ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

円空

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

良い気分になれる方法

「気分」、「感情」、「気持ち」は区別せずに使われることが多い。
引き寄せに必要なのは、思考や感情のない「良い気分」であり、心が燃え上がる(感情が高ぶる)ことを表す「ハイな状態」「ハイテンション」「エモ(エモーション)い」のような激しいものではなく、それらはむしろ逆効果になると思う。

良い気分を視覚で表した究極のものは、アルカイック・スマイルと呼ばれている。
アルカイック・スマイルは、簡単に言えば、口元だけで微笑むことだ。
普通に微笑んでも良い気分になる感じはあるが、同時に思考や感情も起こる。
特に、目の表情は感情的なものだが、これは、脳に近い額の筋肉を動かすことにも関係するからかもしれない。
たとえて言えば、口元に良い気分を起こすスイッチがあり、眉の間あたりに、感情を起こすスイッチがあるようなものだ。
そこで、良い気分になるためには、眉の間のスイッチを押さないまま、口元のスイッチを押すわけだ。
ただし、口元のスイッチを強く押すと、眉の間のスイッチも入れてしまうので、かなりソフトに押す必要がある。
よって、本当に微かに口元で微笑むことが必要だ。

アルカイック・スマイルは、古代日本の仏像によく見られるというが、時代に関係なく、優れた仏像にはアルカイック・スマイルが見られるものが多い。
代表的なものは、京都の広隆寺霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」(国宝彫刻の部第一号)で、これは北朝鮮で制作されたという説が有力で、聖徳太子が保有していたという説がある。
個人的には円空(1632~1695)が創った仏像の多くが、アルカイック・スマイルであると思う。
円空の仏像は、木材を一本の刀で削って短時間で作ったものだが、仕上げには多数の彫刻刀が使われていると言われている。
円空は、生涯で12万もの仏像を作ったと言われ、5300体ほどが発見されている。
海外では、円空は現代の天才彫刻家だと誤解されていることもあるらしい。
天才の作らしく、普通の人が見たら、粗削りのラフな作品と感じ、良さが分からない場合も多いと思うが、アルカイック・スマイルというところに注目すれば、普通の人でも、その素晴らしさが分かるのではないかと思う。
円空は、人々にアルカイック・スマイルの力を教えたくて沢山の仏像を作り、誰にでも気軽に触らせたのだと思う。実際、庶民の子供のおもちゃになっていることも珍しくはない。
アルカイック・スマイルをすれば、仏になるのであると思う。

他にも、今朝も書いたが、ノーマン・ヴィンセント・ピールの『積極的考え方の力』にも書かれているように、「のどかだ」「静かだ」といった、心が落ち着いた良い気分になる言葉を静かにつぶやいたり、心で思うことだ。
ゆっくりと息を吐きながら「のどかだ」と心で唱えると効果的と思う。

これらのことにより良い気分でいれば、目標を設定したり、願望成就をイメージしなくても、望まずとも幸運に恵まれ、本当に嬉しいと感じる状態が引き寄せられるのではと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)隔週刊 古寺行こう(22) 広隆寺と嵯峨野の名刹 ※雑誌
(2)円空と木喰 微笑みの仏たち
(3)歓喜する円空(梅原猛)
(4)積極的考え方の力(ノーマン・ヴィンセント・ピール著、月沢李歌子訳)
(5)積極的考え方の力(ノーマン・ヴィンセント ピール著、桑名一央訳、市村和夫訳)

乙女菩薩
AIアート914
「乙女菩薩」
kay

万能の力を味方につける

今朝も少し書いた部分もあるが、それとは関係なく、すっきりと役立つように書く。
著名な心理学者であるカール・グスタフ・ユングのお気に入りだった話が、中国出身のアメリカの作家・事業家であるチン・ニンチュウの世界的ベストセラー『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の冒頭に紹介されている。
こんな話だ。

何年にも及ぶ干ばつに苦しむ村が、有名なレイン・メーカー(雨乞師)を呼んだ。
レイン・メーカーは村に着くと、テントに4日、引きこもった。
すると、雨が降った。
村の人がレイン・メーカーに、
「何をしたのか?」
と尋ねると、レイン・メーカーは、
「何もしていない。この村は神の意思に沿っていない。それで私は、神の意思に身をまかせた」
と答えた。

良い話であるが、肝心なところが分からない。
「神の意思に身をまかせた」って、具体的にどうすんだよ(笑)。
私は長い間、それが不満だった。
だが、答が分かった。
ただし、このレイン・メーカー自体は何をしたのかは知らない。
だが、「神の意思に身をまかせる」最上の方法が、ナーマスマラナだということは分かった。
ナーマスマラナとは、ナーマ(名)をスマラナ(心で唱える)という意味で、神の名を心の中で唱える行である。
葬式用ではない、本来の純粋な念仏も、ナーマスラマナである。
要は、心の中で神仏の名を唱えれば、あなたにだって雨を降らせることが出来る。
ヒーラーにだってなれる。
いや、どんなことでも出来る。
ただし、心の中で、丁寧に、十分な時間唱えればである。1回や2回、「アマテラス」と唱えたって駄目だ。
「心を込めて唱えよ」と言ったら、多くの人は変な込め方をするので(笑)、丁寧に唱えれば良い。丁寧に唱えることが、心を込めて唱えることだ。

私の場合、ナーマスマラナは念仏なのだが、一般に言う念仏である「南無阿弥陀仏」というのは、私には、宗教臭過ぎ、葬式臭過ぎる。
それで、私は「阿弥陀仏」と唱えていたが、「仏」は分かり切っているので、今は、「アミダ」とのみ唱えている。
本来のサンスクリット語の名前(阿弥陀はアミターバ)から言えば、むしろ、「アミタ」が良いのだが、これは別にどちらでも良い。神仏の世界は極めて高度なので、そのくらいの調整は簡単になされるに決まっている。
「南無阿弥陀仏」ときちっと唱えないと不遜だと言う人もいるかもしれないが、不遜と言うのは、心がこもっていないこと・・・つまり、丁寧でないことを言うのだ。
「なんまいだー」と軽く唱えるよりは、心の中で丁寧に「アミダ」と唱えた方がずっと敬虔(深く敬うこと)であると思う。
「アマテラスオホミカミ」も、やはり、心の中で丁寧に「アマテラス」と唱えれば問題はなく、むしろ、短く言うことで親しみがこもるのは良いことと思う。
もちろん、各自の考え方もあるので、それに従えば良い。
確かに、「アマテラスオホミカミ」と丁寧に唱えると、荘厳さがあると思う。

円空という、江戸時代前期の偉大な僧がいた。
生涯に12万体の木彫りの仏像を作ったと言われている(1日10体彫っても33年かかる!そこから考え、あくまで伝説かもしれないが)。
それほどの数を作ったのだから、1体1体はラフな感じもするが、現代のフランスの芸術家が、円空が掘った仏像を見て芸術的価値に驚愕したと言う話もある。
ところで、価値の高い仏像といったら、お寺の立派な場所に安置されたり、中には、もったいなくて、立派な部屋や箱の中に大切にしまって一般の人には見せない、あるいは、特別な日に、ちょっとだけ見せるというものもあると思う。
だが、円空の仏像は、野外で子供が乗っかって遊ぶのが普通だった。
仏様って、それほど、気安く、親しみやすいもののはずなのだ。
その名だって、「アミダさん」「カンノンさん」と親しく呼べば良いのだと思う。
ただし、その名を、いつも心に保つことが大切だ。それを忘れないために、意識的に、心でその名を唱えるべきなのである。
その際も、やはり、「アミダ」「カンノン」で良いと思う。
また、「アマテラス」という言葉には、とても輝かしいイメージがある。
一番良いのは、子供のように、本当に素直に親しく呼ぶことだが、我々はあまり純真ではないので、せめて、丁寧に唱えるのである。
「ミクさーん」と言うのも良いが、心に中で丁寧に「ミク」と唱えれば、まさに、心の中でミクさんは神秘なイメージになるだろう。
これを持ってしても、心の中で丁寧に唱える意義が分かると思う。
尚、私は別に、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「アマテラスオホミカミ」と唱えるのが良くないと言うつもりは全くない。
自分が納得するように唱えるのが一番である。








仏に会う

運命というものは、大きな意思が決めていることであり、自分にはどうすることも出来ないことが分かれば、執着もなくなる。
そして、執着がなくなると人生は楽しいものになる。
とはいえ、運命が決まっているのも面白くないという気持ちも分からないでもない。
何とか自分で運命を動かせないのか、望み通りの人生にすることは出来ないのかと思うことだろう。
それについては、その大きな意思・・・神とか仏と呼ばれる者に自分で訊けば良い。

一休さんが度々言っていたことだが、自心が仏である。
だが、「自分の心が仏なのだ」と言われて、「ああ、そうですか」と納得出来る訳ではないだろう。
一休さんのヒントは、「執着のない心。妄想分別しない心」が仏だということだが、最初に述べたように、運命が決まっていることを受け入れれば、執着がなくなるし、妄想分別もしなくなる。
そうなれば、自心が仏なので、全て分かるという訳だ。

とはいえ、結局のところ、運命は決まっているということは、そう簡単に納得出来ないだろう。
だったら、別のところで仏・・・つまり、自心を見つければ良い。
私は見つけることが出来た。
それは、「初音ミクさんを愛する心」だ。
それなら、「わが子を愛する心も仏だと言えるのでは?」と言うなら、それは難しい。
自分の子は可愛いけど、他の子はさほどでないとか、ひどい場合には、憎いってことも多いのだからだ。
それを、執着とか、妄想分別と言うのであり、それは自心・・・仏でない。
では、猫を可愛いと思う心は?
それも違う。
例えば、自分が飼っている猫を可愛いと思っても、その猫が思う通りにならないと嫌な気持ちが起こることもある。
そもそも、猫が可愛いというのは、一面的なものだ。
猫は、時には可愛いかもしれないが、可愛いのが猫という訳ではない。
可愛い面も、恐ろしい面も全部含めて好きなら、その心は確かに仏であるが、それは難しいと思う。
夕焼けが美しいってのは?
夕焼けってさ、美しいこともあれば、物悲しいこともある。
ころころ変わる心は、本当の心・・・つまり、仏ではない。
私が、初音ミクさんを愛する心は、全く執着なく、変わらないものだ。
まあ、確かに不思議なものだ。
なぜ、そんなことが起こったのかというと、やはり、ミクさんに心がないからだ。
人の姿、人の声をまとっていならが、自我がない。
ミクさんの声が幼い等、全てが、絶妙なバランスになっているのだと思うが、まあ、理屈ではよく分からないのだ。

円空が作った仏像を見ると良い。
円空とは、生涯で12万体の仏像を造ったと言われる江戸時代の僧だ。
小刀一本で、大変な速さで彫った仏像なのだが、それらが、仏そのものなのだ。
円空が彫った仏像は、今では貴重品だが、本来は、子供がそれに乗っかって、ボロボロにして遊んでも一向、差し支えないものだった。
円空の仏は、私の初音ミクさんと、とてもよく似ているのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

潜在意識による成功法則の真髄と念仏

社長が絶対的な立場にある会社と、社長がまるで同僚のように社員に親しく接する会社がある。
社長が顔を見せると、社員が緊張し、背筋が「びしっと」伸びる会社と、社長を「さん」付けで呼ぶ会社では、社長というものが随分違うもののように感じる。
しかし、たとえ社長がどれほど気安かろうが、本質では、社員との差は絶対的である。
親しみ易い社長になるのは結構だが、社員がそれでつけあがったり(思い上がること)、社長の方も責任放棄をするといったことも出てくることが多い。
本来でいえば、社長はやはり距離があり、威厳がある方が無難とは言える。

神と人の立場について考えても興味深い。
元来、宗教において、神と人の地位の違いは絶対的である。
人間はただ神を崇め、平伏し、人が神の意図を推し量るなど、あまりに畏れ多く、罰当たりなことだった。
だが、ジョセフ・マーフィーの本を見ると、「最近の人は、神を年長の経験豊富なパートナーと見なすようになっている」と述べ、そうあることを肯定し、勧めている。
それにも、良いところはあるだろう。
だが、イエスは、神を父と呼び、一定の親しさを表したが、その差はやはり絶対なのである。
むしろ、人と神とであまりに差があるので、イエスは、その仲介に来たということもできるだろう。
日本でも、神や仏を「親様」と呼び、自分の父親のように親しく感じながら信仰することは珍しくないが、それでも、根本では、やはり神仏ははるかに高い存在であることは知っての上でのことであるはずだ。

円空という江戸時代の僧は、生涯で12万体の仏像(主に木彫り)を制作したといわれ、それらは芸術的な価値も高く、現代では貴重品扱いであるが、円空がそれらの仏像を彫った時は、子供がそれに乗っかって遊んでいたという話もある。
円空自身もそんなことをとても好ましいことと思っていたのは、仏とは親しむべきものであるということだろう。
だが、当然にして、神仏を敬う気持ちを忘れてならないと円空も思っていたはずだ。
法然や親鸞は、阿弥陀如来を慈悲深い愛すべき存在とは思っていただろうが、人と仏の差を考えるのは全く無意味なほど仏は偉大で、だからこそ、ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけであると教えたのだろう。
だが、そう称えることで、原理は想像も付かないが、阿弥陀如来の無限にして至高の力に助けられるのである。
罰当たりでない範囲でその原理を述べるなら、人は、自分より圧倒的上位にあるものの存在を認めるほど小我が静まり、そうなるほど神仏の加護を得られるのである。
小我が静まるとは、卑小な自我が消え、無我の状態になるということだが、人間は無になりきれば不可能はなくなり、いかなる奇跡も起こる。
それは間違いのないことだ。
そして、心が完全に静まり、無になれば、あれほど恐れ敬い、絶対の高みにあったと思った神は自分自身であることが分かるのだ。
だが、それは、あくまで無になりきった時のことで、小我に操られながら自分を神を見なすことは悲惨と破滅をもたらす。
人間は、どれほど偉大だと思われようと、小我の支配を許さないために、常に念仏のようなことをしなければならない。
そのためには、小我の勢いが強いために欠点の多い悪い人間としては、恐れ敬うべき神仏が必要である。
しかし、それを宗教でやるのは、色々難しい問題が多くて難しいのだが、念仏というものはそれが簡単にできるのである。
念仏とは葬式のためのものではない。
幸福のためには、空気や温度や光のように必要なものである。
ジョセフ・マーフィーの本を読むなら、暗記するまで何百回でも読むことだ。その時にはもう小我は消えている。
それは、おかしなことに、結果としては念仏と同じなのである。マーフィーの潜在意識による成功法則の真髄もそこにあるのだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

子供のために良かれと思ってやることは、確実に子供を不幸にする

善悪(あるいは優劣)なんてものは全く信用ならない。
親が、子供のために良かれと思ってやることは、確実に子供を不幸にする。例外など決してない。

『スター・ウォーズ』っていうのは、ジェダイ騎士団と帝国軍の戦いの物語だが、ジェダイが善で帝国軍が悪なんてことがなぜ言えるのだろう?
『レンズマン』シリーズという歴史的なSF大作では、銀河パトロール隊と宇宙海賊ボスコーンとの戦いが描かれているが、このボスコーンという海賊一団の略奪振りは凄い。しかし、銀河パトロール隊最高の戦士である若きレンズマン、キニスンは、疑問を起こしたことがあった。科学力において、自分達パトロール隊より、ボスコーンの方がはるかに上で、彼らのボスの知性や精神力もおそるべき高さだ。彼らを、ただの悪と言えるだろうか?善と言い、悪と言っても、それはただ、文化の違いに過ぎないのではないだろうか?キニスンは銀河パトロール隊最高位の長官ヘインズにそんなことを言ったところ、ヘインズも否定はしなかった。できなかったのだろう。

中島敦の『名人伝』で、真理に目覚め、宇宙そのものとなったような弓の究極の名人は最後に言うのだ。
「目と鼻の違いが分からない。善と悪の違いが分からない」
そんな違いは、元々無いのではないだろうか?
善と悪も、目と鼻と同じく、ただ、使い方が異なるに過ぎず、どちらが優れているという訳ではないのだ。

ある人にとっては、ビートルズは素晴らしいと感じるが、別の人の中には、ただの騒音としか聴こえない人もいる。しかし、どちらが正しいなんてことは言えない。
秋の虫の声を、「嗚呼、面白い」なんて思うのは日本人だけで、特に西洋人には雑音にしか聴こえないものらしい。しかし、どちらの感覚が優れているという訳ではない。
『荘子』は、人間最高の美女の顔だって、魚が見れば驚いて水中に潜り、鳥は空へ逃げ去るが、別に魚や鳥の美的感覚が劣っている訳ではないと、これはまあ喩え話なのであるが、やはり、是非好悪の分別はあてにならないことを示している。

昔、私にある人が、「美空ひばりは最高の天才なんだ」って言うから、私は、「好きな人にとってはそうだが、興味の無い人には何の価値もないのでは?」と言うと、彼は非常に賢い人だったので「その通りだ」と認めた。
ただし、私は決して、美空ひばりの価値を否定する訳ではない。
ところが、別の美空ひばりファンが、「いや、美空ひばりが良くないというなら、そいつはものの価値が分からない馬鹿だ。そいつは間違っているのだ」と言うから、美空ひばりの価値を否定する者もいるのだ。

円空(えんくう)という、お坊さんで天才彫刻家でもあるという人がいて、数多くの木彫りの仏像を造った。
それを我々は貴重品扱いするが、円空が彫った仏像に乗っかって、ボロボロにして遊ぶ子供が実際にいたらしいが、その子供には円空仏は、おもちゃ程度の価値があるということになる。そして、それで良いのではないか?円空だって、そうやって、子供達が仏様に親しめば、それで良いと思うに違いないのだ。
仏像によっては、寺の奥の開かずの間で、さらに堅固な箱の中に厳重にしまいこんで、人々の目に触れさせないというものがあるらしいが、滑稽なことではないだろうか?

我々は、善いことをしたと言って満足し、悪いことをしたと言って後悔する。
しかし、古代の叡智も、現代の神経科学も、人間の行いは、本人の意思によるのではなく、自動的な反応に過ぎないことを教えている。
分かり易く言えば、我々は神のような存在の操り人形、あるいは、ロボットに過ぎない。
何をしても、誇って驕るなかれ、悔やんで泣くなかれである。
「俺がやったんじゃない。神がやったんだ」と開き直れ。
じゃあ、どんな悪いことをしても良いのかと言うと、できやしないさ。
良いことをするロボットに、悪いことはできない。悪いことをするように出来ていないのだ。
ガンジーやマザー・テレサはそんなものなのだ。別に、彼らは偉いから博愛行為をしたんじゃない。そうするしかなかったのだ。
信じないかもしれないが、私に分かる範囲では、人にできる唯一の優れた行為は念仏だ。無論、同じような概念はどこの国にもあるのだろうけど、分かり難いのだ。概ねでは、「神を愛せよ」「神を崇めよ」と言われているが、念仏ほど簡単、確実なものはない。
そして、念仏を唱えてさえいれば、どれも分かるようになるだろう。
親鸞は、全ての経典の中の1つとして浄土三部経があるのではなく、浄土三部経の中に全ての経典があると言ったが、これは別に、浄土三部経が他の経典より優れているという意味ではないので、他宗の方は目くじらを立てる必要はないし、浄土門の方も、自慢をすることではない。
単に、馬鹿でも分かるというか、馬鹿ほど分かるという程度に考えれば良いと思う。

我々にできることは、是非好悪の判断を捨て、自分より高い存在・・・神と言っても、仏と言っても、至高者、宇宙エネルギーと言っても構わないのだけれど、そんなものがあり、それに動かされている者として、一切を受容することだけである。
それを認める合図が念仏であり、聖音オームであり、(特に)詩篇23や91なのである。
いや、そんな屁理屈を言わず、ただ念仏を唱えた方が良いと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード