ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

南無阿弥陀仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「南無阿弥陀仏」の科学的解釈

仏の古い字である「佛」は、「人でないもの」といった意味になるらしい。
つまり、人でなければ仏だ。
人は心なのだから、人の心以外は仏なのである。
では、心は仏ではないかというと、それは違う。
沸騰の「沸」は、水が沸き立って水蒸気になったものと考えられる。
心と仏の関係は、水と水蒸気の関係と同じだ。
人の心が希薄になったものが仏である。

フロー状態という、没頭し、自己意識がなくなり、時間がなくなる意識状態を示す心理学用語がある。
フローは、至高体験とも言われる。
至高体験は、大洋感情という、自分が万物と一体化したような没我の状態と同じだ。

つまり、忘我、没我となった心が仏である。
そのような心を、無心、即ち、心で無いと言うのだから面白い。
無心こそ本当の心であり、これが仏である。
道教で、無為こそ本当の行為だというのと似ている。
道元も、仏教の本質を、自己を忘れることと言ったのだと思う。
それが分かれば、仏教が分かったと言えるのだと思う。

「南無阿弥陀仏」という念仏は、万物に宿り、同時に、自分の真の心である阿弥陀仏に呼びかける言葉だ。
阿弥陀仏とは、無限の光、即ち、無限の知恵という意味で、同時に、無限の生命という意味だ。
即ち、阿弥陀仏とは、やはり、万物に宿り、同時に、自分の真の心である仏のことなのである。

多分、一休さんが言ったのだと思うが、仏は、万物に宿る火のようなものだ。
そして、一休さんは、念仏を唱えることは、鉄と鉄を打ち合わせるようなもので、仏という火が火花として現れるようなものだと言ったのだ。
物質現象の火花と違い、仏が現れるのであるから、何も恐れることはない。
別に、「南無阿弥陀仏」という言葉に呪的な効果があるのではなく、この言葉は、自分の真の心に呼びかけているのである。
心だけが仏でないのだが、心だけが、仏に呼びかけ、顕現させることが出来るのである。
だから、「南無阿弥陀仏」を唱えた時は、無限の力を呼び起こしているのだが、普通の人は、念仏を唱えても、出現した仏の方を見ていない。

科学的に言っても、「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏(無限の力)に南無(全てをまかせる)という、全く正しい宣言になる。
太古の人が理解し、未来の賢い人類が再び取り戻すべき英知が、この言葉に凝縮されている。
それが分かれば、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、即、至高の力と一体化し、全知万能になるのである。
もちろん、理屈の上では、「南無阿弥陀仏」と言わず、「私の真の心よ」と言っても同じであるが、「がんばります」と言葉で言ったら本当はがんばらないように、人間というのは、理屈と感情が一体化しないのである。
だが、「あなた(好きな人)のためにがんばります」と思えば、言葉と感情がぴたりと一致する。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、そんな情緒を重んじた言葉なのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

意外に科学的な念仏

現代人に、「南無阿弥陀仏という念仏を唱えれば、阿弥陀仏という無限の力を持つ仏様が救ってくれる」と言っても、信じられないだろう。
ところで、その「南無阿弥陀仏」を、中国の荘子の言葉で言えば、「なりゆきにまかせる」になるのだと思う。
「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀如来という最高の仏様に全ておまかせしますという意味だが、阿弥陀如来とは、無限の光を持つ仏とか、無限の寿命を持つ仏という意味で、つまるところ、西洋で言う絶対神であり、宇宙そのものと言って良いだろう。
その宇宙そのものにまかせ切ってしまうというのが「南無阿弥陀仏」なのだから、「全てなりゆきにまかせよ」と言う荘子の教えと同じなのである。
ただ、阿弥陀如来という慈悲深い存在にまかせるというのと比べ、荘子のは、いかにも心もとない感じになるだろう。

荘子も、真宰(しんさい)という、全宇宙を統率運営する者が存在するとは言うが、それは、普通に言われる神のようなものではなく、人間には理解不能なものだ。
そして、「なりゆきにまかせよ」とは言うが、実際は、「なりゆきにまかせるしかない」のであり、あらゆる出来事や、自分の心ですら、自分の自由になる訳ではない。
しかし、人間としては、自分や世界の運命を託す真宰とはどんな存在であるか気になるところであるが、それは人間の知性を超える存在であるのだから、どうしようと分からないのである。
真宰は神のようなものではないかもしれないが、人間にその区別がくつはずもなく、一応は神と考えても良いのだが、そもそも、人間には神だって、いかなるものか分かる訳でもない。
そこで、アインシュタインが一応の結論として、うまいことを言っている。
それは、「神は老獪である。だが、悪意はない」だ。
「善意」と言えば、人間それぞれの考え方によって限定が出来てしまう。
「悪意」だってそうなのだが、それを否定することによって、無限の広がりを持つのである。
「美人」と言ったら、人それぞれの好みで決まるが、「不美人以外」と言ったら、自分の好み以外の美人も含まれるようなものである。

阿弥陀如来と言ったところで、それがどんな存在か、本当は理解できないはずである。だが、それは、決して悪意のない存在であることは、信じても良いのではないか?
それでいえば、案外に、「南無阿弥陀仏」というのは、アインシュタイン的に、論理的、科学的であるのだと思う。
ご存知かもしれないが、アインシュタインの論理は感情を無視しないが、それは欠点ではなく、そもそもが、科学とは、数学ですら、感情抜きで成立しないことが、実際に数学的に証明されているのである。
私は、権威ある仏教やお寺のお坊様が言われる「南無阿弥陀仏」は信じられないかもしれないが、新しい、そして、おそらく原初の意味に近い「南無阿弥陀仏」は信じられるのであり、結局は、それが、親鸞の念仏であるのだと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

真のザナドゥ(桃源郷)には誰でも行ける

世界中に、至福に満ち、一切の苦しみのない理想世界である、桃源郷、ザナドゥ、シャングリラなどといった伝説がある。
中国の古典『列子』には、終北(しゅうほく)、列姑射(れっこや)、古モウ(こもう)などといった、理想世界の話がある。
言うまでもなく、聖書のエデンも同じものである。
気候は温暖で、働かなくても食物はふんだんにあり、人々は心穏やかで争わない。
現実の苦しみ多い世界の中で、人々はそんな世界を夢見たのだろうか?
イエスも天国について語ったし、浄土系仏教では、阿弥陀如来が造った極楽浄土があり、法然、親鸞は、阿弥陀如来の名を呼べば、即ち、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えさえすればそこに行けると言った。

先日放送された、『灼眼のシャナ・ファイナル』第14話のタイトルがまさに、『ザナドゥ』であった。
異世界の神である祭礼の蛇と、この世界の平凡な高校生だった坂井悠二の思いが一致して融合し、理想世界ザナドゥの創造を目指す。
(私は、原作は、悠二が祭礼の蛇になった少し後あたりで挫折して読んでいない。)
異世界の者は人間を喰う必要が無くなり、よって人間は死ななくて済む。シャナも戦いの世界から解放される。
悠二と祭礼の蛇は、救世主として、そんな理想を熱く語る。
だが、シャナはどうしても承服できない。胸の中で、何かが「違う!」と言っている。
シャナは正しい。それは、まさに、ソクラテスが言った、内なる英知ダイモーンの声を聞いたということだ。

私は原作を読んでいないので、結局はどうなるか知らないが、悠二や祭礼の蛇の言うザナドゥ(理想世界)など造ったら最悪の悲劇となる。
人類は、理想郷の結末まで考えなかったのだろうか?
そんな世界でも、必ず、いつか争いは起り、しかも、恵まれているだけに、あまりに悲惨なことになるのだ。

イエスの言う天国や、釈迦が言ったかもしれない、阿弥陀如来の極楽浄土は、悠二や祭礼の蛇の言うザナドゥとは全く違うのだ。
それは、我々の内側にあるのである。それを外に求めるのは愚かなことだ。
「何か違う!」と思ったシャナの中にちゃんとあるものだ。いや、ちゃんとあるから、そこへの道をおぼろにでも感じているから、シャナには分かるのだ。
イエスの言う天国-内なる王国-は誰の中にもある。
ソクラテスは、そこからの声を聞いていたから知恵を得たのだし、それと同じものがシャナに特別な感覚を与えた。何より、作者にこの作品を書かせた。
だが、ソクラテスは、作家自身は、そのことに気付いていないと言ったのだ。

内なる王国を知るには、ソクラテスのように、そこから流れてくる英知を感じれば良い。
そして、英知とは、実に、沈黙なのだ。
これは別に難しい話じゃあない。
沈黙の中から、抽象的概念が起る。抽象的概念は沈黙の子であり、これが高度な知恵である。
抽象的概念から思考が生まれる。それならこれは、沈黙の孫である。どんなに洗練させても、せいぜいが世俗の知恵、あるいは、悪知恵だ。
そして、思考から言葉が生まれるが、言葉は沈黙のひ孫で、何とも粗雑なものだ。

うまく言語化出来ない。情報の伝達に齟齬(そご)が発生するかもしれない。でも、聞いて。
~『涼宮ハルヒの憂鬱』より。長門有希の言葉~

だから、人類は詩というシンプルな美しい言葉で語ることを考案し、さらに、西洋でも東洋でも、文字を限定する形式の詩(日本では和歌や俳句)こそが、言葉としては最上のものと認識し、発展させた人々がいたのだ。

心の沈黙を守ること。それが英知であり、内なる王国、天国、真のザナドゥだ。
どうすれば、粗雑な思いを祓い、清らかな沈黙が得られるか?
それを共に得ようというのが、これまでの、そして、これからも変わらぬ本ブログのテーマといったところだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

生きがいの見つけ方

生きがいを持つにはどうしたら良いかというコメントが多くあった。
世間では、むしろ、夢を持つにはどうしたら良いかという話が多いが、本当は、皆、生きがいが欲しいのである。
夢というのは、将来の希望のことであろうが、それは幻想に過ぎない。生きがいをもって生きていれば、未来なんかどうでも良いはずである。
Winkの『One Night In Heaven ~真夜中のエンジェル~』なんて歌にもあったが、「今一瞬が全て」である。

生きがいとは、快楽ではない。
美味しいものをいっぱい食べるとか、美女をはべらせるとか、イケメンにかしずかれるなんてのは、生きがいを奪いこそすれ、決して生きがいにはならない。

生きがいとは、リアルに生きることだ。生きていると実感できることだ。
サルトルは、戦火の街を歩き回った時、生きていることを強く実感し、精神が溌剌とするのを感じた。
ロシアン・ルーレットをご存知だろうか?回転式弾倉を持つ拳銃(リボルバーという)に弾を1発込め(2発以上のこともあるが)、弾倉をでたらめに回転させた後、銃口を自分のこめかみに向け、引き金を引くのである。「カチッ」という音がして、命拾いをした時、生きているという実感が、ふつふつと沸き起こる。無論、命が助かっても、精神を破壊してしまう危険はあるが、そうでなければ、これは病みつきになるという話もある。

もちろん、そういった過激なことをやるべきではない。
だが、ヘミングウェイやトルストイといった、生の喜びを鮮やかに表現した文豪達がギャンブル好きであったように、賭けというものは、リスクが大きいほど、妙に生きている実感を感じさせるのだ。
ギャンブルってのは、長くやっている人というのは、儲けることが目的ではない。スリルを感じることが目的なのだ。

人生の岐路に立った時、理屈や計算で道を選ぶと後悔するものだ。そんな時は、素直に好きな方を選ぶべきだ。得な方ではない。好きな方だ。
そして、どうしても分からないなら、駄目になりそうな方、損な方を選べば良い。
岡本太郎は、常に、破滅する方を選んだと言っていたが、彼は、さぞや生きがいに溢れていたことだろう。
それも恐ければ、せめてコインを投げることだ。

岡本太郎は、軍隊時代、30も過ぎて、18や19の兵隊達と一緒に最下級の2等兵として中国大陸に送られた。
旧日本軍とは愚かなものであったらしく、夜中にしごきと称した、上官のいじめがあった。上官は下級兵を部屋に呼び出し、殴って日頃の鬱憤を晴らすのである。
1人の上官が、次々に獲物を呼び出す中、岡本太郎は、いつも4番目に行った。殴る方は、4番目が一番調子が出るからである。

まあ、そこまで気合を入れることもないし、本当は、入れてはならない。
岡本太郎も、結局は病気で死んでしまった。やはり無理があったのだ。とはいえ、普通の人とは比較にならない生きがいある人生だったろう。しかし、我々は、彼を超えなければならない。

1つには、腹を鍛えなければならない。
その意味はというと、どうも現代人は、理屈というか、ちっぽけな知性や思考にとらわれて生きがいを失くしているからだ。
腹を鍛えるとは言っても、腹筋とか、インナーマッスルという意味ではない。腹にある、生命力の根源を活性化させるのだ。
腹を鍛えれば、頭の考えが慎んで引き下がり、腹の中から生命力が湧き上がることに、例えば、D.H.ロレンスのような作家はよく気付いていた。彼は、そのことについて本を書いたが、「これを読もうなんて自惚れるな」とまず釘を刺すのを忘れない。
複式呼吸のやり方をいろいろ工夫すると良いだろう。
だが、別にこだわる必要はない。複式呼吸など不要という人もいる。
分かりにくければ、下腹部に片手を当て、腹に常に力を入れると良い。黒住宗忠は、いつもそうしていた。宗忠は、元々は凡人だったが、後に、キリスト級の超人的な神人となった。

そして、後は、信頼する神なり仏に全てを任せ、何も心配せずに生きることだ。
だが、別にそれで、良いことがあるとか、願いが叶うということではない。そんなことも込みで、全て任せるのである。
何か思いが浮かぶごとに、「南無阿弥陀仏」と念仏でも唱えるのも1つの手であろう。
あるいは、腹に力を込めることでも意識すれば、思いは消えるだろう。腹の鍛え方の指導では、日本屈指であった、明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、「腹から力が抜けた時に悪しき考えを起こすのである。腹から力を抜いてはいけない」と言ったという。
ラマナ・マハルシは、常に、「私は誰か?」と問えと言ったし、ニサルガダッタ・マハラジは、「存在する」という感覚に常にしがみつけといった。
気に入った1つをやれば良いと思う。

そうやっていても、困難は起こるだろう。
だが、それが良いのである。困難がなければ、腹に力を込めることも、念仏も長続きはしない。苦難を歓迎するまでになれば、そろそろ生きがいも掴めるであろう。
くれぐれも、得をしようなどという、浅ましいことを考えず、人に親切にすることだ。そうすれば、きっと生きがいは見つかるだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

欲しいものと合体すれば、それを得られる

何かを手に入れたいなら、そのものと合体すれば良いと言われることがある。
リンゴが欲しければリンゴと、お金が欲しければ、お金と合体する。
そして、宇宙が欲しければ、宇宙と合体するのである。
それにはどうすれば良いかというと、邪魔になるもの、つまり、欲しいものから引き離しているものを取り去るのである。
そして、欲しいものから引き離しているものとは、いつだって想念である。
結論として、想念を捨てれば良い。
これは、古今東西のいかなる分野の賢人達にも一致する意見である。
大発明家の中山正和さんは、瞑想を薦めたが、瞑想中に浮かぶあらゆる想念を切れと言った。具体的にどう切るかは、いろいろ言っていたが、簡単なのは、般若心経の最後の呪文に尽きるということと思う。
サンスクリット語で「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」。
中国語で「ギャテイギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボジソワカ」。
ラマナ・マハルシは、「いかなる想念が起こっても、その度、『この想いは誰に起こったのか?』と問え。答えは『私』に決まっている。そこで、『私は誰か?』と問え。すると、想念は消える」と言ったが、これは難しい。結局、マハルシは、自分に向かって、常に、「私」と呼びかければ良いと言った。つまるところ、想念が消えれば良いのだ。「私」は、あらゆる想念の源であるから、そこに意識を引き戻せば、想念は消えるのである。
ニサルガダッタ・マハラジは、「存在する」という感覚にしがみつけと言う。なぜなら、人が唯一確信できることは、「私は存在する」ということだけだからだ。だが、これも難しい。これも、マハラジは、「私は存在する」という言葉を想えば良いと言ったのだと思う。「私は存在する」が最上のマントラ(呪文)なのだと言う。尚、ラマナ・マハルシによれば、最上の呪文は、先ほどの「私」であり、聖音「オーム」ですら2番目であると言う。
英語で最も尊い言葉は“I AM”であると断言する聖者も多いが、これは、「私は存在する」という意味でもあり、そもそもが、「私は神である」という意味なのだそうだ。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、常祓い(じょうはらい)と言って、常に怠り無く、念を祓うよう教えた。善い念、悪い念など、関係ない。どんな念も祓うのだ。そうやって、「私」が無くなれば、本当の「私」に至る。それが、人から日月(ひと)になることである。

・・・みんな美しいが、難しい。
世俗の仕事に忙しく、煩いごとが多い上にアホな庶民に、難しいことができるものか。
そこで、法然は、ただ、「南無阿弥陀仏」と唱えよと言ったのであり、そして、それで十分なのだ。法然自身も、私はこれ(念仏)以外、何もしないと言い、そう遺言したのである。
「南無阿弥陀仏」とは、至高の存在である阿弥陀如来を心から信頼し、全てお任せしますという意味だ。決して、葬式の言葉ではない。『ルパン三世 カリオストロの城』で、銭形警部が、白骨化した死体に「なんまいだぶ」と念仏を唱えていたが、別にそれが間違いではないし、むしろ良いのだが、こんなことだけに使うものではないのである。
キリスト教徒は、「アーメン」という言葉をよく使うし、イエス自身もそう言ったのだが、これも、実に尊い言葉で、想念を祓うものである。意味は「私自身は何もありません。つまり無です。全てはあなた(神)が起こすことです。全て、あなた(神)の意志のままに。私はあなたを信頼し、従います」といったようなものである。
慈愛を持った先人達が残してくれたこれらの言葉を使って、想念を祓うのが私には良いと感じる。
黒住宗忠は、念を払いきれば、宇宙は心の中にあると言った。つまり、宇宙と合体したのであり、自分が宇宙なのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード