ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

名人伝

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

仙人とは何か、どうすればなれるか

国の体をなすようになると、どこの国でも、警察に相当する保安部隊が存在する。
日本の江戸時代では、奉行所が警察で、そこに所属する役人である同心がいて、その配下に岡っ引きとか目明しといった連中がいたことをご存じかもしれないが、当然、もっと昔から、何らかの警察機構はあったはずだ。
アメリカでは西部劇などでは、警察官そのものと言える保安官がよく登場する。

昔、ある国で、やはり警察のような保安部隊があった。
保安部隊の兵士達は、戦闘の腕を磨き合い、特に優れた兵士は悪党退治の手柄を多く立て、称賛されて良い地位を得ていた。
ところが、ある保安部隊に、もうかなり歳で、腕力や体力も衰えているのに、凄腕の保安兵がいて、若くて強力な保安兵の手に負えないような悪党や盗賊を討ち果たすこともあった。
いわゆる達人である。
ところが、その達人が、彼ですら、全く敵わない者がいると言う。
その超人的な者は、もう老人で、悪党退治に行くわけでもなく、保安部隊の別室で仕事もせず、ゴロゴロしている。
ところが、その者が配置された場所では、何もしないのに犯罪数が激減してしまうのである。
このような話は、実はどこの国でも、あまり知られていないながら言い伝えられているものである。
つまり、どこの国でも、そんな仙人的な保安兵がいたのだ。
それを、ネズミを捕る猫の話に変えたのが『猫の妙術』という書である。
あるいは、『列子』の中の話を基にした、中島敦の『名人伝』の名人が、そんな仙人のような存在である。
『荘子』にも、非常に凄い存在がいろいろ登場する。

白の肖像
AIアート206
「白の肖像」
Kay


では、どうすれば、そんな達人や、達人すら超える仙人になれるのだろう?
それは、『猫の妙術』でも『名人伝』でも、はっきりとは書いていないように見える。
だが、実はこうである。
達人は、普通の者の数分の一の回数しか呼吸しておらず、仙人は数十分の一以下の数しか呼吸していない。
仙人にもレベルがあり、上級になれば、それよりはるかに少ない。
よって、まずは、起きてる間中、ゆっくりした呼吸の練習に励み、1分間に2~3回の呼吸で平気でいられるようになると良い。
そのあたりが引き寄せ自在なレベルである。
それ以降は、自分が望むレベルを目指すことが出来る。
もちろん、これは、保安兵のようなこと以外の、いかなる道でも同じである。
ただ、今の時代、このようなことは危険も伴うので、あくまで自己責任でやらないといけないと言う必要があるらしいので、そう言っておく。








思考を消した人間の姿

思考を消せば全知全能である。
どんな困難な問題を抱えている人でも、「私は誰か?」と自分に問うことで思考を消せば、問題は無かったことになる。
しかし、それを納得させることは非常に難しい。
なぜ難しいのかというと、思考をしているからだ(笑)。
だが、魂に導かれて「私は誰か?」と問うようになっても、継続が難しい。
なぜ難しいのかというと、やはり思考をするからなのである。

ところで、では、いつから思考するようになるのだろう?
正確には分からないが、私の場合は、小学3年生の途中からと分かっている。
小学2年生の時、こんなことがあったからだ。
学年の最後のあたりだったが、担任教師が、クラスメイト全員をランキング付けしたことがあった。
総合成績ということと思うが、1クラス40人なら、1番から40番まで順位をつけ、それをクラスの中で発表した。
「1番は〇〇君」
と発表されると、皆が拍手した。
2番も3番も拍手された。
私は下の方だったと思うが、やはり拍手された。
今の時代、こんなことをすれば、その教師や学校は非難されるかもしれない。
下の方の子が劣等感を感じて可哀そうだとか、順位付けの害悪が主張されるなどだろう。
ところが、私は、そんな順位に何も感じていなかったのだ。
「あいつより下とは納得がいかない」だの「あの子に勝って嬉しい」だのは全くなかった。
本当にどうでも良かったのである。

朝の挨拶
AIアート175
「朝の挨拶」
Kay


『荘子』にこう書かれている。
「真の知恵者は古代人であった。彼らは区別をしなかった。やがて区別をするようにはなったが優劣はつけなかった。だが、優劣をつけるようになると愚かになった」
思考とは、区別をすることから始まる。
そして、思考が大きくなると優劣をつけるようになる。
小学2年生の時の私は、区別はするが優劣はつけなかった。
たとえば、背が高い子と低い子がいたり、駆けっこが速い子がいれば遅い子がいることは分かったが、背が高い方が良いとか、駆けっこが速い方が偉いといった考えは全くなかった。
すでに親や教師に多くの偏見を叩きこまれてはいたが、区別はしても差別はしなかったのだ。
そんな当時の私は、大人の基準で言えば奇跡と言うしかないことを自然に起こしていた。
ただし、4歳頃には、叩き込まれた偏見のせいで自在に世界を動かすほどの力はなかったが。

「私は誰か?」と自分に問い、思考が消えていくと、優劣をつけなくなる。
そして、さらに進めば、区別をつけなくなる。
中島敦の『名人伝』で、究極の進歩を遂げた弓の名人は言う。
「我と彼の区別がつかない。鼻と口の区別がつかない。善と悪の区別がつかない」
書かれてはいないが、この名人は全知全能である。
思考を消した人間について、ここまで端的に描いた文学はそうはないと思う(ただし、このお話は中国の『列子』『戦国策』の引用である)。
この弓の名人が、どんな修行をしたかは書かれていない。
だが、「私は誰か?」と自分に問う以上の修行はない。








「継続は力」の真の意味

私は「継続は力」という言葉が好きだが、この言葉の浅い意味しか知らない人が大半である。

つまり、普通の人が知っている「継続は力」は、毎日練習すれば上手くなるとか、毎日鍛えれば強くなるといったものである。
例えば、あるプロゴルフプレーヤーは、コース10回を回るのと同じ量のスイング、ショット、パットを5年間欠かさず毎日行って初優勝したといったものだが、こんな話は分かり易い。

私は、落合博満さんが球団のゼネラルマネージャーだった時、指導を請いに来た若い選手に、5時間ひたすら素振りをさせたという話が好きだが、この選手は重要なことを掴み損ね、選手として成功しなかった。
この場合がそうだが、毎日長期間繰り返すのではなく、5時間という、とんでもなく長い時間繰り返すことでも同じ効果がある。
しかし、これは決して、素振りで使う筋肉を鍛えるとか、スイングが上手くなるというのではなく(もちろん、それらもあるが)、もっと重要な意味がある。
この選手の最後のスイングに対し、落合さんは「今の良かった。それを忘れるな」と言ったらしいが、この選手には、どう良かったのか分からなかったのだろう。

あくまで伝承であるが、柳生宗矩が、子供だった徳川家光に、部屋の中に立てた木の棒の頭を、木刀で毎日叩かせた。
最初は、馬鹿らしく思えて嫌がった家光だが、宗矩は「毎日同じ所を叩けるようになったら鉄の兜を切ることが出来る」と言うので、家光は「ではやってみろ」ということになったが、宗矩は見事、鉄の兜を切って見せた。
このエピソードの真偽は分からないが、この修行法は本物である。
しかし、この修行法も、単に、剣を振り下ろす速さが速くなるとか、振る軌跡が良くなるといったことだけではない。

寝覚め
AIアート48
「目覚め」
Kay


何事も、恐ろしい数を繰り返すことで、思考が消え、心が消え、無になるのである。
そうすれば、心身の鍛錬などというレベルを超えた力が現れる。
以前、『老子』全81章は全て、「心を消す」というただ1つのことを言葉を変えて言っただけと書いたが、心を消せば、真の自分である魂が現れるが、我々の魂は、全知全能の無限の存在で、神そのものである。

継続することで、新しい力を得るのはなく、元々持っていた力を思い出すだけである。
そして、そのための最も易しい方法が、「私は誰か?」と自分に問うことである。

『魔法騎士レイアース』という漫画・アニメで、導師クレフが、ヒロインの3人の14歳の少女達に言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
この意味は、魔法のごくささやかな呼びかけに対し、少女達は心を消し、無になったということだ。
これが、アニメのオープニングでの、3人の少女達の全裸の場面に象徴されている。

「神様の奇跡が起こる」「お金がある」といったアファーメーションも、野球の素振りと同じで、とんでもない数、あるいは、とんでもない期間繰り返せば、心が消え、魂の力の一部が現れ、願いは叶う。
しかし、全ての力を得るのが「私は誰か?」なのである。

無になることで現れる力について、元々は『列子』の引用と思うが、中島敦の『名人伝』にうまく表現されていると思う。








バカが勝つ

政治家でも、スポーツ選手でも、プログラマーでも、セールスマンでも、ミュージシャンでも、どんな職業でも、抜きん出た人がいる。
そんな抜きん出た人というのは、特別な才能があるとか、環境に恵まれていたとか、あるいは、運が良かったとか、いろいろ考えられると思う。
しかし、抜きん出た一番の要因は、時間をかけたことだ。
政治家であれば、趣味や、家族との対話や、レジャーや、グルメ等に使う時間を少なくし、より多くの時間を政治活動に注ぎ込んだのだ。
だが、もう一段、高い観点で言えば、仕事について、長い時間、考え続けたのだ。
この、「考え続けた」は、理屈や言葉で考えることも、もちろん含まれるが、とにかく、意識を向け続けたのだ。
いつでも、そのことが「心にあった」「頭から離れなかった」「心の目で見つめ続けた」ということだと思う。
「方時も忘れなかった」という言い方がぴったりするかもしれない。

なぜこんなに、心や思考や意識についてしつこく述べるかというと、やはり、心(あるいは精神)には力があるからだ。
いや、心や精神以外に力はないと言えるかもしれない。
つまり、世界そのものが、心・精神が作り出したものなのである。
だから、考え続けた者が勝つのは当たり前なのだ。

具体的な日常レベルの話になると、抜きん出る人は、雑談をしない。
雑談は時間がかかるので、雑談好きな人は、大切なことを考える時間が少なくなってしまうのだ。
私は、本で読んだ、こんな話をよく憶えている。
有名なプロレスラーだったジャイアント馬場さんが、アメリカにいた若い時のことだ。
プロレスラー達は、大勢で一緒に電車等で移動することが多かった。
電車の中で、多くのレスラー達は、雑談したり、ゲームをしたりする。
ところで、馬場さんには、バディ・ロジャースという憧れのレスラーがいて、一緒に移動する時は、ロジャースをじっと見ていたそうだ。
ロジャースは、トップレスラーで、人気は一番、世界チャンピオンでもあったが、何よりも、客を呼べるレスラーで、特に、女性客の集客力が凄かったらしい。
ロジャースが出れば客が入るとなれば、プロモーターからは大事にされ、当然、ギャラも物凄く高かった。
そして、プロなんだから、仲間のレスラーからも敬われていたし、実際、素晴らしいレスラーなので、馬場さんのように、憧れる者も多い。
そのロジャースは、雑談もゲームもしなかった。
馬場さんには、ロジャースが1人で、ずっと考えているように見えた。
試合やコスチュームのこと、どんな登場の仕方をすれば受けるか等、いろいろ考えていたのだろうが、とにかく、心を向け続けたのだ。
そこが、他のレスラーとの違いだ。
ある意味、プロレスしか分からない「プロレスバカ」だったのだろう。

それで言えば、やはり、抜きん出る人は皆、「〇〇バカ」なのだ。
イチローは間違いなく野球バカだったはずだし、エジソンは電気機器バカだった。
勝手なことを言えば、私は、浅田真央さんより、キム・ヨナさんの方がフィギュアスケートバカだったから、金メダルが取れたのだと思う。
そして、練習や実験の時間が長いというのは結果で、根本的には、心を向ける時間の差だと思える。
私も、セールスコンテストで優勝したとか、周囲のプログラマーやシステムエンジニアよりマシだった時には、セールスしてたとか、プログラミングしてたというよりは、セールスのことやプログラミングのことを思い続けていた時間が長かったのだ。
極端に言えば、実際に何をするかはどうでも良いのかもしれない。
あくまで、心が世界を作るのであるからだ。
実際、達人になると、何もしなくなるらしい。
『名人伝』においては、天下一の弓の名人は、名人になる過程で弓を射ず、名人になってからは弓を取らず、遂には、弓を見て「これは何だ?」と言う。
名人は、弓よりも上位のことに精神を向け続けていたのだろう。

で、何度も取り上げるが、教育学者の七田眞氏の著書『奇跡の超「右脳」開運法』の中で、ホームレスの男性が、1日中「神様の奇跡が起こる」と唱えて、宝くじで1憶円を2回当てたのも、この男が、ずっと神様の奇跡に意識を向け続けた結果であると思う。
彼には、他にやることも、雑談する仲間もいなかったので、本当に1日中、唱え続けた。
ある意味、バカであるが、奇跡を起こせるのはバカだけなのである。








手本は我が胸の内に

道徳や正義というものは、言葉だけで教えられるものではない。
言葉だけで、上から目線で偉そうに教えたら、それはもう正義ではなくなる。
権威ぶって道徳を語れば、いろいろ余計なものが混入し、本当の道徳と正反対のものになる。
それで、「人間には、本当は道徳や正義はいらないのだ」と、一見、賢そうなことを言う者もいるが、まさか、そんなことはあるまい。
そりゃ、『荘子』や『列子』、それに、『列子』を、基に書かれた中島敦の『名人伝』では、道徳を卑小なものと書いているようにも見える。
例えば、『名人伝』の主人公が、究極の弓の名人になり、神人の境地に至るが、その名人が、「我と彼との別、是と非の分を知らぬ」と言い、「全ては等しい」という悟りの境地を語るが、どっこい、我々凡人は、是と非の区別はつかないといけない(笑)。

キリスト教には、イエス・キリストという手本がいるが、これはなかなか高度過ぎて、時に理解不能に思えるのは、単に、ギリシャ語の福音書を訳す時に誤訳をしたという説もある。
それでも、ギリシャ神話や古事記、あるいは、コーランの神に比べれば、まともかもしれない。
まあ、古事記の中でも、大国主神(おおくにぬしのかみ)は善良でファンも多いかもしれないが、あまり賢くも強くもないように思える。
人によっては、宮本武蔵を尊敬し、彼が著した『五輪書』を指針にしているらしいが、「昭和の武蔵」と言われた空手家の大山倍達氏によれば、「武蔵は山師。勝てる相手としか戦わなかった」であるらしく、実は、あまり良い手本ではないかもしれない。
親や教師は反面教師にはなるが(笑)、まずは、反面ではなく、模範が欲しいところだ。

宮沢賢治は、『雨にもまけず』に、理想の人間像を描写し、そこに描かれた人物は、私も個人的には好きだが、あれでは生きられぬ。あれは、家がお金持ちで、生活の心配のなかった宮沢賢治ならではの理想だろう。

つまり、外部に本当の手本などいない。
手本は、心の内にあり・・・だ。
だが、心の奥の手本を無視し続けると、それとどんどん遠ざかる。
仏教では、その心の中にある真の手本を仏性と言い、それこそが仏であるのだと言う。
だが、現代人は、仏である内なる声を無視し、時には否定し、全く見えなくなってしまっている。
しかし、一休によると、「南無阿弥陀仏」の念仏は、内なる仏を引き出す力があるらしい。
その根拠は割と単純で、阿弥陀仏というのは、あちら(インド)の言葉で、無限の光のことで、つまり、内なる仏のことだ。
南無阿弥陀仏とは、その内なる仏を信用するといった意味で、別に、言葉は何でも良い。
それこそ「内なる英知を信じる」と言うのが、現代的な念仏だと思う。
だから、何でも好きな言葉で言えば良い。
そこに意識を向けていれば、説明が面倒なので省くが(出来なくはない)、あらゆる願いが叶うだろう。













当ブログオーナー、KayのAI書。
「AIなんて難しいに決まっている。自分には関係ない」と思わないで下さい。今やAIは誰でも作れます。
この本では、Excelが使えるスキルがある人なら、ソニーのWindws8.1/10アプリNNCを使って、本物のAIを作れるようになることを目指しました。
回帰、勾配降下法、サポートベクタマシンなどという言葉は使いません。普段使う言葉で、面白いテーマを使って、楽しくAIを作れるようになることが目的です。
専門用語は、AI作れるようになってから必要に応じて勉強して下さい。
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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