ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

個性

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

個性とは量である

個性がないと引き寄せは出来ない。
こんな重要なことが見落とされていることを何度も書いた。
そして、学校やテレビによって、皆、金太郎飴(正式には組み飴。どこで切っても同じ顔の絵になっている)のように同じになるよう洗脳された我々には、正しい個性というものが分からないことも、何度も述べた。
「個性くらい分かるよ」と言う者は、単に、「変わってる」「目立ってる」ことを個性だと誤解している場合が圧倒的だ。

学校でいじめられる子は個性があるからいじめられると言われることがあるが、これは大抵正しくない。
学校でいじめられる子が、「皆と同じであるべきと思われていることで同じでない」とは言えるかもしれない。
例えば、その土地以外の方言を使うとか、外国人やハーフで顔立ちが違うなどである。
そんな子がいじめられるのは、やはり、「皆同じでないといけない」という学校教育のせいである。
とはいえ、そんな違いは個性ではない。

個性とは、量であり、それを作り出す粘り強さだ。
たとえば、腕立て伏せを毎日やっている人は、特に成人では滅多にいないが、1日に10回や20回やっているというだけでは、せいぜい「変わっている」であって個性ではない。
しかし、これが毎日200回なら個性である。
ブランドもののグッズを持っていても個性的ではない。
私もシャネルのコートを着ていたことがあったが(新品で入手したが、裏地にほんの少しの傷があったので、シャネルでは新品商品として売らず、中古商品としてわずか10万円程度で買えた)、もちろん、それによって個性的になったわけではない。
ただ、あらゆるグッズをシャネルに統一している人であれば、個性的と認めざるを得ないかもしれない。そこまでシャネルに思い入れがあるなら、個性的な人間である可能性が高いからだ。

日本人で聖書を読む人は珍しいが(今はアメリカ人でも少ないかもしれない)、1回や2回読んだ程度では個性的ではない。
だが、毎日必ず30分読んでいるというなら個性的である。
フェラーリやランボルギーニに乗っているというだけでは、全く個性的ではない。
だが、これらの車を本当に好きで乗っているなら、個性的な人物である可能性がある。何かを積み重ねた人間でないと、これらの車の本当の良さはわからないからだ。

些細なことでも、自主的に積み重ねれば個性になることがある。
このブログでよく取り上げる、江戸時代、臆病な性格を治すために、毎日、墓地に行ったという町人のように。
昔、私の旧ブログで、腕振り運動を勧めたら、「私は昨日、一万回やりました」とコメントしてきた人がいた。
私は、「大したものだが、1日だけでは意味がない」と返事をした。
気紛れで張り切って頑張る人はよくいるが、それは個性的ではない。
腕振り運動も、1日だけ、あるいは、ごくたまに1万回やっても駄目だが、1日千回を1年365日、決して欠かさずやっているなら個性的である。
ただ、「以前はやっていた」では駄目である。
それこそ、私のように、佐川幸義流四股を毎日やっている者は極めて稀であろうが、1日100回200回程度なら、単に「珍しい人」である。
これも、自主的に毎日千回以上やっているなら個性的と言える。

3年ほど前、私は、若いイラストレーターの優樹ユキさんの個展(初個展)に行ったことがあった。
優樹ユキとは変わったペンネームだが、それを「個性的」と言うのは正しくない。あくまで「変わった名前」と言うのが正しい。それも、ちょっと変わっている程度だ。
私は会場に居た優樹ユキさんに、「子供の時から描いておられたのですか?」と尋ねたら、若くて非常に可愛い優樹さんは感情を込めて、「いつも描いてました」と返事をしてくれた。
これこそが、個性的な人の生き方なのである。

個性とは量であり、それを作り出す粘り強さだということを、私は座右の銘としようと思う。








個性が力を呼び起こす

どれほど良い引き寄せメソッド(手法)・・・たとえば、瞑想、アファーメーション、イメージング、夢ノート、その他を、熱心にやっても、個性がなければ、望む引き寄せは起こらない。
これが、長年、引き寄せメソッドをやっても、願いが叶わず、心から幸福になれない人が圧倒的な理由なのに、これを単純に言ってくれる人がいなかった。
ところが、これが、個性のない凡人が言われて困ることでもある。
凡人は、本当の個性について何も分からない。
そうなるよう(個性とは何か分からなくなるよう)、学校やテレビで徹底的にしつけられているからだ。
一方、「あなたはそのままで世界でたった1つの花なのですよ」と言う者が沢山いて、これが個性のない凡人が言って欲しいことだが、もちろん、これは意味のないたわごとである。
個性のない凡人は、せいぜいが、米か麦の花で、区別がなく、すぐに枯れてしまう。

珍しいと個性は全く違う。
身長190cmや、160cmで100kgあれば珍しいが、こんなものは個性ではない。
これらを生かせば個性になることもあるが、これらだけでは個性ではないのだ。
東大卒も柔道3段も、多少は珍しいが、それだけでは個性ではない。
東大卒の素晴らしい頭脳や、武道で磨いた心身を生かせば個性になることもあるが、単に東大卒、柔道3段(5段でも同じだ)、金メダリスト、IQ200でも、それだけでは全く個性ではないのだ。
むしろ、東大卒といった、世間で称賛されるものを持っている者ほど凡人になり易い。その原理は何度か語ったが、今回は省く。

一方で、割とつまらないことが個性になることもある。
何度も取り上げたが、江戸時代、臆病な性格を治すために、毎日墓地に行った町人のようにだ。
彼は個性ある人間となり、眼力のある武士が、その町人に引きつけられた。
彼は「誰にそうしろと言われたわけではないことを(つまり自主的に)」「毎日欠かさず」やったから個性になったのだ。
私も、こんなことがあった。
私は昔、自動車を運転中に信号無視をやってしまい、しかも、たまたま近くに警官がいた。
状況的にただで済むはずがないし、一瞬憂うつになったが、私はなぜか、完全に落ち着き、簡単に警官を追い払った。
丁度、『マスターの教え』で、初めて入った店で、サインだけで支払いをしたマスターや、『マジック・ストーリー』で、貧乏で有名な男が換金出来るかどうか分からない小切手だけで簡単に支払いを済ませたのに似ている。
私に何があったのかというと、当時、私はTM(超越瞑想)という瞑想をやっていたのだが、本当に、毎日、規定通りにしっかりやっていた。
それで、私は、「私は毎日TMをやっているから大丈夫だ」と思ったら、自信が湧いてきたのだ。
ただ、TMが良いのではない。私は、今はTMは全く信じていない。
それでも、TMを毎日欠かさずやっているので大丈夫だと思ったから、不思議な力が出て来たのだ。
こんな精神効果を起こせるという意味では、TMは優れたものである。だが、あくまで「イワシの頭も信心から」をうまくやっているのだと私は思っている。
だから、TMでなくても、何でも同じである。
何でも良いから、毎日、欠かさずやれば良い。
何でも良いが、ある程度楽に続けられ、価値があると思えることでなければならない。
でないと続かないし、根性で続けても個性は得られない。
楽過ぎるのは駄目だし、それほど高い価値でなくて良い。
腕振り運動は、多少の根気は必要だが、毎日2千回が楽に感じるなら、これが個性になるだろう。








あなたは何に関して非凡か?

『読み込中』というYouTube番組で、「私、〇〇ランキング1位です」というテーマの動画があったが、レギュラー出演者の苫米地英人氏と武井壮氏が、それぞれ、自分がランキング1位と思う自信のあることを話された。
苫米地氏は、「いろいろあるが、ダンブルアンプ(ギターの最高級アンプと言われる)の保有数世界一でギネス認定されたことがある」と言う。
武井氏は、「部屋の中移動距離ランキングなら私は世界一ではないか」と言い、低い姿勢で大股で部屋の中を歩き回るのだが、一番多い時で、1日6万歩位歩いたと言う。

「ランキング1位」という言い方でなくて良いが、「これなら誰にも負けない」「これなら非凡だ」というものが、ぱっと出て来るのが個性的な人間であり、自分では意識しなくても、引き寄せがうまいはずだ(苫米地氏は引き寄せ系書籍のベストセラーも多いと思う)。
ランキング1位であることは、些細なことでも構わないのだが、信念が反映された、それなりのものであることが必要だ。
あなたには、そんなものがあるだろうか?
ないなら、持たなければならない。
別に、苫米地氏や武井氏のように「世界一」という話でなくて良いが、自分より上手が簡単には見つからないものでなくてはならない。
私であれば、腕振り運動や、佐川幸義流四股の、それぞれ1日の回数なら、私より上手がいくらでもいるが、この両方のトータルなら、この両方をやっている者が少ないこともあり、私以上はそうはいないと思う。
ただし、私は、これらに、そこまでの思い入れはないので、除外とする。
このブログで時々取り上げる、「神様の奇跡が起こる」と唱えて1憶円を2回当てたホームレスの男性は、この言葉、あるいは、アファーメーション全体でも、2週間で唱えた数なら、世界ランキングでもかなり高いかもしれない。
これもまた個性である。

おそらく、絶対的1位なのは、真剣を一晩に3万3千回振り続けた小泉太志命であろう。そもそも、一晩3万3千回はどう考えても不可能だ。
私は最近、短刀木刀を振る回数でトップになろうとか考えたことがある。短刀なら、座っててもやれる。
まあ、半分冗談である(つまり、半分本気である)。

尚、肝心なことは、聞かれてもいないのに、「私はこれこれをこれだけやりました」と吹聴したり、SNSなどで言うことである。
黙っていないと個性にならない。
ただし、必要な場合は、隠すことでもないので、堂々と言えば良い。
また、自主的にやることでなければならず、やらされていることなら、たとえ世界一やっていようが、個性はない。
だが、自分が自主的にやっていることで、誰にも負けない・・・そんなものを何か持っていれば、世界がどうなろうが、間違いないだろう。








今年の目標「一点特化」

あけましておめでとうございます。
私は、昔はやっていたが、今は、大晦日やお正月らしいことは、自主的には何もしないのだが、今年の目標みたいなものを持つことは悪くないと思う。
もちろん、学校や会社で言わされるような、あるいは、ノリで言うような、嘘の目標なら百害あって一利なしと思う。
今年の私の目標は、新しい個性の獲得だ。
私は大した個性の持ち主ではないが、個性の度合いに応じて引き寄せが出来たことは間違いない。
簡単に言えば、普通の人より個性的である分、普通の人より引き寄せが出来たのだが、普通の人は、意識的な引き寄せはほとんど出来ない。
よく、ぼーっとした時に願ったことが叶うというが、そうではなく、たまたま個性的な状態になった時・・・極めて珍しい気分になった時に願いが叶うのであり、そんな時は、後で考えると、ぼーっとしていたように感じるのだ。

ところで、個性的になるために何かを始めると言っても、空手などの武術を習いに行ったからって個性的になるわけではない。
たとえば、柔道の全国大会に出場するほどの猛者でも、ほぼ全員、個性的でない。
ならば、ちょっと習いに行って、多少強くなっても、全く個性的になれない。
だが、ある武道家の本で読んだが、あるヤクザの男は、相手の脚を折る、必殺のスライディングキック1つで、その名を知られていた。
その他には、何も取り柄もない男であったらしいが、こんなやつが個性的なのだ。
まあ、この話は、有名だが、嘘の多い武道家の本の話であるが、この話は何かリアリティがあった。
嘘つきだって、たまには本当の、それも、本物の本当の話をするものだし、別に嘘でも構わない。
そんなふうに、「一点特化」の人間は、それを究めれば超個性的なのである。

プロ野球といえば、イチローのように走攻守全部抜群というのが理想的であるが、全員がある意味天才であるプロ選手でも、なかなかそうはいかない。
ところが、本場のメジャーリーグには、守備専門の選手がいて、とにかく守備がベラボウに上手いので、後のことは出来なくても、高給で雇われているのである。
また、野球のピッチャーは、球種が少ない投手であっても、3つ(例えば、ストレートとフォークとカーブ)くらいは磨いているものだが、極めて珍しいが、ナックルボールという球種1つでメジャーの名投手だった選手が、メジャーの歴史の中で2人くらいいるらしい。
モデルでも、手が徹底的に美しい手のモデルや、画家でも、手を描かせたら絵の神様並という手専門の画家がいる。
そして、そんな人間は超個性的で、引き寄せが上手いので、いい想いをしているのである。
器用貧乏が一番いけない。
万能か一点特化のどちらかが良い。
商売でも、安価で大量に売るか、逸品を高値で売るかであるが、個人としては後者の方が良いというより、後者でないといけない。
運動は何でも得意というやつには、あまり興味が持てない(それほど珍しくはない)。しかし、他には何も出来ないが、腕立て伏せなら日本一なんて人なら会ってみたいと思う。
あくまで伝説であるが、柳生宗矩は徳川家光が子供の時、剣で同じ一点をずっと打てるなら、鉄の兜も切れると言って、自ら、その兜切りを披露し、以降、家光は、部屋の中に立てた棒を、毎日木刀で打っていたという話がある。
多分、それは実話ではないが、似たお話はよくあり、何かしらの真理は感じるのである。でなければ、そういった他愛のない話が伝わるとは思えないし、その似た話には、本当の話もあったのである。

私も今年は一点特化の美技で個性を磨こう。
あくまでたとえばであるが、フリッカーパンチを磨きまくるとかね(実はやってたりするかもしれない 笑)。
寝食を忘れて佐川幸義流四股をやるのも面白いと思う。








年の暮でも、いつでも、心安らかにあるために

江戸末期の神道家、黒住宗忠の弟子の1人が、ある年末に、
「神に全てをゆだねれば、年の暮れも安心である」
といった内容の歌を詠んだ。
すると、宗忠は、
「神に全てをゆだねれば、いつも安心だ」
といった内容の歌を返した。

その通りだ。
神(宇宙意識、宇宙の活力、潜在意識)に全てを完全にまかせ切れば、絶対に安心である。
ただし、本当にまかせ切ることが出来れば。
そして、神に全てをまかせ切るには、強い個性がなければならない。
その原理は、個性がなければ、世間の教義、信条といった、人々の集団意識に飲み込まれるが、集団意識は「自分の力を頼め。神などあてにならない」と言うのだからだ。
集団意識に対抗するには、どうしても、世間に決して従わない強い個性が必要である。

宗忠は、悟りを開いて知った神のことについて、「こんな良いことは、早く皆に教えてやらなければ」と思い、精力的に教えを説き始めた。
しかし、ほとんどの者は救われなかったはずだ。
なぜなら、彼の教えで神のことを信じることが出来るなら、今頃、全ての日本人が幸福になっているに違いないからだ。
神を信じるには、まず、強い個性が必要であることに、宗忠も、他のほとんどの聖者達のように、気付かなかったのだ。
現在でも、良い引き寄せの本は沢山あるのに、ほとんどの者が幸福になれないのは、それらの本には、引き寄せの一応のやり方は書かれているかもしれないが、個性がなければ、そのやり方が力を発揮出来ないことが書かれていない。
書いた者も知らないのだ。
ジェームズ・アレンは、道徳的に善良であれば引き寄せが出来ると考え、ラルフ・ウォルドー・トラインは楽天的であれば良いと考えた。
ヘレン・ケラーも、楽天的であることを重視した。
しかし、それら偉大な人物達の教えは、人々の心を喜ばせたが、力は与えなかった。
神の力を得るためには個性が必要なのだ。
人々の集団意識に打ち勝つ個性が。
それは、現実を見れば純粋にして明晰と思う。

ラマナ・マハルシが言っていたと思う。
人間は、心の海を深く深く潜り、真我という真珠を得なければならないと。
その通りだ。
しかし、心の海を潜るのに、マハルシは「私は誰か?」という想いを重石にしなければならないと言った。
そうではない。
心の海は、世間の教義や信条といった集団意識に満ち、潜ろうとしても押し返される。
「私は誰か?」と問うても、集団意識は、「それは身体だ」「名前だ」「感動する心だ」などと世間的にありきたりなことを言って、潜ろうとする者を拒み、邪魔をするのだ。
我々は、個性という確固とした重みを持たなければ、決して心の奥深くに潜れない。
私は、何か楽しいことに打ち込んで個性を磨き、心の海を深く深く潜ることが出来る重石を得ようと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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