ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

右脳の冒険

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

不屈の心はこの胸に

大きな目標を達成したり、困難な戦いに勝つためには、潜在意識、あるいは、右脳を活性化させなければならない。
そのために絶対に必要なことを1つ挙げるなら。
それは、「しゃんとする」ことだ。
「しゃんと」とは、
・物事がきちんと整っているさま。ちゃんと。
・姿勢または態度などがだらけていないで、きちんとしているさま。
・衰えを見せず、元気で活発にしているさま。
・確かに。きっぱりと。しかと。
という意味である。
これが、顕在意識、あるいは、左脳がやるべきことなのだ。

コリン・ウィルソンが『右脳の冒険』で、だいたいだが、こんな話を書いていたと思う。
弟と2人で、森の中、道に迷い、雨が降り、陽も落ちて寒くなり、弟は泣き出す。
自分も泣きたかったが、兄である自分がしっかりとしなければいけないという想いで自分を奮い立たせ、しゃんとした。
すると、不思議な活気がみなぎり、無事に家に戻れた。
ウィルソンは、左脳の意思が「しゃんとする」ことで右脳の膨大なエネルギーを引き出せたのだといったことを述べていたと思う。
もちろん、このあたりの表現はいろいろで、ウィルソンが正確にどう言っていたかは覚えていないが、大切なことは、「気力を奮い立たせる」「不屈の闘志を燃やす」といったことである。
それにより、大きな力が味方になってくれる。

自分がしゃんとして、潜在意識に指令を出せば、無限の力を持つ潜在意識が働くのである。
しかし、言い換えれば、自分がしゃんとし、ちゃんと指令を出す必要があるのだ。

私は、長谷敏司さんのSF『BEATLESS』を読了後、すぐに再読に入り、上巻を読み終え、下巻に入った。
私は、『涼宮ハルヒ』シリーズ、『(化)物語』シリーズ、『カゲロウデイズ』、『木枯し紋次郎』など、面白い小説は10巻、20巻、それ以上のものでも一気に読むのだが、すぐの再読が続いたのは初めてだ。
『BEATLESS』はそれほど長くはないが、紙の本で見ると、上下巻ともかなりの厚さで、合計で1100ページ以上はあると思う。
その『BEATLESS』で、私は、主人公の17歳のアラトと、少女型アンドロイドのレイシアのこんな会話を心に刻み付けた。

「レイシアは、僕をチョロいって言わないかわりに、間違うとへし折りにかかるんだな。僕をどうさせたいんだよ」
彼女の薄青の瞳が、存在しないこころからの願いを伝えるように、まっすぐアラトを見上げる。
「デザインしてください。わたしとあなたがともに歩む“未来”を。エリカの描いた絵図面ではなく、オーナーであるアラトさん自身の思うままに」
それは、目前の事件に振り回される彼が考えてこなかった、一段大きな戦いだ。
レイシアの視線は自信に満ちていた。
「わたしには、その未来を引き寄せる力があります」
~『BEATLESS』(角川文庫)下巻より~

レイシアを潜在意識に置き換えると、そのまま勝利の法則になる。
それは戦いであり、心がしゃんとしていなければ、それによって不屈でなければ出来ないことである。









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いつでも楽園の乙女に逢える

尊い教えを残した聖者は沢山いるが、彼らの教えはどれも難しい。
この難しいというのは、難解という意味ではなく、彼らの言った言葉の微妙なニュアンスを捉えることが、彼らが既にいない今となっては難しいのだ。
ラマナ・マハルシは、神になるには、「私は誰か?」と問えと言ったが、あるところで彼は、「私は誰か?」を呪文のように繰り返してはいけないと言う。
また、「私は誰か?」を問うにはまだ早過ぎる人もいるという。
そうなると、我々は途方に暮れてしまう。
さらに、ラメッシ・バルセカールによれば、マハルシの使ったタミル語のことを考えれば、マハルシの「私は誰か?」は、「自分とは何か?」という意味に近いと言う。
いや、その「『自分とは何か?』に近い」という言葉自体が、本当はどういう意味かといった問題もある。
つまり、「私は誰か?」という意味の解明自体が、博士論文並の研究が必要なのかもしれないと思うと、気楽に「さあ、やっていよう」というものでもないように思える。

だが、私は、ニサルガダッタ・マハラジの「常に、『私は在る』という感覚にしがみつきなさい」という教えに、直感的に心を惹かれた。
ここでも確かに、「在る」のは、身体なのか心なのかという定義すら示されていなかった。
しかし、身体でないのは確かであろう。
そして、心でもない。
それが心であるなら、欲望や、恨みという心の働きをもって、「私は在る」になってしまう。
だから、「在る」のは、心の表面的な現れである心の働きではなく、心の中核のようなもの・・・魂や霊のようなものであると思う。
これに関しては、昔、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ってくれたことが大いに参考になる。
ところで、デカルトのこの言葉に対し、「『我歩く、ゆえに我あり』でいいじゃないか?」と言った学者だっていたのだ。
しかし、そうじゃなく、デカルトが問い詰めたのは、「確かに存在する」という、「決して疑うことのできない、果てしなく明晰なもの」なのだ。
「我歩く」と言ったって、本当に歩いているかどうかは分からないのだ。
夢の中で歩いているのかもしれない。
他にも、何らかの意味で、自分が歩いていると誤解しているのかもしれない。
自分が「歩いている」ことを疑うことなど、いくらでもできる。
その疑いは、どうしたって、絶対に晴らせない。
しかし、「疑っている(思っている)我」だけは、疑いようもなく存在する。だから、「我思う、ゆえに我あり」なのだ。
デカルトは、彼なりに、自分の存在の中核を突き止めた。
それなのに、傲慢にも気楽に、「我思う、ゆえに我あり」を否定することを認める訳にはいかない。

疑わせる何か、思いを生み出す何かは、確かに存在する。
それが「我」なのだと思う。
その感覚にしがみつくのは難しくはない。
その感覚に注意すれば、自分は果てなく広がっていく。
岡本太郎の「爆発」のようなものかもしれない。

ところで、ニサルガダッタ・マハラジは、「在るという感覚」は、朝、眠りから覚めて、思考がやってくるまでの間の感覚だと言う。
これに関し、『アラビアのロレンス』で知られる、トーマス・エドワード・ロレンスが、『知恵の七柱』という書で、自分が神の国に参入する体験を描いているのが、まさに、この「在る」感覚だ。
ロレンスが、そのような神秘の世界に行くのは、砂漠の朝だった。
どういう訳か、眠りからは確かに目覚めているのに、思考が頭に戻ってこない朝があるものだが、そんな時、見慣れた砂漠が神秘の世界、神の王国に変わっているのだ。
いや、本当は砂漠だけじゃない。
いやいや、砂漠だけじゃないどころではない。
そんな時は、神の王国、楽園でないものなど何もない。
そこいらに楽園の乙女が微笑んでいる。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』で、あの超エリート政治家が、幼い時に一度だけ訪れ、再びそこに行くことを憧れ続けた、その「堀についたドア」の向こうの世界は、何のことはない、どこにでもあるのだ。
あの時に優しい眼差しを向けてくれた楽園の乙女もどこにだっているのだ。
「私は在る」という感覚さえ大切にすれば、神の王国は、楽園の乙女はいつでもあなたのものなのだ。
尚、『知恵の七柱』は膨大な書物なのだが、上に述べた部分は、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』に引用されているのを見ても良いと思う。









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観察を続けて英知と一体化した男

イギリスの作家コリン・ウィルソンの30年程も昔の著作『右脳の冒険』は、実録を基に書いたものだが、ある1人の賢者と言うべき男が登場する。
特に際立ったところもない平凡な男なのであるが、あきらかに普通の人間とは違っており、悟りを開いているとか、解脱している、あるいは、真我を実現していると言って良いと思う。
確かに、彼も一夜でそうなった訳ではないが、最終的に彼に驚異の変革をもたらした出来事とは、次のようなものだ。
昔読んだ記憶で書いているので、正確ではないが、だいたいがこんなところだったと思う。
何か不幸な出来事のせいで、彼の妻は、ほとんど自意識を喪失した状態に陥っていた。
心優しい彼は、ベッドで心なく横たわる妻を、意識の回復を願って、片時も離れないほどに見続けた。
静かに、注意深く、妻を観察し続けたのだ。
彼がやったことは、それだけだった。

コリン・ウィルソンの主張は、至高体験(意識が拡大し、超意識に達するようなこと)を呼び起こすには、強い緊張の後の弛緩がポイントだということである。
だが、それは、似て非なりで、明らかに間違いだ。
アブラハム・マズローの言う、この至高体験は、ロマン・ロランが言った、「万物と一体化したような没我の状態」を示す「大洋感情」と同じものであると思うが、それに至るには緊張は不要で、むしろ、それは障害である。
大切なことは、徹底して静謐(静かで落ち着いていること)な精神が目覚めていることである。
それは、注意して気付いている時に現れる。
例えば、荘厳な風景を見た時、我々は歓喜を感じるが、その時、心は真っ白で何も考えていない。
その真っ白な心が、先程述べた「静謐な」心である。
だから、単に興奮したり、「しびれる」のではない、本物の感激をするのは良いことである。
その時に、普段は隠れている、神秘な心が現れるのだからだ。
だが、その心をしっかりと捕まえるためには、自分の心を観察し続けなければならないのだ。
そのためには、何かを注意深く観察し続けることが必要だ。真剣に何かを観察することは、自分の心を観察することだからだ。
その賢者になった男も、愛する妻を、ずっと注意深く観察し続けることで、自分の心を静かに観察していたのだ。
これが、本当の瞑想なのである。
世間の教祖達の言う瞑想は全て間違っており、何の価値もない。
そして、自己に対する瞑想が深く深くなった時、世界は消え、真の自己が輝き現れる。
その時、あなたは、自分が本当は何なのかをはっきり知る。
それが解脱であり、悟りである。

我々は、苦しい時や悲しい時、それをもたらした出来事を批判せず、ただ起こったことを静かに観察し、自分の心に気付いていることで、真の瞑想に導かれる。
だから、人間には、苦難や苦痛は必要なのである。
そんなことが何もなければ、我々の精神は弛緩してしまい、敏感さ、鋭さを失って、注意深く観察することはない。
だから、人生には、苦しみをもたらすような、予期せぬ出来事は絶対に必要なのである。
だが、人間は、未知を恐れ、全て予想できることしか起こらないような人生を歩みたがる。
しかし、あえて冒険に挑む時・・・予期せぬ出来事が起こることを許す時、我々の心は鋭敏になり、透き通った「気付きの状態」になる。
それを繰り返すことで、あなたは世界を征服し、世界を我が物とするのである。
あなたは、元々が王なのであり、世界の所有者であるということを知るのである。









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赤ん坊は母親のための悟りグッズ

電車の中で、若い母親が、乳母車に乗せた赤ん坊の側や、少し大きな幼児を座席に座らせた横で、携帯電話やスマートフォンをずっと触っている。
そんな光景をよく見る。
私が見た時がたまたまそうなのではなく、その母親は、いつもそうなのだろう。
家の中でも、その子に特に構う必要がないなら、そうしているのだろう。

かつて、母親というものは、どっしりと静かに落ち着いていた。
実は、昔の母親はほとんど全て、悟りを開いていたのである。
聖者を求めてヒマラヤに行く必要はなかった。それと等しい存在が家の中にいて、家は調和し、子供達は正しく生きる知恵を得ていたのである。

母親が永遠の道(タオ)と一体化した宇宙のような存在で無くなったのは、テレビの普及で、子供の様子を見るよりも、テレビを見ていることが多くなってきた頃からだ。
かつての母親が、赤ん坊は貴い宝であると言ったのは、その子が、やがて、その家やこの国を支えるからというような意味では決してない。
自分に、そして、全ての母親達に貴重なものをもたらす唯一の存在であることに気付いていたのだ。
赤ん坊は、母親に解脱をもたらす力があった。母親の魂を解放する特別な仕組みが神によって備えられているのである。
これは、母親だけが得ることの出来る特権である。
だが、テレビの普及により、母親はこの特権を奪われ、現代は、携帯電話でそれをほとんど放棄し、さらに、スマートフォンのために、完全に生ゴミに出してしまったようなものである。

無論、赤ん坊が可愛いという理由だけで熱心に眺めている期間は、母親にしたってそうは長くない。
だが、数パーセントでも、赤ん坊に惹きつけられるものがあると同時に、この子を生かすことが出来るのは自分だけだという使命感があるはずなのだ。
赤ん坊はデリケートなので、常に注意している必要がある。
しかし、いかに母親でも、そうそういつも注意深く監視していられるものではない。
見てはいるが、思考は停止している状態になる。しかし、それでもやはり、意識は赤ん坊に向けられている。
もちろん、そんな時にも、忙しく家事をこなしているだろう。しかし、それに関しては、自分が行為者であるという自覚が無いものなのだ。
意識はやはり赤ん坊のところにあるのである。
この状態こそが、悟りをもたらす観照の状態である。
自我が赤ん坊を観察しているのではない。自我を超えた真の自己・・・霊である自己(真我)が、赤ん坊を直感的に観照しているのである。
観察とは、自我が見て、思考で思慮分別したり判断することだ。
観賞とは、思考を超え、直観的に感じることだ。
観照している時は、自我が観察している時の数万倍も、赤ん坊のことが分かるのである。
母親は、言葉を超えた不思議な何かで赤ん坊とコミュニケーションするということを、聞いたことがある方もいるだろう。
それは、このように、母親が子供を観照することで、赤ん坊の存在全てを知覚することであると同時に、赤ん坊もまた、実は観照をして、母親の魂と交流しているのだ。

ここで少し、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』の中で述べられている、ある悟りを開いて賢者になった男の話をご紹介しよう。
その男の妻は、不幸な出来事のせいで、心神喪失の状態になってしまっていた。
彼女を愛するその男は、妻の心の回復を願い、常に・・・ほとんど1日24時間・・・妻をじっと見ていた。
ウィルソンは、この男が妻を観察する緊張状態が、妻の心の回復によって解かれた時、男に意識の拡大が起こったのだと、誤解した。
本当は、男が妻をじっと観察しているうちに、思考が停止して観照の状態になり、彼は自我を超え、より高い意識状態に達し、それが定着したのだ。
ウィルソンは緊張からの解放が意識の拡大(至高体験)をもたらすのだと、ずっとおかしな判断を述べ、世界中の読者を混乱させた。
とはいえ、ウィルソンは洞察においては恐るべき天才で、彼の着目そのものは極めて貴重なのだ。天才ほど、どこか抜けているのは仕方がない。
しかし、重要なことは、自我が消失あるいは希薄になることで、観照の状態になることなのだ。
本来、母親は、皆、それをしたのである。
尚、政情不穏な国では、別の意味で、母親の注意力が奪われ、やはり、母親の本来の特権である悟りの機会を失っている。
日本では、富国強兵を唱える明治政府から始まる、敗戦までの軍部がそれを奪い、やがて物質主義、経済主義、快楽主義がその盗賊の役割を受け継いだのである。

尚、本記事の表題『赤ん坊は母親のための悟りグッズ』だが、日本ではグッズといえば、「商品、品物」のイメージが強いが、本来は財産といった意味である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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