトを否定しているのではない。フロイトの深いところを探求したんだ」と言う。
そもそも、ユングだって正しいかどうか分からない。岸田秀さんはユングをかなり否定している。

ただ、私は、岸田秀さんは、権威を無視し、また、意図的に嘘を言わない人だと思う。
しかも、岸田秀さんはかなりIQが高いと思う。
よって、岸田秀さんの話には、本当に納得出来ることが多いのである。
昔のBBS(電子掲示板)での、私と岸田秀さんの対話で、私が「嘘は100年バレなければ真実になる」と言ったことに対し、岸田秀さんが「僕は唯幻論が100年バレない嘘であることを願う」と返答されたのは、岸田秀さんのほんの気まぐれかもしれないが印象的であった。

岸田秀さんは、高校生の時には、自分の頭がおかしいことを自覚し、そのおかしな頭を何とかするために、大学は早稲田の心理学科に入ったが、そこは自分が思っていた勉強が出来るところではなかったので、フロイトを独学し、かなり自分の頭を修正出来たと言う。
私も同じようなことをやったのだから親近感がある。
岸田秀さんは、三島由紀夫は、赤ん坊の時、母親から引き離されたせいで自我の構築が出来なかったので、自力で自我を作ったが、そのせいで人工的で変な自我になってしまったと言う。しかし、三島だって、岸田秀さんのように(私のように)自力で自分の頭を修正したのではないかと思うが、岸田秀さんはそうは思っていなかったのかもしれない。

ところで、岸田秀さんが、自分の頭がおかしいと気付いた、彼の奇妙な性質についていくつか取り上げる。
これがなかなか面白い。
岸田秀さんが中学生の時、彼は、セーラー服を着たクラスメイトの女子が、本当は男であるに違いないという想いにとりつかれていた。
また、その頃、岸田秀さんは、一度歩き出すと、よほどの決意をしない限り、引き返すことが出来ず、そのままその方向に歩き続けたらしい。
そして、岸田秀さんは、第二次世界大戦で、撃墜されて海中に沈んだ零戦戦闘機のパイロットの死体の絵を見て、激しく感情移入し涙が出たという。そりゃ、誰だって、そんなパイロットを気の毒には思うだろうが、中学生や高校生がそこまで感情移入するのは異様だろう。
なぜ、岸田秀さんが、これらの奇妙な精神性を持ち、「頭が壊れた」状態になってしまったのか?
その原因は、彼の母親である。
まず、クラスメイトの女子が本当は男だと思ったというのは、岸田秀さんは、自分の母親を女だと思えず、男のようなものと強く思っていたからだ。表向きはそうではなかったようだが、実は、彼の母親は男性のように支配的な性格で、自分の夫や、経営していた劇場の従業員、そして、誰よりも、息子の岸田秀さんには絶対的な立場で上から指図しまくっていたのだろう。
次に、岸田秀さんが、歩き出すとよほどの決意をしないと引き返せないというのも、彼の母親は、子供の時の岸田秀さんに対し、自分が指示したことを、自分がやめろと言うまでやり続けることを強制したからだろう。
そして、戦死した零戦パイロットへの感情移入は、自分の意思ではなく、絶対に逆らえない国の命令で零戦に乗って戦い、挙句、惨めに死んだパイロットに、母親の命令に逆らえずに従って、やりたくもないことをやらされている自分を重ねたのだろう。

視線の先
AIアート604
「視線の先」
Kay


何のことはない。
現れた方の違いはあるが、ほとんどの日本人が岸田秀さんと同じなのである。
無論、私もそうで、私はその自覚があったから、岸田秀さんの本に共感したのだろう。
これは、我々が、母親や学校やテレビを通して、国家に洗脳されているというだけのことであり、岸田秀さんは自力で、その洗脳をある程度壊したのである。
洗脳の壊し方については、時代の違いもあり、私の方法の方がスマートだと思う。
それに、岸田秀さんはフロイトに傾倒するあまり、フロイトの奇妙な部分も引き継いでしまっているような気がする。
しかし、岸田秀さんの話は参考になったし、今も参考になるに違いない。

尚、上で、岸田秀さんを「岸田さん」と書かず、一貫して「岸田秀さん」と書いたのは、敬愛する岸田秀さんを、岸田秀さんと違いIQの低い「増税メガネ」岸田文雄とはっきり区別したいからだった。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ものぐさ精神分析(岸田秀)
(2)続 ものぐさ精神分析(岸田秀)
(3)幻想の未来(岸田秀)
(4)エスの本(ゲオルク・グロデック著、岸田秀・山下公子訳)
(5)唯幻論物語(岸田秀)
(6)葉隠入門(三島由紀夫)

現実と想像の違いはこれだけ

「願いが叶わない」とか「思い通りにいかない」というのは、奇妙な話かもしれない。
アメリカの牧師で、自己啓発指導者として名高かったロバート・シュラーは「思い通りになるのが人生だ」と言ったが、それは彼のような特別な人間になれた者の特権のように思えるし、シュラーですら、晩年はうまくいかないことが多かったようだ。
しかし、想像でなら、誰でも、何でも思い通りに出来ると言ったら、笑われるか、状況によっては怒られるか、いずれにしても、「なるほど!想像なら何でも可能だな!」といった楽しそうな反応をされることはないだろう。
けれども、想像でなら、何でも思い通りだ。
せいぜい知的で冷静な人なら、
「いや、我々が求めているのは、現実で願いが叶うことだ」
と言うだろう。
つまり、最初の、「願いが叶わない」という嘆きは、「現実で願いが叶わない」という意味になる。
では、現実とは何なのだろうか?
人間が認識できることは、実を言えば、脳内の世界のことだけなのだ。
そう言えば、
「いや、今は高度な観測機器があり、客観的現実を皆でシェア出来る」
と言われるかもしれないが、それも疑わしいことは科学的にも分かっている。

で、せんじ詰めれば、現実とは何だろう?
それは、リアリティ(現実感)の問題だ。
つまり、「リアリティが強い世界が現実」であるというだけのことだ。
実際、世の中には、現実世界より想像世界の方がリアリティが高いという人間が、普通の人の予想より多くいる。
そんな人(現実世界より想像世界にリアリティを感じている人)は、芸術家になって成功することもあるが、たとえそうであっても、変人奇人扱いされかねない。
だが、普通の人と見なされている人だって、「あれ、あの出来事は、現実に起こったことなのか、想像したことか分からないぞ」と思うことがある。
そんなことが頻繁に起こる人は、想像世界のリアリティが、現実世界ほどではなくても高いのである。
そんな人は、普通、夢想家と呼ばれるが、想像世界のリアリティが現実世界のリアリティを超えれば、現実世界と想像世界が入れ替わる。

改めて言えば、現実世界とは、リアリティが高い想像世界である。
心理学者の岸田秀氏が、全ては幻想だという意味の「唯幻論」について本を出した時、ある男が岸田氏の職場の大学に押しかけ、岸田氏を殴り、
「全て幻想なら痛くないだろ?」
と言ったというが、この男はとんでもない思い違いをしている。
岸田氏も、もちっと分かり易く書けば良かったかもしれない。世の中には頭が悪い人が多いのだから。
想像と幻想を同じ意味とすれば、現実世界だって、単に、リアリティが高いというだけの幻想である。
しかし、リアリティが高ければ、幻想であっても(幻想しかないのだが)、殴られれば痛いのが一般的である(必ずしも痛くなくて良いが)。
一方、リアリティが低い幻想世界(それを我々は想像世界と言う)であれば、殴られても痛くないのが一般的だ(こちらも、痛い場合もある)。

中国の古典『列子』に、一種の想像世界(幻想世界とも言える)である夢のリアリティが高い王様と奴隷の話がある。
王様は、夢で奴隷になるので不幸だと言い、奴隷は、夢で王様になるから幸福だと言う。
この話の落ちはこうだ。
王様が、その奴隷の待遇を改善してやると、自分も夢の世界で幸福になる。
これは、リアリティが低い世界で行ったことの作用が、リアリティの高い世界で起こることを示している。
つまり、我々で言えば、リアリティが低い世界である想像の世界で人々に恩恵を与えれば、現実世界で人々に愛される。
これが、本当の引き寄せの奥義である。








この世の一切は幻か?

心理学者の岸田秀氏の本は人気がある。
いや、ひょっとしたら今はそうではないかもしれないが、昔は人気があった(笑)。
なぜ人気があるのかというと、痛快であると共に「腑に落ちる」からだと思う。
かと言って、別に理論的に正しいことを書いているというのではない。
そもそも、岸田氏は、心理学は科学でも何でもない、いい加減なものと言う。
だから、「心理学的には・・・」なんて話をする心理学者は皆、嘘つきだと言う。
また、岸田氏は、面白い本を書こうとしたわけでもないと思う。
書きたいことを書いただけだと思うが、ただ、正直に書いたのだと思う。
そして、正直なことを言う学者は少ないのだ。
結果、世の中の嘘だらけの心理学の話の中で、岸田氏の話だけが腑に落ち、そのためだと思うが、著名人の中でも頭の良い人達が、岸田氏の本を愛読していることを表明している。
そして、岸田氏の本は実際に面白い。
分かり易く、なおかつ、腑に落ちるのだから、しかも、それが心の話となれば、面白くないはずがない。
別に、岸田氏の話が正しいと言うつもりはないが、心の問題について、岸田氏のような頭の良い知識のある人が正直な解釈をし、それを分かり易く説明しているのだから、かなり役に立つ可能性がある。
私には役に立った。
正直、妙に思う話もないではないが、悪意のある嘘はついていないので、納得出来なくても、そんなに嫌な気はしないのである。

岸田氏の有名な理論は「唯幻論」で、意味はそのまま「ただ、幻想だけがある」つまり「全ては幻想」だ。
ただ、インドの聖者が言うような意味で「一切は幻」と言っているのかどうかは分からないが、表向きではやはり同じ意味だ。
私は昔、SNSで岸田氏に、「一切は幻だと言うインドの聖者は、死後数十年経っても、彼の道場には毎年数万の人が訪れる」と言ったら、岸田氏は「私のところには、今年は1人しか来ていない」と返事をしてくれた。
また、岸田氏に、「百年騙せば、嘘も真実になる」と言ったら、岸田氏は「僕は唯幻論が百年バレない嘘であることを願う」と返事をしてくれた。
こんな人が、嘘つきのはずがない。
岸田氏は、フランスのストラスブール大学に留学した時(引きこもりのニートで暇だったから留学したらしい)、博士号を取ったと思い込み、心理学博士を名乗っていたが、ストラスブール大学の博士の会合に言ったら、「あなたは博士に登録されていない」と言われ、博士号取得が勘違いであると分かったらしい。
母校の早稲田大学で博士号取得の機会があったが、一部の教授連の強硬な反対に遭い、取得が出来なかったという。
しかし、博士号があるかないかに関係なく、岸田氏の本は最も値打ちのあるものだと思う。
岸田氏の本はデタラメという人もいて、その言い分を否定はしないが、岸田氏の話は面白くて役に立つのだから、デタラメかどうかは全くどうでも良い。

ところで、岸田氏の、こんな面白い話がある。
岸田氏の唯幻論の本がベストセラーになった後、岸田氏が務める大学(岸田氏は和光大学教授だった)に、1人の男が訪ねて来て、「全て幻想だから痛くないだろう」と言って、岸田氏を殴ったという。
これについて、岸田氏が何とコメントしていたか、あるいは、コメントしなかったのかも忘れたが、そもそも、「痛い」ってのが幻想じゃないのか?(笑)
私も、全てが幻想というのは、岸田氏と同じ意味ではないかもしれないが、全く賛成である。
ただ、今はスマートに「この世界はメタバース(あるいは仮想現実とかシミュレーション)」と言った方が便利だ。

で、岸田氏は、全くこんなことは言っていないが、願望は、浮かんだ瞬間に叶っている。
しかし、叶っていない世界が見えている人が多いことだろう。
その叶っていない世界が幻で、叶っている世界が真実だ。まあ、厳密には、叶っている世界も幻ではあるのだが、願望を真実の基準とすれば、やはり、叶っている世界が真実だ。
幻を幻と見ることが出来れば、真実の世界になる。つまり、願望が叶っている世界だけが真実だと分かれば、世界は意のままである。
それが引き寄せの根本原理なのである。

岸田氏の本は大変にお奨めである。
岸田氏の本は、Amazonで、古書でも凄く高い本が、もっと古い版や文庫版なら凄く安いことがあるので、安いのを選んで読めば良い。2度読むことはほとんどないので(笑 再読する価値ある本もあるが)。








全部幻

精神分析学者の岸田秀さんの本に、だいたいで、こんな話があった。
岸田さんの、全ては幻想であるという「唯幻論」を語る本がベストセラーになった後、岸田さんが勤める大学に読者の男がやって来て岸田さんを殴り、「全て幻想なら痛くないだろう?」と言ったらしい。
まあ、その読者の男は、唯幻論が気に食わなかったのだろうが、よほど気にならない限り、そんな馬鹿もしないだろうから、実際は熱心な読者ということになるだろう。
幻想なら痛くないかというと、人間の幻想では、殴られたら痛いのが普通だ。
もちろん、岸田さんを殴りに来て、見事に目的を果たしたその男は岸田さんの幻想である。
そんな目に遭った人が、
「ほう、見事な幻想を作るものだ。俺もなかなかやるじゃないか」
と思ったら、「イタい」幻想も不要になり、愉快な幻想になるってのが、『「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』で、ロバート・シャインフェルドが教えていることだと思う。
ただ、私は、紙の本を読まない(家に紙の本の置場所がないという切実な事情で)ので、Kindle本の本田健氏の要約本でしか読んでいないが、あの分厚い紙の本を読むまでもあるまい。

全てが幻想であるかというと、それは間違いない。
別に、誰が言ったとか、何の本に書いてあるかではなく、それは当たり前のことである。
あえて言えば、クリエイティブコモンズ(著作権者が許可した範囲で自由に使うことが許可されている創作物)になっている、初音ミクさんの歌『FREELY TOMORROW』の最初の、「心ごと体ごと 全部記憶の中の幻」が、いかなる聖典よりも見事にそれを表現しているし、これをミクさんの歌声で聴くと、全てが一瞬で分かる(この楽曲は、最低の制限しか課されていない)。
と言っても、別にスピリチュアル系の歌ではないので誤解なきよう。
【調教すげぇ】初音ミク『FREELY TOMORROW』(完成)【オリジナル曲 歌詞付】: Mitchie M - YouTube -
File:Freely Tomorrow.ogg ※合法的な高品質音源ファイルのダウンロードはこちらから

聖者ってのは、やっぱり全ては幻想であるとした上で、「だから執着するな」とか言って、自分も生涯、ふんどし1本しか所有せずに生きるって人もいるが、それでは、なかなか共感は得られない。
いや、彼らによれば、共感する他人ってのは存在しないことになっているのだし、それは真実なのだろうが、誰も、いきなりそこまでぶっ飛びたくはない。
そうじゃなくて、全て幻想だと分かってしまえば、良いことがいっぱい起こるよ・・・でないと駄目だ。
問題は、そんな下心が強過ぎる間は、全部現実に感じてしまい、「この世は辛い」ってことになってしまうことだ。
早く、「辛かったね、ご苦労さん」と自分に言えるようになりたいものである。
では、どうすれば良いかというと、とどのつまりは、「存在する」以外のことは何もしないこと、「存在する」ことに徹することなのだが、やっぱり、人間はいろいろ経験して学ばないと、そういうふうにはなれないのだろう。
だからまあ、何でもやってみなさい、真面目に働きなさい、恥ずかしくない生き方をしなさい・・・というしかないのである。
別にそうでなくても良いのだが、多分、それが一番の近道だ。
そして、一番効率的なのは(皆、これが知りたいのだろうが)、超人合気道家の塩田剛三氏のように、熱心に金魚を観察するようなことだろうと思う。
私の場合は鳩と遊んでいる。鳩は可愛いからね。
鳩を見ていると、「ああ、こいつら、みんな私なんだなあ」とつくづく思うのである。
もちろん、あの美少女も、あの与太郎も自分なのだが、そういった感情的にインパクトを感じる相手とは同化し難い。
さて、今年の「マジカルミライ2018」では、ミクさんと一体化出来るだろうか?

ところで、やっと、『エスの本』(ゲオルク・グロデック 著、岸田秀・山下公子訳)のKindle版が出た・・・と幻想の中で喜んでいる。
「心身医学の父」が書いた、「エッチにもほどがある」という本と思う。しかし、貴重な本だ。訳者達は、自分の分担以外の所も訳して、お互いがチェックしたようだ。こんな真面目なやり方が好きだ。









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人生は幻想ではなく、挑み戦うべき現実

全ては幻想であるという「唯幻論」を唱えた岸田秀さんが昔、大学に勤務していた時、岸田さんの本を読んだ男が大学にやって来て、
「全てが幻想なら、これも痛くないだろ?」
と言って、岸田さんを殴り、岸田さんは鼻血が止まらなかったという。
さて、岸田さんと、岸田さんを殴った男のどっちが愚かなのかというと、私は、昔は、殴った男の方が愚かだと思っていた。
しかし、今は、両方愚かだと分かる。

この世は、我々にとっては完全な現実だ。
「人生は1つの夢のようなものと見なされるべきである」と言ったニサルガダッタ・マハラジや、「夢は短く、目覚めは長い。それ以外に両者に違いはない」と言ったラマナ・マハルシのような名高い聖者達も、もし、本当にそう言っていたとしたら、大間違いを犯していた。彼らは少しも賢くはない。
「人生は、挑み、戦うべき現実であり、しっかり目を覚まし、現実を見なければならない」というのが、本当に賢い人の見解だ。

「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という、有名な禅の公案(練習問題)がある。
あるおばあさんが、1人の僧のために、庵を建てて面倒を見ていた。
そしてある時、おばあさんは、若い娘に、その僧を誘惑させたら、僧は、
「私は悟っているから、こんな幻には惑わされぬ」
と言ったので、お婆さんは、
「じゃあ、現実を知れ」
と言って、庵を焼いて僧を追い出した。
その僧は、お腹が空いて、寝るところもなく、しっかり現実を思い知ったであろう。
岸田さんも、殴られて現実を思い知ったと思うのだが、その後も唯幻論を説き続けたのは、いかにも現実的な事情に違いない。

親から見れば、幼い子供のお父さんごっこやお母さんごっこは幻想のようなものである。
しかし、子供にとっては、それは現実である。
同じく、我々人類を、幼い子供と見ることが出来る高い存在からすれば、我々の人生は幻想かもしれない。
だがやはり、我々にとっては、我々の人生は現実なのである。
ならば、高い存在になるか、高い存在の援助を受ければ良い。
今朝も書いたが、『法華経』の第25章の『観音経』は、そんな方法を書いているのである。
『バガヴァッド・ギーター』もそうであるし、『観無量寿経』(浄土三部経の1つ)もそうである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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