アップル共同創業者スティーブ・ジョブズは「ハングリーであれ、馬鹿であれ」と言い、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、人々に「アホウになれよ」と教えた。
宮沢賢治は「皆にデクノボーと呼ばれたい」と言い、勝海舟は「大きな仕事をする者は愚直でなければならない」と言った。
いや、大きな仕事をしようがすまいが、人間は馬鹿でないといけない。

馬鹿と言っても、有名なインフルエンサーのひろゆきさんがよく言うような世間的な馬鹿とは、単に甘いか、虫の良いことばかり考えている欲張りがほとんどで、上に挙げた馬鹿とは程遠く、それで言えば、本当の馬鹿は、勝海舟のように「愚直」という言い方が正しいかもしれない。
「愚直」は、だいたい「馬鹿正直」という意味だが、私の定義では、「魂の声」を最優先する者のことだ。馬鹿でなければ、魂の声(内なる静かな声)を優先したりしない。
太宰治の『女の決闘』で、「この愚直の強さは、かえって神と同列だ。人間でない部分が在る」とあるように、愚直も究めれば神である。

さて、毎日、数千回の腕振り運動を好き好んで行っている私も、かなり馬鹿になってきた。
そして、腕振り運動こそ、憧れの仙人になる確実な方法と心得る・・・と言い切るほど、馬鹿になる修行は進んでいるわけだ(笑)。
だが、腕振り運動が、本当に仙人になれる方法かどうかは、実はどうでも良いのである。
例えば、黒住宗忠が行った講話の中に、こんなものがある。
昔、馬鹿正直・・・つまり、愚直な男がいて、彼は仙人が住むという蓬莱の島(ほうらいのしま)に行きたいと一途に願っていた。
すると、ある悪い商人が、「3年、タダ働きをしたら教えてやる」と言い、この愚直な男を騙してタダ働きさせた。
3年が経ち、愚直な男が商人の男に、「3年経ちました。教えて下さい」と言うと、商人の男は、愚直な男を大木に昇らせ、枝に右手1本でぶら下がらせると、「その右手を放せば蓬莱の島に行ける」と言った。
義直な男が、それを信じ、右手を放すと、風がこの愚直な男をさらって蓬莱の島に運び、愚直な男は仙人になった。
つまり、方法なんて何でも良く、この話のように、明らかにデタラメな方法でも願いは叶うのである。
まあ、腕振り運動には、この話の方法のようなスリルはないが、リスクも全くなく、仮に仙人になれなくても、かなり健康になれると思う。
だが、やはり仙人になれるのだ。愚直にやればね。
腕振り運動を、長期間、毎日、淡々と数多く行う者は愚直である。
もちろん、腕振り運動でなくても、念仏でも真言でも祝詞でも、長期間、毎日、数多く唱えれば同じである。また、やりたいなら、坐禅、静坐でも良いのである。

ちなみに、最高の馬鹿入門書は、『フォレスト・ガンプ』の原作者による『ガンピズム』であると思う。