ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

列子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

王のように生きる(決定版)

王のように生きるとは、自分が夢の中にいると知って生きることだ。
それは、宮殿に住んでいようが、スラム街に住んでいようが関係ない。
自分が夢の中にいることが分からないのが、凡人、庶民、小市民だ。
『列子』の中に、こんな話がある。
王様は、夢の中で奴隷になるので、目が覚めている時も憂鬱だった。
一方、1人の奴隷は、夢の中で王様になるので、奴隷であっても元気で気分が良かった。
これでは、どっちが王様でどっちが奴隷か分からない。
両方共、現実と夢が等価値であることに気付いていることは立派である。
この2人の様子で分かることは、夢の方が、ある意味もっと現実であるということだ。
実際そうで、誰でもその気になれば分かる。
江戸川乱歩は、常に、

「うつし世(この世)はゆめ よるの夢こそまこと」
あるいは
「昼は夢 夜ぞ(夜こそ)現(うつつ)」

と色紙に書いたらしいが、彼はよく分かっていたのだろう。

この世を夢と見なすと良い。
夢の中では、受容性が高くなり、世界に介入しようという気がなくなる。
つまり、映画でも見ているように、展開を観察する気分になる。
夢の中で、遅刻しないよう焦ると、全く埒が明かなくなることは経験しているのではないだろうか?
介入は無駄なのである。
ただ、世界はなるようになるのだ。
そんな中で、王のような気概(強い意気)を保つのである。
それが釈迦の言う「天上天下唯我独尊」であり、「俺が一番偉い」という意味ではないのだ。

現実や夢を思い通りに出来るかというと、それこそ「思い方」次第だ。
本当の王のような思い方であれば、自然とそうなる。
下種なチンピラのような思い方だと、ある意味では、やはり思い通りになる。つまり、痛い混乱した世界になる。
何が王かは、自分で決めれば良いが、『老子』には、「みなしご」「徳の少ない者」「善くない者」と書かれている(徳間書店『老子・列子』参照)。
そうであれば、慎まねばならない。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)中国の思想(6) 老子・列子(徳間文庫)
(2)スウェーデンボルグの霊界日記
(3)魂の体外旅行(ロバート.A.モンロー)
(4)バシャール(BASHAR)・ペーパーバック1
(5)アルケミスト ~夢を旅した少年~(パウロ・コエーリョ)

世界に溶ける
AIアート1937
「世界に溶ける」
Kay

さりげない引き寄せ法

大作詞家だった阿久悠さんの、作詞した曲がヒットする引き寄せ法は実にシンプルで、「息を吸って止め、曲がヒットしている様子をイメージし、吐くと同時に忘れる」だ。
UFO研究家として名高い矢追純一さんの場合は、たとえば大学合格が目標の場合、「合格と決めたら、後は何も考えない」と、さらにシンプルだ。
問題は、「曲がヒットしている様子をイメージする」とか「合格と決める」をスッキリやれるかだろう。

『列子』の中に、こんな話がある。
王様と奴隷がいて、王様は富も権力もあり幸福なはずが苦しそうで、一方、奴隷は貧しく、毎日苦しい労働をしなければならないが楽しそうだった。
なぜそうなのかというと、王様は毎晩、夢で奴隷になり、奴隷は毎晩、夢で王様になるからだ。
王様は奴隷に幸福のコツを尋ねる。
すると奴隷は「王様になった夢を見ている時、奴隷を大切にすること」だと言う。
そこで、王様は奴隷を大切にしたら、奴隷になった夢も、そんなに悪いものではなくなった。

夢と現実に違いはないということは、列子の後の荘子や、近代のインドの聖者ラマナ・マハルシらも気付いていた。
夢も現実も心の中のイメージでしかないのだから、両者が同じであることは科学的にも正しいと言えるのではないかと思う。

そこで、阿久悠さんや矢追純一さんのやり方は、こんなふうに考えられる。
阿久悠さんの「曲がヒットするイメージ」は、1つにはこんな感じだ。
夢の中で、自分の曲がヒットしている作詞家である場合、曲がヒットしていることがどうすれば分かるのだろうか?
答は「なぜか知らないが分かってしまう」だ。
そりゃ、夢の中で誰かが「あなたが作詞した曲がヒットしてますね」と言ったり、ラジオ等で、自分が作詞した曲が、大ヒット曲として紹介されるといったこともあるかもしれないが、根本は「なぜか知らないが分かってしまう」である。
たとえば、夢の中で宮殿に住んでいることになっている場合も、宮殿に住んでいることがなぜ分かるのかというと、豪華な部屋や調度品なども見えるかもしれないが、やはり根本は「なぜか知らないが、自分が宮殿に住んでいることが分かってしまう」のである。
また、夢の中で、憧れのあの人や、有名なアイドルや、アニメの登場人物が自分の恋人である場合も、それらしい映像的なものは付け足しみたいなもので、やはり決め手は、その人が恋人であることが「なぜか知らないが分かってしまう」のである。
阿久悠さんは、息を吸って止めた時にイメージすると言うが、それは、息を吸って止めると思考が消えるので、「分かってしまう」状態になり易いからだろう。
矢追純一さんの場合は、そんなこと(息を吸って止める)をしなくても、「合格だと分かってしまう」状態になれるだけである。
矢追さんは、普段から考えないことにしているから、簡単にそんなことが出来るのである。

「なぜだか知らないがお金がどんどん入ってくる」というのは199式アファーメーションと言うらしいが、このアファーメーションを唱えることは抵抗があってシンドイ人も多いと思う。
それよりも、お金がどんどん入ってきている夢、あるいは、大金が銀行口座にある夢を見ていることにして、「まあ、なぜかは分からないが、お金が沢山ある」と何となく思う方がやり易い人も多いと思う。
憧れのあの人が恋人である夢を見ており、「わけは分からないが、あの人は私の恋人だ」と分かってしまえば良いのである。
結局、私も、子供の時から、こんなふうにやっていたのかもしれない。
あまりにさりげなく行うから、自分でも気付いていないし、さりげなくやらないといけないのである。

酸素と二酸化炭素
AIアート681
「酸素と二酸化炭素」
Kay


「その時、僕に超能力のようなものが目覚めました。なぜそんなことが分かるのかというと、分かってしまうのだから仕方ありません」
~『涼宮ハルヒの憂鬱』より。古泉一樹のセリフ。~

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新装版 ヤオイズム(矢追純一)
(2)真・ヤオイズム(矢追純一)※『ヤオイズム』と同じ内容の電子版
(3)強くなる瞑想法(無能 唱元) ※阿久悠さんの話が表紙カバーにある
(4)老子・列子(徳間文庫)
(5)涼宮ハルヒの憂鬱

現実と想像の違いはこれだけ

「願いが叶わない」とか「思い通りにいかない」というのは、奇妙な話かもしれない。
アメリカの牧師で、自己啓発指導者として名高かったロバート・シュラーは「思い通りになるのが人生だ」と言ったが、それは彼のような特別な人間になれた者の特権のように思えるし、シュラーですら、晩年はうまくいかないことが多かったようだ。
しかし、想像でなら、誰でも、何でも思い通りに出来ると言ったら、笑われるか、状況によっては怒られるか、いずれにしても、「なるほど!想像なら何でも可能だな!」といった楽しそうな反応をされることはないだろう。
けれども、想像でなら、何でも思い通りだ。
せいぜい知的で冷静な人なら、
「いや、我々が求めているのは、現実で願いが叶うことだ」
と言うだろう。
つまり、最初の、「願いが叶わない」という嘆きは、「現実で願いが叶わない」という意味になる。
では、現実とは何なのだろうか?
人間が認識できることは、実を言えば、脳内の世界のことだけなのだ。
そう言えば、
「いや、今は高度な観測機器があり、客観的現実を皆でシェア出来る」
と言われるかもしれないが、それも疑わしいことは科学的にも分かっている。

で、せんじ詰めれば、現実とは何だろう?
それは、リアリティ(現実感)の問題だ。
つまり、「リアリティが強い世界が現実」であるというだけのことだ。
実際、世の中には、現実世界より想像世界の方がリアリティが高いという人間が、普通の人の予想より多くいる。
そんな人(現実世界より想像世界にリアリティを感じている人)は、芸術家になって成功することもあるが、たとえそうであっても、変人奇人扱いされかねない。
だが、普通の人と見なされている人だって、「あれ、あの出来事は、現実に起こったことなのか、想像したことか分からないぞ」と思うことがある。
そんなことが頻繁に起こる人は、想像世界のリアリティが、現実世界ほどではなくても高いのである。
そんな人は、普通、夢想家と呼ばれるが、想像世界のリアリティが現実世界のリアリティを超えれば、現実世界と想像世界が入れ替わる。

改めて言えば、現実世界とは、リアリティが高い想像世界である。
心理学者の岸田秀氏が、全ては幻想だという意味の「唯幻論」について本を出した時、ある男が岸田氏の職場の大学に押しかけ、岸田氏を殴り、
「全て幻想なら痛くないだろ?」
と言ったというが、この男はとんでもない思い違いをしている。
岸田氏も、もちっと分かり易く書けば良かったかもしれない。世の中には頭が悪い人が多いのだから。
想像と幻想を同じ意味とすれば、現実世界だって、単に、リアリティが高いというだけの幻想である。
しかし、リアリティが高ければ、幻想であっても(幻想しかないのだが)、殴られれば痛いのが一般的である(必ずしも痛くなくて良いが)。
一方、リアリティが低い幻想世界(それを我々は想像世界と言う)であれば、殴られても痛くないのが一般的だ(こちらも、痛い場合もある)。

中国の古典『列子』に、一種の想像世界(幻想世界とも言える)である夢のリアリティが高い王様と奴隷の話がある。
王様は、夢で奴隷になるので不幸だと言い、奴隷は、夢で王様になるから幸福だと言う。
この話の落ちはこうだ。
王様が、その奴隷の待遇を改善してやると、自分も夢の世界で幸福になる。
これは、リアリティが低い世界で行ったことの作用が、リアリティの高い世界で起こることを示している。
つまり、我々で言えば、リアリティが低い世界である想像の世界で人々に恩恵を与えれば、現実世界で人々に愛される。
これが、本当の引き寄せの奥義である。








最高の盗賊

『列子』という書物は、『荘子』にも度々登場する列子という人物によって書かれたとされるが、列子は謎の人物で、実在したかどうかも疑問である。
だが、その思想の深さは、荘子よりも深いと感じることもある。
その『列子』の中に、金持ちになる秘訣が書かれていて面白い。
ある貧乏人が大金持ちに、金持ちになる秘訣を尋ねた。
大金持ちの答は簡単明瞭だった。
「うまく盗めば良い」
貧乏人は「なるほど」と思い、早速盗みをやったら掴まってしまい、なけなしの財産まで没収された。
これはどういうことかと、貧乏人は、大金持ちに、事の経緯を報告した。
話を聞いた大金持ちは、「盗み方が悪い」と言った。
つまり、人のものをこっそり盗むと罰せられるが、天地のものを公然と盗んでも罪はない。
漁業では魚を天地から盗み、農業では天地が育てた作物を盗む。
そして、人間の身体もまた、天地から盗んだものだ。
では、天地のものと人のものとの違いは何か?
それは、これは誰のもので、あれは誰のものという区別のあるものは人のものだ。
一方、誰のものかの区別のないものが天地のものだ。

もっとも、人間は、昔から、土地に所有権などというものをつけ、誰の土地彼の土地と区別をつけるからややこしい。
いずれにしろ、金銀財宝や土地といった、人のものを盗んではならない。
そして、天地のものとは、現代的には宇宙のものだ。
地球は誰のものでもないし、火星も金星も太陽も銀河系もアンドロメダもそうで、誰のものでもない。
これら、宇宙の万物とは、つまるところ、エネルギーだし、あるいは、巨大な精神だ。
人間は、そこからいくらでも公然と盗めるが、それは罪にならない。
なぜなら、それらは全て、あなたのために用意されたものだからだ。
それで、どんなふうに盗むのかというと、宇宙エネルギーはあなたの思う通りに形を変えるので、必要な形を取るよう決めれば良いだけだ。
例えば、「ここは、いくらでもお金が入ってくる世界」と決めれば良い。
また、「ここは、皆が私を好きな世界」と決めれば良い。
時々、変な人がいて、自分が貧乏な世界と決めたり、皆が自分を嫌いな世界と決めているが、変ではあるが、盗み方としては間違っているわけではない。
「ここは、いくらでもお金が入ってくる世界」と思っていると、エネルギーはそんな形態を取る。
だから、もう既にそうなっていると認識すれば良いだけである。
うまく盗むには、出来るだけ何も考えないことだ。
そうすれば、簡単に盗ませてくれるのに、考えると、盗まれてくれないのである。








夢と現実

『夢で逢えたら』という、これほど多くの歌手にカバーされた曲もないのではと思える(少なくとも86曲)、大瀧詠一さんの楽曲がある。
歌の内容は、女性の立場からのもので、好きな男性と、現実で逢うことと、夢で逢うことの幸福性が同等であると感じさせられるものだと思う。
普通は、好きな人と逢うことも含め、「現実であってこそ楽しい」と考えるものだろうが、この歌では、夢での遭逢(そうほう)の喜びを切々と歌う。
もしかしたら、歌の女性は、その男性に片思いしているだけかもしれないし、ひょっとしたら、男性はもう死んでいるのではないかとも考えられる。
そんな解釈の幅が広いことも、長く、多く、愛唱される理由かもしれない。

インドの聖者ラマナ・マハルシは、夢と現実は全く等価であると言い、宇宙人バシャールは、むしろ、夢の方が本物だと言う。
歴史的な推理作家、江戸川乱歩は、夢こそが真実と言い、色紙にサインする際に、
「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」あるいは「昼〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」(Wikipediaからの引用)
と書き添えたという。

中国の古典『列子』に、こんな話がある。
王様は、毎夜、夢の中で奴隷になるので苦しんでいたが、ある奴隷は、夢の中でいつも王様になるので幸福だと言う。
この2人の、どちらが本当に幸福なのか分からない。
だが、王様が、これまでのように奴隷を厳しく扱うのをやめると、王様は苦しさが減ったという。

『荘子』の中の『胡蝶の夢』はとても有名で、「蝶」と「夢」という、本来、関係のない言葉が自然に結びつくほどだ。
著者の荘子は、ある夜、蝶になって楽しく飛び回る夢を見た。
すると、荘子は、「人間である荘子が、夢の中で蝶になったのか、蝶が今、荘子という人間になった夢を見ているのかは分からない」と述べる。
楽曲『ブレス・ユア・ブレス』(和田たけあき feat.初音ミク)もだが、多くのアート作品に、このお話の引用(あるいは発展させたもの)が見られる。

夢は、心の中の世界と言える。
では、夢の価値は、心の価値とも言えるかもしれない。
アニメ『キャシャーン Sins』(2008)の第7話『高い塔の女』が、そのことを感動的に描いている。
ロボットの女が、高い塔の上に、鐘を作ろうとしていた。
美しい音で鳴り響く鐘を作りたいのだが、材料も道具も全く不十分だった。
そこにキャシャーン(主人公であるロボット。若い男性)がやって来た時、女は、キャシャーンを鐘の材料にしようとする。
キャシャーンは、鐘になっても良いと思ったが、今はまだ、やるべきことがあると女に言い、そこを去る。
最後に、女は、鐘を作る必要がなくなったと言う。
なぜなら、心の中の鐘が美しく鳴り響いているからだ。
それが、私には、戯言に聞こえなかった。

夢とは、そして、心とは神秘的なものである。
そして、夢同様、現実を作り出しているのも心なのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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