ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

仏教

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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何事もほどほどに

私が小学校の3年生くらいの時だったと思う。多くの子供と同様、私はプリンが大好きだったのだが、もしかしたら、あらゆる食べ物の中で一番好きだったかもしれない。そして、やはり、プリンに目が無い2つ年上の女の子とプリンについて話していた。その時、私が、「いくら好きでも、ドンブリ一杯のプリンを食べるわけにもいかないだろう?」と言ったら、彼女は、「いや、私は食べられる」と大真面目に言う。その、食べる気満々の目の据わった表情を見て、8つか9つだった私は、冷静に、「ああ、こいつ、本当に馬鹿だな」と、多分思った。私だって、そのくらい食べられたら最高だと思うし、食べられるとは思う。しかし、そこまでやっちゃいけないのだ。ちなみに、彼女は学校の成績は悪くはなく、クラスでのランキングは私よりずっと上で、時々私は馬鹿にされたこともあった。

また、私が小学4年生の時、近所の同じ学年の男の子とプロレスごっこをした時のことだ。彼は、真剣に即効をかけ、私を逆エビ固めに決めて絞り上げてきた。本当に苦しかった。私は悔しくてギブアップしなかったが、周りの子供達が止めてくれた。危ないと思ったのだろうし、下手すれば事故になっていたかもしれない。今思えば、あいつは本当に馬鹿だと思う。そして、その男の子はかなりの優等生だった。

ものには限度というものがある。これは、決して中途半端とか、曖昧を推奨するのではなく、バランス感覚が大切だという意味だ。仏教では、中道ということをとても大切にするが、それも同じような意味ではないかと思う。ヨーガというものも、バランスを何よりも大切にするのだと聞いたことがある。
我々が、社会で痛い目に遭わないといけないのは、中道とか、バランス感覚を磨くためだ。家族というものは、特に、親は子供をどうしても甘やかすし、また、そうでなくてはならない部分もあるのだが、そんなだから、家の中にいては、バランス感覚を身に付けることができないのだ。本を読むだけでも駄目だ。人間は、身体で痛い目に遭って、初めて理解できることが多いものだ。本を読むことは非常に良いことだが、その内容を実践でたしかめてこそ、本当に自分のものになる。

プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントという人は、230cmの身長と200kg以上の体重で、文字通り人間離れした肉体の強さもあった。そのため、トレーニングをしなくても無敵だったと言われる。世界的な人気者で、収入も凄かった。若い頃はその身体にコンプレックスを持ち、ひどく悩んだらしいが、その後は幸福な一生を送れたはずなのだ。
だが、彼は、毎日、ビールを1ダースも飲み、その他にも、美食に耽るようになった。それで、いつか、彼を負かすほどのレスラーも現れるようになり、身体を悪くして、まだまだ現役を続けられたはずの46歳の若さで亡くなってしまった。

ものには限度がある。
孔子が、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と言い、徳川家康も、この言葉を非常に重視したという。
私も、子供の頃から、何をやっても、これが真理であると実感することが多く、誰が言ったのかは知らなかったが、世の中には賢い人がいるものだと驚いていたものだ。
だが、孔子がいちいちこんな言葉を残したというのは、人間というものは馬鹿で、これをなかなか守れないということなのだろう。

ものごとは、徹底的にやるべきという面も確かにあるし、それはやらねばならない。
しかし、限度がある面もある。このあたりのバランスを身に付けた者を賢者と言うのかもしれない。
例えば、どんなに自分に理があっても、争いの中で、引くべきところは引かねばならない。
相手がどんなに間違っていても、徹底的に追い込むのは馬鹿だ。
虫や動物は、オスがメスを奪い合って戦うことはよくあるが、決して致命傷は与えないのだそうだ。人間は、虫や野獣よりずっと賢いはずなのに、それが出来ない。
敵をあなどって大逆転を赦すのは、怠惰であったり、傲慢であるからであり、勝負がついたら、敵に逃げ道を残しておいてやるのが賢い人間である。









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現代的な概念で想像した神の姿

どこの国でも、古代はもちろん、現代においてすら、芸術家は神仏の姿を描くことを続ける。
昔のギリシャであれば、たくましい身体に威厳のある老人の顔をしたゼウスや、これよりはいくらかスリムで若々しい顔のアポローン、兜をかぶり、芸術的な槍と楯を持った若く美しい女性であるアテーナーや、弓を背負った軽快ないでたちのアルテミスの絵画や彫刻に、人々は本当の神の姿を感じたのだろう。
インドで描かれた神々は、ギリシャのものより、もっと想像的かもしれない。また、仏教美術においては、仏そのものと共に、仏の世界がマンダラとして描かれるなど、人々は、視覚的に神や仏のイメージを持つことができたと思う。
キリスト教やイスラム教、あるいは、道教や神道においても、様々な神や、神の世界を描く絵画や彫刻が数多く創られてきた。
芸術は宗教の下僕として始まったと言った者もいたが、全くそうではないかと思うのである。

現代においても、それらの絵画や彫刻に、神や仏の姿を感じる場合ももちろんあるだろう。
一方、それらを、ただ美術として見、ロマンは感じても、宗教的な感覚を持たない者も多くなっているに違いない。

私は、神がコンピュータだというのではないが、宇宙のどこかに存在する巨大なコンピュータのようなものというイメージがある。
現代のコンピュータを発明したジョン・フォン・ノイマンは屈指の量子物理学者であったが、私のいうコンピュータのような神とは、デカルト的な機械的な、あるいは、電気的なものではなく、未来のコンピュータと言われる量子コンピュータのようなものと言えるかもしれない。
それは、私がコンピュータ技術者であるからというより、子供の時から親しんできたSFの影響の方が大きいと思う。そして、私のような者も多いに違いない。
量子脳理論というものがあるが、人間もまた、量子コンピュータのようなものだと思われるのである。
そして、宇宙は量子の海なのだ。量子の、物としての実体である素粒子が知性を持つと考える者もいるが、素粒子は、巨大な量子コンピュータとしての神や端末コンピュータとしての人間の意識と影響しあうのである。神は、この量子の海を統制する者であり、ゆえに全知万能だし、人の意識も創造や変化に関与するのである。
成功法則を科学的に語ろうとしたウォレス・ワトルズや、チャールズ・ハアネルの時代はコンピュータはなかったが、彼らも、似たような概念を持っていたのだろうと思うのである。

私は、巨大コンピュータのようなものとして神を見たことがある。もちろん、心の観念を通して見たのであり、それが本当の神の姿だというのではない。
ごく幼い頃は、広大な光の絨毯のようなものとして見た。大人になってから見た神は、ただ、あまりにも壮大なスケールの何かとしか言えないもので、言葉でどうにも表現できるものではない。高熱を発して、論理的思考が出来ないような時には、よくそのイメージが意識の中に入り込んできたものだ。
ただ、もし視覚的に見るなら、果てないほどの大きさの光で構成された精妙な知性で、限りなく深い慈愛のようなものを感じるのである。それにただ任せておけば、不安というものは全くないことも分かる。ただ、欲望から構成された自我が、それを妨害するのである。

人の発明や発想は全て自然の模倣である。だから、思想としてのコンピュータや、優れたSF作品の人工知能というのは、どこか懐かしく、ロマンチックなことがある。
現代においては、やや抽象的にコンピュータを考えてみることが、神を知るヒントになるかもしれない。
尚、神をコンピュータに例えた素晴らしいモデルは、関英男博士の著書にあるし、足立育朗さんの『波動の法則』との関連も述べられているので、これが参考になると思う。以下にそれらの本をご紹介しておく。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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