私が小学校の3年生くらいのことだったと思うが、図書館で読んだ、第二次世界大戦に関する本に、こんなことが書かれていたことを、ずっと忘れなかった。
それは、日本人というのは、オリジナルの発明はできないが、外国にあるものを良いものにする能力が非常に高いというものだった。
そんなことが、第二次世界大戦の時の時に既に言われていたのは、それ以前にそういった「複製を発展させた」実績があったということだろう。
私は、大いに納得したような気がしたが、それは、本当に同意したのか、子供らしい、「大人の言うことを信じてしまう」ということだったのか、自分のことながら、いまだ謎だ。
そして、今に至るも、「応用は上手いが、発明はできない」というのが日本人の特徴と思われているのだと思う。
ところで、その本には、日本は、飛行機ということに関しては、確かに複製から始めたが、「零戦(ゼロ戦)」という飛行機は、アメリカの飛行機にはないオリジナルの発想で創られた優れた戦闘機だったという論が書かれていたように思う。
芸術においても、複製も優れたものは立派な芸術であるが、科学技術も、応用が発明に劣る訳ではないはずだ。
それに、日本にも、科学技術におけるオリジナルな発明は沢山あると言う人もいるだろう。
その一方、やはりそれらは基本的には西洋の真似なのだと言う人もいる。
はてさて、どっちが正しいのだろう?
ところで、いかにオリジナルの発明といったところで、実は、自然の模倣でないものなど、1つもないのである。
だから、人間が純粋な発明をしたことなど、実は全くない。
発明は全て神が行ったのであり、人間はそれを真似しただけなのであると言うのが真実ではないだろうか?
日本の漫画、アニメが高く評価され、これは日本のオリジナルだと西洋ですら認められていると思われているかもしれないが、漫画、アニメ自体は、やはりオリジナルは西洋であり、日本人は西洋に元々あった材料を使っただけだ。
日本は、明治維新と第二次世界大戦敗北で、2度、独自の文化を否定され、実はもう日本独自の伝統など存在しない。
・・・といったことが、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』に書かれていたが、そういうことも言えるのかもしれない。
日本のアニメを見たアメリカ人は、「何だ!日本ってアメリカじゃないか?」と思っているのかもしれない。
つまり、今の日本には、アメリカ人から見ても、ちっともエキゾチック(異国情緒)さがないのだと思うのだ。
日本人で、日本の大学で国文学を出ても『古事記』を読んだことがないというのは珍しいことではなく、むしろ、普通かもしれない。
子供達に無理矢理、和太鼓を叩かせて、「日本の伝統を守ろう」なんてやっている地域もあると思うが、度を越すと、その子供が歪んでしまう。
伝統というものは無理に守るものではない。
伝統は、その地域の自然環境の影響を受けて構築された部分が大きいのだから、むしろ、柔軟さを持っていた方が、良い形で伝統は残る。
また、消えた方が良い伝統だって、実際にはある。
極端に言えば、中国の纏足(女児の足を縛って、足が大きくならないようにした)がなくなったのは良いことだが、世界には、現在も、似たような伝統を守っている国もある。
それに、日本人だ、アメリカ人だ、中国人だという区別は、もし、未来においても人類が存続するのであれば、そんなものはなくなっているだろう。
厳然と国境が残るなら、人類が滅びることを意味するかもしれない。
無論、自然環境や、趣向の違いによる文化の違いは残ると思うし、そうでなければ、潤いもないというものかもしれないが、そのあたりはよく分からない。
ただ、認識すべきは、人間が独自のものを創るなんてことは実際にはなく、全て、自然のコピーなのだということだ。
だから、日本人が応用が上手いというのなら、それは何も悪いことではなく、全く良いことだ。
伝統というものは、強制的に踏襲しなければならないものではない。
それが、伝統的であろうが、世界の常識と言われるものであろうが、押し付けは良くないということだ。
これまでの世界は、そういった「やってはならない」ことが横行してきたのである。
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それは、日本人というのは、オリジナルの発明はできないが、外国にあるものを良いものにする能力が非常に高いというものだった。
そんなことが、第二次世界大戦の時の時に既に言われていたのは、それ以前にそういった「複製を発展させた」実績があったということだろう。
私は、大いに納得したような気がしたが、それは、本当に同意したのか、子供らしい、「大人の言うことを信じてしまう」ということだったのか、自分のことながら、いまだ謎だ。
そして、今に至るも、「応用は上手いが、発明はできない」というのが日本人の特徴と思われているのだと思う。
ところで、その本には、日本は、飛行機ということに関しては、確かに複製から始めたが、「零戦(ゼロ戦)」という飛行機は、アメリカの飛行機にはないオリジナルの発想で創られた優れた戦闘機だったという論が書かれていたように思う。
芸術においても、複製も優れたものは立派な芸術であるが、科学技術も、応用が発明に劣る訳ではないはずだ。
それに、日本にも、科学技術におけるオリジナルな発明は沢山あると言う人もいるだろう。
その一方、やはりそれらは基本的には西洋の真似なのだと言う人もいる。
はてさて、どっちが正しいのだろう?
ところで、いかにオリジナルの発明といったところで、実は、自然の模倣でないものなど、1つもないのである。
だから、人間が純粋な発明をしたことなど、実は全くない。
発明は全て神が行ったのであり、人間はそれを真似しただけなのであると言うのが真実ではないだろうか?
日本の漫画、アニメが高く評価され、これは日本のオリジナルだと西洋ですら認められていると思われているかもしれないが、漫画、アニメ自体は、やはりオリジナルは西洋であり、日本人は西洋に元々あった材料を使っただけだ。
日本は、明治維新と第二次世界大戦敗北で、2度、独自の文化を否定され、実はもう日本独自の伝統など存在しない。
・・・といったことが、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』に書かれていたが、そういうことも言えるのかもしれない。
日本のアニメを見たアメリカ人は、「何だ!日本ってアメリカじゃないか?」と思っているのかもしれない。
つまり、今の日本には、アメリカ人から見ても、ちっともエキゾチック(異国情緒)さがないのだと思うのだ。
日本人で、日本の大学で国文学を出ても『古事記』を読んだことがないというのは珍しいことではなく、むしろ、普通かもしれない。
子供達に無理矢理、和太鼓を叩かせて、「日本の伝統を守ろう」なんてやっている地域もあると思うが、度を越すと、その子供が歪んでしまう。
伝統というものは無理に守るものではない。
伝統は、その地域の自然環境の影響を受けて構築された部分が大きいのだから、むしろ、柔軟さを持っていた方が、良い形で伝統は残る。
また、消えた方が良い伝統だって、実際にはある。
極端に言えば、中国の纏足(女児の足を縛って、足が大きくならないようにした)がなくなったのは良いことだが、世界には、現在も、似たような伝統を守っている国もある。
それに、日本人だ、アメリカ人だ、中国人だという区別は、もし、未来においても人類が存続するのであれば、そんなものはなくなっているだろう。
厳然と国境が残るなら、人類が滅びることを意味するかもしれない。
無論、自然環境や、趣向の違いによる文化の違いは残ると思うし、そうでなければ、潤いもないというものかもしれないが、そのあたりはよく分からない。
ただ、認識すべきは、人間が独自のものを創るなんてことは実際にはなく、全て、自然のコピーなのだということだ。
だから、日本人が応用が上手いというのなら、それは何も悪いことではなく、全く良いことだ。
伝統というものは、強制的に踏襲しなければならないものではない。
それが、伝統的であろうが、世界の常識と言われるものであろうが、押し付けは良くないということだ。
これまでの世界は、そういった「やってはならない」ことが横行してきたのである。
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