ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

司馬遼太郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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宮本武蔵になる方法

日本人に、「日本の歴史上、最強の剣豪は誰か?」とアンケートを取れば、ぶっちぎりで宮本武蔵が一番になるはずだ。
もちろん、そうなる理由は、単に宮本武蔵が有名であるからに他ならない。
本当に宮本武蔵が強いかどうかより先に、宮本武蔵以外の剣豪の名を挙げられない者も多いに違いない。
なぜ、宮本武蔵が有名かというと、吉川英治の小説が戦争中に大ヒットし、その後も人気があるからで、その大ヒットの理由は、もちろん、吉川英治の小説が面白いという面はあるが、国が意図的にこの小説を国民に普及させようとしたという話がある。このあたりの事情はよく分からないが、簡単に言えば、国による国民の思想統制…早い話が、洗脳のために、吉川英治の『宮本武蔵』が使われたらしい。
私は、吉川英治の『宮本武蔵』を1巻の途中までしか読んでいない。面白くないと言うより、読んでいて気持ち悪いし、テンポも悪いので、嫌になって、読むのをやめたのだ。だから、この作品がどう、国威発揚に使われたのかは不明だ。
だが、確実に言えることは、吉川英治の『宮本武蔵』はフィクション…つまり、吉川英治の創作であり、宮本武蔵の実像を伝えてはいないということだ。

実は、宮本武蔵が本当に剣豪であったかどうかは疑わしいようだ。
その理由は、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』で指摘している通り、武蔵は、江戸に数多くいた一流の剣豪の誰とも試合をしていないからだ。
そもそも、宮本武蔵の真実は、武蔵が著したと言われる(これも諸説あるが)『五輪書』に書かれたことのみであると言われる。だが、この中で武蔵は、数多くの剣士と戦い全勝したと書いているが、エビデンス(証拠)はない。
宮本武蔵の試合で最も有名な、佐々木小次郎との決闘は、まさに、吉川英治の小説が、そのまま伝わっている。試合そのものは本当にあったという説もあるが、その内容はあくまで吉川英治の作り話である。

ただ、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』によれば、武蔵が剣豪であったかどうかはともかく、実戦が強かったのは間違いないようだ。でなければ、いくら何でも、名前が残らないし、名前が残っているからこそ、吉川英治の小説のヒーローにもなったのである。

吉川英治の小説にある、宮本武蔵と吉川道場との決闘の話は、全くのフィクションだが、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』によれば、武蔵は、吉岡道場の当主、直綱と試合をしてはいるらしい。
吉岡道場では、挑戦者をことごとに退け(大抵は試合中に撲殺)、名を上げていたが、試合は、直綱の弟の又一郎が行っていた。
兄の直綱は、試合を弟にまかせて、自分は稽古もしないようになり、遊び歩いていた。
しかし、宮本武蔵が挑戦してきた時、直綱は、弟の又一郎に「お前では勝てない」と断言し、自分が試合をすると言う。
又一郎は、昔は強かったかもしれないが、ロクに稽古もしていない兄に自分が劣ると言われて気分を害し、兄に真剣で挑むが、これが、手も足も出ないと言うより、打ち込むことすら出来ない。
直綱は又一郎に「剣の腕ではお前の方が上。だが、気で俺に劣る」と言う。
今でもだが、「気」という言葉は、武術や仙道などでよく使われるが、気という実体があるわけではなく、これは、言ってみれば、精神エネルギーのことだ。
簡単に言えば、又一郎は、兄の直綱に、精神の力とか、その使い方で劣るのだろう。
そして、直綱は、宮本武蔵が、大きな気の力を持っていることを見抜いたので、弟では全く敵わないと確信したのである。
また、直綱は、自分が武蔵に勝てるかどうかも分からなかった。ただ、確実なのは、又一郎では確実に負けることだ。
直綱は、武蔵の気の力は、天性のもの、すなわち、生まれつきの才能と感じたようだ。しかし、武蔵は、修行でそれを得たのかもしれない。ただ、それは『五輪書』には書かれていないので、やはり、直綱が感じたように、武蔵の天賦の才能かもしれない。

ちなみに、直綱は、気の力を修行で得たフシがある。それを、又一郎には教えなかったのかもしれない。
あるいは、又一郎には、その素質がないと思っていたのかもしれない。
ちなみに、直綱が言う、気の修行は2つあり、1つは、柳生新陰流がやったと言われる坐禅である。
坐禅により、心を無にするのである。
一方、直綱は、「止観」を重視していた。
これは、坐禅のように想念を無にするのではなく、むしろ、想念を妄想に集中し、心を操る術を見い出す。
これは、天台宗の教えを元にしているらしいが、浄土宗・浄土真宗の経典『浄土三部経』の1つ『観無量寿経』で、釈迦が丁寧に解説している。
早い話が、止観とはイメージ法で、夕陽とか水とかをイメージして、心を鍛えるのである。

ただ、私はむしろ、『猫の妙術』の、古猫の教えの方が、気の鍛錬になると思う。
『真説 宮本武蔵』と『猫の妙術』を併せて読むと、面白くて仕方がないのである。
それにより、気、即ち、精神エネルギーの使い方のコツや、その鍛え方が分かると思えるからだ。
気を使いこなせば、引き寄せなども思いのままであると思う。








煌めきを纏(まと)うための修行

想像力がある人なら、自分に合った霊的な修行を何か1つしたいと思っているものだ。
それをやっていれば、時間が味方し、日が経てば経つほど霊的に向上し、精神が安定し、引き寄せがうまくなり、自由になる。
確かに、甘い考えと自己中心的な思いで、人を超えた力を安直に求めることが良くないのは当然である。
だが、霊的修行自体が楽しく、毎日の生活に欠かせず、多少の根気を持って、1年365日継続出来るなら、効果は保証されるし、人生は生き甲斐のあるものになる。

言うまでもなく喩えであるが、この世界は漫画で、我々は漫画の登場人物だ。
多少は仕方がないが、少なくとも、あまりに自己中心的にならないよう自制し、モラルを持ち、真面目に修行する登場人物が不幸になる漫画(小説、劇、映画、紙芝居)はない。

我々はなぜ、五感を働かせて外界を感知し、それに反応して何かを思うのだろう?
それは簡単なことで、この世という漫画の作者が我々を通して、自分が、漫画の世界を楽しむためだ。
誰だって、一度は、漫画や小説、あるいは、紙芝居を書いたことがあるだろう。
その作品の中で、ある登場人物が、夏の美しい海で遊んでいることを描いた時、自分が、その登場人物になったつもりで、夏の海を感じているはずだ。
それに熱中すれば、自分は漫画の登場人物と一体化し、自分が作者であることを忘れるかもしれない。少なくとも、瞬間的には、自分が作者であることを忘れているのだ。
この世という漫画は、もちろん、我々が知る漫画と完全に同じではなく、とても高度なシステムで成り立っているが、そのあたり(作者が登場人物と一体化すること)は、やはり似ているのである。
つまり、我々を通して、作者は、漫画の世界を感じ、それに反応し、様々な想いを味わうのである。
誠実な登場人物には、好ましい恋愛の相手と出逢うよう、ストーリーを導き、冒険を楽しませ、いくつかの敗北と静かな満足がある勝利を与えるだろう。
よって、毎日、自分のためでなく、自分に高貴さを纏(まと)わせるために修行するのである。
修行によって、煌めきを纏った登場人物は作者に愛される。それが我々の言う、神に愛されるということである。

そういえば、最近、私は修行していないなあ(笑)。
腕振り運動や、様々な運動は、ゴリゴリ自分のためにやっているし(笑)。
ところで、自分が描く漫画の美しい魔法使いには、精神集中の修行をさせるのではないだろうか?
それを怠っている時、ヒーローやヒロインであっても、困難に巻き込まれる。
精神集中とは緊張することではなく、集中を通して、心を静かにすることだ。
司馬遼太郎の『真説・宮本武蔵』の中で、吉岡道場の当主、吉岡直綱が、毎夜、そのような修行をし、力で勝る弟の又市郎をはるかに超えていた。
このあたり、吉川英治の『宮本武蔵』は、全く異なった内容であるが、司馬遼太郎のものの方がきっと良い気付きが得られる。
修行の内容は何でも良いが、あなたの上位存在である作者が好ましく思うものであるよう工夫すると良い。








気の力

宮本武蔵は、吉川英治の小説にあるような超一流の剣士などではなく、いわば、剣術屋、もっと言えば、喧嘩屋であったかもしれないが、それなりに強かった。
ところが、その強さが面白い。
剣豪などでなくても、そっちの方(武蔵の本当の強さ)がずっと良い。
武蔵は、175cmくらいもある、当時としては異様なほどの大男(千葉周作は180cmほどあったらしいが)で、しかも、怪力無双であり、それが生き死にの勝負を繰り返していたのだから、そりゃ強い。
しかし、それだけではないと思う。

以下は、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』の私の記憶であるから、面白いと思ったら本を読んで欲しい。

有名な、吉岡道場一門との決闘も作り話だが、吉岡当主との試合は本当にあったらしい。
だが、これも、吉岡英治の小説にあるお話・・・まずは当主の兄に再起不能の重傷を与えて勝ち、次に、兄以上の実力者の弟を叩き殺した・・・なんてのは嘘で、吉岡兄弟は老齢までピンピンしていたらしい。
ところが、この試合、吉川英治の小説なんかより、本当の話の方がずっと面白く、そして、勉強になる。

吉岡道場は、兄が当主だったが、兄はある時期から剣の訓練をしなくなり、遊行に明け暮れ、太ってしまい、もう剣の試合は無理そうで、来訪してくる剣客との試合は全て弟が受けていた。
そんな中、宮本武蔵から挑戦状が届く。
挑戦状は、近くの寺の者から届けられた。
挑戦されれば逃げることは出来ないし、武蔵の挑戦状にも「受けなければ、お前が臆病で逃げたと言いふらしてやる」と脅迫の文言があったらしい。
とはいえ、吉岡弟は、あらゆる挑戦を退けてきた腕自慢だ。
ただ、武蔵は、絶対勝てる相手でなければ戦わないはずなので、それほどではなかったのかもしれない。
当主の吉岡兄が、試合の許可を藩から得ようとしたところ、どういう訳か、試合は公開の公式戦となった。
吉岡弟には初めてのことで、名誉であり、喜んだ。
ところが、兄は、試合は自分がやると言う。
当然、弟はいきり立った。兄が形の上では当主だが、今や実力は自分がずっと上。それを道場の門下の者達にも明確に示したくて、兄に「ご教授を願いたい」と稽古を申込んでも、いつもかわされて来た。
そんな兄は、いつも試合は自分にやらせているのに、公式試合だから自分がやって、名誉を横取りしようと言うのか?
弟は、兄に、なぜあなたがやるのかと尋ねたら、兄の答は、「お前では勝てない」だった。
当然、弟は納得出来ない。
すると、意外にも、兄は弟に、自分と立ち会えと言う。つまり、稽古と試合の間のようなものだ。
兄を前に木刀を持った弟は驚く。まるで打ち込めない。
兄は「これで分かったか?」と言う。
兄が、自分が立ち会おうとした理由はこうだ。
武蔵と会った寺の者に、武蔵の印象を聴くと、その者(寺の男)の武蔵に対する恐れ様は尋常ではなかった。
初対面の、特に臆病でもない大人を、それほど恐れさせる者であれば、強烈な気を持っているはずだ。
この気が、怪力や、その他の身体能力、そして、実践経験以上に、武蔵の力であった。
弟には気の力がまだない。それでは勝てるはずがなかった。

試合は当然だが木刀で行われ、両者の木刀が相手の頭上で止まり、「相打ち」が宣告された。
吉岡兄の鉢巻には血が付いていたらしいが、武蔵の鉢巻は元々赤っぽく、武蔵は鉢巻を取ろうとしなかったから、武蔵も傷を負ったかどうかは分からない。
だが、打たれていなかったなら鉢巻を取れば良いはずであるから、やはり武蔵も打たれていたのではなかったか?
武蔵は不満であったが、試合は引き分けであった。
その後、武蔵は吉岡とは一切関わっておらず、吉川英治の小説のような、吉岡弟との試合や、道場門下多勢との決闘なんて決してなかった。

重要なことは、武蔵の気の力である。
吉岡兄にしても、彼がどうやって気の力を身に付けたかであるが、夜中に森で瞑想をしていた様子があった。
武蔵に関しては、異常な家庭・・・というより、異常な父親との関係の中で身についた狂気の影響もあると思われる。
ちょっと気になるのが、本宮ひろ志さんの漫画『武蔵』で、武蔵が山籠りをして、1本の杭を木刀でひたすら打ち続けたことだ。
もちろん、これは、本宮ひろ志さんの創作であるだろうが、本宮さんほどの天才漫画家が、何か霊感を得て描いたのかもしれない。
これは、徳川家光が少年時代、柳生宗則にやらされた行と同じである。
少なくとも、1年365日、1日も欠かさず同じことを続ければ、気の力を得る可能性がある。
私もそう感じるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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