ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

六の宮の姫君

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

幸福になる最高の準備とは

幸せになるために、常に考えておくべき価値あることは「準備する」ことだ。
このブログで何十回引用したか分からないが(それほど重要と思う)、ハリウッド俳優のバート・レイノルズが駆け出しの頃、既に大スターだったクリント・イーストウッドに、
「成功するまでどうしていたか?」
と尋ね、イーストウッドは、
「成功するための準備をしていた」
と答えた。
それで重要なことを悟ったレイノルズは、準備をすることで成功した。

この話は、アメリカの作家・事業家のチン・ニンチュウが書いた『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』という本に書かれていたが、そのエピソードを読んで、私も何かを感じたが、はっきり言ってよく分らなかった。
まあ、別に難しいことではなく、普通に捉えれば良いことなのだが。
そして、チン・ニンチュウよりずっと古い人である、作家・画家のフローレンス・スコーヴェル・シンが世界的ベストセラーの『ゲームの法則』の後に書いた、『成功への秘密の扉』で、準備について、福音書のイエスのお話を引用している。
「5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女」のお話だ。
10人の乙女が、夜、外で、花婿の到着を待っていた。
だが、花婿の到着が遅れ、乙女達が持っていたランプの油が切れかけた。
10人の乙女のうち、5人は、予備の油を持っていたが、後の5人は持っていなかった。
つまり、5人の乙女は、予備の油の準備をしていたが、5人の乙女は、予備の油の準備をしていなかったのだ。
予備の油を準備していなかった5人の乙女達が油を買いに行っている間に花婿が到着し、予備の油を準備していた5人の乙女達だけが、花嫁として迎えられた。
そんな話である。
・・・分かるような分からないような(笑)。
で、フローレンス・スコーヴェル・シンは、もっと簡単な話で示した。
世界一周旅行に行きたがっていた男に、準備として、旅行カバンを買わせたのだ。
つまり、世界一周旅行の願いを叶えるための準備が、カバンを買うことだったのだ。
すると、この男は不思議ななりゆきで大金を掴み、世界一周旅行に出かけたのだった。

準備が出来ていない愚か者の教訓を知りたければ、芥川龍之介の『六の宮の姫君(ろくのみやのひめぎみ)』を読むと良いと思う。
短いお話だ。
ある良家の姫君(六の宮の姫君と呼ばれていた)は、何不自由ない生活をしていたが、父親が急死し、さらに、母もすぐに亡くなった。
そうなった時の準備を何もしていなかったので大変だ。
収入もなく、使用人は、屋敷にあるものを持ち逃げしつつ、全員いなくなった。
姫君に残されたのは、姫君を愛する乳母だけであったが、2人とも、何の準備もしてこなかったので、全くの無能力だ。
引用はここまでにするので、後は、読むことをお勧めする。
面白いのは、芥川は、話の最後に、内記の上人(ないきのしょうにん)を登場させることだ。
内記の上人が実在の人物かどうかは分からないが、法然、親鸞と並ぶ念仏者、空也上人(くうやしょうにん)の高弟ということになっている。
内記の上人が最後、姫君に念仏を教えたが手遅れだった。

一方、江戸時代の観相(顔や身体の相で占う運命鑑定)の大家、水野南北(少食開運法で知られる)に、こんな話がある。
水野南北には、元武士の弟子がいた。
この元武士というのが、無能な男で、武士は務まらず、落ちぶれてヤクザの子分になっていたが、そこでも、良い想いはしなかったのだろう。
そんな中、運良く、水野南北の最初の弟子になったが、水野南北の弟子としても能力不足だった。
だが、この元武士は、絶えず念仏を唱えていた。
そして、この元武士の弟子は、能力がなくても、良い人生になったのだ。

念仏もその1つなのだが、神仏の名を真言として唱えることは、幸福になる最高の準備だ。
そもそも、最初のレイノルズとイーストウッドの話を書いたチン・ニンチュウが、「神の子羊として、神様にしっかり面倒を見てもらえば良いだけ」と悟って幸福になったのだ。
その具体的、かつ、誰でも出来るなやり方が、神仏の名を唱える真言である。

尚、『六の宮の姫君』は、芥川龍之介の著作権が切れているので、安価、あるいは、無料の電子書籍もあるが、一応、岩波のを下に紹介する(解説もあると思うので)。








成り上がり、成り下がり

最低の位置にいた人間が成り上がった時に感じる狂気じみた歓喜は、いかに馬鹿げたものであろうと、感動的に思えてしまう。
私が少し前に電子書籍で読んでいた、梶原一騎原作の漫画『カラテ地獄変牙』で、主人公の若い空手マンの牙(きば)が、アメリカの人気ハリウッド女優の豪邸で、そのハリウッド女優とベッドを並べ、黒人のメイド達が運んできた豪華な朝食をベッドで食べようとした時、牙は、昔、浮浪児だった自分が、ひもじくてゴミ箱をあさっていたことを思い出す。
人によって、それぞれだろうが、私は、こういう場面に弱い。有体に言えば感激してしまった。
成り上がるというのは、こんなに良いものなのかと。
まあ、若いうちに成り上がると、往々にして道を踏み外すものだが、それでも、やっぱり良いと感じてしまう。

マイナスの感激というものもある。
CLAMPの『X』という漫画の中で、雨のゴミ捨て場で、沢山のカラスがゴミをあさるのをじっと見ている、ボロを着た、幼いが凛とした美少女がいた。
上品そうな老女が近付き、傘を差しかけ、「何をしているのですか?」と尋ねると、少女は、「考えていた。食べようか、やめようか」と答える。
そして、少し身の上を語るように、「亡くなった母様との(死んではならないという)約束は守りたいが、ゴミを食べてまで生きる意味があるのだろうか」と言う。
この少女の場合は、すぐに豪邸の子女となる。
老女は、初めから、この少女を探しに来たのだったのだ。
(『X』10巻)

成り下がるということもある。
芥川龍之介の『六の宮の姫君』では、「六の宮の姫君」と呼ばれた娘は、平安時代の裕福な家のお嬢様で、それこそ、花よ蝶よと育てられたが、父母が急死し、どんどん貧しくなっていき、姫君の乳母は姫君を見捨てずがんばるが、何の力もなく、類稀な美女でもあった姫君は、そこそこの身分の相手ではあったが、男に身を売って生活を成り立たせるしかなくなっていた。
そして、それすら続かず、あばら家の中で、不気味なまでにやせ細った姫君は、乳母に看取られながら、息を引き取る。

少し昔の話で、お金持ちで女中達をアゴで使っていた女性がいたが、夫が事業で失敗した上、亡くなってしまい、自分がアゴで使われる女中になってしまい、屈辱の日々を送るという実話があったと思う。

成り上がるは楽しいが、成り下がるは悲惨だ。
成り上がっても謙虚でいるべきことを忘れなければ、悪い位置にいるなら、一度くらいは成り上がってみるのも良い。
『カラテ地獄変』の牙は、空手のおかげで、そんな身分になれた。
同じように、何か1つのことを磨き上げ、実力をつければ、そんなこともあるかもしれない。
地獄から天国を目指す時、人は異常な熱情を感じ、励むものである。









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念仏の功徳を逃した哀れな姫君のお話

芥川龍之介の『六の宮の姫君』という、文庫本で12ページの短編小説がある。
これほどわびしい話は、そうはない。
六の宮というのは地名で、そこの姫君とも呼ばれる彼女は、父母の深い寵愛を受けて育った、いわゆる深窓の令嬢である。
しかし、父が病気で死に、なんと、すぐに母も死ぬと、世間知らずの乳母は姫君を守ろうとするが、銭の一銭稼げるわけでもなく、屋敷の中の家財を売って、米や野菜に変えるのがやっとだった。それもきっと、十両の値打ちのあるものを、一両もらえればマシな方だったと思う。そして、使用人達はその浅ましい本性を発揮し、屋敷の物を勝手に持って行き、屋敷にはすぐに何もなくなった。また、使用人達に給金も払えなくなり、誰もいなくなった。
だが、姫は極めて美しく、彼女を妻にしたいという立派な武士が現れた。しかし、逢瀬(おうせ)を重ねた後、ある日彼は、5年経ったら戻ってきて妻にするという約束はしたが、それきり帰っては来なかった。
しかし、9年経って帰ってきた武士は、六の宮の姫を探すが、全く消息が掴めない。
だが、偶然に立ち寄った荒れ寺で、不気味なほど痩せた姫君が、最後まで離れずにいた乳母に介抱されているのを見つける。
男は気付いて、姫の名を呼び、姫は気付くが、それが最後だった。
乳母は、たまたま外にいた乞食坊主を引っ張り込み、死に行く姫のために経を読むことを頼んだ。
だが、坊主は、姫に念仏を唱えさせようとし、姫は念仏を唱え出した。
姫は、火の車を見るが、念仏のためか、金色の大きな蓮華を見る。しかし、念仏が続かず、蓮華は見えなくなり、ただ暗い中に風が吹くのを感じた。
そして、姫の命の火は消えた。
その乞食坊主は、阿弥陀聖(あみだひじり)とも称される空也上人の高弟で、内記入道とも、内記の上人とも言われる慶滋保胤(よししげ の やすたね)であった。

結局、姫の魂は迷ってしまい、この世をさ迷うことになってしまった。
おそらく、内記の上人は、毎夜、姫の魂を慰めようとしたのだろう。しかし、いかに上人とはいえ、往生させてやる力がある訳ではない。往生は、あくまで、自分で念仏を唱えることで成る。
姫は、もう少し早く、念仏に出会うべきであった。
最後に内記の上人に逢ったのは、仏の慈悲でもあったかもしれないが、上人が言うように、「地獄も極楽も知らぬ、ふがいない魂」でしかなかった。
早くから念仏を知っていれば、現世でも、姫は仏や菩薩、それに、天の神、地の神に守られたであろうにと私は思う。
たとえ、悲惨な身の上に落ちるにしても、そんな境遇を楽しめたに違いない。
経典によれば、臨終の際、ただの一度でも念仏を唱えれば、阿弥陀如来の浄土に往生できるとある。しかし、姫は念仏に縁がなく、唱えはしたが、それは、自発的な念仏ではなかった。
親鸞によれば、唱えなくても、唱えようと思えばそれで良いと述べたが、姫の念仏は、それにも至っていないのだ。それで姫の魂は迷ってしまった。

実を言うと、私は、この『六の宮の姫君』の話をすっかり忘れていたし、最後に姫が内記の上人に逢うことは全く記憶にもなかった。
しかし、昨夜も書いたが、私は、冨田勲と初音ミクの『イーハトーヴ交響曲』を139回聴いた後で念仏に目覚めてからは、このようなことをよく思い出し、意外な事実を発見することが多くなった。念仏の力は実に偉大である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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