ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

仙人

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

大師、仙人になる方法

逆境にあれば、順境にしなければならない。
不快であれば、快適にしなければならない。

つまり、不満を満足に変えるのである。
そのためには、不満をバネにしてエネルギーを得、満足にすべく手を尽くすのである。
その方法は、現実に行動したり、引き寄せメソッドを行うかである。
これを「方法1」とする。

だが、もっと優れた方法がある。
現在の悪い状況は、過去の自分の間違いのためだと謙虚に認めるのである。
どんな間違いだったかは分からなくても良い(本当は知っているのだが)。
とにかく、自分が間違っていたとだけ認める。
これを「方法2」とする。

さらに良いのは、この状況や、この状況に至るまでのことは、起こるべくして起こった必然と思うことだ。
これを「方法3」とする。

そして、最も優れているのは、この状況、この状況に至るまでのことは、全て自分の意思であるとすることだ。
これを「方法4」とする。

未熟なうちは「方法1」しか出来ない。
社会で鍛えられると「方法2」が出来るようになる。
経験が豊富になり、知恵がつくと「方法3」が分かるようになる。
だが、「方法4」が出来るのは特別な人で、大きな苦しみに遭った者だけだ。

だが、誰でも「方法3」や「方法4」が出来る魔法の言葉がある。
「なるほど」と言うだけで「方法3」が自動で行われる。
「完璧だ」と言うだけで「方法4」が自動で行われる。

ちなみに、「お金がある」「今、今、今・・・」「生きている」などのアファーメーションは、「方法1」の段階から「方法3」まで使える。
「方法4」がなぜ普通の人に出来ないかというと、神の意思が1つではなく、無限であるからだ。これは、普通の人間には分からない。
だが、「完璧だ」と言えば、それが出来てしまうのである。
とはいえ、考えるのではなく、このことについて瞑想すべきである。
意識をおいたまま、放っておくのだ。
木の実を取ろうとせず、落ちて来るのを待つように。
それをやった者が大師や仙人になったのである。








古来の日本人は引き寄せの名人だった

厳しい封建制度があった時代は、庶民は、よほど引き寄せが上手くないと自由で幸福になれなかったが、そんな時代には、庶民が引き寄せの方法を知る術はなかった。
だが、日本もだが、中国あたりでも、潜在意識を神様とかタオ(道)として同調し、引き寄せを行う思想が庶民の間にもあった。
だから、物質的な余裕が出来てきた時代には、案外に庶民は幸福に過ごしていたのだ。
神道の道(トウ)と中国の道(タオ)の読みが似ているように、神道と道教には似たところがあると指摘されることがあるが、私もそうであると思う。

まあ、二宮金次郎は、道教の根本思想とも言える、老子の無為自然に対し、「畑は人が手を入れなければ荒れ、家は人が手を入れなければあばら家になる」と言って否定したが、それは金次郎がひねくれ者だったからというよりは、彼の立場(農業のリーダー)からすれば仕方あるまい。
そして、無為自然の引き寄せのノウハウを、昔の日本人は案外に理解していて、活用していたが、明治維新、そして、敗戦によって、それは完全に失われてしまった。
我々もまた、戦後教育によって、引き寄せが全く出来ない頭の構造になっている。

とはいえ、学校やテレビで教えられた思想を完全に捨て、昔通りに潜在意識(神様)と仲良くし、潜在意識に頼れば、すぐに引き寄せがうまくなる。
昔から、日本人は、神である自然を崇拝し、謙虚になることで神=自然に守られてきた。
エゴの考え方を引っ込め、そこにもいる、ここにもいる神様を敬い、頼んだのである。
同じように、ただ一切の思考を捨てれば、万能の潜在意識があらゆる恵みを与えてくれる。

現代人で引き寄せが上手い人には2種類あり、1つは、ひたすらアファーメーションを唱える人で、もう1つは、今この瞬間・・・つまり、中今に生きることを心掛ける者である。
アファーメーションは、多く唱えれば唱えるほどよく、それには、多少の努力というか根気がいる。とはいえ、唱えれば良いだけである。
中今に生きることはもっと楽で、ただ、目の前のことに意識を全て注ぎ込めば良いのである。
昔の優れた日本人が行っていたのは、ほとんど、中今に生きる方法だった。
歩いている時には歩いていることをしっかり意識し、食べている時には、食べていることをしっかり意識する。
仕事をする時は仕事に心を注ぎ、色事ですら、大真面目に取り組んだことが地道な調査で明かされている(表向きの調査では出て来ないが)。
昔、日本には仙人がいたと言われるが、仙人のように見なされる特別な人間がいたということだろう。
尚、天狗や導師も、詳しくは述べないが、自然観やコミュニティーの持ち方の違いがあるだけで、仙人と似た者達であったと思う。
よって、ここでは、天狗も導師も、仙人に含めて話す。
仙人はアファーメーションの人である。
どちからというと、真面目で融通が利かない、それに・・・やや不幸な人生を送ってきた人なのかもしれないと思う。
仙人は、常に口元に呪文を唱えていたと言われるが、これも本当はアファーメーションであったのだと思う。
昔の仙人的人間がどんなアファーメーションを行ったかは知らないが、今で言えば「お金がある」とか「俺は美人に惚れられる」みたいなものだったと思うのだ。
そして、そのようにやれば、我々も即ち、富の仙人であり、恋愛の仙人になれる・・・いや、科学的見地から言えば、願った時にそんな超人間、即ち、仙人になっているのである。
いずれの方法でも良いが、それらの方法に対し、無駄に神秘的な解釈をせず、それでいて、日本本来の万能の力に守られた楽天的な態度で、現代的な引き寄せを行えば良いのであると思う。








仙人の力を復活させる

聞いた話では、アニメを制作する際、調査すべきことはかなり本格的に調べるらしい。
たとえば、舞台がエーゲ海ならエーゲ海に、南アルプスなら南アルプスに実際に行って、風景を味わったり、撮影したりする。
今の時代ではない都市の風景でも、やはり、それなり以上の調査をして、実際に近い姿を再現するのだろう。
それは、本物らしく見えるだけでは駄目で、詳しい、あるいは、マニアックな視聴者を納得させる必要もある。
「あの時代のあの国では、まだあの家具はなかった」とか、「この地方で、この衣装を着た一般人がいるのはおかしい」とか言われたら、無視するわけにはいかないだろう。
例えば、ジブリの『魔女の宅急便』で、キキを追い越した複葉機(翼が縦に2枚ある飛行機)が、あの時代にあるのはおかしいと指摘する飛行機マニアもいたらしい(製作側の意図で、わざと登場させたらしいが)。

それで、最近、面白いものを見た。
『刀語』というアニメで、忍者が長距離を走って移動するシーンがあるが、どの忍者も、現在のマラソンランナーのようなフォームでは走らないのである。
もし、そんな走り方をさせていたら、私だけでなく、多くの視聴者が違和感を持つはずだ。忍者が、そんな走り方をするはずがない。
ある忍者は、両腕を後ろに伸ばし、その腕を動かさずに走っていたが、確かに忍者らしい感じがした。
それが正しい忍者の走り方かどうかは分からないが、少なくとも、現在の陸上選手のような走り方だと、嘘っぽさは半端ないと思う。
昔の忍者は、1日に200km以上走ることもあったらしいが、それがナンバ走りかどうかはともかく、それだけ走れる走法だったのだろう。

私は、小学1年生頃までは、その気になれば、誰にも負けずに速く走れたし、距離も、いくらでも気分よく走れた。
だが、小学1年生の時、腕を前後に振る現代風の走り方を教えてもらってから、走るのが苦手になった。
そして、それ以前に、どんな走り方をしていたのか、分からなくなった。ただ、今の陸上競技ランナーのように腕を振っていたのではないことは間違いない。
一方、走り高跳びのフォームは、中学1年生まで、誰にも教えられなかったので、それまでは、少なくとも、普通の生徒相手では無敵だった。
私は、特に長身だったわけでも、身体が強かったわけでもない。
それでも、誰も飛べない高さでも、全く失敗する気が起こらず、軽々と飛べた。
だが、中学1年生の時の、校内のスポーツ大会みたいなものの時だった。
私は、得意の走り高跳びに出たが、他の生徒が、一般的なはさみ飛びで飛ぶのを見て、私は、バーの正面から走る、私独自の飛び方をするのが恥ずかしいと思った。
それで、私は初めて、はさみ飛びで飛び、それまでなら、軽く飛べた高さで失敗した。
そして、それまでの飛び方を忘れてしまい、それ以降、どうしても思い出せなかった。

それで、最近、ナンバ歩き、ナンバ走りなどの、日本古来の歩き方、走り方を調べ、それと、上記のような自分の経験と合わせ、西洋の軍隊やスポーツの歩き方、走り方は、特に、日本人には、そして、おそらく、人間には向いていないのだと確信した。
そして、現在、日本でも行われている、西洋から導入された運動の多くは、身体だけではなく、精神にも悪影響を与えているに違いないと思う。
私自身は、割と西洋人体形で、西洋の運動が良いものなら向いていると思うが、そうではないと感じる。
また、特に子供の時、今からすれば異常な引き寄せ能力を持っていたのも、子供の時は、今よりは日本古来の身体の動かし方をしていたためもあると思う。
今後、さらに、ナンバ歩きや、その他の人間本来の動きを、古武術、あるいは、易筋経、仙道、太極拳などの動きを調べながら習得・・・というか、回復させようと思う。
特に、日本人は、元々、仙人や天狗のようなものになる素質があり、それを正しく育てるのは良いことと思う。








神が切るように切る

新しい、より理想的な世界に次元移動するためには、普通の人間は、一点突破ともいうべき方法を使う。
この一点突破とは、1つの道を究める中で1つの点を空け、そこを通って、するっと次元を超えることだ。
1つの道と言っても、音楽とか武道といった抽象的で高度なものばかりではなく、仕事や家事の一部分でも、コツによって「神のようにやる」ことが出来ることであれば何でも良い。
ある神人がオレンジを放って渡した時、受け取った人は、そのような投げ方は神以外には出来ないように感じたそうだが、高度なレベルに達した人は神のようだから、その人は何でも神のようにやるのである。

やることは、本当に何でも良い。
しかし、バッティングを極めたと思える超一流の野球選手だって、たまに神がかったバッティングをするが、まだ不十分だ。偉大な努力をして尚そうなのは、それで報酬(お金や名誉など)を得ると、それが余分な荷物になって重くなってしまうからだ。
いわゆる、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」のである。
儲からなくても、包丁を研ぐ技能を磨いている者の方が新しい世界に移り易い。その人は包丁を研ぐ時、いつも神のようなのだ。

プログラミングのようなものが、なかなか神の実現に至らないのは、世俗のしがらみが強過ぎるからだ。
見たことはないが、趣味で淡々とアセンブラプログラミングみたいなことをやっている人には、人間を超えた人がいるような気がする。

1つの道を究め、臨界点を突破した人は、ある意味、仙人と言える。
だから、弓仙人とか、将棋仙人という言葉があるが、そんな仙人たちは、世間の人の目に見えない(見つからない)。

昔の日本では、自然の中で働く人達の中に仙人が割といて、子供などは簡単に仙人を見分けられた。
だが、そんな仕事の多くが、集団化、機械化し、効率が優先され、大事な何かを捨て去る中で、仙人はいなくなった。
現在の社会では、仙人になることは難しくなったが、それに近い半仙人みたいな者は、少ないながらいる。しかし、半仙人だって、やはり、普通の人が見分けることは出来ず、英雄は英雄を知るではないが、半仙人は半仙人を知るというだけである。
半仙人は、神ほどの力はなくても、自然の潜在力・・・つまり、宇宙の隠れた力をそれなりに行使出来るので、実際は強力である。だが、必要もないのに、そんな力は使わない。

法然のような念仏仙人とも言うほどでなくても、毎日、自主的に熱心に念仏を唱えていれば、やがて次元を超えてしまうことがある。
腕振り運動を極めた腕振り仙人や半仙人もいるが、おかしなことかどうかはともかく、腕立て伏せ仙人(半仙人)だっている。
言ってみれば、念仏も腕振り運動も腕立て伏せも、道を究めるほどの深さがあるものは、全く等価で優劣はない。
そもそも、あらゆることに優劣はなく、上の世界に行けば区別さえない。
我々が居るこの世界では、区別は避けられないが、優劣をつけないことも仙人・半仙人の条件である。
自分がやっていることが、別の人がやっていることより上といった観念がある限りは、半仙人にもなれない。

ケーキ作りを、仕事であっても、お客様を喜ばせるためという想いでやっていれば、いずれ半仙人くらいにはなれる。そうなれば、力を得て一切の悩みがなくなる(あって良い悩みは残るが)。
技を磨いて術とし、術を進めて道に達するとか言う。道の浅いところにいるのが半仙人で、その先にいるのが仙人で、さらにその先があるのだと思う。
剣を極めた剣士は、神が切るように切る。
船を漕ぐことを極めた船頭は、神が漕ぐように漕ぐ。
何か1つ、神のようにやれるよう磨くと良いと思う。








馬鹿だけが仙人になれる

アップル共同創業者スティーブ・ジョブズは「ハングリーであれ、馬鹿であれ」と言い、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、人々に「アホウになれよ」と教えた。
宮沢賢治は「皆にデクノボーと呼ばれたい」と言い、勝海舟は「大きな仕事をする者は愚直でなければならない」と言った。
いや、大きな仕事をしようがすまいが、人間は馬鹿でないといけない。

馬鹿と言っても、有名なインフルエンサーのひろゆきさんがよく言うような世間的な馬鹿とは、単に甘いか、虫の良いことばかり考えている欲張りがほとんどで、上に挙げた馬鹿とは程遠く、それで言えば、本当の馬鹿は、勝海舟のように「愚直」という言い方が正しいかもしれない。
「愚直」は、だいたい「馬鹿正直」という意味だが、私の定義では、「魂の声」を最優先する者のことだ。馬鹿でなければ、魂の声(内なる静かな声)を優先したりしない。
太宰治の『女の決闘』で、「この愚直の強さは、かえって神と同列だ。人間でない部分が在る」とあるように、愚直も究めれば神である。

さて、毎日、数千回の腕振り運動を好き好んで行っている私も、かなり馬鹿になってきた。
そして、腕振り運動こそ、憧れの仙人になる確実な方法と心得る・・・と言い切るほど、馬鹿になる修行は進んでいるわけだ(笑)。
だが、腕振り運動が、本当に仙人になれる方法かどうかは、実はどうでも良いのである。
例えば、黒住宗忠が行った講話の中に、こんなものがある。
昔、馬鹿正直・・・つまり、愚直な男がいて、彼は仙人が住むという蓬莱の島(ほうらいのしま)に行きたいと一途に願っていた。
すると、ある悪い商人が、「3年、タダ働きをしたら教えてやる」と言い、この愚直な男を騙してタダ働きさせた。
3年が経ち、愚直な男が商人の男に、「3年経ちました。教えて下さい」と言うと、商人の男は、愚直な男を大木に昇らせ、枝に右手1本でぶら下がらせると、「その右手を放せば蓬莱の島に行ける」と言った。
義直な男が、それを信じ、右手を放すと、風がこの愚直な男をさらって蓬莱の島に運び、愚直な男は仙人になった。
つまり、方法なんて何でも良く、この話のように、明らかにデタラメな方法でも願いは叶うのである。
まあ、腕振り運動には、この話の方法のようなスリルはないが、リスクも全くなく、仮に仙人になれなくても、かなり健康になれると思う。
だが、やはり仙人になれるのだ。愚直にやればね。
腕振り運動を、長期間、毎日、淡々と数多く行う者は愚直である。
もちろん、腕振り運動でなくても、念仏でも真言でも祝詞でも、長期間、毎日、数多く唱えれば同じである。また、やりたいなら、坐禅、静坐でも良いのである。

ちなみに、最高の馬鹿入門書は、『フォレスト・ガンプ』の原作者による『ガンピズム』であると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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