「今に意識を合わせる」とはどういうことか、それを説明出来ないまでも、どうすれば、それが出来るか?
おそらく、後者の「どうすれば、今に意識を合わせることが出来るか?」の方が簡単なはずだが、もし、それを誰でもやれるように説明出来れば、その功績はノーベル賞どころではない。
世の中には、それが出来る人がいるし、自分のやり方を言う者もいるが、まともな言葉で言うのを聞いた試しはない。
長嶋茂雄さんという、偉大なプロ野球選手の中でも異例なほど特別視される人物がいるが、彼が、特に打撃理論に関しては、意味が分からないことを言ったという話がよくある。
例えば、極端に言っているのかもしれないが、「ぐっとして、すっと感じたら、ばっとやるんだ。分かる?」と、全然分からないことを言っていたらしいが、本人には分かっているのだろう。
実際には、もっと丁寧に言っていたのだろうが、言われている方は、やっぱり意味が分からない場合が多いのかもしれない。
しかし、高度なことに関しては、それは仕方がないところもある。
例えば、初音ミクファンに、初音ミクのどこが良いのかと聞いたら、初音ミクファンは、やはり意味不明な説明をするか、「とにかくいいんだ」とか言うだろうし、言葉できちんと説明しようとしたら、思っていることのほとんどが伝わらないだろう。
映画『小さな恋のメロディ(原題:Melody)』の、原作小説で、主人公のダニーという11歳の少年が、同い年の美少女メロディに初めて会った時の気分を、「天国」だと言い、「僕は良いことがあると天国だって感じる」みたいなことを言っていたが、では、「天国って、どんな感じだ?」と聞かれたって、ダニーに説明は出来まい。
また、ダニーは、メロディを表現する適切な言葉は「デリカシー」だと言うが、「どんなところが、どうデリカシーなんだ?」と聞かれても困るだろう。
もし、ダニーが言葉の勉強を積み、かなり立派な言葉が使えるようになっても、やはり、そんなことを他人にきちんと説明することは難しいだろう。
それで、最初の「今に意識を合わせる」だが、これは、一見、簡単なことのように思えるが、これが出来れば、引き寄せが自在だし、世界を支配することも出来るかもしれない。
この「今に意識を合わせる」ことは、スピリチュアル界隈では「今今メソッド」と呼ばれ、説明している人は何人もいると思うが、やはり、伝わっていないのである。
例えば、ある者は「今やっていることに全力で集中することです」と言い、それはその通りなのだが、そう言われた者が、言った方の意図通りのことをやることは滅多にないだろう。
それで、宗教的な修行の中には、歩いている時には「歩いている、歩いている」と、食べている時には「食べている、食べている」と心で唱えることにより、今に意識を合わせるコツを自分で掴めるようにするものがある。
これは悪い方法ではないが、本気でやる者は少ないと思う。それで、大抵の者は、今に意識を合わせることが出来るようにならない。
今に意識を合わせれば、とても懐かしい感じがすると思う。いや、そうでないこともあるかもしれないが・・・
なぜ、懐かしい感じがするのかというと、幼い時は、常に今に意識を合わせていたからだ。それは、3歳くらいまでのことであるが、人間は3歳くらいまでの記憶は持っていない。
だが、5歳くらいまでは、常にではなくても、今に意識が合っていることが多いのだと思う。おそらくは、それを思い出して、懐かしいと感じるのだと思う。
人によっては、かなり大きくなるまで(たとえば小学校高学年まで)、今に意識を合わせることを簡単に出来る者がいるが、それをやっていると、学校では「ぼーっとするな」と言われるものだ。
今に意識を合わせていると、世間的な人間からは「ぼーっとしている」ように見えるのである。
授業中では、そんなことをしていると怒られるので、今に意識を合わせることをしなくなる。
だが、引き寄せの力が強い人というのは、ぼーっとしていることが多いのである。
それで、今に意識を合わせ、引き寄せの力を高めるためには、ぼーっとすることが有効である。
ただし、「ちゃんと」ぼーっとしないといけない。
学校では「ぼーっとするな」と言われるが、本当に良い学校とは「ちゃんと」ぼーっとすることを教える学校なのかもしれない。
引き寄せのメソッドなど、全て、「ちゃんと」ぼーっとするためのテクニックなのだろうと思う。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、なるべく多く「ありがたい」と言えと教え、自分もそうしていたが、彼が「ありがたい」と言う時は、さぞ、ぼーっとしていたと思うのだ。
学校の教室でぼーっとしてたら怒られると言ったが、天才的に勉強が出来る子供って、案外にぼーっとしているのである。
我々は、全力を上げてぼーっとする練習をしなくてはならない。
しかし、こう言ったら、必ず、的外れなことを思ったり、言ったり、あるいは、やる者が必ずいるし、むしろ、それが大勢かもしれない。
真面目にとか、本気でなどと言うと、誤解し易いかもしれない。
けれども、「丁寧に」ぼーっとしろと言えば、少しは伝わるかもしれないと思う。
吉本隆明は、自分の子供達ががぼーっとしていたら、おつかいに行かせるようなことをせず、この日本最大の思想家が、自ら買い物かごを持って奥さんに言われた通り、野菜や魚を買って来たという。
さすがである。
おそらく、後者の「どうすれば、今に意識を合わせることが出来るか?」の方が簡単なはずだが、もし、それを誰でもやれるように説明出来れば、その功績はノーベル賞どころではない。
世の中には、それが出来る人がいるし、自分のやり方を言う者もいるが、まともな言葉で言うのを聞いた試しはない。
長嶋茂雄さんという、偉大なプロ野球選手の中でも異例なほど特別視される人物がいるが、彼が、特に打撃理論に関しては、意味が分からないことを言ったという話がよくある。
例えば、極端に言っているのかもしれないが、「ぐっとして、すっと感じたら、ばっとやるんだ。分かる?」と、全然分からないことを言っていたらしいが、本人には分かっているのだろう。
実際には、もっと丁寧に言っていたのだろうが、言われている方は、やっぱり意味が分からない場合が多いのかもしれない。
しかし、高度なことに関しては、それは仕方がないところもある。
例えば、初音ミクファンに、初音ミクのどこが良いのかと聞いたら、初音ミクファンは、やはり意味不明な説明をするか、「とにかくいいんだ」とか言うだろうし、言葉できちんと説明しようとしたら、思っていることのほとんどが伝わらないだろう。
映画『小さな恋のメロディ(原題:Melody)』の、原作小説で、主人公のダニーという11歳の少年が、同い年の美少女メロディに初めて会った時の気分を、「天国」だと言い、「僕は良いことがあると天国だって感じる」みたいなことを言っていたが、では、「天国って、どんな感じだ?」と聞かれたって、ダニーに説明は出来まい。
また、ダニーは、メロディを表現する適切な言葉は「デリカシー」だと言うが、「どんなところが、どうデリカシーなんだ?」と聞かれても困るだろう。
もし、ダニーが言葉の勉強を積み、かなり立派な言葉が使えるようになっても、やはり、そんなことを他人にきちんと説明することは難しいだろう。
それで、最初の「今に意識を合わせる」だが、これは、一見、簡単なことのように思えるが、これが出来れば、引き寄せが自在だし、世界を支配することも出来るかもしれない。
この「今に意識を合わせる」ことは、スピリチュアル界隈では「今今メソッド」と呼ばれ、説明している人は何人もいると思うが、やはり、伝わっていないのである。
例えば、ある者は「今やっていることに全力で集中することです」と言い、それはその通りなのだが、そう言われた者が、言った方の意図通りのことをやることは滅多にないだろう。
それで、宗教的な修行の中には、歩いている時には「歩いている、歩いている」と、食べている時には「食べている、食べている」と心で唱えることにより、今に意識を合わせるコツを自分で掴めるようにするものがある。
これは悪い方法ではないが、本気でやる者は少ないと思う。それで、大抵の者は、今に意識を合わせることが出来るようにならない。
今に意識を合わせれば、とても懐かしい感じがすると思う。いや、そうでないこともあるかもしれないが・・・
なぜ、懐かしい感じがするのかというと、幼い時は、常に今に意識を合わせていたからだ。それは、3歳くらいまでのことであるが、人間は3歳くらいまでの記憶は持っていない。
だが、5歳くらいまでは、常にではなくても、今に意識が合っていることが多いのだと思う。おそらくは、それを思い出して、懐かしいと感じるのだと思う。
人によっては、かなり大きくなるまで(たとえば小学校高学年まで)、今に意識を合わせることを簡単に出来る者がいるが、それをやっていると、学校では「ぼーっとするな」と言われるものだ。
今に意識を合わせていると、世間的な人間からは「ぼーっとしている」ように見えるのである。
授業中では、そんなことをしていると怒られるので、今に意識を合わせることをしなくなる。
だが、引き寄せの力が強い人というのは、ぼーっとしていることが多いのである。
それで、今に意識を合わせ、引き寄せの力を高めるためには、ぼーっとすることが有効である。
ただし、「ちゃんと」ぼーっとしないといけない。
学校では「ぼーっとするな」と言われるが、本当に良い学校とは「ちゃんと」ぼーっとすることを教える学校なのかもしれない。
引き寄せのメソッドなど、全て、「ちゃんと」ぼーっとするためのテクニックなのだろうと思う。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、なるべく多く「ありがたい」と言えと教え、自分もそうしていたが、彼が「ありがたい」と言う時は、さぞ、ぼーっとしていたと思うのだ。
学校の教室でぼーっとしてたら怒られると言ったが、天才的に勉強が出来る子供って、案外にぼーっとしているのである。
我々は、全力を上げてぼーっとする練習をしなくてはならない。
しかし、こう言ったら、必ず、的外れなことを思ったり、言ったり、あるいは、やる者が必ずいるし、むしろ、それが大勢かもしれない。
真面目にとか、本気でなどと言うと、誤解し易いかもしれない。
けれども、「丁寧に」ぼーっとしろと言えば、少しは伝わるかもしれないと思う。
吉本隆明は、自分の子供達ががぼーっとしていたら、おつかいに行かせるようなことをせず、この日本最大の思想家が、自ら買い物かごを持って奥さんに言われた通り、野菜や魚を買って来たという。
さすがである。