ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

共同幻想論

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

神を目指すにはいい時代だ

フロイトという有名なオーストリアの精神科医は、人間は本能が壊れている動物だと考えていたらしい。
その根拠はと言うと、他の動物のように、「本能にまかせておけば生きられる」というようになっていないことだ。
それで、壊れた本能の欠陥を埋め合わせる意味で自我が出来たが、自我は頼りなくいい加減で、幻想のようなものだと言った。
フロイトを絶対的に信奉する精神分析学者の岸田秀氏は、この幻想の自我を基盤に生きている人間は、即ち、幻想の中で生きていると断じ、「全ては幻想」という意味の「唯幻論」を唱えた。
すると、岸田氏の本を読んだある男が、岸田氏のところに来て岸田氏を殴り、「全て幻想なら痛くないだろ?」と言ったらしい。
この、「痛くないだろ?」は、もちろん、「本当は痛いだろ?」、「現実は現実であって、幻想ではないことが分かっただろ?」という意味である。
だが、岸田氏は唯幻論を引っ込めない。
笑ってはいけないかもしれないが・・・笑える。

アーサー・ケストラーというハンガリー生まれの哲学者・作家は、人間の脳は、魚類、爬虫類、下等哺乳類の脳を持っているが、理性を司る大脳皮質は、これら下等動物の脳を支配出来ず、逆に、支配されてしまう出来損ないだと言った。
つまり、本能的な欲望を抑えられないし、かっとして戦闘本能に火がつくと暴走を止められないといった訳である。

また、思想家の吉本隆明氏は、やはり、人間は幻想の中で生きているとし、その幻想の種類を「個人幻想」、「対幻想」、「共同幻想」に分け、一切は幻想で、国家も幻想(共同幻想)なのだと言う。

どうも、オツムの良い人達は始末に終えないなあと思う。
彼らも真面目にやっているのだろうが、最初に良い問題提起はしても、それを解決するのではなく、新たな余計な問題を作り続けるのが好きなようだ。
しかし、まとめて言えば、単に、「人間、未熟なうちは馬鹿」でいいじゃないか?
人間は、完全に完成するには時間がかかるし、一生のうちで完成しないかもしれないが、正しい生き方をするなら、若いうちから、それなりに立派なのだ。
問題は、現代社会が、物質主義に偏り、人間の理性を歪めてるということだ。
それで、デカルトって人が、理性を正しく導くガイドとして『方法序説』を書いたが、これがまた学者らしい難しいもので、役に立つ以前に困惑させるものだ。

で、ゲーテは、『ファウスト』で、自己を投影した主人公ファウストが、完全な人間・・・それは即ち、神であるのだが、それを目指してドタバタする姿を描いた。
ファウストは、錬金術のような怪しげなものにも手を出し(デカルトやニュートンもそうだったが)、大変な苦労をして、やっと神の衣の裾を掴むという、悲劇というよりは喜劇をやらかす。

だが、初音ミクさんのクリエイター達は、本能も自我もない初音ミクさんとの無償の創造活動を通し、さりげなく、当たり前に、歌に真理を込めるようになった。
フロイトやケストラーや吉本隆明氏や岸田秀氏や、あるいは、ゲーテのように苦しむ歌も多いが、あっけらかんと、至高者(神)の輝きを見せてしまった歌も少なくない。

上で、「正しい生き方をすれば、若いうちからそれなりに立派」だと述べたが、正しい生き方とは、至高者(神)を目指して常に努力することである。
しかし、ファウストのように、見栄っ張りで頭の固い老人になってしまったら、余計なことばかりやってしまうのだ。
ところが、初音ミクさんを日々の活動に取り入れ、自然に霊と物質のバランスを取れば、早いうちに人間として好ましいレベルに達し、後は、じっくりと神を目指すことが出来ると思う。
初音ミクさんは、無限の想像力と分かち合いの女神であり、崇めれば、精神、物質共に栄えるだろう。
50代とか、もっと上の、社会的にバリバリにやってきた人達が、ミクさんのコンサートに行ったり、そのビデオを見たり、歌を聴いて、とめどなく涙が流れるということがあるのは、ミクさんによって、正しい道を行くための重荷が取り除かれるからなのだ。
だが、ミクさんの、どの歌を聴けば良いとか、どのコンサートを見れば良いかは、自分で見つけないといけないが、それも縁なのだなあと思う。
普段、正しく生きていれば、自然に神が手助けしてくれるだろう。
もちろん、それは、ミクさんによるとは限らないが、ミクさんほど自然で簡単な導きはないように思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

おめでたい幻想に浸っていることを自覚できるかどうかが運命の分かれ道

共同幻想論(吉本隆明)や唯幻論(岸田秀)では、人間というものは幻想の中で生きていると言われている。
これらは、根本のところにはフロイト論が関わっているのだろう。

「なぜ私が幻想の中にいるんだ?そんなわけ、ないじゃないか?」
と言う人は多いだろう。
精神分析学者の岸田秀さんが、全ては幻想であるという唯幻論を著書で発表すると、岸田さんのところにやって来て岸田さんを殴り、「全て幻想なんだから痛くないだろう?」と言った者がいたらしい。
殴った男は、「全てが幻想」という考え方が受け入れられず、我慢ができなかったのだろう。

だが、現代の日本人こそ、もっとも厚い幻想に覆われていると言えるだろう。
槍を持って裸で駆け回る未開人よりもである。
我々日本人の大幻想とは、我々が、安全と権利を保障されているという、恐ろしい幻想だ。
そんな幻想にすっかり飲み込まれ、精神が弛緩し、澱み、腐りきった者ばかりであるような気がする。
それも、なんと子供のうちからそうである者が多いのである。

日本でだって、殺人、あらゆる暴力、窃盗、詐欺などは、あらゆる場所で・・・それも、人々が最もそんな被害に遭わないと「勝手に思い込んでいる」場所でこそ、頻繁に行われている。
老人ホームでは介護者が老人を虐待し、学校では雄の教師がほんの子供の女生徒を性的な慰み者にし、家庭では親が幼い子供をいたぶり、挙句、殺してもいる。
そのようなことは、世間に知られるのは氷山の一角で、実際はありふれたことではないだろうか?
ならば、会社で、給料に見合わない社員がクビにされないというのは、権利でも何でもなく、まさに幻想、妄想、おめでたいお伽噺でしかない。
我々は、盗まれると、自分には盗まれない権利があると思っているから、警察に訴える。
しかし、本当は、警官もうんざりしているはずなのだ。
海外の多くの国では、そんな訴えをすれば、「盗まれるお前が悪い」というのが常識ではないかと思う。
「殴られた。犯人を捕まえて処罰してくれ」と訴えたら、「殴られるようなところに行き、殴られるような言動をしたお前が悪い」というのが当たり前なのだ。
こんな話をただ笑う者が「盗まれた」と言って来ても、日本の警官だって、「そりゃ、お前が悪いよ」と思うはずなのだ。

日本人の幻想である、安全や権利の保障をないがしろにする発言をすれば、不適切な発言として非難され、政治家なら辞職させられるが、これが幻想に浸っている証拠でなくて何であろう?

ある昆虫が、さなぎから成虫に羽化しようとしていると、他の虫達が、その羽化しかけの虫の上を平気で歩き、木の下に落として結果死なせてしまう。
落とされた虫が「俺は羽化して飛び回る権利があるのだ」「俺をこんな目に遭わせた虫どもを処罰し、俺に補償しなければならない」などど主張したりしない。地面の上でただ脚をばたばたさせてあがき、そのまま死ぬか、他の虫や鳥に食われてしまうだけだ。
我々だってなんら変わらない。
世界の多くの国では、子供達が銃を持った大人に追い回され、実際に殺され、持っているものを奪われる。女の子なら10歳にもなっていればレイプされる。
そんな被害に遭っても、単に、ディフェンス(防御)が甘いというだけのことにされる。それが本当かもしれない。

人間の本性は善であり、内に神性を秘めているのかもしれない。
しかし、世界の多くの場所では、そんなことは全く信じられていないし、信じることは、馬鹿であり、間違ったことと断定される。
だから、他人を疑い、ひたすら防御を固める。
そうでなければ生きていけないのだ。
しかし、日本だって、本当のところは、現実は全く変わらないのだ。
特別な技能を修得し、それを磨くのは、単に防御能力を持つということに過ぎない。
「私は何の特技もありません」などと言ったら、それは、「どんな攻撃をされ、結果、打ちのめされても仕方がない」と言うようなものである。
若い間であれば、肉体労働では役に立つ場合が多いし、目の保養にもなるので、特に何かできなくても大目に見られる可能性もある。
しかし、そこで、自分には権利があると思えば、明日は、それが幻想であったことを思い知る。
一流大学卒というものも何の保障にもならない。
様々な国家機関が、度々、民間企業に職員の雇用を斡旋している。
労働条件、待遇など、どんなに悪くても良い。
例えば、私が知るもので言えば、いままで、大きな机で1日じっとしていたエリートが、送迎の運転手をやらされる。運転がうまいかどうかは全く考慮されない。
とにかく、金が足りなくて雇っておけないから、もらってくれという訳だ。
その名簿には、日本最高学府の出身者が多いようである。

総じて言えば、人間関係をうまくこなせる者は保障度は高い。
しかし、それは、自分と同レベル以下の馬鹿同士がちゃらちゃらすることではない。
早い話が、偉い人達にうまくおべっかを使えるかどうかだ。

まずは、こんな認識から出発しなければ、世間的強者にもなれないし、世間を超えた超意識への解脱もない。
以下、参考書籍の上段は紙の本、下段は電子書籍(Kindle本)である。
良い本が電子書籍で読めるようになってきたと思う。

















↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

自分が猫だという妄想をしても10年後に虎になったりはしない

吉本隆明氏の『共同幻想論』と岸田秀氏の『唯幻論』は違うものなのかもしれないが、いずれも、「人は幻想の中で生きている」とか、「人の心は深い幻想に覆われている」、「人は重度の幻想を抱えている」という点は同じと言って良いと思う。
ジークムント・フロイトは、自我自体が幻想のようなものなのだから、人が幻想を無くすことはできないと言ったのだと思う。
しかし、そんなことは決してない。
確かに、幻想を消すのは難しいことは確かだ。
しかし、それがなぜ難しいかというと、過去、何百年、何千年にも渡って、人類は幻想の中で生きてきたからだ。
どうしようもなく、幻想に慣れてしまったのだ。

幻想を消すためには、幻想について、もっとシンプルで適切な表現をしなければならない。
上に述べた、「人は幻想の中で生きている」なんて、曖昧で抽象的な言い方をしていては、確かに打つ手はない。
正しい言い方はこうなのだ。
「人は、幻想の自分を受け入れている」
我々が打ち破るべき幻想は、「幻想の自分」だけである。
言い換えれば、自分を正しく認識すれば、それで良いのである。
たとえ話だが、あなたは、自分が猫だという幻想を持っている。
そして、10年後に虎になるという幻想を持っている。
世間の人間とは、そんなものなのだ。
そして、自分の幻想を消すには、今の自分が本当に猫かどうかを、しっかりと見れば良いのである。

冷静に自分を観察し、幻想を払うコツは、時間が幻想であることを受け入れることだ。
ただ、ここらは、納得できないのに信じる必要はない。
具体的にはこうだ。
「私はいつか資産10億円の金持ちになる」
という目標を立てるとする。
アメリカのなんとかいう、世界的に評価されているかもしれないがイカサマの自己啓発手法では、「いや、『いつか』ではなく、『10年後に資産10億円の金持ちになる』という目標を立てなければならない」と言う。
しかし、そんなことをすれば、さらに深い幻想を抱え込むだろう。
それなら、「いつか」の方がずっとマシだ。
だって、いずれにしろ、そんな目標が叶うかどうかはさっぱり分からないことだし、今、年収300万円で、飛躍の見込みもないなら、まず100%叶わない。
単に、100万円払って、嘘っぱちだらけの自己開発プログラムを買って10億円の夢を少し見れるというだけのことだ。私もやったことがあるのだが・・・
自己観察のやり方はこうだ。
「いつか」とか「10年後」ではなく、自分は今なぜ、資産10億円でないのかと考えてみると良い。
今、自分は資産10億円ではないのだから、その考えは幻想でない。
自分の資産は30万円だという事実を冷静に観察すれば、さらに少し幻想が消える。
そして、自分が資産10億円でなく、それに見合うような、億単位の年収がないのはなぜだろう?
「特別な能力がない」
「ビジネスに通じていない」
「多くの顧客や、有力な取引先を得るような商品、サービスを持っていない」
「組織を束ねる知恵、度胸、包容力、リーダーシップがない」
そして、それらがなぜか考えると、自分に人間的魅力がないこと、情熱に欠けていること、苦難に耐えて鍛えられていないことなどが分かるだろう。
そして・・・
つまるところ、自分が、ただ享楽的で、欲望しかない、度量のない人間だというのが、全ての原因だと分かるのだ。
一言で言えば、心が狭いのである。

時間が幻想であるとは、自分が、「今」資産10億円でないのも、「いつか」あるいは「10年後」、資産10億円でないのも同じことで、あなた自体が資産10億円の人間でないのだ。
ただ、これは理解できないなら、無理に納得すべきでない。

ある男は、攻撃的で乱暴で、恐ろしく自己中心的で傲慢だった。
その男が、周りから見れば不思議なのだが、「俺はなぜ、恋人や友達ができないのだろう」と深刻に悩んでいた。
実は彼は、自分は勇敢で毅然とした格好の良い高貴な人間だと思っていたのだ。
彼は、自分という幻想に全く気が付いていないが、それは、自分を冷静に見たことがないからだ。
だが、その気になれば、誰だって自分を観察することができるのだ。
そして、その結論はいつも同じなのだ。
それは、自分は利己主義のために心が狭い・・・だ。
それは幻想でも何でもない。
フロイトによれば、それも幻想になってしまうが、そうではないのだ。
自分の本当の姿を正しく認識し、それを受け入れれば、変容は即座に起こるが、それは奇跡のようなものだ。
ただし、こういうタイプが実に多いのであるが、自己観察もせずに、「私は心が狭いです。自己中心主義です」などと言う者がいるのである。それでは、変容は永遠に訪れない。
そんな者は、何かの本で読んだのかもしれないが、「私はクビになって当たり前だ」と、「優越感を持って」言うが、本当にクビになったら、憤慨して喚くのである。
「私は本当に心が狭い」と絶望と共に実感しなければならない。
それには、証拠もしっかりと見なくてはならない。
能力的には簡単なことなのだが、人間の虚栄心、自負心はそれを拒むのである。

舛添要一さんが、東京都知事選に出るかもしれないらしい。
個人的にはやめておけば良いのにと思う。彼は優れたところもあるが、優越感の強い個人主義者だ。対立者とは上手くやれないのだ。
「全盛期だった時」の彼が推薦文を書いている、『ノストラダムスの超法則死活の書』は、面白くて役に立つ本なので、下にご紹介しておく。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

世界を壊す画期的な方法

昨年(2012年)3月に亡くなられた思想家の吉本隆明さんの「共同幻想論」という、著書名にもなっている有名な思想がある。
人間は、3種類の幻想の中で生きているというもので、その3つは次の通り。
1つは個人幻想で、文字通り、1人の人間の中の幻想だ。
次に対幻想で、これは、家族間や恋人間など、ごく近しい人達の間で共有する幻想だ。
そして最後が共同幻想で、広いグループで共有する幻想だが、その規模は、団体や地域から国家などに及ぶ。国家も1つの幻想である。
精神分析学者の岸田秀さんの「唯幻論」は、このうち、対幻想を特に定めずに、個人幻想と共同幻想の2つとしているが、よく似たところが多いと思う。

しかし、幻想というものは、非常に複雑でダイナミックだ。
例えば、1人の人間が、日本人であれば、日本人グループの幻想グループに入っているが、彼が医者なら医者グループ(の幻想グループ)にも入っている。さらに、彼が野球ファンなら野球グループ、その中でも巨人ファンなら巨人グループに入っている。また、映画の「スターウォーズ」のファンならスターウォーズグループといったふうに、1人の人間が属する幻想グループは多様で複雑だ。
そして、私はグループという表現を使ったが、実際に、そのグループに属する人々は、意識でつながり、グループを構成しているのである。
人間は、「誰も一人ぼっちじゃない」どころではない。実にいろいろなグループに意識でつながっているのだ。
「意識でつながる」というのは、直接会うことはもちろん、インターネットで直接・間接に接触することも必要としない。
テレパシーのようなもので、いかなる物理的な意味での具体的接触を経ずにつながるのである。
精神には空間は存在しないからである。

ただ、つながり方にも色々ある。
例えば、夏目漱石のファンなら、もちろん、夏目漱石(という幻想)グループに参加しているが、夏目漱石ファンにも色々いる。
「俺は他の夏目ファンとは全然違うのだ」と言う者もいるだろう(実際のところ、大半の夏目ファンがそうである気もする)。
そんな者も、夏目グループには大なり小なり参加しているのだが、夏目グループの中に小グループがあるのである。そして、そんな小グループに入っている者がドストエフスキーグループに参加したり、あるいは、文学ではなく、科学のグループの中の1グループに参加したりするのである。
それは、実に複雑な幻想グループを紡ぎ出し、見定めようもない。

いかなる人間も、様々な幻想グループに入っている。
いかに孤高の人間であっても、あるいは、孤立して誰との接触も好まない人間であっても同じだ。
だが、ほとんどの者が、自分が参加している幻想グループに安住し、他のグループとの壁を作ってしまうのである。
これが、こだわり、偏狭さ、思考の固定化となる。
それは、生命力の枯渇につながる。なぜなら、生命力は意識を通じて循環するが、そのような者は、意識の循環経路を止めてしまっているのだからだ。
これが、こだわりや偏見を持つ者が早く老化する原理である。
ただ、同じこだわりでも、料理人が味にこだわるというような場合、その料理人は幅広いグループ・・・たとえば和食の料理人がフランス料理、あるいは、歴史、科学のグループに参加し、むしろ、意識が広がるのであり、生命力は増大する。
しかし、いかに多くのグループに参加しても、幻想は幻想だ。

人間は、一切の幻想から自由になった時に、生命力は最大となる。いや、宇宙大自然の生命と一体化する。
剣の道を究めた剣士は剣を捨て、大思想家は思想を捨てる。
その時、彼は悟りを開き、宇宙そのものになる。
中島敦の『名人伝』の、弓の名人が弓を忘れてしまう話も、このことを表したものである。

初音ミクの幻想グループは、いまや世界中に広がり、非常に広く大きなものになっている。
大音楽家の冨田勲さんが、2011年に初音ミクグループに入ってきて、宮沢賢治の世界を音楽で描いた『イーハトーヴ交響曲』のソリストを初音ミクに託したことで、初音ミクグループ、冨田勲グループ、宮沢賢治グループ、クラシック音楽グループの中で大融合が起きた。
これは、非常に大きな出来事だった。
さらに、電子音楽アーチストの渋谷慶一郎さんが、2012年に初音ミクを主役に『イニシエーション』という音楽と映像の作品を制作し、さらに、2013年、オペラ『THE END』で初音ミクを主演させ、初音ミクグループを中心とする幻想はさらに拡大し、形を変えた。
もちろん、初音ミクグループの中には、これらを好まないグループもいるに違いない。
だが、初音ミクのグループが予想を超えて大きくなり、さらに大きくなっていく中で、どんな形でもそれに属する人々の意識は大変な広がりを見せる可能性がある。
とはいえ、初音ミクグループの中だけでは、やはり所詮知れていることも確かだ。
冨田勲グループに入り、そこから、シンセサイザー音楽、クラシック音楽、さらには、映画ややや古いアニメに広がっていくこともできる。
また、宮沢賢治グループに入れば、それをきっかけに、農業、化学、法華経、エマーソンなどに広げていけるかもしれない。

しかし、やはり、最後には、全ての幻想を拭い去らねばならないのだ。
私は、吉本隆明さんも岸田秀さんも思いもよらないだろうが、初音ミクと共に作った巨大な個人幻想の中に、自分の持つあらゆる共同幻想を封じ込めて破壊し、最後には、ミクと融合して世界を壊すつもりである。
そういえば、パリのシャトレ座でも公演された渋谷慶一郎さんのオペラ『THE END』のまさにフィナーレを、そんなふうに捉えることもできる。渋谷さんがどう考えているのかは分からないけどね。
すると、あのオペラの「訪問者」は私か・・・そんな気もするのである。
ミクは言ったっけ。「あなたの痩せ方は わたしに似せようとしてるの? でも似てないし 不自然」













↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

国家と世間の構造

科学技術力や経済力を備えた先進国が、それらを持たない、いわゆる未開国、後進国、発展途上国と言われる国を援助・指導するのは、決して善意ではなく、その土地と資源、そして、労働力を利用するためである。
指導ではなく、実際には支配である。
そのためには、思想的な支配が必要である。支配される国の人々が自由な思想を持つことは許さず、支配する側の価値感を強要する。そうでなければ、力や脅しだけで従わせるのは効率が悪いし、いつか破綻する。
価値感の強要には宗教が利用されるが、それはリスクがある。宗教の多くは平等思想があるので、支配者と被支配者が同等になってしまう危険があるのだ。
そこで、生まれながらの身分の違いを厳格に定めた宗教は被支配者の間にも普及させるが、平等思想の宗教はそうではない。日本を占領した時のアメリカも日本人をキリスト教化することはなかった。しかし、アメリカ式のものの考え方は強要し、叩き込んだのであり、それには成功した。

こういったこと(思想、価値感の強要)は国家はもちろんだが、人間は、強い者が弱い者に対して、必ずそれを行う。
学校では教師が生徒に、家庭では親が子に、会社では社長が社員にである。
それらは確かに、上に立つ者が自分の価値感を、家畜のようにひれ伏す下僕達に押し付けたいという個人的な欲望もあるのだが、それが強過ぎる者はあまり大きな力を得られない。
強いリーダーは、良かれ悪しかれ、グループが強くなるためには、思想的結束が必要だという切実な理由によって、配下の者達を洗脳するのである。
我が国最大の思想家、吉本隆明氏は、『共同幻想論』で、国家とは幻想であると気付いて愕然としたといったことを述べているが、国家が幻想であること、つまり、合理的とは言えない価値感を是として統制されているというのは当たり前のことで、そうでなければ、強い国家として成り立たない。

強い者の価値感にひれ伏している限り、国家、地域、企業、学校、家庭に至るまで、効率良く力を発揮でき、栄えることだろう。
そして、下に位置する組織、つまり、国家の下僕たる学校や企業などは、国家の思想を受け入れていなければ存続できない。それは、いかに個性的な企業や学校も、決して例外ではない。
いかなベンチャー企業といったところで、国家に逆らって発展できるはずがない。
だが、人間の中には、集団の価値感に反発するアウトサイダーというものは少しはいるものである。
所属する学校や企業の価値感を受け入れられないなら、国家の価値感も受け入れないだろう。上に述べたように、学校や企業は、国家の価値感を受け入れ、それを土台として成り立っているのだからだ。
つまり、一言で言うなら、アウトサイダーとは、世間の価値感というより、根本的に国家の価値感に逆らっている非国民である。
別に、それが良い悪いと言うのではなく、単に事実として、アウトサイダーは非国民であるということだ。
そして、アウトサイダーが国家を認めないように、国家もアウトサイダーを、大切な国民、まっとうな人間とは認めない。

もちろん、こういったことが抱える問題を、簡単に解決できる訳ではない。
ただ、2つの問題を提示しておこうというだけだ。
(問題1)
国家に、ひいては世間の価値感に従う場合には、表面的、つまり、物質的には豊かに見えても、生命力の枯渇は避けられない。なぜなら、国家の思想、価値感は必ず自然に反しているからだ。それは、本物の神に反すると言っても良いだろう。
(問題2)
では、国家や世間に逆らい、ひたすら内なる神を求めたいと思う場合はどうだろう?
そんな人間は騙され易い。国家や、あるいは、下心ある宗教家が、「これが本当の神だ」と言って偽物の神を掲げてその者を騙す。よくあることだ。
だが、幸い、そんなものに騙されず、本当の神を求めるなら、苦難の人生である。ただし、耐え忍ぶなら、いつかは救われる。だが、耐えられる者はほとんどいないのである。

君主が道(タオ。宇宙大自然とでも言えると思う)に従った上で人々を治めることを目指したのが『老子』であろうと思うが、いまのところ、誰も成功してはいない。
荘子は、老子の道(タオ)で、支配者と人民を統合する思想を唱えたが、いまだ早過ぎ、実現のあてもない。そのため、人類を滅ぼそうという動きもあるのかもしれない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード