ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

僕は友達が少ない

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

大師になるための、たった1つの格言

直接読んだわけではないが、イアン・フレミングの007シリーズの小説の中で、ジェームズ・ボンドが、
「私は、背の低い男を信用しない。なぜなら、背が低いことによる劣等感で、彼は世界に恨みを持っているからだ」
と言ったらしい。
それほど洞察のある言葉とも思わないが、確かにそうだ。
ただし、昔であれば。
少なくとも、今の日本で、背が低い男が劣等感を持っているとしたら、それは、持つ必要のない劣等感だ。
昔、なぜ背が高い男が良かったのかというと、男同士の争いで有利だったからだ。
しかし、結婚する気もなければ、良いか悪いかは知らないが、セックスをするのも面倒だという男が増えているし、暴力なんか振るったら、今の日本では、即座に終わりだ。
力士や野球選手にでもなるのでない限り、背が高いことのメリットはない。
スポーツでも、多くの競技では階級制になっていて、むしろ、小さい方が良いかもしれない。

そして、今は、逆に、背が高いことが劣等感になりつつある。
私は177センチだが、183センチ以上ある男を見た時、「羨ましい」という感情は全く起こらないが、「邪魔だな」とは思うのである。
そして、自分すら、「邪魔だな」と思うことがよくある。
電車で、通路側の席に座ると、どれほどきちんと座っていても、私の脚が邪魔で窓側の席の人が出られないということがある度に、そう思うのである。
男でも、大きくても174センチ位までが良いのかもしれない。174センチの甥っ子が邪魔にならないのでそう思っただけであるが。

それはともかく、昔の背の低い男は、世界(世間とか社会という意味だろう)に対して恨みを持っていたかもしれない。
しかし、私だって、社会に対して、恨みを持っている。
最近、ネット上で、ドワンゴ会長の川上量生さんと、「オタキング」岡田斗司夫さんの対談を見たが、さらっと見ただけなので、曖昧な記憶だが、川上さんは、
「ネットで他人を叩く人というのは、現実世界に恨みを持っている。僕自身、よく叩いていた」
と言われていた。
私も、ネット上で他人を攻撃するバトラーは沢山見たが、全くその通りで、社会に恨みがあるから他人を叩くのだし、なぜ恨みがあるかといいうと、やはり、劣等感に苦しんでいるからだ。
そしてね、背が低いことによる劣等感同様、ほとんどの劣等感というものは、持つ必要が無いものなのだ。
そうであれば、ネットの「荒らし」達は、する必要のない攻撃をしているのだ。

平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』で、小鷹(高1男子)が、「なぜネットで他人を攻撃したがるのだろう?」と言うと、夜空(高1女子)が、「楽しいからさ」と言う。
夜空も、また、星奈(高1女子)も、相当ネットで他人を攻撃しているようだった。
そして、その理由もまた、「容姿以外はいろいろ残念」な夜空も、「性格以外はパーフェクト」な星奈も、世間(主にクラスメイトや教師)に対する深い恨みを持っているからであることが分かるのである。

私は、大師になること以外の目標は全て捨てているが、そうと決めたら、超自然的存在に、「一切の恨みを捨てれば道は開ける」と言われた。
それで思うのだが、ネットで他人を叩いている人は、案外に大師に近いのである。
ネットでの攻撃をしなくなれば良いのだから、進歩の目標を定め易いのである。

小沢一郎さんなどの有名人の多くは、マスコミに対して、こんな恨みを持っている。
「私の発言の一部を、その前後から切り離して、私が本当に言ったことと全然違うことを言ったように恣意的(勝手きまま)に取り上げる」
私は、もし、そんなことを、「当たり前のこと」として、諦め、さらに、認める人がいたら、その人は歴史上でも屈指の大物と思っていたが、そんな人はいない。
しかし、川上量生さんは、「そんなことは仕方がない」「それでいいんです」と言われていたと思う。
考えてみれば、岡本太郎さんも、「誤解されたっていいじゃないか?いや、誤解されなければならない」と言われていた。
政木和三さんは、横尾忠則さんは宇宙人だと言われていた(直接聞いた)。
その横尾さんが噛み付きたがる岡本太郎さんも宇宙人だ。
そして、川上さんもそうなのだろう。
ちなみに、大師は宇宙人の認定を受けるのである。
大師になるための格言は、岡本太郎さんが言われた、「誤解されたっていいじゃないか?いや、誤解されなければならない」である。
ただ、私が思うだけだが、岡本太郎さんは、それに徹しきれていなかった・・・と、彼は私に誤解されているのだろう。









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エア修行のすすめ

エア・ギターというものをご存知と思う。
早い話が、「ギターを弾いているフリ」で、誰でもすぐに出来る。
ミュージシャンの中にも、「ギターが弾けない」からという理由で、ステージでエア・ギターを行う人もいる。
しかし、エア・ギターそのものを独立したものとして取り組み、高度なパフォーマンスを見せるアーティストもいる。
そして、近年では、エア・ギターの競技会も盛んで、1996年からは世界大会も実施されているが、実際にはギターが全く弾けないアーティストが優勝したこともある。

本来はエア・ボクシングと言っても良いと思われる一人で行うボクシングは、一般にはシャドー・ボクシングと呼ばれているが、シャドー・ボクシングの本当の効果は未知なものであると思うのだ。
そして、近年、国内では、エア・ボクシングの競技会も実施されるようになり、この競技に参加する人も増え、プロ化もされているようだ。おそらく、世界に広がるのではないかと私は思う。

脳科学者の茂木健一郎氏は、英語上達の重要な訓練として「エア・英会話」を挙げていたが、エア、つまり、仮想で行うことは、現実にも効果を現すのである。
いかなることに関しても、エア行為は上達、進歩に有益であるが、実は、想像以上の効果があるのである。
私は、ある高名な空手家が、実際に巻藁(藁で棒を巻いた、正拳などを打ちつける道具)やサンドバッグを叩く訓練をする者と、空突きをする者に分けてやらせたところ、空突きをしたグループの方が上達していたということを著書に書いているのを見たことがある。

エアー・XXXXXは、「ごっこ」とも言えるが、「ごっこ」は人間だけが行えるものであるだけでなく、人間の無限の可能性を示すものであることに気付いているだろうか?
『列子』や、中島敦の『名人伝』に登場する弓の名人は、手に何も持たないまま、弓矢を射る格好をするだけで、空を飛ぶ鳥が落ちて来る。
弓の名人は、訪ねて来た弓の名手に対し、「お前は、射の射は知っているが、不射の射を知らない」と言う。
これは、エア弓道を超えたサイコ(精神)弓道である。
神を目指す者は、これを、ただのお伽噺と捉えず、その深い意味を知るべきと思う。

仙道家の高藤聡一郎氏は、著書の中で、信憑性のある話として、ある不思議な老僧のことを取り上げている。
金槌で釘を打ち込むのも難しい堅い木に、その老僧は、指1本で軽く押さえるだけで釘を入れてしまった。
その僧に、どうやってやるのかと尋ねると、修行方法だけ教えてくれた。
その僧は、実は修行らしきことは全くしないのだが、瞑想中に、大木を地面から引き抜くことをずっと想像していたら、ある時、出来そうな気がして、実際にやってみたら出来たという。
次は、大岩を持ち上げることを想像してみたら、やはり出来た。
それで今は、山を持ち上げることを考えているのだという。
想像とはいえ、山を持ち上げるほどの者にとって、釘を指で差し込むことなど、あまりに容易いのである。
私も、想像で高い屋根に飛び上がる行をやっているが、やはり、驚くほど身軽になったのである。
また、国内でも、想像で滝行をすることを勧める霊能者もおり、僅かな日数、実際に滝に打たれるより、想像で毎日やった方が余程良いと言う。

私が常にお奨めしている、人を超える法は、腕振り運動や、心の微かな声の呪文であるが、このエア修行も、是非追加したい。
別にやらなくても良いが、やれば、超人になる速さや到達するレベルが高まることは間違いないだろう。
尚、ごく基本として行うべきこととしては、少食(極端なものではなく、満腹するまで食べて自分を甘やかさないこと)と、規則正しい生活(なるべく早い同じ時刻に起きる)がある。
基本だけですら確実に実施すれば、どう考えても駄目な人間に留まるはずはないのである。
まして、その上の、腕振り運動や、心の微かな声の呪文をやれば、人を超えるだろう。
そして、エア修行に励むことで超人になれる。
だが、まずはエア行為を楽しむと良いと思う。
『僕は友達が少ない』に登場する美少女、三日月夜空が、小鷹に出会うまでは頻繁に行っていた「エア友達」との会話は、実は彼女を特殊な存在に高めたことに注意しなければならない。









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友達が少ない(いない)のはなぜか?

『僕は友達が少ない』という人気小説の中には、主人公の高校2年生男子をはじめ、友達がいない高校生達が沢山登場する。
しかし、彼らに友達が出来ない理由は、一般的でなく、少々異常だ。
主人公の小鷹(こだか。高2男子)は、金髪(地毛)で顔が恐いのだというが、そんなことで本当に友達が出来ないだろうか?
夜空(よぞら。高2女子)は、他人と関わりを持とうとしないが、美少女で優等生だ。こんな子に友達がいないということも、有り得ない。
星奈(せな。高2女子)は、学園の理事長の娘で、「性格以外はパーフェクト」というキャッチフレーズの超優秀な超美少女だが、選民意識が強過ぎ、傲慢だが、単なるツンデレだ。それで友達がいないはずがない。
その他のキャラクターに関しても同様で、小説としては抜群に面白いが、「友達がいない」設定は極めて不自然だ。
だいたい、読んでいたら、主要キャラクター達は、友達になりたいようなやつらばかりだ。
幼い頃のトラウマの影響とか、自己表現の下手さによる誤解ということも確かにあるだろうが、トラウマのないやつはいないし、自己表現が上手いやつなんかもいない。
この小説は、ある面では、あまり真に受けてはいけない(小説なのだから当たり前だが)。

友達が出来ない人の特徴って、何だろう?
ズバリ、他人と共通の話題がないってことだ。
人間は、共通の趣味や関心事について会話することによって友達になる。
同じ高校の同じ学年なら、大抵はそれなりに会話が合うので、友達になり易い。
いわゆる「人の輪に入って行けない」というのは、性格的な問題もあるだろうが、そもそも、共通の話題が無いのである。

例えば、フィギュアスケートの浅田真央さんなら、大抵の人がそれなりに知っている。
しかし、「私はそんなものに全く興味ありませんね」と言う人は、友達を作るチャンスを大きく逃す。
それだけでなく、スポーツや芸能界の人気者に関して、「知らない」とか、まして、「下らない」と言ってはばからない者は、よほど特別な魅力を持っていない限り、友達は出来ないと思って間違いない。
誰だって、身近な人とは仲良くやろうと思っている。
だが、共通の話題がなければ、打ち解けるのは難しい。
同僚になったばかりの人が、「野球なら分かります」と言うので、それではと、マー君やイチローのことについて話し始めたところ、その人は、高度なバッティング理論だの、大リーグの歴史や裏事情だのについて物凄く詳しく、そんな話を得意になって延々とするが、そんな話についていける人はいない。当然のことながら、そんな人と友達になろうと思う奇特な(感心な)人は、まずいない。

「俺は世間の平凡な話題に興味などない」と得意になるのは勝手だが、そんな者は、友達ができずに、孤独で不都合の多い状況になることは避けられず、それは誰のせいでもない。本人の責任である。
ところが、本人が、それを覚悟しているなら、それはそれで1つの立派な生き方であるが、そんな者が、自分には友達がいないことで悩むなら、ひどく間抜けな話である。
そんな者は、馬鹿ではあるが、それよりも、甘ったれなのだろう。
回りが自分に合わせてくれるという、幼い妄想を持った小児病患者と言って差し支えない(立場ある人が「小児病患者」なんて言葉を使うと差別発言だとか言われるだろうが、私程度が言うのなら許して欲しい)。

確かに世間は、特定のスポーツや芸能、レジャー、グルメなどの話題しか通用しない傾向があるかもしれない。
その他には、スマートフォンやSNS等のITの話題や、政治、経済の話題になると、やや関心を持つ人は少なくなるが、それなりにはいる。
だが、文学やクラシック音楽、絵画、彫刻となると、話ができる相手は、あまり見つからないだろう。
理論物理学や人工知能に関心を持っていても、そんな話ができる人はほとんどいないし、いたらいたで、これらは、理解度のレベルや細かい主観の差異で、興味を持つ同士とは言っても、「普通の会話」としては成立しない場合がほとんどである。

人は誰でも、大なり小なり「自分は特別」と思っている。
しかし、その度合いが強過ぎたり、他者を見下すようになってしまっていたら、まず友達は出来ないと言って間違いない。
友達が多い人というのは、自分を大切にしつつ、他人もまた、特別な存在として尊重することが出来る者である。
自分が、特定の狭いことしか関心がなく、世間的なことに興味がないばかりか、馬鹿にしているなら、友達が全くできないか、かなり変な友達がごく少数しかできないと覚悟することだ。

だが、自分は特殊なことしか知らないし、世間で話題のことには関心が持てなくても、そんな自分が決して偉い訳ではなく、他人が関心を持っていることについて受け入れる広い心を持っていれば、案外に、変人として人気があるものである。
自分が好きなことが、あまり世間向きでないなと思ったら、自分のことは出来れば捨てるか、少なくとも後回しにし、柔軟に周りに合わせておけば摩擦は起こらない。
マー君に興味がなくても、拒否感まで持つのは、やはり性格上の欠点であり、賢い人なら、少しは関心を持つものである。
オリンピックに否定的見解を持つのは悪いことではないが、やはりどこかに良いところはあると分からないようなら、ただの馬鹿である。
「詳しくないから」という理由で拒否されることはない。
傾聴の態度がないから拒否されるのである。
浅田真央さんに興味がなくても、浅田さんについて語る人の感情に関心を持てば、十分に仲良くなれる。
自分の趣味については、とりあえず置いておいて、そんなことはブログにでも書けば良い(笑)。

友達がいないのも1つの芸であるが、良い芸にするためには、自意識から少し離れ、自分を含めた周囲を広く見渡す視点が必要である。
自分が神様にでもなったつもりで、広い目を持つのである。
自分の主観すら客観するのだ。
その意味が分かれば、性格的には少々アレでも、そう悲惨な状況にはならず、努力次第で成功するだろう。
だが、もっと簡単に言えば、何事も「力を抜く」ことだ。
自意識に凝り固まらないためには、力が抜けていないといけない。
その方法は時々書いているが、また書こうと思う。









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この世に立派な人間など1人もいない

心理学者のアブラハム・マズローは、それまでの心理学が、異常で不健康な人間を研究対象としていたのに嫌気が差し、彼は、健康的で優れた人間を研究対象にすると決めたらしい。
それでうまくいったということなんだろう。
NLP(神経言語プログラミング)の創始者の1人であるリチャード・バンドラーも、病的な人間ではなく、天才を調べることで、天才の秘密を探ったのだとか・・・だいたい、そんな意味のことを本に書いていたように思う。
また、別の誰かも、「なぜうまくいかないか」ではなく、「なぜうまくいくか考えろ」と言って、例えば学校の教師であれば、生徒の成績が悪く、雰囲気が暗いクラスの教師ではなく、生徒達が生き生きとしていて、成績も良いクラスの教師を参考にすれば良いとか、本に書いていた。
それらを読んだ時は、私も「なるほど」と思ったものだが、さて、どうだろう?

そもそも、健康的で、優秀で、正常な人間など、私は見たことがない。
上っ面では、成功者で、立派で、人格者というのは、掃いて捨てるほどいる。
しかし、そんな人達も、ちょっと深く観察すると、みんな、異常者の変態ばかりだった。
おそらく、あなたが尊敬し、臣下が君主に対するかのごとくに崇めている人だって、一皮むけば、まあ、間違いなく、悪臭を放つ生ゴミだ。
しかし、それで良いのではないだろうか?

『神様のメモ帳』のアニメ専用のお話だったと思うが、ある高校3年生の女子生徒は、美人で、良家のお嬢さんで、勉強ができて、優しくて、もう、パーフェクトで理想的なマドンナだった。
しかし、彼女は、自分を心から慕い、崇拝する年下の女の子にキレてしまう。
そのマドンナは、もうずっと、そんなの(周囲の人達が自分を崇めること)にうんざりしていたのだ。
本当の自分は、ただの凡人で、自己中心主義で、男もセックスも大好きなのに、それを隠して天使の顔をするのがたまらなかったのだ。
そこへいくと、『僕は友達が少ない』の柏崎星奈(かしわざきせな)は、キャラクター紹介に「性格以外はパーフェクト」とあり、その唯一の欠点である性格は最悪だが、その最低の人間性で堂々と生きるところが彼女の最大の魅力なのである。

武装派組織「イスラム国」に対する安倍総理の対応は確かに最悪だった。
それに対して、総理を声高に、そして、理路整然、批判する人は多い。
私も、「安倍、やめちまえ」と思う。
しかし、私がなぜそう思うかというと、「俺がやりそうなことをやった」からだ。
いや、安倍総理だけではない。
あらゆる犯罪者のニュースを見ても、その犯罪者に対し、「ああ、あれは俺だ」と確かに思うのである。
誰だって、たまたまの偶然で、犯罪者になったり、ガンジーやマザー・テレサになったりするのだ。
クリシュナムルティーなんて、ガンジーを、批判するというのではなく、単なる事実として、最低の人間と断言していたが、それは全く正しいことだ。
ガンジーとて、彼が少しは見所のある者なら反論はすまい。
つまり、結論から言うと、安倍総理がやめる必要はない。
誰がやっても同じであり、安倍総理は彼なりによくやっているのである。
安倍総理は、気の毒なことかもしれないが、たまたま総理大臣をやっているに過ぎない。
そして、どこかの誰かは、たまたま犯罪者になったに過ぎないのだ。
両者は、総理大臣と犯罪者という呼び名以外に、特に違いはない。
会社の中では、社長もいれば、追い出し部屋にいる駄目な中年社員もいるが、両者は、たまたまそんな立場になっただけだ。
逆でも良かったのだし、そうなったところで、会社の状況は全く変わらないだろう。

公平な人間、全てを平等に見る人間を目指すなんて人が多い。
しかし、誰かを見下す限り、そして、誰かを尊敬する限り、ちっとも公平でも平等でもない。
私に関して言えば、仮に美点があるなら、それは上っ面だし、蔑むべき点ならいくらでもある。いや、謙遜でも何でもなく、蔑むところ以外はない。
そもそも、自分で自分を蔑んでいるのだろうが、それはそれで、別に良いのだ。
エドガー・アラン・ポーの、善なるウィリアム・ウィルソンは、悪なるウィリアム・ウィルソンと、ちっとも変わらない。
むしろ、善なるウィリアムの方がずっと悪い。
善なるウィリアムは、悪なるウィリアムに対し、あんな高飛車なことをせず、決して慈悲の意味でもなく、単に仲良く喧嘩すればそれで良かったのだ。
悪なるウィリアムも、善なるウィリアムにこう言えば良かったのだ。
「このマジ悪魔め。とりあえずメシに行こう。俺がおごる。お前とメシを食うなんて最悪だからな」
尚、映画『世にも怪奇な物語』で、アラン・ドロンが演じたウィリアムがなかなか良かった。美男子ドロンの本性だって、悪い方のウィリアム(ドロンは悪い方のウィリアムのみ演じた)に近いのだなあと感じたものだ。また、若き日のジェーン・フォンダ(別の物語で登場)やブリジッド・バルドーらが美しい。









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世間的な友達は絶対に不要である

男と女、男と男、女と女のいずれに関わらず、友情を描いた小説や映画などは、観ていて楽しいということもあるだろう。
しかしまた、それらの作品には、どこか嘘っぽさを感じることが多いのだ。
だが、稀に、「これはなかなかの・・・いや、かなりのものだ」と思うような作品だってあるのかもしれない。
男同士の友情を描いた、そんな「なかなかの」、あるいは、「かなりのもの」と思える作品は、アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソン共演の1968年のフランス・イタリア合作映画『さらば友よ』である。
友と言っても、一緒に遊んだり、仕事したり、飲み食いしたり、悩みを相談し合うようなことは・・・絶対にあり得ない2人だ。
憎み合い、否定し合い、殴り合うだけである。
だが、計らずも、ついに力を合わせることになるのは・・・何と、金庫破りだった。
だが、そうすれば救われるのに、お互い、相手を決して売ろうとしない。
それどころか、ブロンソン演じる詐欺師で、金のためなら何でもやるはずのプロップは、罪を自分1人で背負い込もうとするほどだ。
お互い、相手に対して義理はないし、借りもない。
しかし、相手を売れば、それが大きな借りになる。
貸しも借りも作らない。
それが男なのだろう。

そして、さらに凄い男の友情・・・と言うのもおかしいが、そんなものが『木枯し紋次郎』の、紋次郎と峠花の小文太だ。
小文太にとって、憎んでも憎み切れない紋次郎を八つ裂きにして殺すことだけが生きる支えだった。
紋次郎にとって小文太は、実は何の関心もない相手だが、戦えば万に一つの勝ち目もない、元武士の剣術の達人だった。
ところが、お互い、相手に知られることもないまま、相手を救うのである。
そのことを、お互い、決して相手に伝えない。
伝えれば、それが貸しになってしまう。
借りを作るのは嫌だが、そんな相手に貸しをを与えるのも嫌なのだ。
そして、ついに実現となる2人の初対面は、両者深手を負いながら、大軍と言って良い敵に囲まれ、計らずも背中合わせで群がる敵に対峙することになるのだった。
小文太は、紋次郎に、
「追ってくるやつは俺が引き受けるから、お前は逃げろ」
と言う。
だが、紋次郎は、
「お前さんに命を救われるいわれはござんせん」
と拒否する。
「馬鹿野郎!誰がお前の命など救うか!お前は俺が斬るのだ。今の死にかけたお前など斬っても面白くない」
「そうでござんすか。それならごめんなすって」
ところで、世の中には、上には上がいる。
小文太すら決して敵わない、さらなる剣の達人がいるのだが、何の因果か、その超絶達人は、小文太を何が何でも斬らねばならぬほどに憎んでいる。
黙って、そいつに小文太を斬らせておけばいいのに、紋次郎はそんな相手に、さしの(1対1の)勝負を申し込む。
新しく買った腰のもの(大刀)の試し斬りがしたかったので応じてやると、紋次郎を嘲笑する超達人。
そして、さらに、それだけでは終わらない。

別に男同士に限らないが、本物の友情・・・と言うのもやはりおかしいのだが、そんなものがこの作品にある。
それを見れば、『僕は友達が少ない』(平坂読さんの小説のタイトル。私の愛読書の1つ)などと嘆くこともなくなる。
世間的な「友達」など絶対に不要だと分かるからである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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