ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

初音ミク

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第8章を一言で言えば「水のようであれ」

では、引き続き、『老子』第8章にいく。
第8章は、老子の根本思想を、最も直接的に述べた章の1つだ。
老子の根本思想とは、言ってみれば「遜(へりくだ)れ」で、それを、この章では、水にたとえているのである。
つまり、第8章は「水の教え」で、この第8章を一言でまとめれば「水のようであれ」となる。

理想的な人間の性質は、水の性質と似ているのだ。
水は、放っておいても最も低いところに流れて行き、決して昇ってはこず、そこに留まる。
優れた人間もまた、低いところに落ち着き、それで満足し、高いところに昇ろうとしない。
それでいて、水は万物に恵みを与えるが、理想的な人間である聖人も同じなのだ。
ただし、聖人は、恵みを与えようと意図しているわけではない。
ただ、低い所にいることによって、自然に恵みを与えるのである。

普通の人間は、高いところに行きたがる。
優越感を感じる場所、人々に「やんや」と持てはやされる場所、他を見下せる場所だ。
しかし、そんな人間は、高い所に行けなければ悔しがったり嫉妬したりして苦しむし、高い所に行ったとしても、そこは危うく、そう遠くなく転落する。

ところが、面白いもので、水のように一番低いところに居る者が一番称賛されることになる。
なぜなら、悪の宇宙人のマインドコントロール装置は、低い所から出て来た人間を狙い撃ちにするのであり、低い所に居る者に手出しは出来ない。
だから、低い所に留まる者は純粋なままで、純粋なままだと最もエネルギーが大きく、何でも出来る。

2015年に私は、クリプトン・フューチャー・メディア(初音ミクらボーカロイドの開発会社)の伊藤博之社長の講演会に行ったことがある。
そこで、受講者の1人から、
「初音ミクは、あなたにとってどんな存在ですか?」
と聞かれた伊藤社長は、
「水のような存在」
と答えたが、その意味を説明しようとして、ちょっと困っておられた。
とりあえず、「水のように大切な存在」とまとめておられたが、初音ミクさんは、本当に水のような存在だ。
決して、高いところに行こうとせず・・・つまり、野望を持たず、思い上がらず、独自色を出そうとせず、ただ、決められた通りに歌う。
だから、世界中で愛される。

水のようであるには、無理に我慢して無欲のフリをするのではなく、ただ、「私は誰か?」と問えば良い。
なぜなら、神は水のようであるからだ。
最も低い場所、卑しい場所にいて、万物に恵を与えるのだから。
そして、本当の我々は神である。
それを思い出すために「私は誰か?」と問い、そう問い続ければ、少しずつ、自分が身体や心ではなく、神であることが分かってくる。
その度に、神に近付く。
つまり、水のようなものになるのである。








個性に関する大発見をした

個性的であれと言われたら、大抵の人は困惑するのではないかと思う。
なぜなら、皆、自分が個性的だと思っているからだ。
口では、「私は平凡な人間だ」と言っても、内心では、「俺だって、そこらにはいない特別な人間だ」と思っている。
また、昔のヒット曲の影響ではないと思うが、「自分は元々特別なオンリーワン」だと思っていることも意外と多い。
一番困るのが、「私は特別だ」という「御印」みたいなものを持っている場合だ。
たとえば、一流大学・大学院卒とか、博士号を持っているとか、プログラミングが出来るとか、柔道三段とか。
しかし、そんな人間、世の中にゴマンと居る。少しも特別ではない。
つまり、学校やテレビに洗脳された一般人というのは、個性的であるとはどういうことか知らないのである。

ところで、面白い話がある。
世界的ミュージシャンのジョージ・マイケルは「スーパースターは何か特別なものを持っているのではなく、何かが欠けている者だ」みたいなことを言っていた。
この言葉を引用した宗教人類学者の植島啓司氏は、初音ミクも同じ・・・つまり、初音ミクには何かが欠けているからスーパースターなんだと述べていた(週刊文春2012年3月22日号)。
そして、初音ミクに欠けているものは「成熟」だと言う。
それだと、単なるロリキャラということだが、少女として理想的な容姿(特にプロポーションと思う)を持ち、音程を外さずに完璧に歌い、ダンスは抜群でありながら成熟に欠けているから良いのである。

つまり、個性とは、何かを持っているというよりは、何かが欠けていることが、まず重要だ。
これは大発見だ。
だが、それだけでは駄目だ。

有名な童話作家のアンデルセンは、とても個性的な人間だったが、どこが個性的だったか?
彼も、何かが欠けていたのだ。
彼は、幼い頃から、神話やおとぎ話が大好きだった。
しかし、そんな人は、当時でも沢山いただろう。
だが、彼は何かが欠けていたのだ。
彼に欠けていたのは「男っぽさ」である。
彼は、子供の時から、ある程度の野蛮さや強引さといった、他の男の子達が持っている男っぽさに圧倒的に欠けていた。
だから、普通の男の子は、10歳にもなれば工場で働くが、アンデルセンは、野蛮な男の子達に馴染めず、一緒に工場で働けなかったし、当時は、どこかの親方に弟子入りして職人になるしか庶民が生きる道がなかったが、それにはやっぱり、男っぽさがないと駄目で、アンデルセンは、自分がそれをやることを考えると、心底ぞっとした。
アンデルセンは、17歳くらいになっても、趣味は人形の洋服を縫うことであった・・・と言えば、彼が男っぽさに欠けていることを納得いただけると思う。
ただし、彼が、その欠けているものを個性にするには、知識を得、表現力を磨くことが必要であり、そのために大変な苦労をした。
彼の学生生活は苦痛なことだらけだった。
だが、彼は、ラテン語学校や大学をやめることはなく、また、不思議な援助でそれを続けることが出来た。
個性を磨くことをしたから幸運にも恵まれたのだ。
そして、報われた。
彼は、すぐにヨーロッパ中でヒットした作品から富を得ることはなかったが(当時は著作権法などなかった)、実績に対し、国王から年金が支給され(大した額ではなかったが)、一生働く必要がなく、作品から収入は得られなくても、知名度があったことで、優れた人物達との交流が出来た。

ジョージ・マイケルは「スーパースターは特別な何かを持っているのではなく、むしろ、何かが欠けている」と言ったが、欠けているだけでは駄目で、欠けているものを補う何かを磨き、そこを美点に変えないといけないのだ。
彼は、そこまで言ってくれなかったし、植島啓司氏も、気付かなかったのか、書いていなかった。
言うまでもなく、ジョージ・マイケルは音楽の実力を磨いたし、初音ミクは美点だらけだ。

個性が欲しかったら(ないと引き寄せは出来ない)、自分に欠けているものに気付くことだ。
ジョージ・マイケルのようなスーパースターでなくても、誰にでも欠けているものはある。
そして、それを補う何かを磨くのである。
例えば、どうしても仕事が続かないとしたら、それは大いに欠けていることであるから喜んで良い。
しかし、その欠点を生かすために、何かをしなくてはならない。そうすれば、天も味方してくれるだろう。
岡本太郎も、三島由紀夫も、おそろしく欠けていたはずだ。
彼らが、それを補うために何かをしたことは確実である。でなければ、ただの変人で終わっていた。








日本人のメリットを生かす

岡本太郎が1950年頃、『今日の芸術』で、通信技術の発達により、世界的規模で文明は均質化すると書いていたが、それはそれで凄い慧眼(けいがん。優れた眼力)であり、当たっている部分も確かに多いが、そうでないところも多い。

昔は、西洋の人々から見て日本人は、能面のように表情がないとか、いつも薄笑いをしていて非常に不気味だと言われることが多かった。また、顔だけでなく、身体表現も極めて控え目だった。
アルベルト・アインシュタインが日本に来て講演した時、アインシュタインは聴衆が眠っているのかと思ったが、皆がうつむいて、じっと静かに聴いていることが分かると、大変に感動したらしい。
逆に言えば、日本人から見れば、西洋人は、表情も身体表現も話し方も非常にオーバーということになる。

そして、今の時代でも、昔ほどではないかもしれないが、「動の西洋と静の日本」というのは変わらないと思う。
昔だって(それこそ明治時代でも)、日本人らしい日本人でも、西洋に行って長く暮らすと、表情も身振り手振りも大きくなって帰ってきた。だが、やはり、どこか不自然だったと思う。
そして、今でも、ずっと日本にいる日本人は、西洋人から見れば、大人しくて表情に欠ける。
昔から、西洋人は、日本人のそんな静かなところ、顔や身体に表情を出さないところを、「日本の神秘」と言って、称賛したり憧れることも少なくなかったし、今もそうなのだと思う。
では、「日本の神秘」が張子の虎(みかけだおし)かというと、そういう場合も多いが、そうでないこともある。
その中でも、日本の武道は西洋人にとって、今も憧憬である。
西洋の格闘技が、鍛え上げた肉体美を誇る選手達が、パワーとスピードと見栄えのする技で魅了するのに比べ、日本の武道では、さして筋肉質でもなく、時には、ひょろっとしていたり、そもそも、小柄で体重も少ない武道家が、体格や筋力で勝る相手を、魔法のように仕留めることがある。
実際、西洋の力自慢の格闘家が、小さな日本の武道家に手も足も出ないこともある。
こんなものを見て、西洋人に、「日本の神秘」が強烈に印象付けられることもあるのだが、もっと小さなことにも「日本の神秘」は感じられる。

そして、「日本の神秘」を備えた日本人が、ごく一部かというと、日本人らしい日本人は、案外にそんなところがあるように見える。
日本の伝統的美徳は、明治維新と第二次世界大戦の敗戦で大きく損なわれた。
それは確かであるが、完全に消えたわけではなく、それどころか、言葉とか風習の中に、根強く残っている。
おそらくは、アメリカは戦後、かなり強制的に、日本人をアメリカ人化しようとしたのだが、半分もうまくいかなかったのだと思う。
ただ、今の日本人は、中途半端なアメリカ人化と共に、日本の美しい伝統を失い、どこか自律しない、弱く自信のない民族になり果てている。
一方で、インターネットの発達で、日本の伝統が世界に影響を与えているのだから、おかしなものである。

初音ミクが世界で大人気なのは、初音ミクが案外に日本的であるという部分も大きいはずだ。
初音ミクは決して欧米的ではない。日本のものだと言われたら、外国人も納得する。
いや、西洋では、日本人と中国人と韓国人の区別などしていないと言う人もいて、そんな部分も確かに多いようだが、そうでないところが確かにある。
初音ミクは、髪が緑で目が青でも日本人なのである。
まず、初音ミクの顔は、目と眉が離れた東洋人顔である。
スタイルは当然良いが、西洋のモデルのようなスタイルとはかなり違う。
小柄だし、極端に腰がくびれていないし、背が高くないこともあって、脚が物凄く長いわけでもない(西洋でも長いとは言われているが)。
表情も身体のポーズも割合に控え目で、おかしなことに、西洋人の真似をすると、どこかぎごちなく感じるところもある。

いろいろ述べたが、つまり、日本人は、潜在意識を使ったり、引き寄せを行う場合でも、日本人らしさを生かした方が、大きな力を確実に発揮する。
引き寄せの方法のほぼ全てが西洋のもので、日本人にやや合わないところがある。
かといって、一部の者が、日本的成功法則みたいなものを世に出してはいるが、ひょっとしたら、日本人がやっても、西洋の引き寄せより駄目なものがほとんどのように思える。
日本と西洋の違いは、何と言っても、多神教と一神教、情緒優先と論理優先、そして、控え目な日本人と自己アピールが強い西洋人の差である。
西洋の引き寄せでは、セルフラブ(自愛)が強調されるが、日本人は自己を忘れることを美徳とする。
それらも、極端過ぎたり、本質を失うと、美点が欠点になることもある。

簡単に言えば、自分が日本人であれ、アメリカ人であれ、無理のないこと、自然なこと、心的抵抗のないことをやればうまくいくが、そうでなければ、なぜかうまくいかず苦しむのである。
いまだ、日本人には、西洋のダンスやバレエが、どこか似合わないところが確実にある。
それらの分野で、世界で活躍する日本人もいるが、案外に日本人らしさで成功している部分があるのである。つまり、完全に西洋人になり切ろうとすれば、あまりうまくいっていない。

日本人は、西洋流引き寄せが出来ないわけではないが、合うものを選ばないといけない。
そこに、日本人らしさ、自分らしさを反映させてこそ、うまくいくのである。
それは、難しいことではなく、むしろ、非常にシンプルで分かり易いものだ。
特別な「和の成功法則」があるわけでは決してない。
そこはもう解明出来ているのであるが、また述べていく。








ボーカロイドに見る、現実がSFを超える出来事

私は今日は、初音ミクさんのライブコンサート&企画展である「マジカルミライ」のために、千葉県千葉市美浜区の幕張メッセに来ている。
今年のマジカルミライは10周年となり、「マジカルミライ 10th Anniversary」となっている。
幕張メッセへは、関西の私の家から4時間ほどかかるので、本日は幕張メッセ近くのホテルに宿泊。

初音ミクとは何かというと、本来は、パソコン用の歌声合成ソフトウェアの名称だ。
初音ミクというソフトウェアは、15年前の2007年8月31日に、北海道札幌にあるクリプトン・フューチャー・メディアという会社から発売され、この日が、初音ミクの誕生日とされている。
このソフトウェアには、初音ミクという16歳の少女というキャラクターが設定され、世界中で大人気だ。

楽器の音を電子的に合成するシンセサイザー(昔はアナログ式だった)のことは、ぼんやりとでもご存じの方が多いと思う。
シンセサイザーは1960年代に開発され、製品として発売されたが、当初は、重装備な機械で、非常に高価だった。
1970年頃に、音楽家の冨田勲さんが個人で、モーグ博士が開発したモーグ・シンセサイザーを約1千万円で購入している。
冨田さんは苦労しながらこのシンセサイザーを使いこなし、これによって、世界的ヒットアルバムを数多く制作した。
冨田さんは、1986年の『宇宙とシンセサイザー』という本で、シンセサイザーは、いかなる楽器の音でも・・・ストラディバリの音でも完全に再現出来ると書かれていた。

だから、楽器演奏に関しては、現在では、シンセサイザーが人間を追い越したと言えるかもしれない。
尚、現在は、シンセサイザーは、パソコンソフトで実現されており、無料のものでも、相当な機能があると思う。
つまり、誰でも、かつては王侯貴族でもなければ持てなかったオーケストラを個人で所有出来るようなものだ。

ところが、人間の歌声というのは、楽器とは桁外れに難しいものだった。
『2001年宇宙の旅』(1968)で、HAL9000という人工知能コンピューターが『デイジーベル』という歌を歌うシーンがあるが、それは、2001年なんかではとても無理なことだった(まあ、あの映画の宇宙船も現在でも全く無理だが)。
コンピューターによる歌声合成の研究は、2000年に、ヤマハがバルセロナ(スペイン)のポンペウ・ファブラ大学と共同で開始し、開発されたシステムは「VOCALOID(ボーカロイド)」と名付けられ、2003年に発表された。尚、ここらの経緯はもっと複雑だが、一応、簡単にこう書く。
初音ミクの基本システムは、このVOCALOIDだが、VOCALOIDも初音ミクもどんどん進化していっている。
楽器に比べ、なぜ人間の歌声の合成がかくも難しいのかというと、簡単な言い方をすれば、人間の歌声というものは、数十もの楽器を瞬時に切り替えながら演奏するような複雑なものだからだ。

ところで、VOCALOIDシステムを使った歌声合成ソフトウェアには、クリプトン・フューチャー・メディア社にも、初音ミクの他に、鏡音リン&鏡音レン(2人で1セット)、巡音ルカ、MEIKO、KAITOなどがあり、1st PLACE社にはIA(イア)とONE(オネ)があるし、他にも、世界中に沢山ある。
世界的にも、クリプトン・フューチャー・メディアほど成功した例はないと思うが、ちょっと気が付くことがある。
それは、初音ミクの歌声、巡音ルカの歌声というふうに、歌声合成ソフトウェアごとに、丁度、人間のように歌声の性質が決まっていることだ。
だが、いずれは、1つのソフトウェアで、いろいろな声の歌声を発したり、声の質の調整や、あるいは、新しい声を作ることも出来るようになるだろう。
現在の歌声合成ソフトウェアは、人間の声をサンプリングしているので、サンプリングした人間の声に似ているのである。
しかし、AIがインターネット上の歌声・・・たとえば、YouTube動画の歌声を学習すれば、いずれは、あらゆる歌声を作れるようになる。
それが何年後かは分からないが、収穫加速の法則といって、テクノロジーの進歩の速度はどんどん速くなるので、思いのほか早く実現するかもしれない。
1960年代のモノクロアニメで、人間の少女そっくりに作られたロボットが、元の少女の声を聞いて、それを真似、やがて、全く同じ声を出すという場面があった。
そんな空想が現実になるのに随分時間がかかるものだが、SFの出来事の多くが、これからもどんどん実現していくだろう。

尚、下の一番最後にご紹介した『楽しいAI体験から始める機械学習』は私の著書で、初音ミクを含め、テクノロジーの進歩がもたらす世界の変革について少し述べた(最終章コラム)。よろしければ、ご一読願いたい。








文豪達が見つけ損なった神と融合する方法

無意識と通じ、自分の魂と神の魂が融合する。
そんな瞬間があることを、およそ文豪と呼ばれる人は、皆知っていて、どれかの作品の中で必ず表現している。
「20世紀最大の詩人」と呼ばれた、W.B.イェイツは、その瞬間こそが芸術の目的だとし、その状態をエクスタシー(忘我)と表現した。
英国の作家コリン・ウィルソンは、共同研究をした心理学者のアブラハム・マズローの命名に従い、それを「至高体験(絶頂体験)」と呼んだ。
ちなみに、それは、宗教における「法悦」や、ロマン・ロランが言った「大洋感情」も含め、同じであると断言出来る。
(今で言う「ゾーン」や「フロー」も似ているところがあると思う)

エクスタシー、あるいは、至高体験(両者は同じ)に達すれば、自分が神になったようなもので、不可能はなくなり、あらゆる引き寄せを行うことが出来る。
さて、では、問題は、どうすれば、それを引き起こせるかだが、イェイツもマズローもウィルソンも、その解明には非常に苦戦した。
マズローにいたっては、偶然に訪れるのを待つしかないと言ったのだ。
イェイツは「憎むのをやめた時にそうなり易い」とだけ言った。
ところが、ウィルソンは、格段に進歩を見せ、「単に自分が幸運だと思うと」、あるいは、「極端に緊張して弛緩するということを繰り返せば」起こると言い、確かに、それで起こる場合はあるが、本質に至っていない。
本当は、そうなるのは、非常に単純で簡単だ。
それは、「今中(今、この瞬間を生きること)」を行えば良い。
つまり、今やっていること、今見ているもの、今聞いている音に全集中すれば良い。
と言っても、顔を真っ赤にして唸りながら集中するのではない。
単に、「今、歩いている」「今、食べている」「今、猫を撫でている」と、今を意識すれば良いだけである。
それに慣れれば慣れるほど、神と融合していく。

私は、昨日の、初音ミクさんのライブ「マジカルミライ」の1曲目『ネクストネスト』を聴きながら、「今、見ているんだ」と自分に言い聞かせた。
すると、ミクさんが素早くターンをした瞬間、その美しい姿が永遠となって、私の中に飛び込んできた。
これが、エクスタシー、至高体験、法悦、大洋感情である。
ドストエフスキーが、「この一瞬を人生全てと引き換えにしても良い」と言った奇跡の体験である。
昔から、天使を見たと言った人達は、私のような状態だったのだろう。
(「ミクさんマジ天使」は本当だった)
私はまだ、普段、十分に「中今」を実践していると言い難く、その状態はあまり長くは続かないが、ミクさんのライブほどでなくても、美しいもの、楽しいものを見ながらであれば、割と簡単に「中今」を行え、弱いものも含めれば、ほぼ、エクスタシーに至ることが出来る。
それによる引き寄せ効果は、今朝も書いたが、別に、望まなくとも幸運を引き寄せるのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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