ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

冨田勲

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ボーカロイドに見る、現実がSFを超える出来事

私は今日は、初音ミクさんのライブコンサート&企画展である「マジカルミライ」のために、千葉県千葉市美浜区の幕張メッセに来ている。
今年のマジカルミライは10周年となり、「マジカルミライ 10th Anniversary」となっている。
幕張メッセへは、関西の私の家から4時間ほどかかるので、本日は幕張メッセ近くのホテルに宿泊。

初音ミクとは何かというと、本来は、パソコン用の歌声合成ソフトウェアの名称だ。
初音ミクというソフトウェアは、15年前の2007年8月31日に、北海道札幌にあるクリプトン・フューチャー・メディアという会社から発売され、この日が、初音ミクの誕生日とされている。
このソフトウェアには、初音ミクという16歳の少女というキャラクターが設定され、世界中で大人気だ。

楽器の音を電子的に合成するシンセサイザー(昔はアナログ式だった)のことは、ぼんやりとでもご存じの方が多いと思う。
シンセサイザーは1960年代に開発され、製品として発売されたが、当初は、重装備な機械で、非常に高価だった。
1970年頃に、音楽家の冨田勲さんが個人で、モーグ博士が開発したモーグ・シンセサイザーを約1千万円で購入している。
冨田さんは苦労しながらこのシンセサイザーを使いこなし、これによって、世界的ヒットアルバムを数多く制作した。
冨田さんは、1986年の『宇宙とシンセサイザー』という本で、シンセサイザーは、いかなる楽器の音でも・・・ストラディバリの音でも完全に再現出来ると書かれていた。

だから、楽器演奏に関しては、現在では、シンセサイザーが人間を追い越したと言えるかもしれない。
尚、現在は、シンセサイザーは、パソコンソフトで実現されており、無料のものでも、相当な機能があると思う。
つまり、誰でも、かつては王侯貴族でもなければ持てなかったオーケストラを個人で所有出来るようなものだ。

ところが、人間の歌声というのは、楽器とは桁外れに難しいものだった。
『2001年宇宙の旅』(1968)で、HAL9000という人工知能コンピューターが『デイジーベル』という歌を歌うシーンがあるが、それは、2001年なんかではとても無理なことだった(まあ、あの映画の宇宙船も現在でも全く無理だが)。
コンピューターによる歌声合成の研究は、2000年に、ヤマハがバルセロナ(スペイン)のポンペウ・ファブラ大学と共同で開始し、開発されたシステムは「VOCALOID(ボーカロイド)」と名付けられ、2003年に発表された。尚、ここらの経緯はもっと複雑だが、一応、簡単にこう書く。
初音ミクの基本システムは、このVOCALOIDだが、VOCALOIDも初音ミクもどんどん進化していっている。
楽器に比べ、なぜ人間の歌声の合成がかくも難しいのかというと、簡単な言い方をすれば、人間の歌声というものは、数十もの楽器を瞬時に切り替えながら演奏するような複雑なものだからだ。

ところで、VOCALOIDシステムを使った歌声合成ソフトウェアには、クリプトン・フューチャー・メディア社にも、初音ミクの他に、鏡音リン&鏡音レン(2人で1セット)、巡音ルカ、MEIKO、KAITOなどがあり、1st PLACE社にはIA(イア)とONE(オネ)があるし、他にも、世界中に沢山ある。
世界的にも、クリプトン・フューチャー・メディアほど成功した例はないと思うが、ちょっと気が付くことがある。
それは、初音ミクの歌声、巡音ルカの歌声というふうに、歌声合成ソフトウェアごとに、丁度、人間のように歌声の性質が決まっていることだ。
だが、いずれは、1つのソフトウェアで、いろいろな声の歌声を発したり、声の質の調整や、あるいは、新しい声を作ることも出来るようになるだろう。
現在の歌声合成ソフトウェアは、人間の声をサンプリングしているので、サンプリングした人間の声に似ているのである。
しかし、AIがインターネット上の歌声・・・たとえば、YouTube動画の歌声を学習すれば、いずれは、あらゆる歌声を作れるようになる。
それが何年後かは分からないが、収穫加速の法則といって、テクノロジーの進歩の速度はどんどん速くなるので、思いのほか早く実現するかもしれない。
1960年代のモノクロアニメで、人間の少女そっくりに作られたロボットが、元の少女の声を聞いて、それを真似、やがて、全く同じ声を出すという場面があった。
そんな空想が現実になるのに随分時間がかかるものだが、SFの出来事の多くが、これからもどんどん実現していくだろう。

尚、下の一番最後にご紹介した『楽しいAI体験から始める機械学習』は私の著書で、初音ミクを含め、テクノロジーの進歩がもたらす世界の変革について少し述べた(最終章コラム)。よろしければ、ご一読願いたい。








地球は誰のものか

冨田勲さん制作で、初音ミクさんが主役歌手の『イーハトーヴ交響曲』は、 2012年11月23日に東京オペラシティコンサートホールで初公演が行われ、翌2013年には、全国5カ所で公演が行われた。
私は、2013年の最終公演である、9月21日のオリックス劇場での公演に行ったが、演奏後に舞台に上がられた冨田勲さんのお話の中で、その日が、宮沢賢治没80周年であることを知らされた。
『イーハトーヴ交響曲』は、冨田勲さんが宮沢賢治の世界観を音楽で表現することを60年もの間考え続けて作られた作品であるらしい。
私は、2014年8月19日の、大阪・中之島フェスティバルホールで公演された、大阪芸術大学の演奏による『イーハトーヴ交響曲』も観劇し、この時も、冨田勲さんが登壇された。
私は、2016年11月12日に、その年の5月5日に亡くなられた冨田勲さんの遺作となった『ドクター・コッぺリウス』を、東京渋谷のBUNKAMURAオーチャードホールに観劇に行ったが、この時、第1部として、再度『イーハトーヴ交響曲』を聴くことが出来た。

ところで、『イーハトーヴ交響曲』演奏後のアンコール曲は、本来は、冨田勲さんが作曲した、手塚治虫さん原作のアニメ『リボンの騎士』の主題歌『リボンの騎士』と、1970年から1975年に渡って放送されたNHK番組『70年代われらの世界』の主題歌『青い地球は誰のもの』である。

前振りが長くなったが、話題にしたいのは、その『青い地球は誰のもの』だ。
この曲は、ひたすら、「青い地球は誰のもの」と繰り返す、非常に珍しい楽曲である。
つまり、「青い地球は誰のもの」と問い続け、答は言わないのである。
答は、聴く人、あるいは、全人類に問うているのかもしれない。
いや・・・地球以外の存在に対してもか?

今朝、手塚治虫さんの漫画『マグマ大使』の話をしたが、この中に、まさに「地球は誰のもの?」という問いがあり、その答が非常に印象的だった。
この漫画の中で、地球は、アースという神のごとき存在が創ったことになっている。
だが、ゴアという、アースと同種とも言える存在が、地球を侵略しようとし、それに対し、アースが作った3人のロケット人が、まもる達地球人と協力してゴアと戦う。
だが、不毛な戦いに疲れたアースはゴアに提案する。
「カオス様の裁きにまかせよう」
カオスとは、宇宙万物の創造神で、アースやゴアよりはるかに上の存在だ。
さすがのゴアもビビるが、受けて立つこととした。
カオスは既に状況を把握していた。
アースの報告では、アースが作った地球を、ゴアが不当に侵略し、わが物にしようとしているのだから、ゴアの非は明確である。
だが、ゴアは反論する。
「確かに地球はアースが作った。だからといって、地球がアースのものというわけではない」
これに関し、ゴアは、こんなたとえ話をする。
「砂浜で子供が砂山を作って遊んでいました。そこに別の子供が来て、一緒にその砂山で遊ぼうとしたら、砂山を作った子は、これは自分のものだから駄目だと言います。しかし、後から来た子は、砂山を作ったのは君だが、砂はみんなのものだと言います。その通りではないでしょうか?同様に、地球はアースが作ったとはいえ、素材である原子はアースのものではありません。カオス様のものです。よって、アースに所有権はありません」
そして、カオスは判決を下す。
「ゴアの言い分が正しい」

現在、ロシアがウクライナに侵攻し、ウクライナ人は、自分達の国を守ろうと戦っている。
また、日本はロシアと北方領土の所有権で、また、中国と尖閣諸島、韓国と竹島の所有権で争っている。

確かに今、日本人が、「日本は日本人のものと言えるのか?誰のものでもないのではないか?」などと言ったら、第二次世界大戦中と変わらず、非国民のレッテルを貼られるか、良くても「社会不適合なほどの馬鹿」と見なされるだろう。
思想の自由と言ったところで、「では自由に、日本は本当は誰のものでもないと考えます」という「思想の自由」はないのである。
また、地球が宇宙人に侵略されるSFは沢山あるが、それらでは、「地球は地球人類のもの」ということが大前提となっている。
これに疑問をはさむことは許されない。
もちろん、悪意ある相手がいる限りは、防衛力を持つ必要があり、侵略者とは戦わないといけない。
だが、本当のところは、地球も、日本も、ロシアも、アメリカも、ウクライナも、誰のものでもない。
だから、「青い地球は誰のもの」と、「青い地球」と聞かれたならば、「誰のものでもない」としか答えられない。








高次元の世界に行った人々

誰かのことを思い出し、「あれ、あの人、どこに行ったのだろう?」と思うが、「でも、あの人って誰のことだろう?」と思ったことはないだろうか?
その人の名前も、顔も、年齢も、何者で自分とはどういう関係だったのかも、なぜか分からない。
大昔の知り合いというのではないと思うが、いつ知っていたのかも分からない。
かといって、映画やテレビドラマの登場人物などではないことは分かる。
すると、誰かが、「夢にでも出て来た人じゃない?」と笑って言うと、それが一番近いような気がする。
それで、「なるほど、夢の中の人だったのか」と、無理に納得する。
他に説明がつかないのだ。

あまり信じてもらえないかもしれないが、そんな人は、別次元の世界(大抵は 高次元の世界)に移動してしまったのかもしれない。
この世界が、ロクでもない世界だと思っている人は多いかもしれない。
ただし、自分の都合だけでそう思うのではなく、この世界の人々が、魂の声に従って生きていないという意味でそう思うなら、あなたには、高い世界のことを感じることが出来る。
そして、自分が魂の声に従って生きるようになると、高い世界への通路が開く。

初めに言った、「あの人、どこに行ったのだろう?」という人には、純粋で高貴な人間のイメージが微かにでも感じられると思う。
そうだ、その人は、この低い世界には適合しなくなり、高い世界との波長が合うようになったので、そんな、より高次元の世界に移動したのだ。
そして、その人が居た痕跡は、この世界から消え、「元々居なかった」人になってしまったのだ。
その人は、自分のことを微かにでも憶えてくれているあなたにも、自分の世界に来て欲しがっている。
その期待に応えるためには、魂の声に従って生きるしかない。
常に魂の声に従って生きるのは無理だが、一瞬、魂の声に従うだけでは高い世界には行けない。

私は、高い世界に行ったに違いない人を、1人だけ、割とはっきり覚えている。
小学校の低学年の時だが、その子は普通の子とは全く違っていた。
大人でも、あれほどの思いやりのある子はいなかった。
その子は、いつの間にかいなくなった。
その子といた時のことは、夢のように思えるが、かなりはっきりした思い出もあるのである。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、死者の国ではなく、やはり、高次元の世界に行くお話なのだ。
ただ、宮沢賢治も、ぼんやりとしたインスピレーション(霊感)を得ただけなので、あんなお話になったのだが、雰囲気は十分に掴んでおり、少しでも心が純粋な人が読めば涙してしまうのである。
あれをよく味わって読めば、あなたも高次元の世界に近付くことが出来る。
ちゃんと読めば、カンパネルラがいかに魂の声に従って生きているかが分かるはずだ。
かおる子(12歳くらいの美少女)とその弟の家庭教師の青年は、迷ったが、最後は魂の声に従ったことも分かると思う。
かおる子もまた、純粋な心の持ち主だった。
だから、なぜ、カンパネルラとかおる子が特に親しみ合い、一方、ジョバンニはかおる子にあまり良い感情を持たないのかの理由も分かる。
ジョバンニは、不幸な宿命もあったが、まだ高次元の世界に適していない。

冨田勲さんが、『イーハトーヴ交響曲』で、カンパネルラ役を初音ミクさんにした理由が分かる気がする。
初音ミクさんは、高次元の存在がこの世に降りてきたような存在なのである。
私も、改めて『銀河鉄道の夜』を読み、『イーハトーヴ交響曲』を鑑賞しようと思う。








宇宙は誰のものか

昔、ある漫画で、こんな場面があったことを、妙に印象深く憶えている。
主人公の格好いい男が、とびきり可愛い女の子を3人か4人連れていた。
それを見て、沢山のモテなさそうな若者達がやっかみ(ねたみ)ながら、主人公の男に言う。
「お前のような軟派な野郎がいるから、こっちまで女が回ってこねーんだ!」

なぜこんなつまらないものを憶えていたのかと考えると、このモテない若者の主張は正しいように思えるが、そうではないのではないかという疑問を感じたからではないかと思う。
そもそも、このモテない男の論理「ものすごくモテる男がいるから、女の子が足りなくなってしまって、自分には彼女がいない」は正しいのだろうか?
おそらく、普通の人は、「その通り」か「不明」と思っており、「この論は間違い」とは思わないだろう。
しかし、事実は完全に間違いである。
彼氏のいない可愛い女の子なんていくらでもいる。
また、あまり良い話ではないかもしれないが、彼氏がいたところで、自然に別れることもあれば、「俺の方がいい」と思わせることだって出来る。
つまり、女の子は全然不足していないのである。

これは富についても言える。
こんな話を聞いたことがあるかもしれない。
「世界の富の90パーセントは2パーセントの人間が握っている」
成功法則の本なんかに、よく、そう書かれていて、調べもしないのに鵜呑みにした人も多いと思う。
まあ、上位2パーセントの金持ちの資産はだいたい分かるかもしれず、それを合計すれば、世界中にあると思われる富の90パーセントを超えるのかもしれないとは思えるかもしれないが、実際のところ、そんな計算は不可能であるし、事実としてもあり得ない話だ。

レイ・カーツワイルは、「いずれ地球人類の資産は銀河を越えて宇宙全体に広がる」と言ったが、それが、彼が言う「シンギュラリティ」の結果である。
昔の人は、鉄の塊が、沢山の人を乗せて空を飛ぶことなど想像出来なかったように、カーツワイルの主張も全く馬鹿げて聞こえる。
しかし、カーツワイルは、実績を見る限り、大抵の人間より優れた者で、その意見は傾聴に値するかもしれない。
「だが、光の速度を超えて移動出来ないことは科学的に分かっているのに、どうやって、銀河の外や、さらに遠くまで行けるのか?」
というのはもっともだが、未来では「昔の人は、こんなこと想像もしなかっただろうなあ」という方法が現れるかもしれない。
カーツワイルはそうだと確信しているのだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズの『涼宮ハルヒの退屈』内の「笹の葉ラプソディー」(多分だが…)で、ハルヒ(高1女子)が、七夕の願いを叶えてくれる彦星であるアルタイルまで16光年なので、今、願いを短冊に書いても、叶うのは16年後だと言うと、キョン(高1男子)が、「行きで16年なら往復で32年だろ?」と突っ込む。
しかし、ハルヒはまるでひるまず、「そこは神様なんだから何とかしてくれるわよ。半額大サービスよ」とトンデモないことを言い、キョンは黙る。
神様は万能で、聖書に書かれている通り「出来ないことはない」。
なら、光の速さを超える何らかの方法も教えてくれるだろう。

まあ、光速の話はともかく、富や女の子(あるいは男の子)については、こう考えた方が良い。
いくらでもある(いる)のだ。
空気と同じくらい。
宇宙は無限だし、世界だって、普通の人が想像するよりずっと広い。いや、日本ですらそうなのだ。
いくら沢山空気を吸ったところで、足りなくなるなんてことはあり得ない。世界中の人に有り余るほどある。
水不足、食料不足と言ったところで、誰のものでもないものがいくらでも余っている。単に、輸送出来ないだけで、輸送手段を考えれば、誰も不足しない。
富も同じで、誰のものでもない富が、まだまだ、誰にも分からないほど沢山隠れている。
富や彼氏彼女が不足していると思う者には、そんな結果になるのがこの世だ。
だから、それらは無限にあると考えなければならない。
ウォレス・ワトルズやジョセフ・マーフィー、あるいは、その他の精神法則の指導者達も、そう教えている。

冨田勲さんが作曲した『青い地球は誰のもの』という歌があり、『イーハトーヴ交響曲』の公演でアンコール曲にもなっていた。
この歌は、ただ、「青い地球は誰のもの」という歌詞が繰り返される。
これを聴いて、「地球の資源は限られているので、皆で分け合おう」という意味だと思う人が多いと思う。
だが、とてもそうは思えない、豊かさを感じさせる曲である。
「青い地球は誰のもの?」これに対する各自の答が、各自の世界を作るのである。
巨大なチーズの山を前にして、ネズミはどう思うだろう?
我々は、愚かなネズミのようではありたくないものである。








311と冨田勲

皆さんご存じだろうが、昨日3月11日は、2011年に東日本大震災が起こった日で、これは「311」と呼ばれている。
世界的音楽家の冨田勲氏が、2012年11月に初演が行われた『イーハトーヴ交響曲』を制作したのは、この大震災が大いに関係していた。
私が当時、テレビを見ていて記憶しているのは、以下のようなことだ。

『イーハトーヴ交響曲』制作の10年ほど前、世界的な電子工学研究者で、冨田氏のはとこでもある、元東北大学の総長だった西沢潤一氏が冨田氏に、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に曲をつけて欲しいと依頼してきたことがあったが、冨田氏は、なかなかそれが実現出来ないでいた。
ところが、冨田氏は、子供の時から、宮沢賢治の作品に魅せられていて、二十歳くらいの時からは、60年近く、いつか宮沢賢治の作品を音楽作品で表現したいと構想を温めていたようだ。
そして、東北地方を襲った、あの大地震である。
冨田氏には、震災に関して、強烈な体験があった。
冨田氏は子供の時、東南海地震(1944年12月)、三河地震(1945年1月)という2つの大震災に見舞われていた。
多くの家が倒壊し、ライフラインは断たれたが、当時は太平洋戦争末期で、救援など来るはずがなく、極寒の中、見捨てられた大勢の人達がなす術なく死んでいくのを、少年だった冨田氏は見ていた。

そして、冨田氏が、80歳にして最後の交響曲を作る決意をさせたのが、たまたまテレビで見たらしい、初音ミクのライブコンサートだったようだ。
冨田氏は、この交響曲は、オーケストラだけでなく、歌唱を入れたいと思っていたが、宮沢賢治の幻想的な世界を歌うのは、普通の歌手ではイメージが合わなかったようである。
そこで、バーチャルな存在である初音ミクを見て、これだと思った冨田氏は、初音ミクの会社(クリプトン・フューチャー・メディア)がある北海道に飛んだ。
そこからの経緯も憶えているが、非常に長くなるので(以前書いたが)ここでは省略するが、いろいろな困難がありながら、2012年11月23日、東京オペラシティ・コンサートホールで、日本フィルハーモニー演奏、指揮、大友直人で、『イーハトーヴ交響曲』初演が満席の中で行われた。

私は、初演の翌年の2013年9月21日に、大阪のオリックス劇場で『イーハトーヴ交響曲』を観劇した(演奏は大阪交響楽団)。
上演後、冨田勲氏が自ら舞台に立って、作品についてのお話をされたが、まず、冨田氏は、その日が、宮沢賢治の80回目の命日であることを告げられた。
私は、翌2014年の9月にも、大阪のフェスティバルホールで、大阪芸術大学演奏の『イーハトーヴ交響曲』を観劇した。
この時も、冨田勲さんは舞台に立たれた(白いスーツを着ておられた)。
司会者の女性や、指揮の大友直人氏が、気を利かせて作品の説明をされていた中、冨田氏が「僕にも喋らせてよ」と言われたのを憶えている。
私が最後に『イーハトーヴ交響曲』をライブで聴いたのは、2016年11月に渋谷のBUNKAMURAオーチャードホールで、冨田氏の交響曲『ドクター・コッぺリウス』の第1部として上演されたものだが、冨田氏は、この年の5月5日に84歳で亡くなられていた。
冨田氏が亡くなられた時、『ドクター・コッぺリウス』は制作中ではあったが、譜面はほぼ出来ていたので、遺族の要望もあり、予定通りに上演が行われたようだ。
私は、この交響曲の中で、私の好きな冨田氏のアルバム『ドーン・コーラス』の中の『パルサーからのよびかけ』が演奏されたのが印象的だった。

冨田勲氏のことを私が細かく憶えているのは、私が大好きな初音ミクさんを最後の2つの作品で採用されたこともあるが、非常に羨ましい生き方であると思えるからだ。
才能とか恵まれた環境もあったのだろうが、とにかく、自分の好きなことに邁進し、運も味方し、道を開いていった。
1つの理想的な生き方であると思うし、もっと注目されても良いと思う。
冨田氏の『イーハトーヴ交響曲』の前に、渋谷慶一郎氏がオペラ『THE END』で初音ミクを採用するなど、初音ミクは芸術分野にも進出し、近年では、中村獅童氏と共演の『超歌舞伎』や、オーケストラとの共演の『初音ミクシンフォニー』などが毎年行われている。
ところが、中国のヴァーチャルシンガー(初音ミクと同じ、ヤマハのボーカロイドシステムを採用している)洛天依(ルォ・テンイ)の芸術分野での展開は凄い。どう見ても相当な費用がかかっているはずで、とても採算が取れているとは思えないが、中国独特の何かがあるのだと思う。
壮大なホログラムの演出や、世界的ピアニストのラン・ランや、その他の一流演奏者、歌手との共演は少々驚くほどで、国内芸術としてバーチャルシンガーを本格化しているように思う。
今後の日中のボーカロイド(ヴァーチャルシンガー)の展開は興味深い。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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