ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

名人伝

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

古代の神人

思考が消えれば、全知全能の魂の力が解放され、不可能はなくなる。
ただ、現代人は、思考を消して生きるということが、あまりに馬鹿げていると感じる。
ところが、荘子は思考するということを、「区別」「優劣」といったことに絞って語っているので分かり易い。
まず、昔の神人と思われる人間は、区別をしなかった。
私とあなた、私と彼、これとそれ、ここと向こう、昨日と今日、今日と明日、生と死・・・今では異なると認識されることも、神人は区別をしなかった。
そんな神人は神のごとき力を持っていた。
やがて人間は、区別をするようになった。しかし、優劣はつけなかった。
今では、女性を若いとか美人とかで優劣をつけるし、男性を金持ちとか身体の大きさで優劣をつける。
時代が進むにつれて優劣を強く決めるようになり、昔であれば優劣を決めることがなかったことでも、今では優劣を明確に決めたがることも多い。
たとえば、今は、豊かな家の子供と貧しい家の子供が友達になることは難しいが、1万年ほども前は、そんなことは全くなかった。
当時は、豊かな者とさほどでない者の区別はあったかもしれないが優劣をつけることはなく、豊かな者が優れているという考えはなかった。
そんな時代の人間は、神人のように全知全能ではなかったが、非常に知恵があり、現代人から見れば魔法使いや仙人のようであった。

余計な優劣をつけない者の方が賢く、神秘的な力の保護を受ける。
今でも、区別を付けない者は、やはり神人である。
『名人伝』(中島敦)で、究極の弓の名人は言っている。
「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる」
名人は、気が狂っているのでも、冗談を言っているのでもないことは明らかであったという。
そんな名人は、呼吸の有無も分からなかったようだが当然である。呼吸と思考は同じところから出ていて、それらが無ければ無いほど神に近いのである。
『名人伝』は、中国の古典を基に書かれたもので、その基の古典『列子』の中でも、昔話のように書かれているが、古代の知恵がまだ知られていた頃のお話と思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新釈 荘子 (PHP文庫)
(2)荘子(1)(中央クラシックス)
(3)李陵・山月記(中島敦。新潮文庫)※『名人伝』収録
(4)弓と禅(オイゲン・ヘリゲル)

見えないもの
AIアート1616
「見えないもの」
Kay

無思考の思考

思考を消すことで、かなり早く状況が変化するのを体験する人がよくいる。
ただし、思考を消したつもりで、実際は消えていないので、変化がないという場合が多いかもしれない。
もちろん、これまでも、あまり思考をしなかった者なら、それほどの変化はないかもしれないが、ほとんどの人は思考まみれになっているので、思考が消えれば、ガラクタで溢れた部屋がきれいに片付いたように、大きな変化があると思う。
通常の思考はガラクタのようなものであるに違いない。

中島敦の『名人伝』で、弓矢の修行を積んで相当な腕前になった者がいたが、その者を名人と呼ぼう。
その名人が、老名人を訪ねると、老名人と自分では、天地の差があることが分かった。
老名人は言う。
「お前は射の射は一通り出来るようだが、不射の射は知らない」
ここらは、荘子の言う、無為の為、無知の知といったものを思い出す。
射の射は、不射の射に遠く及ばない。

思考の思考は、無思考の思考に遠く及ばす、豆鉄砲と宇宙ロケットといったほどの違いがある。
関英男博士と矢追純一さんが、似たことを言っている。
人間が安物のパソコンなら、宇宙の英知は超高性能の巨大コンピューターのようなものだ。
安物のパソコンは、宇宙コンピューターの端末として、問題を自分で考えようとせず、宇宙コンピューターに問題を丸投げすれば良い。
それなのに、安物のパソコンが、自分の小さな能力で問題を解決しようとしているのが人間だ。
自分が、安物のパソコンでしかないという自覚がないので、そんなことをするのだ。
安物のパソコンは、ただ、超高性能巨大コンピューターの端末としての役割を果たせば良い。

「今から何も考えない」「今から頭の中でおしゃべりをしない」と決め、思考を消す。
なかなかうまくいかなくても、少しでも長い時間、思考を止めるのだ。
それだけでも、やっていたら不思議なことが起こると思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)李陵・山月記・弟子・名人伝(中島敦)
(2)生命と宇宙(関英男)
(3)ヤオイズム(矢追純一)
(4)超生命ヴァイトン(エリック・フランク・ラッセル)
(5)おろち(2)(楳図かずお)
(6)新釈 荘子 (PHP文庫)

神秘のヴェール
AIアート1495
「神秘のヴェール」
Kay

修行は不要と思う修行

私は、小学生の時には意識しなかったが、中学生くらいになると、自分がまともな方法では生きていけないことを、なんとなく自覚するようになった。
勉強は出来ないし、スポーツとか楽器とかが出来るわけでもない。
それなら、もう超能力しかない(笑)。
超能力とは、精神で物質を支配することだが、それなら、スプーン曲げみたいなことが超能力の代表みたいに感じる。
そうではなく、精神で物質界を支配することを考えたので、一般で言う超能力者ではなく、魔法使い、大師(マスター)、導師のような言い方が正しいのだが、当時はそういった言い方を知らないので、とりあえず魔法使いとした。
さっき述べた通り、その能力は物質世界の支配なので、今で言う引き寄せと同じだ。
伝統的な西洋魔法の定義によれば、魔法とは「精神に自在に変革を起こす」ことであるが、それが実に的確な定義であることはかなり後になって分かった。しかし、直観的には中学生の時に分かったのである。

私が中学生の時に考えた魔法使いになる方法は「常識に反することを考える」ことで、これも正解だった。
これを思いついた時は、躍り上がって喜んだのである。
現在もよく引用される言葉に、昭和の大評論家、竹村健一さんの「日本の常識は世界の非常識」というものがある。平凡な人間でも、これには納得すると思う。
だが、実際は「世界の常識も非常識」なのだ。
逆に、日本の常識の中にも宇宙の常識がある。
よって、目指すべきは非常識ではなく超常識である。
これは、不自然(異常。アブノーマル)ではなく、超自然(スーパーネイチャー)を目指すようなものだ。

しかし、やることは非常に容易い。
超常識や超自然がどこかにあり、それを手に入れなければならないとしたら大変だが、それは自分の中にある。
つまり、魔法使いや超能力者になるのに努力はいらない。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』に、大師(マスター。魔法使いのようなもの)になるのに修行する必要はないと書かれている通りだ。
あの頭ガチガチのデカルトですら、自分の中に神が居ることは認めていたのだが、彼は超常識にならなかったので、「われ思う、ゆえにわれあり」に留まったのだと思う。

魔法があれば現実逃避で良いかというと、それは変な話なのである。
現実を実験場としなければ、何のための魔法かである。
魔法使いは現実に強く、言ってみれば引き寄せが自在である。
私が最初の仕事にセールスマンを選んだのも、一番簡単に魔法の実験が出来るからだ。
それで、性格的には全く向いていなかったが、即座にセールスコンテストで優勝するなど、良い実験成果を収めた。
だがまあ、やはり向いておらず、面白くなかったのですぐに(と言っても2年はダラダラやっていた)辞めた。
私は巨万の富を掴むタイプではなく、月野うさぎ(セーラームーン)のように楽をすることが趣味なので、その線でいった(笑)。

魔法使い、超能力者、引き寄せマスター、大師、導師になる方法は特にない。
あえていえば「魔法使いになる」と決めることである。
中島敦の『名人伝』(『列子』の中に同様の話がある)が、魔法使いになるプロセスみたいなものである。
弓の名人を目指す男が、まずは、小さな点を凝視する修行をする(本当は瞬きをしないことから始める)。
その修行を十分にやれば、それで師と同等になった。
その修行を教えた師も、この弟子が、それほど熱心にやるとは思わなかったのかもしれない。
しかし、師は、自分達など全く及ばない名人がいると言い、弟子のその男は、さっそく、その超名人を訪ねる。
この超名人こそが、超常識、超自然を体現した人で、弓を使わずに空の鳥を落とした。
超名人の弟子になったその男がどんな修行をしたかは書かれていないが、彼もまた超名人になる。
しかし、どんな修行をしたかというのではなく、修行など必要ないことが分かる・・・というか、分からないと、この作品が分かっていない。
彼は自我(=思考=心)を消した・・・正確には、自我が控えるようになったのである。
自我が大人しくなったと言って良いが、別に老人ボケ状態になったのではなく、魔法使いにだって怒りっぽい者やスケベな者もいる。だが、すぐに静まるのである。
その超名人の彼は、「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」と言う。
思考しないから区別の意味がない。だがまあ、箸と茶碗と湯飲みの区別はするだろうから、全く思考や自我がないわけではない。ここらを極端に解釈する馬鹿が多くて困る。
こんな良いヒントが書かれている。
「彼は呼吸しているかどうか分からない」
別に修行ではないが、そのようにすれば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)李陵・山月記 弟子・名人伝(中島敦)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(3)あなたも金持ちになれる(ジョセフ・マーフィー)
(4)ポリー氏の人生(H・G・ウェルズ)※ウェルズの自伝的小説
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)

絡みつく
AIアート1031
「絡みつく」
Kay

仙人とは何か、どうすればなれるか

国の体をなすようになると、どこの国でも、警察に相当する保安部隊が存在する。
日本の江戸時代では、奉行所が警察で、そこに所属する役人である同心がいて、その配下に岡っ引きとか目明しといった連中がいたことをご存じかもしれないが、当然、もっと昔から、何らかの警察機構はあったはずだ。
アメリカでは西部劇などでは、警察官そのものと言える保安官がよく登場する。

昔、ある国で、やはり警察のような保安部隊があった。
保安部隊の兵士達は、戦闘の腕を磨き合い、特に優れた兵士は悪党退治の手柄を多く立て、称賛されて良い地位を得ていた。
ところが、ある保安部隊に、もうかなり歳で、腕力や体力も衰えているのに、凄腕の保安兵がいて、若くて強力な保安兵の手に負えないような悪党や盗賊を討ち果たすこともあった。
いわゆる達人である。
ところが、その達人が、彼ですら、全く敵わない者がいると言う。
その超人的な者は、もう老人で、悪党退治に行くわけでもなく、保安部隊の別室で仕事もせず、ゴロゴロしている。
ところが、その者が配置された場所では、何もしないのに犯罪数が激減してしまうのである。
このような話は、実はどこの国でも、あまり知られていないながら言い伝えられているものである。
つまり、どこの国でも、そんな仙人的な保安兵がいたのだ。
それを、ネズミを捕る猫の話に変えたのが『猫の妙術』という書である。
あるいは、『列子』の中の話を基にした、中島敦の『名人伝』の名人が、そんな仙人のような存在である。
『荘子』にも、非常に凄い存在がいろいろ登場する。

白の肖像
AIアート206
「白の肖像」
Kay


では、どうすれば、そんな達人や、達人すら超える仙人になれるのだろう?
それは、『猫の妙術』でも『名人伝』でも、はっきりとは書いていないように見える。
だが、実はこうである。
達人は、普通の者の数分の一の回数しか呼吸しておらず、仙人は数十分の一以下の数しか呼吸していない。
仙人にもレベルがあり、上級になれば、それよりはるかに少ない。
よって、まずは、起きてる間中、ゆっくりした呼吸の練習に励み、1分間に2~3回の呼吸で平気でいられるようになると良い。
そのあたりが引き寄せ自在なレベルである。
それ以降は、自分が望むレベルを目指すことが出来る。
もちろん、これは、保安兵のようなこと以外の、いかなる道でも同じである。
ただ、今の時代、このようなことは危険も伴うので、あくまで自己責任でやらないといけないと言う必要があるらしいので、そう言っておく。








思考を消した人間の姿

思考を消せば全知全能である。
どんな困難な問題を抱えている人でも、「私は誰か?」と自分に問うことで思考を消せば、問題は無かったことになる。
しかし、それを納得させることは非常に難しい。
なぜ難しいのかというと、思考をしているからだ(笑)。
だが、魂に導かれて「私は誰か?」と問うようになっても、継続が難しい。
なぜ難しいのかというと、やはり思考をするからなのである。

ところで、では、いつから思考するようになるのだろう?
正確には分からないが、私の場合は、小学3年生の途中からと分かっている。
小学2年生の時、こんなことがあったからだ。
学年の最後のあたりだったが、担任教師が、クラスメイト全員をランキング付けしたことがあった。
総合成績ということと思うが、1クラス40人なら、1番から40番まで順位をつけ、それをクラスの中で発表した。
「1番は〇〇君」
と発表されると、皆が拍手した。
2番も3番も拍手された。
私は下の方だったと思うが、やはり拍手された。
今の時代、こんなことをすれば、その教師や学校は非難されるかもしれない。
下の方の子が劣等感を感じて可哀そうだとか、順位付けの害悪が主張されるなどだろう。
ところが、私は、そんな順位に何も感じていなかったのだ。
「あいつより下とは納得がいかない」だの「あの子に勝って嬉しい」だのは全くなかった。
本当にどうでも良かったのである。

朝の挨拶
AIアート175
「朝の挨拶」
Kay


『荘子』にこう書かれている。
「真の知恵者は古代人であった。彼らは区別をしなかった。やがて区別をするようにはなったが優劣はつけなかった。だが、優劣をつけるようになると愚かになった」
思考とは、区別をすることから始まる。
そして、思考が大きくなると優劣をつけるようになる。
小学2年生の時の私は、区別はするが優劣はつけなかった。
たとえば、背が高い子と低い子がいたり、駆けっこが速い子がいれば遅い子がいることは分かったが、背が高い方が良いとか、駆けっこが速い方が偉いといった考えは全くなかった。
すでに親や教師に多くの偏見を叩きこまれてはいたが、区別はしても差別はしなかったのだ。
そんな当時の私は、大人の基準で言えば奇跡と言うしかないことを自然に起こしていた。
ただし、4歳頃には、叩き込まれた偏見のせいで自在に世界を動かすほどの力はなかったが。

「私は誰か?」と自分に問い、思考が消えていくと、優劣をつけなくなる。
そして、さらに進めば、区別をつけなくなる。
中島敦の『名人伝』で、究極の進歩を遂げた弓の名人は言う。
「我と彼の区別がつかない。鼻と口の区別がつかない。善と悪の区別がつかない」
書かれてはいないが、この名人は全知全能である。
思考を消した人間について、ここまで端的に描いた文学はそうはないと思う(ただし、このお話は中国の『列子』『戦国策』の引用である)。
この弓の名人が、どんな修行をしたかは書かれていない。
だが、「私は誰か?」と自分に問う以上の修行はない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード