ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

南から来た用心棒

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

自分に名を付ける秘法

少しは知られていることだが、小説や映画や、あるいは、漫画やアニメで、それがごく娯楽的なものであろうと、その国の神話や伝承に秘められた何かが、意図的、あるいは、偶然に引用されていることがある。
キリスト教圏の作品には、聖書や、旧約聖書の深い解釈であるタルムードの知恵が、さりげなく表されていることがあり、聖書やタルムードを読まなくても・・・いや、むしろそれらを読むより容易に、その英知を得る者もいる。
例えば、イーロン・マスクは、少年時代に『銀河ヒッチハイクガイド』というSF小説を読み、そこから何かを得て人類を救う決意をするが、その小説の中にも、やはりタルムードの英知が込められていたのである。

ジュリアーノ・ジェンマ主演で成功を収めた、1966年のマカロニウエスタン(イタリア西部劇)『南から来た用心棒(原題:Arizona Colt)』は、旧約聖書の創世記32章と共に読むと面白い。
この『南から来た用心棒』の中で、高額な賞金をかけられた悪党ゴルドーが率いる数十名の盗賊集団の前に、恐れもせず颯爽と立った若いガンマンは、ゴルドーに名を問われると、こう答える。
「この銃と、この砂漠の大地が俺の名だ。コルト(コルト社の拳銃)、アリゾナ・コルト!」
つまり、彼は、自分の名は「アリゾナ・コルト」だと言うのだ。
もちろん、親が付けた戸籍上の名であるはずがない。
しかし、彼は、この名で生きていた。

旧約聖書の創世記32章に、こんな話がある。
大勢のしもべを伴って旅をしていたヤコブは、宿営地で1人でいると、何者かが彼に格闘を挑み、彼らは夜明けまで戦った。
この格闘の場面は、レンブラント、ドレ、ドラクロワといった、そうそうたる画家達が名画で現した、聖書の中でも特筆すべきハイライトと言える。
【リンク Wikipedia】天使とヤコブの闘い
人間であるヤコブが強い天使に負けなかった。
天使は、ヤコブに名を問うた。
ヤコブは「ヤコブです」と答えた。
すると天使は、
「あなたの名はもうヤコブではない。イスラエルと名乗りなさい」
と言った。

アリゾナ・コルトの名も、この聖書の話を元にしたものだろう。
名前ほど重要なものはないのに、誰もそのことを顧みない。
顧みないように、知恵を奪われたからだ。
我々は、自分の名前の通りのものになる。
そんな重要な秘法を、一般人は知らないようにさせられた。
自分で自分に、2つ目、3つ目(あるいはもっと多く)の名を付けなさい。
『古事記』には、大国主命は沢山の名を持っていることが記されている。
彼は、それほど多くの力を持つ神なのだ。
金持ちになりたければ「金持ち」「富豪」という名を付けなさい。
美しくなりたければ、「美男」「美女」といった名を付けなさい。
もちろん、それらを意味する、自分好みの名を付ければ良いのである。








戦いを決める3つの武器

「状況は不利です」
と報告する者は、物質的な現状を見てそう言うのだろう。
戦争では、敵の戦力が自軍よりずっと多いとか、敵が優れた兵器を持っているような時。
ビジネスでは、競合相手の製品が自社の製品より優れているとか、敵が共通の売り込み先に対し有力な社会関係や人間関係を持っている時等だ。
スポーツの場合は、両チームの戦力を分析すれば、見る目を持った者同士では、そう意見が食い違うことはない。
だが、心的な面の報告が為されることはない。
そして、多くの場合、その目に見える状況分析の結果通りになる。
特に近年では、あらゆることにおいて、状況分析の技法が発達したのと、目に見えるもの以外は存在しないという考え方が蔓延しているために、予想が裏切られるということが、ますます少なくなってきている。

昨年(2013年)10月、交通事故で亡くなったイタリアの大俳優、ジュリアーノ・ジェンマの1966年の主演映画『南から来た用心棒(原題:アリゾナ・コルト』で、こんな場面がある。
無法者の集団に銀行を襲撃され、金を奪われた上、保安官はじめ多くの住民を殺された街で、酒場の支配人は、無法者達の中に、娘のドロレスを殺した男がいることを知るが、どうにもできない。
そこで、流れ者のガンマン、アリゾナ・コルトは、支配人の男に、自分が、ドロレスを殺した男を捕まえてくると言い、そのための報酬を要求する。
アリゾナ・コルトは5,000ドルを要求するが、支配人は、自分には500ドルが限度で、他に金を出せる者もいないと言う。
そこで、アリゾナ・コルトは、ドロレスの妹のジェーンを一夜だけ自由にさせてもらえるなら500ドルで引き受けるという条件を出す。
支配人は断るが、アリゾナ・コルトを毛嫌いしているはずのジェーンが要求を呑んだ。
商談成立となり、アリゾナ・コルトはさっそうと出て行くが、彼に勝ち目はなかった。
つまり、「状況は極めて不利」である。

だが、目には見えないものがこの世にはある。
それは、意思の力だ。
戦いは、物質的なものだけでは決まらない。
物質的なものがどうでも良いと言うのではないが、それは二次的なものだ。
状況を創り出せる意思の力を持った方が勝つ。
このような映画は、娯楽作品ではありながら、その方法を暗示させるものである。
アリゾナ・コルトは、「怖い」ことは認めていた。
自信があるわけではないが、自分が勝つことが当然のように振る舞い、話し、笑った。
ジェーンという大きな報酬で心を燃やした。
だが、結果に執着せず、所詮、なるようにしかならないことを認めていたのだろう。

現実よりも態度の方が重要である。
あなたは、勝つのが当然というふうに振舞わなければならない。
そして、熱意を持たねばならないし、熱意がないなら、最初からやってはならない。
熱意を燃やすための報酬を作る必要もあるかもしれない。
だが、結果は神にまかせて執着せず、熱意は内に秘めるのだ。
これらが、状況を創り出す意思の力になる。
まとめて言うなら、(1)態度、(2)秘めた熱意、(3)無執着-である。









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苦難こそ、かけがえのない友

小椋桂さん作詞作曲の歌『また旅支度』は、このタイトルだけでも味わい深い想いがするが、この歌の最後の部分、「どこにあるのか 安らぎの場所 なぜ また旅支度」というところが、極めて印象的だ。
旅は辛く苦しいものであるが、やめられないものであるらしい。

西部劇『南から来た用心棒』(原題:アリゾナ・コルト)で、流れ者のギャンブラーで銃も凄腕のアリゾナ・コルトは、ある街で英雄となり、心惹かれた美女にも慕われるが、最後は未練なく馬で旅立つ。
アニメ『エル・カザド』で、苦難の旅を続けてきた2人の少女、ナディとエリスは、ある老夫婦に出会い、しばらく彼らの家にいる間、老夫婦は彼女達を実の娘のように優しくしてくれた。そして、老夫婦は少女達がずっとここにいること、つまり、本当の娘になってくれることを願い、彼女達も、それを楽しいことのように感じたが、やはり、旅立ってしまう。そして、老夫婦も、それが仕方がないことだと理解していたようだ。
時代劇小説『木枯し紋次郎』および、その続編の『帰ってきた紋次郎』シリーズの全21冊の中で、一生、旅をするしかない定めの紋次郎も、3度、安住の地を見つけたことがあり、それは、紋次郎にとって、奇跡的なほど快適で幸福に思える場所だった。
紋次郎自身、そこに居続けたいと感じてはいたのだが、やはりいつも最後は旅立ってしまう。
その時の紋次郎は鳥かごから出た野生の鳥のようで、読んでいる方も、安住する紋次郎は紋次郎でないと感じるはずである。

これらは、創作作品であるとはいえ、そういったところが極めて自然で、それが本当のことであるとはっきりと感じるのである。
それを、最初に挙げた、小椋桂さんの『また旅支度』の歌が見事に描いている。

なにかのハードボイルドな漫画で見たことがあるが、ある裕福な家のお嬢さんが、苦闘の人生を生きる男を見て、「人間は安定を求めた時に生きるのをやめるのですね」と確信して語る場面を覚えている。読んだのは子供の時だったし、たまたま見た古い雑誌に載っていたもので、ストーリーなんてさっぱり分からないながら、そのセリフだけを印象深く覚えているのだ。

旅は、観光ではないのだから、楽しいことはあまりなく、むしろ、苦しいことの方が多い。
周りは知らない人ばかりだし、彼らがどんな人間か分からず、好意を持たれていない場合も多い。
そもそも、安住している人々はよそ者を嫌う。
その土地のどこに何があるか知らないし、食料など、生活必需品がうまく手に入らないことも珍しくはない(昔であれば極めて困難だ)。
不便な地で途方に暮れることもあるし、争いになれば、有利なことなんてまずない。
それでも、旅の味を覚えれば、やめられないものに違いない。

人間は、安楽であれば、肛門が開いていく。
苦難、危険があれば、生きるために、無意識に肛門を締める。
ヨガの大家達は、若さとは肛門の締める力が強いことに他ならないと言う。
肛門を締める頻度が高いほど、エネルギーを得て、若くなり、強くなる。
それを、意識せずにやれるのが旅なのだろう。

多くの人は旅をしていない。
だが、苦しいことが多い人生ほど、旅に似て来る。
そもそも、人生は旅であるのらしい。
有名な歌をネタにしたある歌に、「人生は川じゃない、沼だ」というのがあったが、安住すれば、沼になるのだ。
苦しいことでもなければ、肛門を締める修行もなかなか出来ないものだ。
だが、常に肛門が締まるようになれば、腹に気が満ち、いかなる苦難にも打ち勝つ力が出来ている。
そうなれば、むしろ、苦難がないと退屈でつまらない。
生きるのをやめないため、自然の気と交流するため、力をつけて喜ぶため、未知の冒険に嬉々として挑む自分であることを試すため、苦難こそ友なのである。

SFテレビドラマ『Xファイル』で、FBI長官がこんなことを言う。
「友は身近に。しかし、敵はもっと身近に置くものだよ」
敵こそ、真の友である。
心(小我)にとって敵である苦難こそ、純粋な心(大我)にとって、かけがえのない友である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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