昨日も書いたが、幸せになること・・・世俗的には引き寄せが出来るようになることは簡単である。
ところが、世の中には、引き寄せのやり方を非常に複雑に言う人がいる。
実際、単純な方法で引き寄せが出来ない人が沢山いるからだ。
だが、本来は、腕振り運動をしたり、「アーーー」と言うだけで幸せになれる。
ところが、そうは見えない。
この詐欺のような現象は一体何なのだろう?
その理由は簡単で、ゲーテも言っている。
「所詮は人間性なのだ」
これが低くては引き寄せは出来ない。
こう言うと、「いや、悪人が大いに引き寄せを行った例は多い」と言う者もいるだろう。
その通りだ。
悪人は悪人の道とか仁義とかを守る限り、優れた人間性の持ち主なのだ。
ただ、実を言えば、悪の道の方が善の道より厳しく、それは細く、まるで綱渡りをするようで、ほぼいつかは失敗して転落する。
「悪人ほどよく眠る」というのは嘘で、特に、悪人は歳を取って衰えると、心休まる時がない。
そんなわけで、悪人の道は説かないようにしよう。
それでも、特に善人用と言うわけではないが、どうすれば人間性を高めることが出来るかを説明する。
直接に人間性を高めようなんて思ったら、間違えて小市民、小善人になる。
なぜなら、本能というのは、自分が生き残る、自分の子孫を残すために働くもので、言ってみれば悪である。
その悪をなさないようにしようと思ったら、本能を無理矢理抑えようとし、覇気のない小善人になるのである。
だから、人間は、何ごとも逆に考えないといけない。
つまり、「こんな者の人間性が低いはずがない」という人間であれば良い。
それは簡単で、たとえば、「毎日、聖書を読んでいる者の人間性が低いはずがない」とは確実に言える。
別に、聖書が素晴らしいと絶賛したいわけではない(聖書がよく分からないので)。
ただ、程度が低い人間が読まないものを、1年365日読む者の人間性が低いというのはあまりに不合理だという単純な理屈による。
1年365日、聖書を読んでいるのに駄目な人間を探すことは不可能だ。
まあ、月に10日なら、それが毎月必ずでも、駄目なやつがいる可能性はあるが、さすがに毎日ならあり得ない。
一般的に言えば、聖書か法句経が良いが、他の聖典でも構わない。
一日一章で良いから(10分以下だろう)、よほどのことがない限り、毎日読むことだ。
ちなみに、『ヒマラヤ聖者の生活探求』によれば、ヒマラヤの大師達は毎日『バガヴァッド・ギーター』を必ず読んでいるらしい。
聖典が良い理由に、人間のエゴが入っていないことがある。
良い本は沢山あるが、多くは著者のエゴが多量に入り、毎日読むと影響されて偏見を持つようになる。
成功者が「うまくいく方法を教えてやる」という類の本は、ほとんどがエゴの塊で、読むと変な人になる・・・と言えばピンと来ると思う(笑)。
そんな本を読むことが悪いことではないが、あくまで参考のために読むことだ。
人間性を高めておけば、どんな成功のメソッド(手法)も、たちどころに効果を発揮する。
だが、自分勝手で了見が狭く甘い人間が世の中でうまくいくことは絶対にない。
「毎日何か感心なことをする」ことが正しい修行である。
その「何か」を決めておかないと、必ず毎日やることは出来ない。
本当は、毎日、必ず仏壇に線香を上げるでも良いのだ。
ただし、言われてやるようでは駄目で、「だから毎日仏壇に線香を上げなさい」と言う者は馬鹿か詐欺師である。
だから良い修行の定義を修正すると、
「毎日、何か感心なことを自主的にやる」
である。
ところが、世の中には、引き寄せのやり方を非常に複雑に言う人がいる。
実際、単純な方法で引き寄せが出来ない人が沢山いるからだ。
だが、本来は、腕振り運動をしたり、「アーーー」と言うだけで幸せになれる。
ところが、そうは見えない。
この詐欺のような現象は一体何なのだろう?
その理由は簡単で、ゲーテも言っている。
「所詮は人間性なのだ」
これが低くては引き寄せは出来ない。
こう言うと、「いや、悪人が大いに引き寄せを行った例は多い」と言う者もいるだろう。
その通りだ。
悪人は悪人の道とか仁義とかを守る限り、優れた人間性の持ち主なのだ。
ただ、実を言えば、悪の道の方が善の道より厳しく、それは細く、まるで綱渡りをするようで、ほぼいつかは失敗して転落する。
「悪人ほどよく眠る」というのは嘘で、特に、悪人は歳を取って衰えると、心休まる時がない。
そんなわけで、悪人の道は説かないようにしよう。
それでも、特に善人用と言うわけではないが、どうすれば人間性を高めることが出来るかを説明する。
直接に人間性を高めようなんて思ったら、間違えて小市民、小善人になる。
なぜなら、本能というのは、自分が生き残る、自分の子孫を残すために働くもので、言ってみれば悪である。
その悪をなさないようにしようと思ったら、本能を無理矢理抑えようとし、覇気のない小善人になるのである。
だから、人間は、何ごとも逆に考えないといけない。
つまり、「こんな者の人間性が低いはずがない」という人間であれば良い。
それは簡単で、たとえば、「毎日、聖書を読んでいる者の人間性が低いはずがない」とは確実に言える。
別に、聖書が素晴らしいと絶賛したいわけではない(聖書がよく分からないので)。
ただ、程度が低い人間が読まないものを、1年365日読む者の人間性が低いというのはあまりに不合理だという単純な理屈による。
1年365日、聖書を読んでいるのに駄目な人間を探すことは不可能だ。
まあ、月に10日なら、それが毎月必ずでも、駄目なやつがいる可能性はあるが、さすがに毎日ならあり得ない。
一般的に言えば、聖書か法句経が良いが、他の聖典でも構わない。
一日一章で良いから(10分以下だろう)、よほどのことがない限り、毎日読むことだ。
ちなみに、『ヒマラヤ聖者の生活探求』によれば、ヒマラヤの大師達は毎日『バガヴァッド・ギーター』を必ず読んでいるらしい。
聖典が良い理由に、人間のエゴが入っていないことがある。
良い本は沢山あるが、多くは著者のエゴが多量に入り、毎日読むと影響されて偏見を持つようになる。
成功者が「うまくいく方法を教えてやる」という類の本は、ほとんどがエゴの塊で、読むと変な人になる・・・と言えばピンと来ると思う(笑)。
そんな本を読むことが悪いことではないが、あくまで参考のために読むことだ。
人間性を高めておけば、どんな成功のメソッド(手法)も、たちどころに効果を発揮する。
だが、自分勝手で了見が狭く甘い人間が世の中でうまくいくことは絶対にない。
「毎日何か感心なことをする」ことが正しい修行である。
その「何か」を決めておかないと、必ず毎日やることは出来ない。
本当は、毎日、必ず仏壇に線香を上げるでも良いのだ。
ただし、言われてやるようでは駄目で、「だから毎日仏壇に線香を上げなさい」と言う者は馬鹿か詐欺師である。
だから良い修行の定義を修正すると、
「毎日、何か感心なことを自主的にやる」
である。