ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

人間性

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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所詮、最後は人間性

昨日も書いたが、幸せになること・・・世俗的には引き寄せが出来るようになることは簡単である。
ところが、世の中には、引き寄せのやり方を非常に複雑に言う人がいる。
実際、単純な方法で引き寄せが出来ない人が沢山いるからだ。
だが、本来は、腕振り運動をしたり、「アーーー」と言うだけで幸せになれる。
ところが、そうは見えない。
この詐欺のような現象は一体何なのだろう?
その理由は簡単で、ゲーテも言っている。
「所詮は人間性なのだ」
これが低くては引き寄せは出来ない。
こう言うと、「いや、悪人が大いに引き寄せを行った例は多い」と言う者もいるだろう。
その通りだ。
悪人は悪人の道とか仁義とかを守る限り、優れた人間性の持ち主なのだ。
ただ、実を言えば、悪の道の方が善の道より厳しく、それは細く、まるで綱渡りをするようで、ほぼいつかは失敗して転落する。
「悪人ほどよく眠る」というのは嘘で、特に、悪人は歳を取って衰えると、心休まる時がない。
そんなわけで、悪人の道は説かないようにしよう。
それでも、特に善人用と言うわけではないが、どうすれば人間性を高めることが出来るかを説明する。

直接に人間性を高めようなんて思ったら、間違えて小市民、小善人になる。
なぜなら、本能というのは、自分が生き残る、自分の子孫を残すために働くもので、言ってみれば悪である。
その悪をなさないようにしようと思ったら、本能を無理矢理抑えようとし、覇気のない小善人になるのである。
だから、人間は、何ごとも逆に考えないといけない。
つまり、「こんな者の人間性が低いはずがない」という人間であれば良い。
それは簡単で、たとえば、「毎日、聖書を読んでいる者の人間性が低いはずがない」とは確実に言える。
別に、聖書が素晴らしいと絶賛したいわけではない(聖書がよく分からないので)。
ただ、程度が低い人間が読まないものを、1年365日読む者の人間性が低いというのはあまりに不合理だという単純な理屈による。
1年365日、聖書を読んでいるのに駄目な人間を探すことは不可能だ。
まあ、月に10日なら、それが毎月必ずでも、駄目なやつがいる可能性はあるが、さすがに毎日ならあり得ない。
一般的に言えば、聖書か法句経が良いが、他の聖典でも構わない。
一日一章で良いから(10分以下だろう)、よほどのことがない限り、毎日読むことだ。
ちなみに、『ヒマラヤ聖者の生活探求』によれば、ヒマラヤの大師達は毎日『バガヴァッド・ギーター』を必ず読んでいるらしい。
聖典が良い理由に、人間のエゴが入っていないことがある。
良い本は沢山あるが、多くは著者のエゴが多量に入り、毎日読むと影響されて偏見を持つようになる。
成功者が「うまくいく方法を教えてやる」という類の本は、ほとんどがエゴの塊で、読むと変な人になる・・・と言えばピンと来ると思う(笑)。
そんな本を読むことが悪いことではないが、あくまで参考のために読むことだ。

人間性を高めておけば、どんな成功のメソッド(手法)も、たちどころに効果を発揮する。
だが、自分勝手で了見が狭く甘い人間が世の中でうまくいくことは絶対にない。
「毎日何か感心なことをする」ことが正しい修行である。
その「何か」を決めておかないと、必ず毎日やることは出来ない。
本当は、毎日、必ず仏壇に線香を上げるでも良いのだ。
ただし、言われてやるようでは駄目で、「だから毎日仏壇に線香を上げなさい」と言う者は馬鹿か詐欺師である。
だから良い修行の定義を修正すると、
「毎日、何か感心なことを自主的にやる」
である。








人間性は大事だ

大谷翔平さんは、人間性も非常に素晴らしいらしい。
ところで、翔平と言えば、戦後からそれほど経っていない昭和30年代に、馬場正平さんという元巨人のピッチャーであったプロレスラーがアメリカで大スター選手になっていた。
馬場正平さんとは、ジャイアント馬場さんである。
そして、この馬場正平さんも、素晴らしい人間性の持ち主だったようだ。
当時のアメリカの大スターレスラーで、奥さんが日本人というフレッド・ブラッシーは、自伝の中で、馬場さんのことを「謙虚で努力する素晴らしい青年」と称賛しているようだ。
馬場さんは、自分が大スターになっても、控室では先輩レスラー達を立てて、いつも隅っこで小さくなっていたという。
また、恩を忘れない人だったと言われる。
馬場さんが初めてアメリカに行った時は、ただ飛行機の切符一枚持たされて「行け」だった。
一般の海外渡航などは極珍しい時代であり、インターネットがないどころか、新聞・雑誌にも、アメリカの情報はそれほど多くなく、二十歳そこそこの青年が、いきなり1人で異国に放り出され、どこに行って何をすれば良いのかも、ほとんど分からない状態だったようだ。
馬場さんは、そんな時、親切に世話を焼いてくれた外国人レスラーへの恩を生涯忘れず、彼らが歳を取っておちぶれていても、定期的に日本に呼び、スター扱いし、高いギャラを払い続けた。
馬場さんが亡くなられた時、プロレス史上最高のレスラーと言われるルー・テーズは、馬場さんのことを「プロモーターとしても偉大で、約束したギャラは必ず払ってくれる誠実な人だった」と言っていたのが、まさに、馬場さんのことを表しているように思う。
馬場さんに数年遅れ、アメリカに行ったアントニオ猪木さんは、なかなか人気が出ず、ギャラも安くてお金に困っていることを知っていた馬場さんは、自分が日本に帰国する際、猪木さんを呼びつけ、「寛ちゃん(猪木の本名は猪木寛治)、俺はもう要らないからこれを使え」と、猪木さんの背広のポケットに札束をねじ込んだという(『1964年のジャイアント馬場』より)。

この、2人の「ショウヘイさん」だけでなく、偉大な人物について調べれば、常人を超えた親切さや義理堅さを感じるものだ。
義理堅いと言えば、小説ではあるが、笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯らし紋次郎』のヒーロー、紋次郎の義理堅さは極端とも言えるほどだが、やはり、こんな人間は運が味方するのだと思う。
私は、優れた小説は現実世界と変わらないと思っている。そのように宇宙の法則が働くのだと思う。
カート・ヴォネガットは、シェイクスピアについて「下手な作家だったが、人間をよく知っていた」と述べていたが、笹沢佐保さんも、人間をよく知っている人だったと思う。

本当か嘘か知らないが、今は、いろいろ悪い話もあるビル・ゲイツにも、こんな印象深い話がある。
子供も独立した40代の女性が再び働こうと、マイクロソフトという会社の事務員募集に応募した。当時、二十歳そこそこだったビル・ゲイツが、まだ小さかった、このマイクロソフトの社長を務めていた。
ところが彼女は、来るところを間違えたと思った。
募集の理由である、退職予定の事務員が若い金髪の美女だったからだ。
だが、面接を始めるなり、ゲイツは「いつから来れますか?」とだけ言い、採用が決まる。
彼女は、当時は珍しくなかったと思うが、コンピューターについて何も知らなかった。
それで、ゲイツに分からないことを何度も尋ねたが、その度、ゲイツは、彼女が分かるまで辛抱強く教えてくれたという。
会社の業績が良かった時、会社の人達と高級レストランにお祝いの食事に行った際、普段、大衆食堂でしか食事しないゲイツは高級料理のメニューがさっぱり分からず、ハンバーガーを注文し、他の者もハンバーガーを注文したという話もある(まあ、高いハンバーガーなのだろうが)。

もちろん、誰だって、叩けば埃が出るが、ゲーテも言うように、人間性が最高の宝だ。
釈迦は「7つの繁栄の法」を説き、それを守った者は必ず繫栄した。
だが、『涅槃経』によれば、7つのうち、1つでも守れば繁栄するのだという。
その7つとは、
・平等に意見を聞く
・助け合う
・ルールを守り、勝手なルールを作らない
・老人を敬う
・女性を大切にする
・祖先を敬う
・人間性の優れた人物を敬う
である。
まあ、1つ出来るなら全部出来るし、1つ出来なければ全部出来ないものである。
つまり、まずは1つである。
成功しない人、まるで駄目な人は、1つも満足でないことが分かるのである。
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人間性とは

結局のところ、人の運命は人間性で決まるのかもしれない。
こう言うと、「いや、人間性が低くても楽しい人生を送る者もいれば、素晴らしい人間性を持っているのに不幸な人生を送る者もいる」と言いたい人もいると思う。
しかし、たとえ、他人に関してはそのように見えても、「自分に関しては、運命は人間性次第」なのではないか。
外部から幸福そうに見える人間が本当に幸福か、不幸に見える人間が本当に不幸かは、決して分からないし、それを探求しても仕方がない。

では、どんな人間が人間性が高いのか、モデルを知りたいと思う。
世の中では、そんな(人間性の高い)人間の代表として、ガンジーやマザー・テレサを上げる人が多いと思う。
しかし、彼らが本当はどんな人間かは分からない。
ほとんどの人が、ただ何となく、ガンジーやマザー・テレサを素晴らしい人間だと思っているが、それを自分で確かめた訳ではないし、確かめたつもりでも、その根拠となる情報の正確さは全く不明だと言って良いだろう。
聖人とも言われるジッドゥ・クリシュナムルティ(1895~1986)は、ガンジーを非常に批判的に捉えている。
そして、クリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言うが、それが正しい態度なのかもしれない。

聖書に登場する聖人達・・・モーセ、ヨシュア、ダビデ王、ソロモン王、洗礼のヨハネ、そして、イエス・キリストはどうか?
聖書に記述されている通りなら、非常に素晴らしい人達だと思う。
では、彼らはいったいどこが素晴らしいのだろう?
それは、自分の意思より神の意思を優先したことで、神の前では、「自分が全くない」「自分が空っぽ」であるところだ。
このことを上手く言い表した言葉がある。

人々が作家としての私をちやほやするのは、さっぱり理解できない。
私は単に、水を流して撒く庭のホースに過ぎないのに。
ーージョイス・キャロル・オーツーーー
※『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』(トーシャ・シルバー著)より引用

もし、このオーツが、人々にちやほやされて、「自分が優秀だから高く評価される作家になれたのだ」と思えば、もう水は出て来ないかもしれない。
しかし、普段はそう(自分が偉いから良い作品が書ける)思っていても、執筆中は自分が書いているという意思を失くし、己を虚しくして書いている偉大な作家もいる。
いや、ほとんどの偉大な作家がそうなのだ。
ただし、あまりにその度合いが大きく、執筆中にすら「偉い自分が書いている」という意識が出てくれば、すぐに駄目になるだろう。
そんなことを最も理解していたのはソクラテスだった。
いかなる職業でも、その職業において優れた人間というのは、仕事中は、オーツが言うところのホースになっているのである。
ソクラテスは、巫女に「あなたは人類の中で最も知恵がある」と言われた。
しかし、ソクラテスは、「そんなことがあるはずがない」と思った。
だが、やがて彼は、巫女の言う通りだと確信した。
なぜなら、自分は何も知らないことを知っているからで、そのような人間が他にいなかったからである。

自分を虚しくするため、般若心経や大祓祝詞を延々と上げた人もいる。
黒住宗忠も、一月に1万回、大祓祝詞を上げたというから、起きている時間全てでそれをやっていたとしても足りないと思うほどだ。
だが、それで宗忠は、あらゆる奇跡を起こすようになったし、伝説による限りは、彼は、自分というものが全くなかった。
宗忠は、おいはぎに「十両出せ」と言われたら、「今、五両しかない。残りは明日必ず」と言って、その必然性は全くないのに、ただ約束したという理由だけで、翌日、本当に五両を用立てて、そのおいはぎに渡した。
そのおいはぎは宗忠の門下に入った。
念仏者の因幡の源左(いなばのげんざ)は、自分の畑の芋が掘り返されて盗まれると、その後は、畑に鍬を置いておいた。
「手で掘って怪我をしてはいけないから」という理由である。

私は、大したことは出来ないが、気が付く度に、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」を心で唱えている。
敬愛する中岡俊哉さんの『守護霊占運学』に、干支の守護仏の真言を唱えるよう書かれているからである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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