ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

加島祥造

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

良い役者はどんな悲劇を演じていても陽気なのだ

学芸会などの劇で、悲しい役を演じながら、つい、自分が泣いてしまったことがあるだろうか?
それで仕方がないと思うなら、夢々、役者になろうなどと思わないことだ。
主役を自覚する役者は、そんなことは決してない。

人生は劇と同じだ。
劇であるからには、筋書きは最初から最後まで全部決まっている。
劇の途中でシナリオが変わることは決してない。
しかし、主役に相応しい人間は、決して自分が泣いたりしないのだ。

『ハムレット』や『リヤ王』は悲劇だ。
だが、ハムレットやリヤを演じながら泣き出した役者なんていない。
「20世紀最大の詩人」と呼ばれ、劇作家でもあったW.B.イェイツは、『ラピス・ラズリ』という詩で、
「主役を演じる役者というのは、ハムレットもリヤも陽気だということを知っている」
と述べている。
ところで、直訳すればこの通りなのだが、英文学者で詩人で画家で、そしてタオイスト(老荘思想家)の加島祥造は、この部分を、
「ハムレットやリヤ王は悲劇だが、それを書いた作者や演じる役者は陽気な存在なのだ」
と訳した。
原文は、
They know that Hamlet and Lear are gay.
だから、中学生でも(あるいは中学生なら)、加島氏の訳は変だと思うだろう。
ただ、この部分は、詩の全文を見ないと分からないということもある。
そして、このgay(陽気)という言葉が実に難しい。この言葉を持ってきたのはイェイツの失敗と考えた研究家もいる。
だが、加島氏は、このgayを表面的な陽気さではなく、どんな悲劇の中にいても自分を失わない晴朗さであり、冷静な明るさなのだと言う。
加島氏の『ラピス・ラズリ』の訳と、それに関するエッセイが収められた『最後のロマン主義者』は、なんともはや凄い本だと思う。
この本で、老人になっても、素晴らしい美少女を口説くイェイツの、冴え渡る殺し文句を確認したまえ。

我々の人生のシナリオを書いた神が陽気なら、演じる我々も陽気でなければならない。
すると、悲劇はどこにもないのだ。
イェイツも、この詩の中で、「陽気さが全てを変容する」と述べている。
シェイクスピアは陽気だった。ハムレットを演じる名優も陽気なのである。









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授業時間と教師の給料を半分にすれば日本の教育は良くなる

かなり多くの大学生が、基礎的な算数を理解していないとか、大人になっても基本的な日本語が使えないという深刻な事態であるらしい。
しかし、もっと深刻なことは、これを解消するために、授業時間を増やして学力向上を計るという、漫才のネタにするにも馬鹿過ぎることを本当にやる、国の教育屋の愚かさだ。
「二兎追う者は一兎も得ず」という言葉があるが、今の学校は「百兎追う者は一兎も得ず」の状態だということは言うまでも無い。
教師の雇用を守るために、狂気とも言える膨大なカリキュラムを子供に課し、生徒は何も身に付かないというのが真の問題だということは、当たり前過ぎて、いちいち言うほどのことでもない。
日本人の学力を向上させたければ、まず、授業時間は半分、教師の給料も半分にすることだ。これは冗談でも何でもない。単に自然的、合理的なことだ。
また、教師に免許などいらない。やりたい者にやらせればいい。勉強そのものは、上級生が下級生に教えればいい。それで、双方が本当の勉強が出来るだろう。

私は、上に述べたことを、出来る範囲でだが自分で実際にやった。
中学2年生で授業に参加することをやめた。聞いてもさっぱり分からないし、心の奥深くの感覚として、聞くべきでないと感じたのだ。
岡本太郎は、授業中、耳を堅く両手で塞ぎ、神聖な頭脳に教師の汚れた声が入ってくることを赦さなかったというが、気持ちが分かるのである。
とはいえ、勉強が不要とは思っていなかったので、学校のカリキュラムを一応は利用したが、勉強する科目は自分で選んだ。選択したのは、数学、理科、英語だった。全て、参考書で独学した。試験で点数を取ることは問題ではなく、基礎を本当に理解することを目指した。
勉強することにした科目は、そこそこの成績だったが、その他の科目は教科書も一切開かず、ノートの提出も、夏休みの宿題も一切やらなかった。すると、学校からの陰湿な嫌がらせから始まり、果ては、中学生の身には耐え難い恐ろしい目に遭わされたが耐えた。ただ、精神に破綻をきたす可能性があるので(私も実際は破綻したのだろう)、他の方にはお薦めしない。学校と言うのは、子供の心や頭脳を破壊することなど、何とも思っていない。
アインシュタインは、暗記科目が苦手だったので大学の入試に失敗したように言われるが、それは違う。彼の記憶力は悪くない。ただ、彼は、頭に詰め込むべきでないことを無理に憶えることを拒否しただけだ。彼もまた、学校には相当嫌な目に遭わされたらしく、自伝ノートに、学校は子供の知的好奇心を窒息させようとしていると書いている。

しかし、甲斐あって、私は、基礎的な学力は十分に得たと思う。
大した勉強はしなかったが、本当の基礎をマスターしたこと、そして、独学の習慣を得たことは最大の成果だった。
例えば、数学の能力が必要になれば、数学者の遠山啓さんが翻訳執筆した『科学を志す人のための基礎数学 』で少し勉強すれば、すぐに必要を満たせた。

現在は大女優になったジョディ・フォスターが13歳の時に主演した『白い家の少女』という映画がある。物語は、リンという少女の14歳に誕生日から始まる。私の誕生日と同じ、10月の31日だった。彼女は、学校に通ってなかった。自分の意志で学校を拒否したのだ。そのことで、大人達は彼女を責めたり不快な思いをさせるが、彼女には戦う覚悟があった。
その彼女に、マリオという16歳のボーイフレンドができる。マリオは、自分の母親とは比較にならないくらい料理が上手なリンに驚くが、リンは笑って言う。「私、文字が読めるのよ」。
リンには素晴らしい知性と教養があった。学ぶべきことは自分で選んで決め、熱心に勉強していた。著名な詩人であった父親は彼女にかつて言った。「大人は個性的なお前を認めないだろう。だが、言いなりになってはならない。戦うのだ」と。
私は、この『白い家の少女』の原作小説も読んだ。高校生の時だった。ところが、割と最近気付いたのだが、翻訳者は英文学者で詩人、そして、画家でもある加島祥造さんだ。そして、加島祥造さんはタオイスト(老荘思想家)で、老子や荘子の本も沢山書いている。私は、それが加島祥造さんだとは知らず、彼が書いた『白い家の少女』のあとがきが素晴らしかったことを覚えている。世間の教義や信念に屈せず、純粋な自己の内面を尊重する精神を持ったイギリスの15歳の普通の少女の詩を紹介していたように思う。









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世の中から隠れ住む少女の悲劇

アメリカの大女優ジョディ・フォスターが日本で有名になったのは、彼女が14歳の時(撮影時は13歳と思う)の主演映画『白い家の少女』(原題:The Little Girl Who Lives Down the Lane)によってだと思う。
ジョディは、その頃には、既に多くの映画で主役級で出演し、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の候補になり、天才子役と言われた美少女女優だった。
当時、『ダウンタウン物語』や『タクシードライバー』といった英国映画に出演していたし、『白い家の少女』でも、イギリス出身の少女リンを演じたことから、私は、なんとなく、ジョディがイギリス人だと思っていたが、アメリカ人であり、女優業の側ら、アメリカの名門イェール大学を優秀な成績で卒業している。

『白い家の少女』の映画の脚本は、原作小説の著者レアード・コーニグ自身が行っている。
実は、コーニグにとって、この小説は2つ目のもので、単独著書で出版したのは初めてだった(1冊目は共著)。
コーニグはアメリカ人だが、当時から、1年を半年ずつ、サンフランシスコとロンドンで過ごしていたというから、かなりのイギリス好きで、イギリス人の少女リンの描写も実にサマになっていたのではないかと思う。

ところで、私は、1977年出版の『白い家の少女』の小説を持っているが、翻訳が加島祥造さんであるとは、昨日まで気が付かなかった。
加島祥造さんは、翻訳家であると共に、詩人、エッセイスト、画家で、また、タオイスト(老荘思想家)として知られ、老子や荘子の著書も多い。ただ、『白い家の少女』の翻訳を書いた頃は、専ら翻訳家であった。加島さんが、自分自身の著書を出すのは60代以降だ。『白い家の少女』の時は、まだ加島さんは54歳くらいだった。
そして、加島さんは、この小説の翻訳に実に相応しかった。主人公の少女リンは、偉大な詩人である父を持ち、エミリー・ディキンスンの詩を全て暗誦し、自分がディキンソンと似ていると感じていた。いわば、芸術的な才能を持った少女で、彼女が暗誦したり、朗読するディキンソンの詩も書くのであるから、英文学者で詩人である加島さんの翻訳は、やはり素晴らしいものだったと思う。

極めて利発であるだけでなく、この世の神聖な真理を求める高貴な精神性を持つリンを演じることが出来る少女女優も、ジョディをおいて他にいなかっただろう。
日本のように、アイドル女優を起用したら、なんとも間抜けな作品になってしまっただろうが、ジョディの演技は素晴らしく、特に、ラストの数分、アップになった表情だけを延々と見せるジョディの演技は圧巻であったと思う。

リンは学校には通っていない。リンの父親は、リンに「大人は個性的なお前を認めない」と言ったが、全くその通りだろう。
リンも、世間を毛嫌いしているようだ。もし、学校に行ったとしたら、リンはさぞ憂鬱な時間を過ごすことになったことだろう。
岡本太郎が、小学校での授業中、両手で耳を堅く塞ぎ、神聖な自分の頭脳に、汚らわしい教師の教えが入り込むことを拒否したという話を思い出す。
だが、吉本隆明さんが『ひきこもれ』で書いていたことも思い出す。それでも、学校に行った方が良い。学校や教師は、たしかにろくでもないものだろう。だが、世の中は、ほとんどが、やはり不条理に満ちたものであり、学校は、そんな馬鹿げた場所で生きる最適な訓練だと考えるべきなのだ。
現実的なことを言うなら、吉本隆明さんの言うとおりである。世間に本当に勝つためには、これから逃げず、これを打ち負かす力を持つべきなのだ。
リンの父親は、リンを愛していたが、リンの内にある、真の英知を信じるべきだった。我々もまた、自己の内に潜む、至高の存在を信じるべきなのだ。
この小説の原題、The Little Girl Who Lives Down the Laneはちょっと面白いものだ。「通りから離れて住んでいる少女」の「通り」は世俗のことのように思う。離れるのは良い。しかし、嫌悪したり、隠遁してはならないのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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