少し前にも書いたが、旧約聖書に書かれた真言とも言える言葉は、極めて強力だと思う。
とはいえそれは、旧約聖書の比較的初めの方である「出エジプト記」の3章14節に普通に書かれている言葉だ。
旧約聖書はヘブライ語で書かれているのだから(一部アムル語)、それもヘブライ語で書かれているが、世界中の人々が読むのは、英訳されたものを各国語に訳したものだと思う。
ヘブライ語は簡単な言語で、日本語との類似点の多さが指摘されることもあるが、その言葉の発音や、そして、意味の解釈が様々ある。
その言葉は、神がモーセに対して名乗った言葉だ。
空知太栄光キリスト教会の牧師の銘形秀則さんが、多くの旧約聖書の翻訳書の解説を自身のサイトに公開してくれているので参考にさせていただいた。
その言葉の発音は、「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」、「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」、「エーイェ・アシェル・エーイェ」などがあり、銘形さん自身は「エイェ・アシェル・エイェ」と発音・表記しておられると言う。
私は、中学1年生の時から読んでいる、ウィリアム・アーネスト・バトラーの『魔法入門』(大沼忠弘訳)にある「エヒュー・アシェル・エヒュー」と憶えている。
英訳では、有名な「アイ・アム・ザット・アイ・アム(I AM THAT I AM)」で統一されているようで(例外もある)、日本語では、その直訳である「私は在(有)りて在(有)る者である」「私は私は在(有)ると言う者である」といった、何だか意味不明な言い方をする。
銘形秀則さんのサイトでは、いろいろな人のいろいろな解釈が紹介されていて興味深いが、私は『魔法入門』のものが、最近、非常に腑に落ちた。
それは、「私はなるようになるであろう」で、ヘブライ語のさらに忠実な意味は「われはつねに生成する者なり」だ。
「私はなるようになるであろう」は、私が昔から知っている強力な霊能力者の教えの言葉で、「私はつねに生成する者なり」は、私が誰に教わったのでもない、幼い時から知っている言葉というか感覚である。そのいずれも、様々な文献などで確認している。『荘子』や『老子』もそれに含まれると考えて良いと思う。
「私はなるようになるであろう」は、心(顕在意識)の感覚で、「私はつねに生成する者なり」は魂(無意識、潜在意識)側のものだと思うが、同じと言って良いと思う(実際、同じ言葉の解釈だが)。

表現に気を付けずに言えば、「私はなるようになるであろう」が最大の引き寄せの言葉で、「私はつねに生成する者なり」は魂と一致していく言葉だ。
進歩した引き寄せでは、自我(心)の介入をうまく避けることが鍵で、その意味でも、これらの言葉のいずれも理想的である。
「心おだやかに」は呪文、あるいは、『千夜一夜物語』の『アラジンと魔法のランプ』の魔法の指輪のようなもので、「私はなるようになるであろう」「われはつねに生成する者なり」は、魔法のランプと言うよりは、魔法の巻物で、それは体内に(感覚的には腹に)納めておくものだ。
これらがあれば、勝ったも同然であると思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)魔法入門(W.E.バトラー著。大沼 忠弘訳)
(2)旧約聖書 出エジプト記(関根正雄訳)
(3)新釈 荘子(西野広祥訳)
(4)老子(蜂屋邦夫訳)
(5)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(6)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)

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