引き寄せが上手い人の多くが、引き寄せのやり方を説明する時、自分の感覚的な言葉を使うから困る。
たとえば、「りんごが欲しい時は、りんごと合体するのだ」なんて言われても、自分は分かるのかもしれないが、言われた方は困る。
今は、もっとマシな言い方をする人が多いと思うが、それでも、「願いを意図すれば良いのです」などと言い、やっぱり、それは、普通に通じる言葉ではないのだ。
ある、それなりに信奉者の多い立派な人も、いつも、「決意することが大事です」と言うが、言われた方は、一生、「どう決意すればいいのか分からない」場合が多いのではないだろうか?
「独眼竜政宗」と言われた、碧眼(片目のこと)の戦国武将、伊達政宗の生涯の師だった、虎哉宗乙(こさい そういつ)という禅僧がいた。
政宗は、宗乙の教えのおかげで、無事に生き延びて大大名にもなり、特に晩年は、長く楽しく過ごしたし、宗乙も80過ぎまで元気で自由に生きた。
その宗乙のよく知られた名言に、
痛ければ痛くないと言え
悲しければ笑え
暑ければ寒いと言え
という、いわば、ひねくれ禅がある。
これ、何を言っているか分かるだろうか?
これは、「現実は無視しろ。言葉と態度を持って」という意味だ。
つまりだ。
お金がなくても、そんな現実は無視して、お金があると言う。
モテなくても、俺はモテると言う。
上手くいってなくても、上手くいっているという態度をする。
すると、全てうまくいく。
ただ、これでうまくいく人もいれば、まだ心が不安定で、うまくいかない人もいる。
そんな人がうまくいく方法は、今朝書いた通りだが、それを、宗乙は、子供だった政宗にこう教えている。
政宗(当時の名は梵天丸)と、政宗の学びの友の2人に、宗乙は桔梗の花を見せる。紫色の美しい桔梗だった。
宗乙は、よく見るよう指示した後、2人に目を閉じさせる。
すると、宗乙は、静かに、桔梗の花を千切った。もう茎しかない。
そして、宗乙は2人に問う。
「この桔梗は何色か?」
2人は「紫じゃ」と答えた。
宗乙が「なぜ、そんなことが分かる?」と問うと、政宗と違う方の子供がすぐ、「桔梗は紫じゃ」と答えるが、宗乙は「そんなことは聞いておらぬ!」と一括する。
そして、宗乙は政宗らに、目を開けさせる。
すると、紫の花は、もうそこになく、2人の子供は慌てた。
だが、政宗は再び目を閉じると、「心の目で見れば紫じゃ」と言った。
合格であった。
現実として、紫の花はそこにない。
しかし、政宗の心の中・・・つまり、政宗の世界では、紫の桔梗がある。
現実より、心の世界が重要なのだ。
※政宗のこの逸話は、細かいところでは異なる部分があるかもしれないが、全体はだいたいこれで合っているはずだ。
現実ではお金がなくても、そんなことは無視し、心の中ではお金があると思い、心の中の世界の通りに、お金があると言い、お金があるような態度をするのである。
だが、心(自我、エゴ)が反発して、それがやり難い場合は、常に「お金がある」とアファーメーションを行うのである。
アファーメーションより、呼吸数を落とせば、心は希薄になり抵抗してこないので、その方が良いかもしれない。
まあ、手段は何でも良い。
あるいは、今朝、書いたように、心では年収1憶円とした若い女性のようにやれば良いのである。
たとえば、「りんごが欲しい時は、りんごと合体するのだ」なんて言われても、自分は分かるのかもしれないが、言われた方は困る。
今は、もっとマシな言い方をする人が多いと思うが、それでも、「願いを意図すれば良いのです」などと言い、やっぱり、それは、普通に通じる言葉ではないのだ。
ある、それなりに信奉者の多い立派な人も、いつも、「決意することが大事です」と言うが、言われた方は、一生、「どう決意すればいいのか分からない」場合が多いのではないだろうか?
「独眼竜政宗」と言われた、碧眼(片目のこと)の戦国武将、伊達政宗の生涯の師だった、虎哉宗乙(こさい そういつ)という禅僧がいた。
政宗は、宗乙の教えのおかげで、無事に生き延びて大大名にもなり、特に晩年は、長く楽しく過ごしたし、宗乙も80過ぎまで元気で自由に生きた。
その宗乙のよく知られた名言に、
痛ければ痛くないと言え
悲しければ笑え
暑ければ寒いと言え
という、いわば、ひねくれ禅がある。
これ、何を言っているか分かるだろうか?
これは、「現実は無視しろ。言葉と態度を持って」という意味だ。
つまりだ。
お金がなくても、そんな現実は無視して、お金があると言う。
モテなくても、俺はモテると言う。
上手くいってなくても、上手くいっているという態度をする。
すると、全てうまくいく。
ただ、これでうまくいく人もいれば、まだ心が不安定で、うまくいかない人もいる。
そんな人がうまくいく方法は、今朝書いた通りだが、それを、宗乙は、子供だった政宗にこう教えている。
政宗(当時の名は梵天丸)と、政宗の学びの友の2人に、宗乙は桔梗の花を見せる。紫色の美しい桔梗だった。
宗乙は、よく見るよう指示した後、2人に目を閉じさせる。
すると、宗乙は、静かに、桔梗の花を千切った。もう茎しかない。
そして、宗乙は2人に問う。
「この桔梗は何色か?」
2人は「紫じゃ」と答えた。
宗乙が「なぜ、そんなことが分かる?」と問うと、政宗と違う方の子供がすぐ、「桔梗は紫じゃ」と答えるが、宗乙は「そんなことは聞いておらぬ!」と一括する。
そして、宗乙は政宗らに、目を開けさせる。
すると、紫の花は、もうそこになく、2人の子供は慌てた。
だが、政宗は再び目を閉じると、「心の目で見れば紫じゃ」と言った。
合格であった。
現実として、紫の花はそこにない。
しかし、政宗の心の中・・・つまり、政宗の世界では、紫の桔梗がある。
現実より、心の世界が重要なのだ。
※政宗のこの逸話は、細かいところでは異なる部分があるかもしれないが、全体はだいたいこれで合っているはずだ。
現実ではお金がなくても、そんなことは無視し、心の中ではお金があると思い、心の中の世界の通りに、お金があると言い、お金があるような態度をするのである。
だが、心(自我、エゴ)が反発して、それがやり難い場合は、常に「お金がある」とアファーメーションを行うのである。
アファーメーションより、呼吸数を落とせば、心は希薄になり抵抗してこないので、その方が良いかもしれない。
まあ、手段は何でも良い。
あるいは、今朝、書いたように、心では年収1憶円とした若い女性のようにやれば良いのである。