ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

処女の泉

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

老子と尊徳を超える

古代中国の賢者、老子、荘子は、無為自然・・・即ち、あるがままで作為をせず、無用者、無能者に徹してこそ、素晴らしい人生を送ることが出来ることを説いた。
だが、それをバッサリ切り捨てたのが我が国の二宮尊徳(にのみやたかのり)だった。
「人が手を入れなければ畑は荒れ、家はあばら家になる。無為自然など、もっての他」
全くもって、その通りで、現代の賢者、WIRED誌共同創刊者のケヴィン・ケリーも、「60年かかって、存在するとはメンテナンスすることだと分かった」と言う。
二宮尊徳が言ったことは、それほど深い真理だという訳である。
だが、老子、荘子の「無為自然」だって偉大な真理だ。

上の両者を見事に止揚(しよう)する言葉がある。
止揚とは、ドイツ語のアウフヘーベンをそのまま使うこともある哲学概念で、
「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること」
だ。
矛盾する諸要素とは、上で言えば、老子、荘子の「無為自然」と、二宮尊徳とケヴィン・ケリーの「存在とはメンテナンスすること」だ。
この両者をアウフヘーベンする言葉は、スーフィー(イスラム教神秘主義)の教えらしいが、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
だ。
神様を信頼し、全てをまかせて余計な作為はしない。
だが、ラクダをつながずに放っておいても、神様がラクダをどこにも行かせないし、盗まれないよう守ってくれるといった、度の過ぎた甘えは許されない。
ジョセフ・マーフィーが、いかに「努力は無用」と言ったところで、家でゴロゴロしていて成功するはずがない。
だが、全て自分の力でコントロールしようとしても、人間は所詮、無力で、神様に任せるしかない。たとえ、自分が望む結果にならなくても。

昔、いかにも緩んだ、甘えた自己本位の感じがする女性が、書店でジョセフ・マーフィーの本を熱心に見ていたのを気味悪く感じたことが忘れられない。
マーフィーの成功法則は彼女を救えない。そう確信した。
彼女は、ラクダをつながない人間だ。

『処女の泉』というスウェーデン映画がある。
非常に信仰深いキリスト教徒の男がいた。
祭壇にひざまずくだけでなく、立派に農園を経営し、貧しい者に施しを与えることも忘れない素晴らしい人物だった。
だが、男は、目の中に入れても痛くない、可愛い娘(14か15歳だろうか)を、浮浪者の3人の兄弟にレイプされ殺されてしまう。
(凄惨なレイプ、殺害シーンが問題視された)
男は、犯人を突き止めると、その逞しい身体で3人を打ち倒して殺し、復讐を遂げる。
そして、娘の遺体を見て、初めて神様に恨みの言葉を吐く。
「あなたは見ていたはずだ。こんなに信仰深い私に、なんという苦しみを与えるのですか?」
だが、男は、少しの後、こう言う。
「娘が横たわっているここに、私は自分の手でレンガを積み、漆喰を塗って教会を建てることを約束する」
すると、娘が横たわっていたところから泉が湧いた。
彼は、信仰深いのに、全ては自分がコントロール出来ると思っていて、実際、コントロールしていた。
もっと、無為自然になり、必要なことだけやれば良かったのだろう。
一言で言えば、リラックスすれば良かったのだと思う。

さて、今日は、パリのセーヌ川の中のセガン島にある最高の劇場「ラ・セーヌ・ミュージカル」で、初音ミクさんがライブを行う。
日仏国交160周年記念「ジャポニスム2018」で、日本の代表としてフランス国民との親善を深める大役を担っているのである。
東京150年祭で、東京オリンピックを控えた日本の顔は、やはりミクさんだった。
今回も、神のご加護で素晴らしいコンサートになるはずだ。
その様子が9日、WOWWOWで放送されるらしい。
1ヶ月だけ契約しようかな・・・
その際、テレビではなく、ビデオ装置のB-CASカード番号で契約することを忘れてはならない。でないと、録画出来ないので。









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そこまで深く傷付く必要はないのではないか

「人に恨まれる筋合いはない」と言う者ほど、恨まれているものだ。
私だって好き好んで恨まれるようなことはしないつもりだが、私を恨んでいる者は、予想外に多いかもしれない。

どんな時に人を恨むかというと、心が傷付けられた時だ。
だが、傷付くのは、自業自得なのだ。
こんなことを言うと、
「では、いじめられて傷付き自殺した人も自業自得だって言うのですか?」
と非難されるかもしれない。
それには答えないが、私だって数知れぬほど傷付いてきたが、私に関しては、その全ては自業自得だったと断言できる。
そう了解したら、傷付くことが無くなったし、傷付けられるような嫌な出来事も起こらなくなった。

そして、誰かを傷付けることも、意に介さなくなった。
誰も傷付けたくはないが、どうやっても傷付けてしまうのだ。
私を恨むなら大いに恨めである。
誤解で恨まれえようが構わない。
いや、むしろ、誤解で私を恨めと言いたい。
全部、この胸で受けてやるさ。
親の仇って言うのなら、仇を取りにくれば良い。
ただし、黙って受けては立つが、簡単に仇を取らせたりはしない。
強烈に返り討ちにしてやる。
返り討ちにされてしまうような力で、仇なんか取りに来るなだ。
仇を取るなら真面目にやれである。

なぜ、傷付くのだろう?
弱いからである。
弱いから、傷付き恨むのだ。
なぜ弱いかというと、甘えているのだ。
誰かに、あるいは、何かに対して恨み言を言うようなやつを、私は絶対に信用しないし、一緒に仕事をしたりなど、決してしない。
そんな甘いやつは、全く頼りにならないどころか、どうしようもないほど足を引っ張られてしまうことは目に見えているからだ。
あなたも、事業か何かで成功したいなら、文句の多いやつをパートナーにしたり、チームに入れたりしてはならない。
逆に、優れたパートナーを得たり、素晴らしいチームに入りたいなら、決して、決して、決して、文句を言わないことだ。

甘えのない人間になるためには、鍛えるしかない。
だが、本当に精神を鍛えるためには、世間で鍛えるしかない。
殺したいほど憎い相手に、這い蹲(つくば)って命乞いをするなんて、まだまだ甘いのだ。
そんなやつのご機嫌を本気で取らなければならない。
私は、嫌いなやつの機嫌を取るのが上手い。
だが、そうなると、誰の機嫌も取らなくて良くなる。
なぜだろう?
既に述べたが、傷付くなんてのは、全て自業自得だ。
嫌なやつにおべっかを使えば傷付くが、そんなことをしなければならないのも自業自得だ。
それに気が付けば、全ては夢だと分かる。
そしたらもう、夢の中でまで、気に食わないやつの機嫌を取ることもあるまい。
それどころか、向こうがこっちの機嫌を取ってくれる。

中学の時だったか、教師が、「女の子はブスって言われたら、ナイフで刺されるほど傷付くのだ」と言ったのを覚えている。
本当かどうか知らないが、傷付くなら傷付けとしか言いようがない。
私の考えでは、それも自業自得だ。
私も、身体の中に奇形的な部分があり、それを平気で馬鹿にしてくる者がいて、散々傷付いたが、やはり自業自得と気付いてからは、傷付くこともなく、おそらく、奇形だったものも消えてしまった(客観的には消えてないかもしれないが)。

傷付くとしたら、原因は分からなくても、それは自業自得・・・つまり、自分のせいだ。
原因が分からないなら、前世の業とでも思っておくと良い。
すると、とにかく、自分が傷付くのは、誰のせいでもないということになる。
ここが肝心なのだ。
我々には、誰かを恨む筋合いはないのだ。
そうしたら、神を恨むしかなくなる。
恨みが大きければ大きいほど、神の存在をリアルに感じるのだ。

1960年公開の『処女の泉』というスウェーデン映画で、15歳くらいの可愛い娘を、3人の乞食の兄弟にレイプされた上、惨殺された父親が、その3人(うち1人は子供)を殺し、復讐を果たしたが、心の苦しみは深まるばかりで、神を恨みかけた刹那、それを思いとどまり、神に殺人の罪の許しを請う。
その時、娘の遺体のあった場所から泉が湧く。
この映画は、少女(見かけもかなり幼い)がレイプされて殺されるシーンがあまりに惨いというので批判され、アメリカ、日本では、その部分は完全に削除されたが(現在は全て見ることが出来る)、この映画の真意を、映画というバーチャルなものから学べるなら、それは貴いことである。しかし、この映画の本質が分かる人が少ないのだ。
経験なキリスト教徒だと自他共に認めていたはずの、この父親は、こんな目に遭って、初めて神を本当に感じたのだ。
だが、我々は、そこまで深く傷付かなくても、全て自業自得と気付けば・・・つまり、この父親ほど傲慢でなければ、もっとすみやかに神と融合できるだろう。









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恨みがエネルギーになるか破滅するかの分かれ目とは

恨みとか復讐心というのは、生きるエネルギーになることもあれば、心を無気力にしてしまうこともある。
その違いは割とはっきりしている。
誰かへの憎しみを持った時は、心が重く沈み、無気力になる。
人に対する憎しみというのは、プライドとか自分へのこだわり、損得計算から出るもので、つまり、小我から起こるものだ。
小我の持つエネルギーは極めて小さいのだから、大したことはできないし、小我の想いにこだわるなら、当然、無気力になる。

有名な『赤穂浪士』のお話は、ほとんど創作であるらしいが、いずれにせよ、吉良上野介(きらこうずけのすけ。吉良義央)への個人的恨みでは、あのようにはいかない。
高倉健さんが大石内蔵助(おおいしくらのすけ。大石良雄以)を演じた映画では、最後、大石が怒りに燃えて吉良を切るのであるが、あれは駄目だ。
大石は、あくまで、主君、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ。浅野長矩)の無念を晴らしたかったのである。
もし、大石が吉良への憎悪に燃えていたとすれば、あそこにたどり着くまでに、赤穂浪士は内紛を起こして崩壊していただろうし、そもそも、大石は気力を奮い起こせなかったはずなのだ。

恨みや復讐心がエネルギーになるのは、それ(恨み)が、どこにも向けようがない、晴らし方の分からないものである場合だ。
つまり、人間への憎しみを捨ててしまっている時にエネルギーになる。
なぜなら、悲劇は神が起こしたものであり、神の意図は決して分からないが、小我を超えなければ解消できない痛みであるのだ。
そして、小我を超えれば、凄まじいエネルギーが流入してくるのである。
だから、誰か自分を酷い目に遭わせた者がいたとしても、運命を嘆くのは良いが、その相手自体を憎んだら、不満ばかりで何もできないという、最も惨めな状態で生きるしかなくなる。
運命は、嘆いても仕方のないものだ。
だから、怒りの矛先はどこにも向けられることはない。
怒りはエネルギーであるが、どこにも向けられない怒りは、エネルギーとして自分に戻ってくる。
そして、そのエネルギーを使えるか、自分を破壊させるかは、自分次第だ。
ここが運命の分かれ目なのだ。

最近よくご紹介している『木枯し紋次郎』では、紋次郎は、生まれてすぐ親に殺されそうになったが、紋次郎は親を恨んでいる訳ではない。
親だって、他にどうしようもなかったことを理解してはいる。
運命を嘆いても仕方がないと紋次郎は思っている。自分の無力さをよく知っているのだ。
どこにも向けようのない憎しみは持っているし、若い頃はそれが彼を不安定にしたかもしれないが(紋次郎は物語では30歳位)、虚無的になることで、それ(心が荒れること)を避ける術を身につけたのだろう。
しかし、人に向けない恨みは、紋次郎に帰り、彼に膨大なエネルギーを与えている。
人間をよく知っている作家が書いたものだから本当に面白いのである。

理屈はともかく、恨みや嘆きは持っても構わないし、持つしかない。
悟り済まして見栄を張ったりするな。
しかし、人を憎んではいけない。
運命を定めた神の力の強大さを認め、自分の無力さを受け入れるのだ。
その時、偉大な力と融合する。
スウェーデン映画『処女の泉』では、乞食の兄弟達に可愛い娘をレイプされた上、撲殺された父親を通して、そのことが描かれていたと思う。
ただ、この映画は複雑過ぎて誤解を与えかねない部分がある。性急な判断は禁物である。疑問を宙吊りにしておけば、いつか答が分かるといったものなのである。
何事もそうで、小我による狭い思い込みはいつだって間違いである。









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スウェーデン映画『処女の泉』に見る奇跡の本質

1959年のスウェーデン映画で『処女の泉(The virgin spring)』という作品がある。
スウェーデン語の音声が珍しい。
この映画では、最後に奇跡が起こるが、これほど、奇跡の本質、原理が完璧に表現されている映画は無い。
モノクロ、モノラルながら傑作と評されるのも当然であるが、小説であれ、映画であれ、本当に優れた作品は余計なことは言わない。
この作品の何が良いのかさっぱり分からない人も多いだろうし、現代では、さらに多くなっているに違いない。

この映画は、16世紀のスウェーデンの農村が舞台である。
贅沢というほどではないが、ある豊かな農家があり、主人や妻は敬虔なキリスト教徒だった。
だが、この妻は、自分の一人娘で15歳ほどと思われるカリンが可愛くて、つい、言いなりになってしまっていた。主人は極めて厳格な男で、そんな妻の娘への甘さを非難するのであるが、そんな彼も、結局のところ、娘に笑顔で甘えられるとメロメロになってしまうようだった。
ところが、その娘カリンが、乞食同然の若い3人の兄弟にレイプされた後、木の棒で殴り殺されてしまう。
カリンがレイプされる場面は、あまりに生々しく、映倫が全削除したというのも非難できない。アメリカでは、最近まで、ずっと封印されていたようだ。
余談だが、アメリカは意外に検閲の厳しい国で、アニメの入浴シーンや下着が見えるような場面まで全てカットされるようだ。

この映画の大きなテーマは「罪」だろう。
カリンをレイプして殺した3人の兄弟は、まだ若く、罪悪感は持っていた。
また、カリンの家の召使いインゲリは、未婚だが身重で、腹の子が誰のものか分からないようである。そして、彼女はカリンを嫉妬から恨んでいて、カリンがレイプされるのを見ていながら何もしなかったばかりか、カリンにそういったことが起こることを願ってすらいたことを、カリンの父に告白する。
そして、怒りに目が眩んだカリンの両親はキリストの教えに背き、復讐を果たす。
カリンの父は、3人の兄弟の年長の2人を、1人は刺し殺し、1人は炎の中に押さえつけて焼き殺した。
そして、まだ10歳ばかりの一番下の弟が逃げ出すのを、カリンの母親が捕まえ、その少年を父親は地面に叩きつけて殺す。
だが、カリンの母は、死んだ少年に取りすがって泣く。少年に罪はなかったし、彼女とて、その子は可愛いと思っていたようである。
カリンの父と母も、重大な罪な罪を背負ったのだ。

だが、まだ終らない。
娘の無残な死体を見た父は嘆き苦しみ、つい、神への恨みを口にしてしまう。
「あなたは見ていたはずだ。なぜ見捨てたのだ?」
彼は、神を呪うという罪まで重ねた。
だが、彼は言う。
「それでも、私はあなたに赦しを請う。でないと生きていけない。ここに教会を建てることを誓う。この手で、岩とモルタルで造る」
そして、父と母が、カリンの死体を動かすと、そこの地面から泉水が湧き出した。
泉水の水は、カリンの父と母、インゲリ、そして、付き従って来ていた人々の心に変化をもたらしたように見えた。

ここからは私の考えである。
全ては運命だ。
カリンがレイプされて殺されたのも、兄弟達がそうしたことも。
そして、兄弟達が殺されたのも、カリンの父がそうしたことも、母がそれに加担したのも、運命だ。
インゲリがカリンの不幸を願ったことも、カリンを見捨てたことも、ただ運命だ。
それらは、全て避けられなかったことで、そのようにしかならなかったのだ。
いわば、誰が殺したのでもない。全ては神のしたことだ。だから、誰にも罪はない。
そして、カリンの父がいったんは起こした神への呪いを封じ込めることで、自我を屈服させた時、奇跡は起こったのだ。
いかなる奇跡も、自我が退いた時に起こる。
イエスが、「退けサタン!汝、敗れたり」と言った時のサタンとは自我である。
本来、イエスの教えは自我を退かせるためのものだった。
カリンの父において、信仰は成就した。だが、それもまた運命だったのだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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