ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

南無三

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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三の神秘

「南無三(なむさん)」という言葉は、「三宝に帰依する(すがる)」という意味で、「三宝」とは、仏、仏法、仏教僧団のことで、仏教における最も貴いものだ。
それで、危機に際し、「仏」「仏法」「僧団」に救いを求めるという意味で、「南無三」と唱えることが、昔から行われていたようだ。
そりゃ、仏、仏法、僧団に救いを求める呪文のようなものなのだから効くはずである。

ところで、3という数字は、西洋では、古代ギリシャの時代から、神秘数、あるいは、完全数とされ、それは、キリスト教にも受け継がれている。
それは、非常に明確なことであると思う。
古代ギリシャでは、神に誓いを立てる時は、ゼウス、アテナ、アポロンの3神に対して行ったのである。
アリストテレスは『天について』の冒頭で、3という数字が、いかに完全で重要であるかを、切々と述べている。
キリスト教では、当然、「三位一体」、つまり、父(神)、子(キリスト)、聖霊が一体であることを最重要事項としている。
そして、敬虔なキリスト教徒であったダンテは、『神曲(本当のタイトルは『神聖なる喜劇』)』を、徹底して3によって構成した。
総序である最初の一歌の後、地獄編33歌、煉獄編33歌、天国編33歌で、しかも、3行で一文(一連)とする「三行韻詩」である。

よって、「南無三」と言った場合、本来の「仏、仏法、僧団の3宝にすがる」という意味の他に、「最も貴い3神にすがる」、あるいは、「完全である3にすがる」という意味にも取れる。
日本においても、最も貴い神は、やはり、3神である造化三神で、それは、天之御中主(アメノミナカヌシ)、高御産巣日(タカミムスビ)、神産巣日(カムムスビ)の3神である。
「三」は、日本語では、「ミ」とも読み、「三」と「ミ」は似ているが、山蔭神道の山蔭基央氏の『神道の神秘』によれば、「ミ」は最も高貴な言葉で、初音ミクさんの名が「ミ」で始まり、「ミク」を「39」という数字に合わせるのも偶然ではない(と思うw)。

こう考えてみれば、「南無三」とは、何とも希(まれ)な言葉である。
私は幼い頃から、なぜか、この言葉をよく使い、度々、不思議なことを起こしていたのである。
どんな時に使ったのか、実はほとんど覚えていないのだが、かなり恐ろしいことにも使ったような気がする。
目をつぶって交通量の多い車道に飛び込むという、今思うと恐ろしいことを何度もやったが、その時も、「南無三」と唱えていたかもしれない(決して真似しないで欲しい)。
1つ、こんなことを覚えている。
小学校の運動会で「帽子取りゲーム」という、かぶっているいる体操帽子(紅組は赤色、白組は白色。帽子の表裏が赤白だった)を取り合うというゲームがあり、その練習をした時だ。
私は、一番強いと言われているT君と鉢合わせ状態になり、やむなく対戦となったが、T君はもう自信満々の様子である。T君は背が高くて力が強く運動神経が良いのだから、そりゃ強い。
その時のことは非常に印象的である。
私が「南無三」と唱えた時には、T君の帽子は私の手にあった。
ところが、T君は、帽子を取られたのに、私への攻撃を続けながら、「あれ!あれ!」と凄く驚いた様子である。
自分が負けたことが信じられない様子なのだが、それよりも、なぜ負けたのかが分からないのだろう。
私は多分、時間を超えていた。
誰かが「KayがTの帽子を取った!」と叫ぶのが聞こえた。それほどの快挙なのである。
私の方は、さっぱり強いと思われていなかったのだ。

尚、私は「三宝」の「僧団」に関しては、現実の教団というよりは、霊団のようなものと認識している。
いざという時には、所縁(ゆかり)の善霊の方々が力を貸してくれるのかもしれない。
南無三・・・三にすがる。良い言葉である。








子供向けのものが最高傑作になる

アメリカ人のポール.J.マイヤーという人が開発したSMIという自己開発プログラムがある。
録音された朗読を聞く形式で、昔はアナログ・レコード、そして、テープ、CDと変化してきた。
かなり高価であり、有名な経営者が広く愛用していたし、今もしているのだと思う。
私の知人だった(故人)、私よりずっと年長の事業家も、SMIの愛用者だったが、ある時、面白いことがあった。
その事業家が、子供向けのSMIを購入したのであるが、彼は、「私はこれを聞き、他はもう何もいらないと思った」と言うのである。
つまり、大人向けのSMIより良いという意味と思う。

子供向けに作ったものが、予期せぬ傑作になることがある。
例えば、鈴木三重吉は『古事記』を子供向けにした『古事記物語』を1920年(大正9年)に出したが、これが今でもロングセラーを続け、大人にも愛読されている。
易しい言葉使いでありながら、気品がある素晴らしい文章であると思う。
また、『古事記』の冒頭の神の名や、イザナギ、イザナミが作った国々の名前は、重要ではあるが、それを延々と書かれると、そこで挫折する大人もいると思うが、この『古事記物語』では、そうならないよう配慮されている。
余計な部分を除いたことで、本質が見え易い。
何よりも、子供に対する細やかで親切な気遣いが、この『古事記物語』を素晴らしい傑作にしたのだと私は思う。

子供向けの場合、自ずと、高度な思考力を要求しない文章になるが、それにより、著者の方も余計な我の考えを持ち込まないことが、結果、自然に良いものになるのだと思う。
デカルトは『方法序説』を、12歳の子供でも理解出来るように書いたというが、おそらく、日本語の翻訳が難し過ぎるのだろう。すっかり難解になってしまい、本来の『方法序説』の良さを失ってしまっているのではないかと思う。
とはいえ、元が良いので、なるべく易しい訳のものを読めば得るものがあると思う。
(下に、英訳からの翻訳(元はフランス語)のものを紹介するが、これが分かり易くて良いと思う)
美少女は、元が良いので下手な化粧やお洒落をしても、やはり良いのと同じである(笑)。

時々、「せっかく良い本なのに、こんなに難しく書いては、読もうとしない人が多いし、読んでも誤解される」と思う本がある。
本当に賢い人は、分かり易く言ったり書いたりするものである。
もちろん、利益のために、中身のない・・・それどころか大嘘でありながら、面白くて分かり易い話をする者が多いのは確かにけしからんが、思いやりを持って易しい表現をすることは大切と思う。

ところで、真言という、唱えれば、災難を遠ざけ、幸運を引き寄せる言葉があるが、子供には、どんな真言を教えれば良いだろう?
私の愛用の阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」や、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」では、ちょっと覚え難いかもしれない。
「南無阿弥陀仏」は良いのだが、現代では葬式臭過ぎるし(笑)。
私は、子供の時、なぜか「ナムサン(南無三)」という言葉をよく使っていた。何かの漫画の影響かもしれない。
アニメの『一休さん』の一休もよく使っていたようだが、私は、それは知らない。
「南無三」とは、Wikipediaによれば、
「仏教で南無三宝(なむさんぽう)の略。三宝とは仏、法、僧のこと。咄嗟の危難に対して助けを乞うまじないとして使用されることもある。」
という意味らしいが、私は、そんな意味は全く知らなかった。
しかし、効果は抜群だったので愛用していたし、「これがあれば大丈夫」という心の支えにはなったと思う。
(梶原一騎氏原作の、キックボクサー沢村忠氏の伝記漫画『キック魂』で、沢村忠氏がよく「南無三」と言う)
「サムハラ」という言葉も霊験あらたかであるらしい。
「サムハラ」とは、「サンバラ」や「シャンバラ」という言葉から来ているとも言われるが、誰もよく分からないようだ。
また、やはり私が子供の時、私の一学年下で小学5年生の、今思えば天使のような美少女が、「アマテラス」という言葉を頭の中で言うのだと教えてくれたことがあるが、「俺には勿体なくて使えない」と思ったものである(笑)。








Never give up(決して屈するな)

残念ながら私には狩猟民族の知り合いはいないのだが、狩猟中の彼らと一緒にいたら、特異な能力に驚かされるのではないかと思う。
合気道の創始者、植芝盛平は、拳銃の名手6人を相手に、至近距離で、素手と拳銃の決闘をし、6人が銃を撃ったはずが、彼らを次々に投げ飛ばしたという、「いかにも作り話っぽい」話があるが、(あまり嘘をつきそうにないと思う)弟子の塩田剛三によれば、それは事実であると言う。
植芝盛平は、日頃から、「わしに弾は当たらん」と言っていたらしいが、ある狩猟家にもそんなことを言い、その狩猟家が「当たる」と言うので試すことになったが、狩猟家が撃つ直前になって、「お前のは当たる」と言って引いたという話を何かで読んだ。
大自然の中で命がけで生きる者には、文明人の想像外の特別な能力があるのだと思う。

一方、学校で、「勉強も運動も出来て友達いっぱい」という者が特異能力を発揮することはない。
そんなものがなくても快適に過ごせるからだ。特異能力とは所詮、必要が・・・それも、切羽詰った必要がなければ発現しない。
大成功する人間というのは、言葉で表現することが難しい特別な能力を持っていなければならない。学校で優等生の立場に甘んじていた者は、世の中でも、そこそこにはうまくやれるだろう。特に日本での場合でいうと、サラリーマンとして安泰で、しかも、ある程度は出世する可能性が高いが、特異な能力がないので、それ以上のことは出来ないのである。
学校に適応出来なかった者が皆、大成功する訳ではないが、目立たない存在ながら、密かに特異な能力を発揮している場合は多い。
そして私は、社会不適合者は、特異な能力を使って生き抜いて欲しいと思うのだ。特異な能力での戦い方は、まともなやり方ではないかもしれない。だが、かといって、不法、不道徳なやり方ではいけない。特に親愛なる引きこもり達は、その力を行使し、悠々と生きてもらいたいものである。
そして、社会不適合者の中には、学校時代から、特異能力を身に付け、実際に使用していた者もいると思う。その力は、魔法、超能力のようなものかもしれない、この世界を書き換える力である。
苦難の中にあっても、挫けず、勝利への執念を燃やせば、その力は発現する。

「南無三(なむさん)」という言葉がある。
私は、どこで覚えたのかよく分からないが、子供の時、いざという時は、この言葉を唱えて難を切り抜けた。
後で調べると、「南無三」の「三」は、「仏」「仏法」「僧」のことらしい。
だから、「南無三」とは、その3つに「帰依する」、つまり、完全に頼り切るという意味だ。
尚、この僧とは、お寺にいる普通のお坊さんとかでなく、高僧のことである。
また、3は、キリスト教でもだが、それよりずっと以前の、アリストテレスの時代からの神秘数、完全数だ。
もっと簡単に言えば、キリスト教では、最も貴い3つのもの、即ち、「父(神)」「子(キリスト)」「聖霊(純粋な魂)」のことで、ギリシャ哲学では「完全」を意味する。
しかし、それは、どうでも良いと言うのではないが、「三」が最高に力あるものを指すことが分かれば良く、「南無三」が、「完全なる力を信頼して頼る」ための言葉と思うなら、その力が味方してくれるのである。

少しでも科学的に言えば、その特異な力は、右脳によるものだ。
コリン・ウィルソンは、『右脳の冒険』で、彼の子供の時の体験から、右脳の力を発揮するには、左脳、つまり、理性が「しゃんと」しなければならないと述べている。
さっきも言ったが、それは、苦しい状況の中で弱音を吐かず、屈せずに、諦めないことである。
そのために、「三」の神秘で無敵な力に守られていると思い込むことが助けになると思う。
尚、1960年代から1970年代のキックボクシングの王者、沢村忠さんの伝記漫画『キック魂(ガッツ)』で、沢村さんが気合いを入れる時に「南無三」と唱える場面があって面白かった。
あんな凄い人だって神仏に頼るのである。
まあ、話の半分以上は梶原一騎さん創作のスポ根漫画であるが、嘘の中にも真理はあるものだ。








「南無三」という言葉の使い方

今は使う人はあまりいないかもしれないが、失敗した時や、困った時、あるいは、驚いた時に「ああ!」程度の意味で「ナムサン(南無三)」と言う人がいる。
南無三とは、南無三宝の略で、三宝とは、仏、法(仏の教え)、僧(仏の教えを広める者)である。
南無は、「帰依する」「帰命する」で、ちょっと難しいが、完全に信じ敬うとか、命をかけて従う・・・つまり、絶対的に服従するという意味と思って良いと思う。
これがなぜか、「ああ!」「なんてこったい」「しまった」「大変だ」という使われ方をするようになったのである。

また、一般的ではないかもしれないが、ここ一番の大勝負の前などで、覚悟を決める時に、「南無三」という言葉を、心を高揚させ勇気を奮い起こす言葉として使う人もいるらしいが、むしろ、こっちの方が合っているような気もする。

三は洋の東西を問わず、貴い神秘な数字である。
古代ギリシャ人なら、ゼウス、アテーナー、アポローンの3神が三宝だ。
日本には、珠、鏡、剣という三種の神器がある。
アリストテレスは、「2は両方とは言うが全部といは言わない。3になって初めて全部という」と延べ、3が完全数であることを説明した。

谷川流さんの小説『涼宮ハルヒ』シリーズで、主人公のキョン(高校1年生男子。途中で2年生になる)の口癖が「やれやれ」だった。
この「やれやれ」が、現代的な「南無三」をよく表しているように感じるのである。
好ましい状況でない中で、あきらめ気分でキョンは「やれやれ」と言うのだが、積極的に反発せずに、なりゆきにまかせるという感じがよく出ているが、これによってキョンは大した大物なのではないかと思う。
悪いことがあっても「やれやれ」で流してしまう。
こんなことができる者が大したやつでないはずがない。
本当の凡人なら、自分の都合の良いようになるように足掻いたり、少なくとも願うものである。
しかし、キョンはあるがままを受け入れている。
やはり、只者ではない。
だからこそ、ハルヒという神のごとき少女に愛されもするのかもしれないが。
ところで、キョンの「やれやれ」は、「移ったもの」であるらしい。
キョンは中学3年生の時、佐々木という名の、クラスメイトで、かなり個性的だが、相当な美少女と親しくしていた。
自転車の二人乗りで帰宅し、そのまま一緒に塾に行き、星を眺めながら一緒に帰る・・・聞くだけなら実に羨ましい話のようだが、なぜかキョンには佐々木が女に見えなかった。
それで、塾に行く途中で夏の夕立に遭い、一緒に雨宿りをしている時に、佐々木を見ていると、佐々木は、「君は時々忘れるようだが、自分だって一応女だ。こんな(濡れて制服がスケスケになっている)時にしげしげ見るもんじゃない」と反発するようなことになる。
だが、その後で、佐々木が、
「僕の貧相な胸部なんてマジマジと見たところで益にはならないだろう?岡本さんのならまだしもさ。まったく、本当にやれやれだよ。この雨に対しても、僕自身にもね」
と言ったところに、乙女心が現れているような感じだが、この「やれやれ」がキョンに移ったようなのだ。
佐々木は自分を「僕」と呼ぶ・・・というより、彼女は男子相手には男言葉を使う。
そして、彼女は胸が小さめで、クラス委員長である女子の岡本さんのは大きく見ごたえがある。それが彼女に微妙な感情を持たせるのだろう。
ところで、その後の描写が、さすが人気作家という感じだった。
だいたいのところで言うと、キョンが「完璧に遅刻だ」と言うと、佐々木は「ああ」と生返事をしながら、雨雲で翳った空をなぜかまぶしそうに見ていた。
その前髪から、雨が一粒滴り落ちる。
それを見たキョンは、その日、学校のプールでの授業で、水から上がってきたばかりの佐々木の姿がオーバーラップした。
その時、佐々木が「何か?」と言い、彼女が横目で見ていることに気付く。
キョンはなぜか慌ててしまい、思わず、「やれやれ」と言う。
移った佐々木の言葉の第1回目の使用が、その本人に対してだとは、キョンも義理堅い。
素晴らしい文章だったのだが、このお話は、『涼宮ハルヒの驚愕』の初回限定版の付録の小冊子に載っていたものだ。
カラーで描かれていた、いとうのいぢさんの、雨に濡れた佐々木さんの絵は「狙い通り」だろうが、なかなかのものだった。
勿体無いものである。
面白いからというより、キョンの大物振りを学べないという意味においてね。

あなたは、自分にとっての南無三を見つけるべきである。
仏教では、ギリシャ神話では、古事記では・・・ではなく、自分で決めるのだ。
だが、三はいつか一になる。
「南無阿弥陀仏」なら、最初から1つだ。
そして、その1つと自分の2つが融合し、本当の1になる。

ひとりとふたりで
みっつでひとつ(トリニティ)
イニシエーション
イニシャライゼーション
~『イニシエーション』(詩:東浩紀、音楽:渋谷慶一郎、歌:初音ミク)より~









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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