ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

処女の泉

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

神様と仲良くする

私は別にキリスト教徒ではないが、聖書には大変なことが書かれていると思う。
ジョセフ・マーフィーは『あなたは不安なしに生きられる』の中で、「聖書の意味を知りたければ、自分がそれを書いた時のことを思い出せば良い」と述べている。
サルトルも言ったように、「本を読むことは本を書くこと」で、読んでいる書物は、今この瞬間、自分が創造しているのである。

旧約聖書の「ヨブ記」22章21節に、「これだけ知っていれば良い」と思うほどの貴重なことが書かれている。
聖書をあまり知らなくても、「神と和解せよ」という言葉を聞いたことがあるのではと思う。
それが、ヨブ記のその箇所に書かれている。
「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう」
聖書では、「神と和解させて頂きなさい」とは、「罪を認めて、神の赦しを求めなさい」という意味だと言われることが多いと思われる。
だが、私は、次の訳の方がピンとくる。
「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」

さらに、私なら、
「神と仲良くなって心おだやかでいなさい。そうすれば幸せになる」
としたい。
これって、私が好きな言葉、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
と全く同じ意味と思う。
この言葉は、私は、スーフィー(イスラム教神秘主義者)の言葉だという話を本で見たことがある。
そうだ。「和解する」「和らぐ」「仲良くなる」というのは、とどのつまり「信用する」ということなのだ。
この「ラクダ」とは「心」のことで、「ラクダをつなぐ」とは、「心をさ迷わせず、落ち着かせろ」という意味と思う。

『処女の泉』という1960年のスウェーデン映画は、15歳のやや幼い美少女カリンが3人の浮浪者の兄弟達に凌辱された後、撲殺される場面が物議を起こし、公開禁止になったりしたが、内容の本質が分かれば大変な作品だ。
敬虔なキリスト教徒で、また、経済的にも豊かで逞しいカリンの父親は、その3人を殺して復讐を果たすが、現場に放置されていた娘の遺体を見て、神を呪いそうになる。しかし、すぐに、娘の遺体があった場所に、自分で煉瓦を積み、漆喰を縫って教会を建てることを神に誓う。
壮大な神との和解だ。
キリスト教徒なら、「神に従う」「神の赦しを乞う」と言うのだろうが、もう少し柔らかくは「神と和(やわ)らぐ」「神と和す」と言うのだろう。
私なら、「神と仲良くなる」「神を信用する」と言う。
そうすれば、娘が殺されなかったパラレルワールド(並行宇宙)を作り出し、そこに移動することも可能になる。
だが、人間は、元居たパラレルワールドの記憶を失くすから、また罪を重ねる・・・神を信用しなくなる。
カリンの父親が自分でカリンの悲惨な状況を創った・・・このパラレルワールドを創ったのだ。
それを忘れないためにも、このパラレルワールドに留まり、娘の遺体の場所で教会という象徴を建てることに人々を悟らせる意味があるだろう。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)あなたは不安なしに生きられる(ジョセフ・マーフィー)
(2)Living Without Strain (Joseph Murphy)
(3)旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫)
(4)処女の泉【HD修復版】 [Blu-ray]

神の愛娘
AIアート1410
「神の愛娘」
Kay

神になる簡単で難しい方法(個人的に超保存版)

神様の立場に立てば、自分の願いを叶えてやりたいと思うだろうか?
神様の立場に立つとは不遜なようだが、飛び切り想像力に優れた人間が、そんなことを考えたことがある。
彼の思考を辿れば、自分の願いが叶うかどうか、少しは分かるかもしれない。

その最高の想像力の所有者は、「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのノーベル賞作家、W.B.イェイツだ。
神の意思は全て実現する。
我々は、それが嬉しいことであれば・・・仕事で成功したり、素晴らしい彼氏や彼女が出来たり、敵に勝ったりした時は、神に感謝するだろう。
では、その反対の場合は?
仕事で大失敗をしたり、好きな女性や男性に振られた時、あるいは、裏切られた時、敵に打ち負かされ屈辱を味わった時・・・そんな時、神に感謝する人は少ないだろう。
だが、それを、神の意思として受け入れる者はいる・・・と言うより、キリスト教やイスラム教といった、旧約聖書を聖典とする宗教の信者は、基本的にそのはずである。
しかし、そんな人達でも、どんな時でも、神の意思を心から受け入れるとは考え難い。

『処女の泉』という1960年の有名なスウェーデン映画がある。
15歳の美しい娘カリンは、貧困な羊飼いの3人兄弟にレイプされた後、撲殺される。
カリンの父テーレは、金持ちだが、極めて敬虔なキリスト教徒で、自らを厳しく律し、キリスト教の教えに厳格に従って生きていた。
だが、カリンを溺愛していた逞しいテーレは、カリンを殺した羊飼いの3人兄弟を正面から力で殺して仇を取り、その後、カリンの無残な死体を見つけた。
テーレは、神の教えに背いたことは一度もないほどの信仰者である自分の最愛の娘をなぜ助けてくれなかったのかと、神に異議を唱えた。
だが、テーレは、悪人とはいえ、人を3人も殺してしまった。これは、明らかにキリストの教えに反する。
そこでテーレは、カリンの死体がある場所に、自分の手で教会を建てることを神に約束する。
すると、カリンの身体を動かすと、カリンの身体が在った所から泉が湧いた。
この映画は分かり難い。
テーレは、カリンの悲惨な運命も、神の意思として受け入れたのだろうか?
そうとも取れるが、正直、分からない。

だが、W.B.イェイツが書き残したものだったと思うが、そこに、これと同じ状況の話がある。
あるアラブ人が、家族を賊に殺された。
彼は、やはり、神を深く信仰していた。
彼は、家族が殺されたことも、神の意思として受け入れたのだろうか?
後に、彼は、そうではないと言った。
では、彼は、神への信仰を捨てたのか?
そうでもないのだ。
彼こそ、私がいつも言う「斜め上の発想」をしたのだ。
彼は、不幸な運命を、神の意思として受け入れたのではなく、自分の意思としたのだ。
その時、彼は歓喜に満たされた。
神の意思を自分の意思とすることで、限りなく神に近付いたのだ。
その後、彼は富豪になったが、家と財産を奪われた。
その時、彼は2度目の大きな歓喜を味わった。
そして、3度目は、自分が病気で死ぬ時であった。

世界の全ては神が動かす。
その神の意思を自分の意思とすれば、即ち、自分が神である。
さて、そうすれば、神なる自分は、自分の願いを叶えるだろうか?








邪神の名の力

神仏の名を真言として唱えれば、一切の問題が解決し救われる。
「南無阿弥陀仏」という念仏も、「阿弥陀仏に帰依する」というよりは、「南無阿弥陀仏」で1つの名(名号)であると考えた方が良い。経典や龍樹(りゅうじゅ)の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』には、阿弥陀如来の名を呼べと書かれているのであり、「南無阿弥陀仏」の他にも、「阿弥陀」「阿弥陀仏」と唱えても良いのである。
観世音菩薩も同様に、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」のいずれを唱えても良いし、「観音様」でも立派な真言だ。
そして、神仏の名に上下優劣はないので、自分の好きな神仏の名を選んで唱えれば良い。家の宗派などは気にしなくて良い。
(仏・菩薩の真言、「南無妙法蓮華経」の題目、般若心経の呪文なども良いが、今回は触れない)

ところで、それなら、邪神の名を唱えても効果はあるだろうか?
あるが、人類、あるいは、人類以外の存在の集合無意識の中で、邪神の名と負のエネルギーが関わっているのが普通なので、あまりお勧めは出来ない。
邪神の名を唱えれば願いが叶い易いが、失うものも大きいのである。
それに関して、次のような話がある。

1960年のスウェーデン映画『処女の泉』は、中世のスウェーデンが舞台だ。
裕福な地主テーレは、厳格なキリスト教徒で、聖書の教えに従って生きる立派な人物だった。テーレは、自分にも他人にも厳しかったが、15歳の一人娘カリンには、よくあることだが激甘だった。
この家には、インゲリという名の養女がいて、カリンよりは年長だが、若い娘だった。おそらく、身寄りのない不幸なインゲリを、信仰深いテーレが引き取ったのだろう。
だから、インゲリだって、今は不幸ではないのだが、テーレの養女になるまでは、かなり辛い少女時代を送ってきたようで、何の苦労もなく平和に生きてきたカリンを憎んでいた。
そして、インゲリは、北欧神話の主神オーディンを信仰していた。
オーディンを邪神と言っては何だが、ダークな部分も多い神で、だから、インゲリも、オーディンの名を繰り返し唱えながら、カリンを呪った。
神の名、それも、オーディンほどの大物の神であれば、力がないはずがない。
カリンは、山中で、札付きの浮浪者である3人の兄弟と出会い、兄弟の年長の2人(末っ子はまだ少年)にレイプされた上、木の棒で殴り殺される。
その一部始終をインゲリは見ていた。
テーレほど敬虔なキリスト信仰者の家族であっても、神の名で呪えば不幸は起こるのである。
まあ、このお話には、まだ後日談があり、非常に深い内容であるので、機会があれば映画を見ていただきたい(今はDVDで見るしかないが)。

邪神に限らず、神仏の名で人に害をなすことなどは願わない方が良いのは当然である。
なぜなら、「人に与えるものは、結局は自分に与えている」のだからだ。
それが本当に分かれば、施しをせずにはいられないだろう。
イエスが、「与える者は与えられる」と言った通りであり、この言葉は、教会の寄付集めの定番であるが(笑)、パム・グラウトによれば、手取り収入の1%を施せば奇跡が起こるそうだ。
神仏の名を唱えれば、名を唱えた神仏と必ず親しくなるのだから、人を呪う必要などない。
ひたすら真言を唱えれば、それで良いのである。








今のオリンピックはバベルの塔

一休さんは、自分の遺言書の包みを弟子に渡し、「本当に困った時に開けよ」と言った。
現在の、新型コロナウイルスの流行は、人によってはどうにもならないほど困っているだろうから、一休さんの遺言書を見たいかもしれない。
そして、後に弟子が本当に深刻な状況に陥った時、それを開くと、そこには、「心配するな、なんとかなる」と書かれていたという。
まあ、風説かもしれないが、一休さんらしいとも思える。

ビートルズの『レット・イット・ビー』も、だいたいそんな歌だと思う。
「僕が困難に陥った時、聖母マリアが現れ、尊い言葉を告げられた。レット・イット・ビー(あるがままに)と」
また、荘子の言う「無為自然」も、「自然のなりゆきにまかせ、何もするな」であり、全く同じことと思う。
賢者が「あるがままに」と教えた例なら、他にも沢山ある。

しかし、サイフの中に金がない人に対して「あるがままに」などと言うのは、親切でも適切でもない。
日本政府は、国民に現金支給を検討していると言うが、それも、5万円とかせいぜい10万円といったケチな話・・・それどころか、支給ではなく貸すだけとかで、「ないよりはマシ」とすら思えない人も多いに違いない。
イギリスでは、ジョンソン首相が、これを機にベーシック・インカム・・・つまり、国民に無条件で一定額を恒常的に支給する制度の導入に肯定的であると言う。
凄い肩書をいっぱい持つ、超優秀なある学者が、何かの本で、日本は既にベーシック・インカム状態と書かれていたと記憶している。しかし、ちっともそんな感じがしないのは、その学者先生も指摘されていたと思うが、あらゆる手続きが難しいからだろう。いや、難しいというより、意図的に解らないようにしているとしか思えないほどいい加減であると私は感じる。

それはともかく、一休さんら賢者達を信用し、心配せず、なりゆきにまかせてみようか・・・
私はいつもそうやって得ばかりしてきたが、誰でもうまくいくのだろうか?
それで、思い出すことがある。
スウェーデン映画『処女の泉』(1960)だ。
非常に信心深いキリスト教徒である、裕福な地主テーレは、一人娘のカリンを溺愛していた。
カリンが何歳の設定なのか分からないが、当時二十歳くらいだったカリン役のビルギッタ・ペテルソンを幼い雰囲気にして15歳くらいに見せようとしていたのかなあと感じる。
そのカリンが、浮浪者の3人兄弟にレイプされた上、丸太で殴り殺される。
カリンの父親テーレは腕力も逞しく、その3兄弟を叩き殺して(一人は子供だった)復讐を果たし、殺害現場に残されたカリンの遺体に逢う。
その時、父親が言ったことが印象的だった。
「あなた(神)は見ていたはずだ」
つまり、自分はこんなに信心深く、日頃からキリスト教徒として恥ずかしくない生き方をしているのに、なぜ、娘を助けてくれなかったのかという恨みであろう。
この世に神はいないのだろうか?

一休の「心配するな、なんとかなる」というのは、「あなたは神仏に守られている」という意味と思って良いと思う。
一休は禅宗の臨済宗の僧であるが、尊敬する法然や親鸞に倣い、念仏を上げていたと思う。
その念仏の教えを説く仏典の1つである『観無量寿経』には、念仏を唱える者を、観自在菩薩、勢至菩薩が常に守ると書かれてあり、これは信仰の賜物である。

カリンの父も、信仰の対象が違うだけで、同じことを信じていたのだろう。
では、カリンななぜ守られなかったのかというと、荘子流には、テーレもカリンも、作為が過ぎたのだと思う。
テーレは自分の信仰振りを、自慢するとまでは言わなくても自己満足するあまり狭量であったし、カリンも身の程を知らなかった。
テーレのカリンに対する偏愛は、所詮、個人のエゴであり、本当の愛ではない。
だが、テーレが、カリンの遺体があった場所に、自分の手で教会を建てることを神に誓うと、カリンの遺体があった場所から泉が湧き出た。
カリンの本当の世話をしているのは神だとテーレが気付き、自分のすべきことだけをして余計なことをしなければ、カリンは守られていたのだ。
テーレがカリンの所有権を神から奪った分、カリンの身は危うくなっただけなのだ。
今のオリンピックはバベルの塔だ。
その身の程知らずが、人間の手に負えないウイルスを生んだのだと思う。

「心配するな、なんとかなる」と本質的に同じ意味の言葉がアラブに伝わっている。
それは、「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」だ。
人間がすべきことは、ラクダをつないでおく位のことだ。
スポーツがそんなに良いものなら、まず、全ての人が公平にスポーツが出来るよう工夫をすれば良い。ビジネスを始めたら、無駄を省きつつ、顧客に優れたサービスを提供出来るよう工夫すれば良い。こういったことは誰でも出来ることだ。

偉大な人間とパートナーになった時、謙虚な賢い人は身の程をわきまえ、自分の仕事は何かを正しく認識するだろう。
それを、神とのパートナーシップにまで発展させて考えれば良いのだ。
役割を間違えなければ、神の加護を受け、全てうまくいく。
だが、浅はかに神の領域を侵すと、最初は小さく、そして、いつまでも改めなければ大きな調整が行われる。
例えば、賢い神が作った小さな生命によって。








子供がなぜ死ぬのか

小学4年生女児の虐待死について思うと、私は、スウェーデン映画『処女の泉』を思い出さざるを得ない。
この映画では、熱心なキリスト教信者で、世間的にも立派な農場経営者の男が溺愛する15歳くらいの娘が浮浪者の3人兄弟にレイプされた上、撲殺される。
肉体的にも逞しい父親は、犯人を見つけると、3人を正面から、まさに叩き殺した(兄弟の1人はまだ子供だった)。
そして、娘の遺体を見つけた父親が神に対して言ったことが、私が、あの小4女児に対して思ったことと同じだ。
「神よ、あなたは見ていたはずだ」
この父親の場合は、自分が正しい信仰者であることも含めてだろうが、なぜ娘を助けず、悲惨な目に遭わせたのかと、初めて神を非難したくなり、宗教心が揺らいだのだろう。
だが、父親が信仰を捨てず、娘の遺体がある場所に、自分の手で教会を建てることを誓うと、娘が横たわったところから泉が湧き出る。
この映画の正確な意味は分からないが、1つ言えることは、この父親の宗教心は、世俗的には正しいが、実際は正しくなかったことは分かる。
娘を溺愛するあまり、常に娘のことを一番に考え、他の者・・・妻でさえ、ぞんざいに扱うことも多かった。
そして、自分を立派な宗教者であると考え、知力体力に優れ、社会的にも成功していることから、世界を自分が動かしていると思っていたのだろう。
だが、イエスは、「神よ、私は戒律を守っています。献金もしています」と言う者ではなく、「神よ罪人である我を哀れみたまえ」と祈る者を高く評価した。

神・・・と言うかどかはともかく、この世界では、宇宙の運行に身をまかせれば幸福でいられる。
ちなみに、冷静に考えると、私自身は神を信じてはいないかもしれない。
ただし、世界を動かす何らかの意思とか仕組みというものがあるのは間違いなく、それを神と呼ぶなら、私はそれを信じていると言える。
そして、あの父親の娘は、やはり父親同様、自分の考え方を優先して生きていた。
とはいえ、娘はまだ若いので、本来は大目に見られるはずであるが、父親のエゴの分が合わさってしまい、悲惨が身に降り注いだ。
もちろん、それは父親も同じである。
そして、あの小4の女児の場合はどうかというと、社会全体・・・つまるところ、我々のエゴを引き受けてしまったのだ。
特に、児童相談所に必要な金が回らないほど、税金を不当に自分の給与にしてしまった沢山の者達(働きもせずに大企業の重役並の給与を受け取っている者は少なくない)はじめ、税金の無駄使いを平気でやっている者達の罪は大きいが、我々も無罪ではないのだ。

因幡の源左(いなばのげんざ)という、江戸末期の農民は、19歳で父親が亡くなる時、父親に、「これからは親様を頼れ」と遺言される。
親様とは、仏様・・・具体的に、阿弥陀如来であると思う。
源左は、初めはどうしていいか分からなかったが、草運びをしている時、牛を可愛がっている源左は、牛に草を担がせると共に、自分も一束担いだ。
しかし、どうにも身体が持たなくなり、「すまない」と言って、自分が担いでいた草も牛に担がせると、牛は全く平気である。
それを見て、源左は、自分の荷は阿弥陀如来に任せれば良いという、キリスト教の教えと同じものに行き当たる。
インドの聖者ラマナ・マハルシも「列車に乗ってまで、自分の荷物を頭に乗せて苦労する必要がどこにあろうか。同じように、全てを神に任せて安心しなさい」と教えた。
我々も、それを学ぶべきである。
ただし、スーフィーの格言にある、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
を忘れてはならない。
草は牛が運ぶが、草を刈るくらいのことはしなければならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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