私が小学校の3年生くらいの時だったと思う。多くの子供と同様、私はプリンが大好きだったのだが、もしかしたら、あらゆる食べ物の中で一番好きだったかもしれない。そして、やはり、プリンに目が無い2つ年上の女の子とプリンについて話していた。その時、私が、「いくら好きでも、ドンブリ一杯のプリンを食べるわけにもいかないだろう?」と言ったら、彼女は、「いや、私は食べられる」と大真面目に言う。その、食べる気満々の目の据わった表情を見て、8つか9つだった私は、冷静に、「ああ、こいつ、本当に馬鹿だな」と、多分思った。私だって、そのくらい食べられたら最高だと思うし、食べられるとは思う。しかし、そこまでやっちゃいけないのだ。ちなみに、彼女は学校の成績は悪くはなく、クラスでのランキングは私よりずっと上で、時々私は馬鹿にされたこともあった。
また、私が小学4年生の時、近所の同じ学年の男の子とプロレスごっこをした時のことだ。彼は、真剣に即効をかけ、私を逆エビ固めに決めて絞り上げてきた。本当に苦しかった。私は悔しくてギブアップしなかったが、周りの子供達が止めてくれた。危ないと思ったのだろうし、下手すれば事故になっていたかもしれない。今思えば、あいつは本当に馬鹿だと思う。そして、その男の子はかなりの優等生だった。
ものには限度というものがある。これは、決して中途半端とか、曖昧を推奨するのではなく、バランス感覚が大切だという意味だ。仏教では、中道ということをとても大切にするが、それも同じような意味ではないかと思う。ヨーガというものも、バランスを何よりも大切にするのだと聞いたことがある。
我々が、社会で痛い目に遭わないといけないのは、中道とか、バランス感覚を磨くためだ。家族というものは、特に、親は子供をどうしても甘やかすし、また、そうでなくてはならない部分もあるのだが、そんなだから、家の中にいては、バランス感覚を身に付けることができないのだ。本を読むだけでも駄目だ。人間は、身体で痛い目に遭って、初めて理解できることが多いものだ。本を読むことは非常に良いことだが、その内容を実践でたしかめてこそ、本当に自分のものになる。
プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントという人は、230cmの身長と200kg以上の体重で、文字通り人間離れした肉体の強さもあった。そのため、トレーニングをしなくても無敵だったと言われる。世界的な人気者で、収入も凄かった。若い頃はその身体にコンプレックスを持ち、ひどく悩んだらしいが、その後は幸福な一生を送れたはずなのだ。
だが、彼は、毎日、ビールを1ダースも飲み、その他にも、美食に耽るようになった。それで、いつか、彼を負かすほどのレスラーも現れるようになり、身体を悪くして、まだまだ現役を続けられたはずの46歳の若さで亡くなってしまった。
ものには限度がある。
孔子が、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と言い、徳川家康も、この言葉を非常に重視したという。
私も、子供の頃から、何をやっても、これが真理であると実感することが多く、誰が言ったのかは知らなかったが、世の中には賢い人がいるものだと驚いていたものだ。
だが、孔子がいちいちこんな言葉を残したというのは、人間というものは馬鹿で、これをなかなか守れないということなのだろう。
ものごとは、徹底的にやるべきという面も確かにあるし、それはやらねばならない。
しかし、限度がある面もある。このあたりのバランスを身に付けた者を賢者と言うのかもしれない。
例えば、どんなに自分に理があっても、争いの中で、引くべきところは引かねばならない。
相手がどんなに間違っていても、徹底的に追い込むのは馬鹿だ。
虫や動物は、オスがメスを奪い合って戦うことはよくあるが、決して致命傷は与えないのだそうだ。人間は、虫や野獣よりずっと賢いはずなのに、それが出来ない。
敵をあなどって大逆転を赦すのは、怠惰であったり、傲慢であるからであり、勝負がついたら、敵に逃げ道を残しておいてやるのが賢い人間である。
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また、私が小学4年生の時、近所の同じ学年の男の子とプロレスごっこをした時のことだ。彼は、真剣に即効をかけ、私を逆エビ固めに決めて絞り上げてきた。本当に苦しかった。私は悔しくてギブアップしなかったが、周りの子供達が止めてくれた。危ないと思ったのだろうし、下手すれば事故になっていたかもしれない。今思えば、あいつは本当に馬鹿だと思う。そして、その男の子はかなりの優等生だった。
ものには限度というものがある。これは、決して中途半端とか、曖昧を推奨するのではなく、バランス感覚が大切だという意味だ。仏教では、中道ということをとても大切にするが、それも同じような意味ではないかと思う。ヨーガというものも、バランスを何よりも大切にするのだと聞いたことがある。
我々が、社会で痛い目に遭わないといけないのは、中道とか、バランス感覚を磨くためだ。家族というものは、特に、親は子供をどうしても甘やかすし、また、そうでなくてはならない部分もあるのだが、そんなだから、家の中にいては、バランス感覚を身に付けることができないのだ。本を読むだけでも駄目だ。人間は、身体で痛い目に遭って、初めて理解できることが多いものだ。本を読むことは非常に良いことだが、その内容を実践でたしかめてこそ、本当に自分のものになる。
プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントという人は、230cmの身長と200kg以上の体重で、文字通り人間離れした肉体の強さもあった。そのため、トレーニングをしなくても無敵だったと言われる。世界的な人気者で、収入も凄かった。若い頃はその身体にコンプレックスを持ち、ひどく悩んだらしいが、その後は幸福な一生を送れたはずなのだ。
だが、彼は、毎日、ビールを1ダースも飲み、その他にも、美食に耽るようになった。それで、いつか、彼を負かすほどのレスラーも現れるようになり、身体を悪くして、まだまだ現役を続けられたはずの46歳の若さで亡くなってしまった。
ものには限度がある。
孔子が、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と言い、徳川家康も、この言葉を非常に重視したという。
私も、子供の頃から、何をやっても、これが真理であると実感することが多く、誰が言ったのかは知らなかったが、世の中には賢い人がいるものだと驚いていたものだ。
だが、孔子がいちいちこんな言葉を残したというのは、人間というものは馬鹿で、これをなかなか守れないということなのだろう。
ものごとは、徹底的にやるべきという面も確かにあるし、それはやらねばならない。
しかし、限度がある面もある。このあたりのバランスを身に付けた者を賢者と言うのかもしれない。
例えば、どんなに自分に理があっても、争いの中で、引くべきところは引かねばならない。
相手がどんなに間違っていても、徹底的に追い込むのは馬鹿だ。
虫や動物は、オスがメスを奪い合って戦うことはよくあるが、決して致命傷は与えないのだそうだ。人間は、虫や野獣よりずっと賢いはずなのに、それが出来ない。
敵をあなどって大逆転を赦すのは、怠惰であったり、傲慢であるからであり、勝負がついたら、敵に逃げ道を残しておいてやるのが賢い人間である。
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