ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

保江邦夫

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

やらないよりマシの美学

算数が全然駄目な子が、算数が出来るようになるには、毎日1時間、算数の勉強をしなければならないかもしれない。
しかし、その子を見て、1時間も勉強が出来るかどうかなど分かりそうなもので、出来るはずのない子に「1時間勉強しろ」と言う教師には退職をお勧めする。無能も度が過ぎているからだ。
それで、「1時間は無理でも、10分なら出来る」と推測すれば、「10分やってよ」と頼んでみる。
10分では全然足りないが、やるとやらないでは、とんでもない違いである。
それなら、せめて10分やってもらうべきである。
これについて、面白い話がある。
実話かどうか多少疑っているが、合気道家の藤平光一氏の『氣の威力』という本の中のものだ。
算数が全然駄目な男の子がいたが、その子は遊ぶのが大好きで、すぐに遊びに行きたり、少しも勉強しそうにない。
そこで、藤平氏は、その男の子に、
「勉強しなくていいから、1日1っぺん、必ず算数の教科書を開いて、『算数が好きだ』と言ってくれ」
と言った。
その子にとっては、「勉強しなくていい」というお墨付きがもらえるわけだから、喜んで従った。
そうしたら、やがて、その子は、算数が凄く出来る子になったらしい。
1時間が無理なら10分、10分が無理なら1分、それも無理なら、せめて教科書を開き、「算数が好きだ」と言うだけにする。
それで本当に成果が出るかどうかはともかく、それでクタクタに疲れたり、ストレスがたまるわけではない。むしろ、「勉強しなくていい」のであるから、爽やかであるはずだ。
そして、教科書を開き「算数が好きだ」と言うことにデメリットは全くなく、わずかかもしれないがメリットはあると思う。それなら、やった方が良いのではないだろうか。
小さな可能性が大きく育つことはあるが、可能性ゼロのまま放置すれば、いつまでもゼロである。

腕立て伏せについて、YouTubeでムキムキの身体をした人が、
「腕立て伏せは限界までやって、さらに、そこでもう1回やって下さい」
と言うが、それは、筋トレ好きの趣味である。
そんなことを普通の人に言えば、言われた人は、全くやらなくなる可能性が高い。
そんな個人的な趣味は言わず、精一杯やって10回の人なら、3~5回なら楽なはずだから、それを毎日続ければ、全くしないのと比べ、物凄く大きな差になることは間違いない。
いや、1回でも、やるとやらないでは全然違うと思う。
それに、1回と言っても、やがて、楽々と3回、5回、10回とやれるようになるが、それは、最初にスタート出来てこそである。
けれども、10回なら楽に出来るようになったのに、調子に乗って、無理に15回やり、それが苦しいと、腕立て伏せが嫌いになり、いつのまにかやらなくなる。
また、本当はシンドくて嫌なのに、根性でやると、ストレスがたまり、不健康になり、下手すると病気になる。
だから、楽に楽しくやれるだけやれば良いのである。

これも、本当かどうかは知らないが、物理学者で合気道家の保江邦夫氏が著書に書いていた、こんな話も参考になる。
保江氏がスイスの大学に講師に行った時、現地の人達と一緒に武道のトレーニングをやったのだが、スイスには巨体の人が多く、いくら保江氏が合気道の有段者でも、力が強い大男には全く歯が立たない。
そんな時、合気道の先輩である数学者の木村達夫氏が、四股を毎日千回踏めと言う。木村氏は、自分はやっていると言う。
しかし、保江氏は、千回は無理と、300回だけやったらしい。
すると、しばらくしたら、以前は全く敵わなかったスイスの大男に楽勝出来、自分で驚いた。
もし、保江氏が真面目な人で、先輩の言いつけ通り千回やろうとしたら、おそらく、続かなくて、全然やらなくなっただろうが、それなら、いつまで経っても大男には勝てなかったはずである。
「やらないよりはマシ」をすっと選択出来る保江氏の賢さと言うか、根性がないことが良かったのである。

そんなわけで、腕振り運動も、毎日千回以上が好ましいが、せめて50回でもやると良いと思う。
ただし、毎日やるというところは曲げてはならない。でないと、すぐに、全然やらなくなるからだ。そもそも、「毎日せめてこのくらいは」というところから、50回とか100回とか決めるのであるが、それすら出来ないようでは、さすがにヤバい(笑)。

私は、現在、アレクサンダー・ロイド博士が開発した「ヒーリングコード」に取り組んでいるが、ロイド博士の著書では、「1回最低6分、1日最低3回」を、かなり絶対的な条件としている。
しかし、1日3回はともかく、1回6分が私には厳しい。
また、ロイド博士が勧めるように、「ヒーリングコード」をしながら、お祈りをするというのは、私にはおそらく無理だ。
そこで、1回1分もしないかもしれないが、とにかく、1日3回以上は必ずやるようにしようと思う。
私がこれを始めた目的の1つが、10月以降、苦しめられているアレルギーによる肌の異常である。
そして、「ヒーリングコード」2日目で、それまで、夜中に何度も起き、眠れなかったのが、昨夜は、一度も起きずに寝られた。
この調子で行こうと思う。
だが、あまりに自分を甘やかすというのも戒めねばならない。

尚、上の保江邦夫氏のエピソードが保江氏のどの本に書かれていたか分からない。
個人的には好きな人ではなく、むしろ、嫌いな人で(笑)、無駄に沢山出している著書も、現在は全く関心がない。








真言を気楽に唱えるコツ

真言を唱えれば、いかなる問題も解決し、救われる。
ただ、真言を唱えることがストレスになっては、どうしようもない。
尚、ここで言う真言とは、念仏、仏教のマントラ、神の名の称名、神道の祓詞や祝詞、言霊、音霊、あるいはその他も含む。

親鸞は、人間をよく知っていたのだと思う。
彼は、念仏は、一生で十度でもいい、いや、一度でいい、いやいやいや(笑)、一度も唱えなくていい。
ただ、唱えようと思いさえすれば良いと言ったのだ。
まあ、それで師の法然には怒られたらしい。
法然も、決して高貴な身分の者とだけ接していたわけではないが、おそらく、親鸞は、高貴でないどころか、かなりひどい外道の者とも沢山会っていたのである。
そんな者達に、念仏を1日百回唱えよと言い、もし納得してくれたとしても、下々の者達にとっては、それがストレスになってしまって、念仏を唱えることをやめてしまえば、もう二度と唱えないのだ。
しかし、「唱えなくていいよ。ただ、唱えようとだけ思って欲しい」と言えば、たとえ念仏をやめてしまっても、また思い出して唱えてくれるかもしれない。

先日、私が大嫌いな物理学者の保江邦夫氏(ここまで言うからには、よっぽど好きなのだという説もある)がYouTube動画で、こんなことを言っていたのを書いた。
奈良時代に天然痘の大パンデミックが起こり、日本が深刻な状況に陥ったが、時の聖武天皇(しょうむてんのう)は、今日で5千億円に相当すると言われる巨費をかけ、奈良の大仏を作った。
すると、その完成した大仏を見て、人々は大感動し、それでストレスがぱーっと消え去った。そうしたら、パンデミックも収まった。
今のコロナも、人々のストレスが消えれば、静まってしまうに違いない。
まあ、今、5千億円で大仏作ると菅総理が言ったら、あっという間に彼は失脚だし、かといって、オリンピックみたいな利権まみれ欲望だらけのイベントで人々が本当に感動したりはせず、人々のストレスが消えることはない。
しかし、真言を唱えた人は完全に守られる。
とはいえ、その真言自体がストレスになっては意味がないのである。

ストレスは人間最大の敵だ。
ストレスがなければ、人間は全く歳を取らず、二百年でも三百年でも生きられる。
嫌いついでに、もう1つ、保江邦夫氏の話をするが、彼はだらしない男なので(笑)、血糖値が高く、ある時、病院で検査したら、血糖値が470という、とんでもない数値(生きてるのが不思議レベルとか)だったらしい。
それで、食事の節制をし、頼みの気功師の治療も受けたが、少し下がった程度らしい。
ところが、こんなことがあったという。
保江氏の大学時代の仲間が田舎に帰るので送別会を行い、神戸ビーフのレストランに行ったが、保江氏は、翌々日、病院の検査があるので、大好きな赤ワインは飲まないことにした。
しかし、周りの者達が飲んでいるのを見て、保江氏は我慢が出来ず、とうとう、赤ワインを注文し、ジャンジャン飲んだそうだ。
それで満足し、よく眠れたが、病院に検査に行くと、血糖値がぐーんと下がっていたという。
つまり、我慢してストレスを抱えるのが最も悪く、楽しくやることが大切なのだろう。

私にも、こんな経験がある。
私は、朝食と昼食は食べないが、甘いものが好きなので、昼にキャラメルコーンを一袋の半分ずつちまちま食べていたら、不満足なため、ストレスが溜まり、体重が増えた。しかし、一袋食べて満足するようになったら、体重が減ったのである。
もちろん、度を超してはいけないが、人生は楽しくやるべきなのである。

まあ、面倒なことは考えなくても、真言を唱えさえすれば、全部片付き、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことばかりである。
だが、その真言を「唱えねば」と真面目にやろうとしてストレスになっては、どうしようもない。
多少の根気まで必要ないとは言わないが、気楽にやることである。
そして、真言をなかなか唱えられなくても、「常に唱えよう」という気持ちだけ持っていれば、やがて、自然に唱えられるようになるし、案外、自分も知らないうちに唱えているかもしれない(そんな真言こそ理想かもしれない)。
真言は、本来、唱えて楽しいものである。
何と言っても、真言とは、この上ない慈愛に満ち、そして、想像を超える超強大な力を持った存在に甘えることなのだが、それらの存在は、甘えれば、いくらでも甘やかしてくれるのだから。
阿弥陀如来といい、観世音菩薩といい、天照大神といい、みんな、そうなのだ。
真言を、気楽に、ただし、丁寧に、楽しく唱えていれば、他に何もする必要はないのである。
たとえ今は、十分に唱えられなくても、「いつも真言を唱えよう」と思いさえすれば良い・・・これが真言を続けるコツである。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か』(ラマナ・マハルシ著)より~

ちなみに、私は、保江邦夫氏は、やはり大嫌いである(笑)。








真言に強力な力がある明確な理由

真言は効果があって当たり前・・・つまり、真言を唱えれば、幸運に恵まれ、安らかでありつつ活力に満ち、幸福になれる強力な理由が、また見つかった。

まず、3人の優れた人物の「人間が存在する理由」の見解を紹介しよう。
一人は、イエス・キリスト
一人は、神道家で形成外科医だった葉室頼昭氏。
一人は、私が大嫌いな(笑)、物理学者で合気道家の保江邦夫氏である。

イエスは、「モーセの十戒」という十条の戒律を、人間が守るべき法として重んじた。
ところが、誰かが、「最も重要な法は?」と尋ねると、「神を愛せよ。これが第一である」と即答した。
これはつまり、人間は何のために存在するかというと、神を愛するために存在するということである。

葉室頼昭氏は、なぜ神が人間を作ったのかということについて、沢山ある著書のどれかに、「神を褒めるため」と書かれていた。
ちなみに、葉室氏は、著書の印税は全て寄付しておられたようである。

保江邦夫氏は、YouTubeで公開されたセミナーで、人間は「神を認識するための存在」として作られたと言われていた。

「神を愛する」(イエス)、「神を褒める」(葉室頼昭)、「神を認識する」(保江邦夫)というふうに、後になるにつれ、やや熱意が弱くなる感じもあるが、いずれにせよ、神は、自分に意識を向けてくれる存在を欲しているのだ。
そして、本来であれば、イエスの「神を愛する」が最も良いが、現代は、人間が神を忘れて見向きもしなくなったので、保江氏が言うように、まずは神を認識する必要があるのだろう。
そして、人間が、その一番軽い「神を認識する」すらしなくなったなら、人間は、人間を存在させている神の目的と合わず、それなら、人間は不要であるので、保江氏が言うには、神は人類をリセットするスイッチを押す手前で、我々は最後のチャンスという危ない状況らしい。コロナも、そのために「作らせた」と考えると合点がいく。

ところが、真言はまさに、「神を認識し」、「神を褒め」、「神を愛する」行為なのである。
仏教の仏(あるいは菩薩)の真言は、まずは、仏の名を呼び、仏に想いを寄せるものであるから、仏の存在を絶対的に認め、さらに、仏を称賛し、愛を表現しているものなのである。
例えば、私が唱えている、阿弥陀如来真言、

オーン、アムリタ、テージェ―、ハラ、フーン(サンスクリット語)
オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(中国語)

の意味は、「オーン、甘露(不滅)の威光ある者よ、救いたまえ、フーン」(『密教の聖なる呪文』参照)で、阿弥陀如来を大絶賛し、そして、愛していることも感じられるのである。
観世音菩薩真言であれば、

オーン、アーロリク、スヴァーハー(サンスクリット語)
オン、アロリキャ、ソワカ(中国語)

で、意味は、「オーン、蓮華をもつ者よ、幸いあれ」で、蓮華を持つ者は高貴な最高の存在であるのだから、やはり、最大に称賛しているのであり、「幸いあれ」と愛していることが分かる。
仏の真言はだいたい、このような意味で、仏の存在の認識は当然で、褒め称え、愛していることを表している。

日本神道の「十言神呪(とことのかじり)」と呼ばれる、天照大神の名を呼ぶ真言「アマテラスオオミカミ」は、その名を呼ぶことで、当然、天照大神の存在を認識すると共に、これだけで、自然に、称賛や愛を感じるものである。
これは、当然ながら、「アメノミナカヌシノカミ」や「オオクニヌシノカミ」でも同じと思う。
いや、それで言えば、本当は仏教でも、経典には「仏の名を呼べ」と書いてあるだけなのだから、「阿弥陀様」「観音様」でも立派な真言なのである。
まして、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」であれば、「南無(帰依します:信頼しすがります)」を付けることで、信頼すべき存在として称賛し、愛するからすがることを意味する最高の真言であることが分かる。

そして、最近は紹介する頻度が減ったような気もするが、
「神様の奇跡が起こる」
という言葉も、神の存在を認識し、その力を称賛し、良き業を行ってくれる愛する存在であることをはっきり示している真言なのである。

般若心経の呪文というのは、実は、観世音菩薩を大絶賛し、最大の愛を叫ぶ言葉なのである。
たとえ我々は意味を知らなくても、人類共通の意識の深い部分にこれがあり、現在にいたるも多くの人が唱えて共鳴する巨大なエネルギーになっているので、唱えれば、即座に、無意識的に観世音菩薩や、その他の仏達(観世音菩薩をその代表としている)への称賛や愛に共鳴するのであるから、その力が小さいはずがない。

以上のように、真言は、神や仏が人間を作った目的に最大に合致するのであるから、真言を唱える人間を神や仏が不幸にしたり、ましてや、リセットするはずがない。
だから、法然や親鸞は、「念仏を唱える者(仏を認識し、称賛し、愛する者)を、無数の仏が何重にも取り巻いて守る」と言うのである。








家畜化されないためには真言を唱えよ

何度も言って恐縮だが、私は、最近やたら沢山の本を出している、スピリチュアル界の大スターである、理論物理学者の保江邦夫(やすえくにお)氏が大嫌いである。
それで、今日も、1時間ばかし、彼のYouTube動画を見ていたのだが(笑)、なかなか良いことを言っている。
だが、やはり、彼が言うことは実践し難いと思う。
なんだかんだ言って、彼は、たまたまいい大学、大学院を出て、若くして物理学の博士号を取り、スイスの大学で長く講師をしてフランス語も上手く、日本に帰ってきたら、どこかの女子大の教授になり、おそらくは高給を取って、定年退官の折には退職金もたっぷり、武道家としても良い地位にいる。
それだけやれば、世界中に友達も多く、いろんな情報が入って来るし、活動範囲も広がり、さらにガッポリ(笑)。
まあ、私が彼を嫌いな理由は、そんなところにはある(笑)。
いや、それよりも、やはり、彼には、「偉大なり俺」の雰囲気を感じるところで、それでいながら、自我を消す訓練が進んでいるようなことを言うところだ。

ただ、今日見た動画は、なかなか良いことを言っていて、勉強になった。
しかし、やはり、「ではどうしたら良い」という部分で、曖昧で抽象的で、出来もしないことを言うのだ。
例えば。「徳を積んで下さい」なんてね(笑)。

別に見なくていいが(笑)、私が見たのは、これに続く、延々十数本の動画だ。
【YouTube】保江邦夫 先生 祈りを捨て 街に出よ!!『2020 新春おとしだま特別企画』 <#1>

彼の話はなってないので(笑)、私が分かり易く言おう。
地球上の生物は、喩えて言えば、1つのマンションに住んでいる住民のようなものだ。
進化した生物ほど上の階に居て、我々人間は屋上に居る。
その屋上にいる人間だけが、空、天・・・つまり、神が見える。
我々より1階下だけのチンパンジーだって、天井しか見えない・・・つまり、神は見えないのだ。
つまり、人間だけが、神を見る特権を持っているのである。
そして、顔を上げさえすれば神を見ることが出来るので、実際に顔を上げて神を見る人は、そこそこはいたのだ。
ところが・・・
今は、誰も神を見なくなってしまった。
なぜか?
それは、人間が居る天井がないはずの屋上に、天井が出来てしまったのだ。
その天井を作ったのは誰か?
保江氏はグーグルだと言うが、まあ、ビッグテック、あるいは、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)だと思えば良いだろう。当然、マイクロソフトやツイッターも入る。
我々は、今は、神を見る代わりに、スマホで、ビッグテックのサービス・・・検索、マップ、SNS、通販サイトを見るようになり、神を見なくなり、神を見ることを忘れてしまったのだ。
このままでは、犬や猫や牛や馬や鳥や魚が人間に支配され、あるいは、食べられ、人間にとっての害虫が人間に駆除されたように、我々はビッグテックに支配され、駆除される・・・いや、もうかなりされていると言うべきだろう。
食べられはしないとは思うが、一部、陰謀論ではDSと結託する宇宙人には人間を食べる(血を飲む)宇宙人もおり、これは、映画『インデペンデンス・デイ2016』でも描かれている。

まあ、実際は、テレビを見るようになってから、かなりその傾向(神を見ずにテレビを見る)はあったし、現在もマスコミは強い。
そして、マスコミやビッグテックを操る、さらに上位の黒幕がいるのだろうが、そこらは、当然、保江氏はよくご存じと思う。

いずれにしろ、神を見なくなった人間は、どんどん惨めになっていく。
ではどうすればいいかと言うと、保江氏はもったいぶって、引き伸ばしながら話すので、もういいやと思い見てないが(笑)、言ったとしても、我々に実践不能な難しいことを言うのだろう。
だが、解決は簡単だ。
私がいつも言うように、真言を唱えれば良い。
真言を唱えれば、ビッグテックやDS(闇の権力者)が作った天井など見透かし、我々は神や仏を見ることが出来る。
こちらが見れば、神や仏も我々を見てくれるし、こちらが想えば、神や仏も我々を思ってくれる。
このあたりは、法然の『選択本願念仏集』に書かれている通りである。
真言に関する細かい説明は省くが(今朝も随分ややこしいことを書いてしまった)、真言さえ唱えれば、ビッグテックもDSも恐るるに足りない。
ひょっとしたら、陰謀論者が言うように、DSには宇宙人が関わっているかもしれないが、神仏とされる高位の宇宙存在のレベルはけた違いである。
このあたりを象徴的で良ければ、知りたければ、E.E.スミスの伝説的なSF『レンズマン』シリーズ(DSを宇宙的規模で描いている)の、アリシア星人を見れば良い。このアリシア星人は宇宙最高の存在である。
『レンズマン』シリーズでは、アリシア星人と接触出来るのは、レンズマンという宇宙のエリートだけだが、真言を唱えれば、誰でも接触・・・少なくとも、神仏の方では気にかけてくれるのである。
「徳を積め」などと言われても、親鸞が言うように、そんなことは思うようには出来ない。
そして、親鸞が言ったように、念仏(真言も同じ)以上の徳はないのである。








仏ほっとけ神構うな~保江邦夫氏を大いにディスる~

「仏ほっとけ神構うな(ほとけほっとけかみかまうな)」という言葉をご存じだろうか?

「ほとけほっとけ」は、「ほとけ」が2回続いて語呂が良い。
しかし、「かみかまうな」は、合っているのは「か」だけだが、2文字目が「み」と「ま」のマ行の音なので、語呂が良いように感じるかもしれない。
意味は「信心も信仰も度が過ぎない方が良い」というものだ。

私は、この言葉を知らなかったが、物理学者で合気道家の保江邦夫(やすえくにお)氏のYouTube動画で知った。
【YouTube】保江邦夫 先生 2020年 第2回 お笑い真理塾 <#8>

ところで、最初に言っておくが、私は保江邦夫氏が、虫唾が走るほど大嫌いである(笑)。
ただ、それでも優れたところが沢山ある人である。
私は、そのような人が、もう一人思い浮かぶ。
船井幸雄氏である。
ところが、保江氏が、別の動画で、政木和三氏が発明した「神経波磁力線発生器」の複製製品を紹介されていたが、この政木氏は、船井氏が大いに称賛し、「非常に尊敬している」と言っていた人だった。
だが、一般には知られていないが、政木氏は船井氏が大嫌い・・・というのではないかもしれないが、良く思っていなかったことは確かだった。
私は政木氏に、「船井幸雄は立派な人ですか?」と尋ねたら、政木氏は「ちっとも立派じゃない!」と即答された。
政木氏は、「彼(船井氏)は欲の塊」とも言われた。
船井氏の本の中では、船井氏は自己の欠点を認めながらも、自分が偉大な人間であることを、かなり露骨に述べていたと思う。
保江氏も全く同じように感じる。
まあ、私が感じるだけであるから、実際はどうか知らないが、彼は自分を「我が消えた人間」のように著書の中で言うが、おそらく本当は、我の塊のような人で、彼の本を読んでも「偉大なり私」という雰囲気をプンプンと感じるのである。
ただ、政木氏も、自分が「かつては我の強い人間であった」ことは、はっきり認めておられた。
その「かつて」は、保江氏の年齢(現在69歳)も入るかもしれない。
私がお会いしたのは、政木氏が80歳くらいのことだった。
船井氏も、最後は、難病で苦しみながらも、人々のために貴重な情報発信をされ、我のない人間になられたと思うのである。
保江氏も、いろいろ苦しんでおられるのだと思う。
だが、あのガリガリに痩せてはいるが、グルメで腹の出た男を見ると私は虫唾が・・・いや、何でもない(笑)。

どうも嫌いな人のことで話が脱線した(笑)。
だが、その動画での、保江氏の「仏ほっとけ神構うな」の解説がなってない(笑)。
ただ、良いことも言われている。
保江氏は、神様、仏様に、うまく願い事をする良い方法として、この言葉を借りたのだった。
つまり、普通の人は、願い事がある時、神社やお寺に行って、賽銭を投げて「お願いします!」と必死に祈る。
これが悪いやり方だというのは、私も保江氏に賛成である。
「神社なんか行くな」というのも、保江氏の言う通りと思う。
保江氏は、これ(神仏に必死にすがること)がなぜ悪いかを、男女間の関係に喩えている。
男でも女でも、相手にあまり追いかけられると嫌になるが、神様仏様も同じだと、保江氏は言う。
だから、神様や仏様に対し、そっぽを向けと、保江氏は言っているのだと思う。
ちなみに、あるナンバーワン・ホステスは「仏ほっとけ神構うな」は真理であると言ったらしい。
つまり、客に過剰にサービスするホステスは駄目で、客を放っておいて構ってあげないホステスが人気が出て稼げるのだという。
まあ、確かにそんな面もあるだろうが、そのホステスが人気があって稼げるのは、おそらく美人だからだ。保江氏は、そこのところを隠したが、私は誤魔化せない(笑)。
つまり、これにおける保江理論が通用するのは、せいぜい、ホステス・・・それも、美人ホステスの場合だ。

とはいえ、必死に願い事をすれば叶わないというのも本当だ。
大作詞家であった阿久悠が、こんなことを言っている。
「息を吸って止め、自分の曲がヒットしている様子をイメージする。そして息を吐き、全て忘れる」
これで、曲がヒットするのである。
(このやり方は真似すると良い。ただし、願いを忘れるところまで忠実にやること)
こんなふうに、欲望をギラギラさせず、忘れることで願いが叶う。
ただ、神仏に対する敬意というものも大切なのだと思う。
ここら全部を、宮本武蔵が、うまくまとめてくれている。
「神仏は尊し、されど頼まず」
武蔵が神頼みをしたかどうかは知らないが、このような態度であれば願わずとも幸運は訪れる。
だが、武蔵は神仏を敬っていたのだ。

保江氏が言われた、「神仏にそっぽを向く」のは、全然良くない。
もちろん、下心いっぱいで表向き称賛するのが良いはずはないが、親しみを示すのは悪くないのである。
このあたりは、法然も『選択本願念仏集』で、「我々が阿弥陀如来を思えば、阿弥陀如来も我々のことを思ってくれる」と書いているが、法然の言葉はひとつひとつ深く(保江氏とエラい違いだw)、全く同意である。
だから、いつも、無心で「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていれば、自然に良くなるのである。
あるいは、私のように、阿弥陀如来真言を唱えていれば、やはり、良いことばかりなのである。
私は、社会人になってからずっと、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」という、阿弥陀如来真言を唱え、良い想いばかりしているのである。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」と「テイゼイ」が濁る唱え方もあるが、どちらでも良いのである。
私はごく最近、阿弥陀如来真言を「オーン、アムリタ、テージェー、ハラ、フーン」というサンスクリット語で唱えるようになった。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、サンスクリット語を中国の人が音写(音を真似た)もので、若干、元のサンスクリット語のものと違うが、効果は別に変らない。
単に、私は、「アムリタ」(サンスクリット語で「甘露」、もしくは、「不死不滅」の意味)という言葉が好きになったので、「アミリタ」と言う中国語版から変えたが、別に、「アミリタ」が嫌いとか悪いということではない。
皆さんも、これ(阿弥陀如来真言。上に挙げたどれでも良い)を常時唱えたら、きっと良いことがあるのでお勧めする。
もちろん、「南無阿弥陀仏」でも良いのである。
これらの真言を、ただ数多く丁寧に唱えることが、敬いつつ、良い意味で阿弥陀如来を「ほっとく」ことになる。
保江氏の解説は全くなっていない・・・と思う(笑)。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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