魂(あるいは霊)があるかとか、その魂が永遠であるかは、個人的判断にまかされている。
ところが、それを公的に権威を持って「魂はある」と決定して欲しい人が多い。
しかし、魂の存在は客観的に証明出来ないので、それは不可能である。
ところが、魂の存在は証明出来ないが、存在しないことも証明出来ないのに、「魂はない」を常識化したい人も多い。
そして、人々はいずれかに加担したがるし、他人も、自分の考えに従わせたい。
だが、魂があるかないかは、あくまで個人的判断であり、他人の考えは尊重しなくてはならない。
しかし、今の世の中ですら、個人的判断にゆだねられるべきことを、その判断を押し付けることが非常に多い。
新型コロナワクチン接種などがまさにそうで、「打つのが当たり前」を正義としたい人と「打ってはならない」を正義としたい人で分断してしまっている。
ただ、この問題は根が深く、「打つのが当たり前」を正義としたい人というのは、「政府は正しい」「医療は正しい」「テレビは正しい」と思っているから、「打つのは正しい」と思っているのである。
一方、「打ってはならない」を正義をしたい人というのは、「政府は信用出来ない」「医療は信用出来ない」「テレビは信用出来ない」と思っているから、「打つのは間違い」と思うのである。
そして、面白いことに、「魂があるか?」も全く同じ構図がある。
個人の判断にゆだねられるべきものとは別に、「個人で判断してはならないこと」がある。
極端に言えば、「殺してはならない」であるし、細かい話であれば、「スーパーのゴミ捨て場に家庭のゴミを捨ててはならない」とかである。
しかし、個人で判断してはならないことを、個人で判断してしまう風潮が広まり、「スーパーのゴミ捨て場に家庭のゴミを捨てても全く構わない。俺はいつもやってるが文句を言われた試しはない」とか、「住宅地の道でサッカーなどをして遊んでも構わない。それに文句を言う権利など誰にもない」と言う者が増えている。
個人で判断すべきでないことを、個人で判断して良いと思う者というのは、容易く、個人で判断すべきことを「いや、これが常識なんだよ」と思い込ませ易い・・・つまり、洗脳し易いのである。というのは、そういう知性や信念のない者は、アメとムチの両方に弱いからである。
逆に、知性と信念がある者は、アメにもムチにも支配されない。
引き寄せも全く同じで、引き寄せがあるかどうかも、全くの個人的判断であり、引き寄せがあると万人に主張することは出来ないし、逆にないというのを常識にすることも出来ない。
別に非難するわけではないが、『ザ・シークレット』のように、「引き寄せは絶対ある」という立場は、あくまで商売のためなのである。
だから、『ザ・シークレット』には良いところもあるのだが、ロクでもないところも多いのである。
「いや、量子力学で引き寄せが証明されつつある」と言う者も増えているが、ファインマン博士が言うように「本質では誰も量子力学を理解出来ない」のである。もちろん、レーザーや半導体のように、応用では量子力学を利用出来るが、分からない部分が多いというより、ほとんど何も分かっていないというのは、電気だって同じなのである。
極端に言えば、「なぜ人を好きになるのか?」は実際には何も分からないが、好きになる時には好きになるというようなものだ。
AIアート627
「夜の壁」
Kay
引き寄せが出来ない人というのは、個人的判断が出来ない人・・・つまり、信念がなく、アメとムチに弱い人なのである。
昔は、年を取るほど信念が強くなり、自覚はしないながら引き寄せ力が大きくなるので落ち着いて安心していたが、今は、年を取るほど信念がなくなる人が多く、不安な老人だらけで、そんな不安な老人は、良い立場にあれば汚い手を使ってでも金を儲け、良い立場になければ絶望するだけである。
藤平光一という合氣道家は、毎朝、鏡の中の自分に向かって「お前は信念が強くなる」と言い続けたというが、この話は端折り過ぎで、これだけでは何のことか分からない。
それよりも、深呼吸をするとか、「私は私」という言葉を数回繰り返すことをお奨めする。
それで信念が得られる。ただし、やってみないと分からないが。
まあ、正確には、それで、信念が得られる経験や試練に導かれるのであるが、それは自然なものであり、別に恐ろしくもしんどくもない。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)自己信頼(ラルフ・ウォルドー・エマソン。関岡孝平訳)
(2)ご冗談でしょう,ファインマンさん 上 (R.P.ファインマン)
(3)自分の中に毒を持て(岡本太郎)
(4)孤独がきみを強くする(岡本太郎)
(5)弓と禅(オイゲン・ヘリゲル)
(6)眠りながら成功する ~自己暗示と潜在意識の活用(ジョセフ・マーフィー)
(7)洗脳原論(苫米地英人)
ところが、それを公的に権威を持って「魂はある」と決定して欲しい人が多い。
しかし、魂の存在は客観的に証明出来ないので、それは不可能である。
ところが、魂の存在は証明出来ないが、存在しないことも証明出来ないのに、「魂はない」を常識化したい人も多い。
そして、人々はいずれかに加担したがるし、他人も、自分の考えに従わせたい。
だが、魂があるかないかは、あくまで個人的判断であり、他人の考えは尊重しなくてはならない。
しかし、今の世の中ですら、個人的判断にゆだねられるべきことを、その判断を押し付けることが非常に多い。
新型コロナワクチン接種などがまさにそうで、「打つのが当たり前」を正義としたい人と「打ってはならない」を正義としたい人で分断してしまっている。
ただ、この問題は根が深く、「打つのが当たり前」を正義としたい人というのは、「政府は正しい」「医療は正しい」「テレビは正しい」と思っているから、「打つのは正しい」と思っているのである。
一方、「打ってはならない」を正義をしたい人というのは、「政府は信用出来ない」「医療は信用出来ない」「テレビは信用出来ない」と思っているから、「打つのは間違い」と思うのである。
そして、面白いことに、「魂があるか?」も全く同じ構図がある。
個人の判断にゆだねられるべきものとは別に、「個人で判断してはならないこと」がある。
極端に言えば、「殺してはならない」であるし、細かい話であれば、「スーパーのゴミ捨て場に家庭のゴミを捨ててはならない」とかである。
しかし、個人で判断してはならないことを、個人で判断してしまう風潮が広まり、「スーパーのゴミ捨て場に家庭のゴミを捨てても全く構わない。俺はいつもやってるが文句を言われた試しはない」とか、「住宅地の道でサッカーなどをして遊んでも構わない。それに文句を言う権利など誰にもない」と言う者が増えている。
個人で判断すべきでないことを、個人で判断して良いと思う者というのは、容易く、個人で判断すべきことを「いや、これが常識なんだよ」と思い込ませ易い・・・つまり、洗脳し易いのである。というのは、そういう知性や信念のない者は、アメとムチの両方に弱いからである。
逆に、知性と信念がある者は、アメにもムチにも支配されない。
引き寄せも全く同じで、引き寄せがあるかどうかも、全くの個人的判断であり、引き寄せがあると万人に主張することは出来ないし、逆にないというのを常識にすることも出来ない。
別に非難するわけではないが、『ザ・シークレット』のように、「引き寄せは絶対ある」という立場は、あくまで商売のためなのである。
だから、『ザ・シークレット』には良いところもあるのだが、ロクでもないところも多いのである。
「いや、量子力学で引き寄せが証明されつつある」と言う者も増えているが、ファインマン博士が言うように「本質では誰も量子力学を理解出来ない」のである。もちろん、レーザーや半導体のように、応用では量子力学を利用出来るが、分からない部分が多いというより、ほとんど何も分かっていないというのは、電気だって同じなのである。
極端に言えば、「なぜ人を好きになるのか?」は実際には何も分からないが、好きになる時には好きになるというようなものだ。
AIアート627
「夜の壁」
Kay
引き寄せが出来ない人というのは、個人的判断が出来ない人・・・つまり、信念がなく、アメとムチに弱い人なのである。
昔は、年を取るほど信念が強くなり、自覚はしないながら引き寄せ力が大きくなるので落ち着いて安心していたが、今は、年を取るほど信念がなくなる人が多く、不安な老人だらけで、そんな不安な老人は、良い立場にあれば汚い手を使ってでも金を儲け、良い立場になければ絶望するだけである。
藤平光一という合氣道家は、毎朝、鏡の中の自分に向かって「お前は信念が強くなる」と言い続けたというが、この話は端折り過ぎで、これだけでは何のことか分からない。
それよりも、深呼吸をするとか、「私は私」という言葉を数回繰り返すことをお奨めする。
それで信念が得られる。ただし、やってみないと分からないが。
まあ、正確には、それで、信念が得られる経験や試練に導かれるのであるが、それは自然なものであり、別に恐ろしくもしんどくもない。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)自己信頼(ラルフ・ウォルドー・エマソン。関岡孝平訳)
(2)ご冗談でしょう,ファインマンさん 上 (R.P.ファインマン)
(3)自分の中に毒を持て(岡本太郎)
(4)孤独がきみを強くする(岡本太郎)
(5)弓と禅(オイゲン・ヘリゲル)
(6)眠りながら成功する ~自己暗示と潜在意識の活用(ジョセフ・マーフィー)
(7)洗脳原論(苫米地英人)