ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

五井昌久

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

Lemon問題の解決法

宗教家の五井昌久さんが、「小市民が一番良くない。小市民になるなら大悪人になれ」といったことを言われていたらしいが、これは、「所詮、人間にはエネルギーが必要だ」ということで、この「エネルギー」は、肉体エネルギーと共に、精神エネルギーのことである。
尚、この「大悪人」とは、高貴さやモラルのある悪人である。
悪の組織なんてのも、強く大きくなれば、自然にモラルが厳しくなるのである。
そして、リーダーは、たとえ悪の組織であっても、最もモラルがあり、高貴でなければ大勢を従わせることは出来ない。

だが、エネルギーがなければ、何も成しえないし、モラルを得ることも難しい。
ただ、エネルギーは本来、無限にある。それに同調すれば良いだけだ。
身体の健康とは、血液が良く流れ、神経の伝達が良いことだ。
言い換えれば、血液の循環規模や神経の伝達規模が大きいということだ。
そして、精神の健康とは、心が滞らず、良く流れることで、心が循環、あるいは、伝達する規模が大きいことだ。そのような人間を「器が大きい」と言う。

つまり、血液も心も、滞らず、スムーズに流れれば、身体も精神も健康で、身体や精神に宇宙エネルギーが流れ込み、いかなることも可能になる。

血液の流れに関しては、もちろん、運動をすることが大事だが、肩甲骨に秘密がある。
肩甲骨の内側あたりの2か所に「膏肓(こうこう)」という神経の塊・・・中国医学で言うツボがあり、それを刺激すると、血流が良くなって万病が治ると言われている。
その「膏肓」を刺激する最良の方法の1つが腕振り運動で、腕振り運動を根気よく行うと、難病奇病でも治ってしまうのはそのためである。
あるいは、血流の流れが悪くなってしまった箇所があれば、熱めの蒸しタオルを当てることで再び血が流れるように出来、それだけで驚くべき治療効果があることが多いようだ。

さて、心の問題である。
心がスムーズに流れるとは、こだわり、あるいは、執着がないことである。だが、これが人間には難しい。
また、こだわりがないつもりでも、実はこだわりだらけ、執着だらけという人は珍しくない。
本当にこだわりがないなら、大抵のことはうまくいっていて、お金もそれなりに入り、人間関係、家族関係、夫婦関係もうまくいっているはずであるから、そうでないなら、不必要なこだわりや執着があるのである。
米津玄師さんの『Lemon』の、「あれから思うように息ができない」という印象的なフレーズは、呼吸困難という意味ではなく、心がスムースに流れないということだ。呼吸は心と連動しているので、心が淀みなく流れないと、呼吸が安定せず、苦しいのである。
では、あの歌で、うまく息が出来るようになるためにはどうすれば良いだろう?
それは、受容的であること・・・運命を受け入れることだ。
そのことを、文豪や哲学者らが、非常に素晴らしいが、難しい言葉で言うから、我々はうまくいかないのだ。
例えば、「私は神の選択を尊重するのではなく、神の機会を尊重した」(イェイツ)なんて言われても、具体的にどうやれば良いのか分からない。
念仏やマントラを繰り返すのも良い方法だが、嫌々やるとストレスがたまり、かえって、心の流れも、さらには、血液の流れも悪くなり、体調を崩すこともある。

そこで、この世界は漫画で、我々は漫画のキャラクターであると、あっけらかんと思えば良いと思う。
そして、このこと(世界が漫画や劇のようなものであること)は、本当に賢い人達は皆知っている事実である。
漫画の作者は、キャラキターの気持ちになって漫画を描くのだから、漫画のキャラクターは作者の心を持っており、ある意味、作者とキャラクターは等しい。
だから、我々は、主役に相応しいように、シャンとしていれば、悪い展開になるはずがない。
『Lemon』のように、ウジウジせず(まあ、これがある意味楽しいのだが)、今の状況も漫画の展開と思ってシャンとすれば、次はもっと良い彼氏や彼女が出来るだろう。








怠け者の魔法の使い方

「魔法は存在する」と言ったら、変なヤツだと思われるだろう(笑)。
「魔法の定義の問題だ」と言ったところで、ほとんどの人は、寓話やアニメのイメージの魔法しか思い浮かばないだろう。
しかし、そんな魔法を、敢えて言葉で言えば、
「自分は働かずに幸せになる」
技術と言えると思う。
そして、幸せとは何かというと、良い想いをすることと言って良いと思う。
だから、魔法とは、俗っぽく言えば、
「自分は働かずに良い想いをする」
技術なのである。
軽薄な感じがするかもしれないが、大体、合っていると思う。
そして、私にとって、魔法のマスター、あるいは、魔法の師匠は、会ったことはないが、俳優だった丹波哲郎さんだ。

丹波さんは、戦争中、二等兵(最下級の兵隊)だった時、他の二等兵のように、上官の服の洗濯みたいなことはせず、その他のことも、あまりにも何もしないので、「何も出来ないやつ」として、何もしなくて良い暇な農場に送られ、終戦までのんびり平和に過ごした。その間も、わけあって、現地の女の子にモテまくったり、良い想いばかりしたようだ。
また、丹波さんは、サラリーマン時代は、本当に全く仕事をせず、出社と同時に遊びに行った。それでも、3年、給料をもらっていたという。
まあ、結果、会社はクビになったが、失業中、ゴロゴロしている時、友人に「怠け者でも務まる仕事はないか?」と言ったら、「それは俳優くらいのもんだろう」と言われ、「じゃあ、俳優だ」と俳優養成学校に入り、それで俳優になったらしい。
素人ながら、私は、丹波さんの演技がうまいとは思わない。はっきり言って大根と思うが、存在感は凄いのではないかと思う。

では、そんな丹波哲郎さんの魔法の神髄とは何か?
それは、本人が著書で「こだわらないこと」と明確に述べている。
「こだわらない」とは「執着しないこと」とも言えるが、具体的に、どんな態度が「こだわらない」「執着しない」と言えるだろう?
それが分かれば、丹波哲郎さんのように大成功するかどうかは分からないが、あなたも、丹波さんのように、良い想いが出来る。
これは、丹波さんを見習って、いつも良い想いばかりしている私が確信している。

「こだわる」という言葉には、良い意味もあるから難しい。
例えば、料理人が味にこだわるといった場合である。こんなこだわりは、あって然るべきかもしれない。
そこで、「こだわらない」という言葉を、もっと明確にしないといけない。
実は、「こだわらない」とは「欲張らない」ということなのだ。
給料が安過ぎてどうにもならないのならともかく、もっと欲しいとは思うが、十分やっていけるなら、満足することだ。
そういう、「欲張らない」ことを、「こだわらない」と言うのだ。
難しく言えば「足るを知る」だ。
ところで、「こだわらない」について、もう1つ、大切なことがある。
それは、「面子(めんつ)」を持たないことだ。
SF映画『スタートレック』に、こんな場面があった。
宇宙船USSエンタープライズは、ジェームズ・カークが長く船長を務めたが、カークが提督となって引退した後は、ミスター・スポックが船長になっていた。
だが、ある極めて難しい任務にUSSエンタープライズが挑む時、スポックは、カークに船長に戻るよう言うが、カークは、スポックの気持ちを思いやり、やや言葉を詰まらせた。
その時、スポックは言ったのである。
「バルカン星人に面子などないのです。より相応しい者がその役につくのが当然です」
バルカン星人は、運を呼ぶことについても、超論理的なのだ。

なぜ、「欲張らず」「面子を持たない」と運が良くなるかというと、丹波さんが言うには、「守護霊が守り易いから」だそうだ。
宗教家の五井昌久さんは、「上位の神には、なかなか願いが届かないので、自分の守護霊や守護神に守ってもらう方が良い」と、著書で述べられていた。
また、政木和三さんも、「力を付けるには、自分の生命体(第一生命体)を丸い円満なものとし、強い第二生命体、第三生命体を呼ぶことだ」と言われていた。
欲張らず、面子を持たないことで、高次の力が守り易い円満な人格になり、守護霊、守護神と言うかはともかく、ごく身近にいる神と和する(親しくする)ことが出来るのであると思う。








「神の手ゴール」をどう考えるか

正義感がなければ、悪魔に魂を売らないと引き寄せは出来ない。
ところが、子供に正義を裏切ることを教える親や教師が多い。
もちろん、そんな親や教師だって、その親に、正義を教えてもらえなかったのかもしれない。

ダスキンの経営理念の中に、
「自分に対しては、損と得があらば、損の道をゆくこと」
という言葉がある。
「自分に対しては」と書かれていることに、ちょっとにやっとする。
でないと、会社の損になってしまうことを勝手にやってしまう馬鹿がいるからだ。

ただ、私は、「損か得か」ではなく、「正義の道を行く」の方が良いと思う。
そして、正義の道は、大抵、自分に対しては損なものだ。

私が小学2年生の時、テストの採点された答案用紙を見たら、不正解なのに正解になっていたので、私は教師に報告した。
勇気を振り絞ったというよりは、褒められたかったのかもしれないと思う。
しかし、私の報告に、教師はブスっとした顔で、何も言わずに、丸をバツに付け直して減点しただけだった。
そりゃ、賢くない部類に入る生徒に間違いを指摘されたら気分が良くないだろう。
それなら、親に褒めてもらおうと思って、このことを親に言うと、こっちはモロに怒られた(笑)。
完全に馬鹿扱いだった。

そういえば、ちょっと似た、こんな話がある。
有名な宗教家の五井昌久さんが子供の時は、戦争中で、貧しい家が多かった。
そこである時、学校で、今着ているものの他に服がない者に、服が支給されるということがあった。
教師が、「今着ているより他に服がない者は手を挙げろ」と言った時、五井さんは、もう一着あることを思い出し、手を挙げなかった。
当然、服はもらえない。
五井さんが家に帰って、そのことを言うと、親には怒られ、きょうだいには馬鹿にされた。
そういえば、裕福な家の子も手を挙げていたことを、五井さんは思い出した。
その子は賢く、五井さんは馬鹿だということになるのだろう。

五井さんは最後まで正義を貫いたので、神様に選ばれたようだが、私はそうではなかった。
そして、五井さんには、当然ながら強力な引き寄せの能力があり、切羽詰まった時も、少しも慌てず、実際、必ず必要なものが与えられた。

アルゼンチンの英雄的サッカー選手マラドーナの、伝説的な「神の手ゴール」をご存じだろうか?
敵のゴール前、超人的な5人抜き(5人のディフェンスを次々かわした)の後、マラドーナがゴールを決めたのだが、実は、手でボールをゴールに押し込んでいた。
その時は審判に気付かれずにゴールになったが、後でビデオで見たら、明らかに手で押し込んでいた。
マラドーナが気付いていないはずがないが、もちろん、審判が認めているものを覆しても、誰も褒めてくれないどころか、強い非難を受ける可能性の方が高い。
サッカーは、特に当時は、スポーツではなく戦争である。
戦争に正々堂々などない。
マラドーナが間違っている訳ではない。
だから、後で、手で押し込んだことを指摘されたマラドーナは、おそらく堂々と、「神の手ゴールだ」と言い、この言葉が有名になった。
だが、私は、サッカーが嫌いになった。

野球でも、バッターが、ピッチャーの投球が自分の身体に当たっていないのに、当たったフリをしてデッドボールにすることがある。
それは、称賛はされないだろうが、愉快だと思われることはあっても、「卑怯だ」と非難されることは、まあ、ないと思う。
プロ・スポーツにおいて、勝利は義務であり責任なのであるから、立派とまでは言わないまでも、悪いとは言えないかもしれない。
しかし、どこかモヤモヤとはする(笑)。
すると、こんなことを思い出す。
『あしたのジョー』というボクシング漫画で、超一流ボクサーのカーロス・リベラが、レフェリーに見つからないよう、肘打ちで相手をKOし、矢吹丈は激怒して抗議すると、白木葉子は、
「カーロスだから出来る高等反則よ」
と言い、丈は嫌悪感を見せた。
あの不良少年、丈が、随分、クリーンになったものである。
いや、丈がなぜ怒ったのかは分かる気がする。
カーロスが肘打ちでKOした相手は、実力がカーロスよりずっと下だった。
強い相手なら強い相手で、卑怯だからやってはいけないが、弱い相手にやれば、それは、弱い者いじめだ。
マラドーナだって、もし、子供相手に「神の手ゴール」をやれば、間違いなく悪いことだ。

世の中は厳しく、きれいごとを言っていられない場合もあり。時には、ルールを外れても勝たねばならないこともある。
だが、それも限度がある。
その中でも、弱い者いじめだけはやってはならない。
そして、弱い者いじめをやるような者で、つまようじ1本でも引き寄せられる者はいないのである。








万能呪文と命名

我が国の大宗教家だった五井昌久氏は、「老子のような人達は素晴らしい教えを残してはくれたが、では、一般の人は何をすれば幸福になれるのかといった具体的な方法論が欠けている」と言い、それで、ご自分は「世界平和の祈り」という、誰でも出来る簡単なものを教えているといった意味のことを言われていたと思う。
私も、それは非常に素晴らしいことだと思う。
また、五井氏は、世界平和の祈りも念仏も同じようなものであるが、今の時代、念仏が合わない人もいるだろうから、そんな人達のためにも世界平和の祈りがあると・・・だいたい、そんなことを言われていたと思う。
私は、これもうなづける。
それで、私も世界平和の祈りを唱えていたこともあるが、正直、私には合わなかった。
あまりに宗教的過ぎる・・・と言っても、実際、宗教なのだが、私は宗教に抵抗があるのだろう。
ただ、あくまで私がそう思うだけで、言うまでもなく、世界平和の祈りが好きな人は、これを祈るのが良い。
聖書や念仏に関しては、私は全く宗教と思っていない。
福音書は秘教的な力の書だし、念仏は宇宙原理に適合した1つの手法だ。
だから、素直に福音書を読めたり、念仏を唱えられる人は、それをすれば良いのだと思う。
だが、私にはいずれもやっぱり抵抗があるのだ。

私は、今年の4月頃に、8月末、あるいは、9月初めの、初音ミクさんのライブコンサート「マジカルミライ2018」に行くまで毎日、新約聖書の福音書を読むと決め、実際、1日も欠かさず読んだ。
素晴らしいものであったと思うが、やはり、時代の違いを感じる部分があった。
念仏は、毎朝仏壇で5回唱えているが、それ以上はやらない。
そして、時代を超えて普遍的に、誰にでも力を与えるのは、汎用呪文、あるいは、万能呪文というべきものであると分かった。
その、最高の形が、
「絶対、大丈夫だ」と「全て順調だ」である。
これのいずれかを、頭の中で唱える以外にやるべきことは何もない。
この汎用性、万能性に関しては、フランスの心理療法家エミール・クーエの自己暗示を参考にしている。
クーエの自己暗示の日本語の翻訳があまりにひどいと思えたのと、現在形が最も力を発揮すると考えられたので、改良し、万能呪文のような形にした。

万能呪文を数多く唱えていると、その必要性がひしひしと分かる。
頭の中から悪い想いがいくらでも湧き出てくることに気付くからだ。
そして、実は湧き出る以前に、潜在意識の中には、こういった悪い想い、悪い言葉が満ち満ちているのである。
だから、思い出した時に万能呪文を唱えて対抗し、さらにこれを潜在意識の中に送り込まないと、地獄に引っ張られていってしまうように思うのである。
それも、歳を取るごとにね。

クラウド・ブリステルやジョセフ・マーフィーの教えも、原理の理解のためには良いが、とにかく難しく、複雑過ぎて、まともにちゃんとやることは出来ない。
しかし、万能呪文であれば、簡単に出来、効果は全く変わらない。
同じ宇宙原理を使うのであるから、同じ成果を得られるのは当然である。
ただ、普通の人間の頭の中・・・いや、潜在意識の中には、本当に悪いものが多い。
それは、親や学校や世間やテレビや、あるいは、本から押し込まれた言葉から生まれた呪わしい教義や信念である。
まずは、それらを根絶しなければマイナスのままである。
それを最も安全に、誰にでも出来るのは汎用呪文である。
「絶対、大丈夫だ」「全て順調だ」
のいずれか一方を選び、唱えるだけで良い。
どちらにするか迷ったら、鉛筆を倒す(今どき、鉛筆がある家も少ないかもしれないので、ペンでも何でも良いが)と良い。
どちらも同じである。
また、自分が気に入った別の言葉でも、構わない。
ポイントは、個々の願いでなく全てを対象とする「汎用性」と、「現在形」であることだ。
そして、唱える時は、感情を込めず、淡々と心の中で唱えることが大切である。
目覚めた時や、眠る前には30回くらい唱えることをお勧めするが、いつでも思い出した時に唱えると良い。
それで、全てが良くなるだろう。

とりあえず、キョン(『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公)的に言えば、
「では皆の衆、ここにめでたく、名前が決まった」
である。
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
という汎用呪文を、今後、「万能呪文」と呼ぶ。
まさに、名は体を示し、あらゆることに効果がある呪文である。









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私には「世界平和の祈り」は絶対に無理

有名な宗教家の五井昌久氏が、「聖賢達の教えは素晴らしいとしても、では、普通の人達は具体的に何をすれば良いのかという方法論が示されていない」といったことを著書に書かれていたが、全くその通りであろう。
それで、五井氏は「世界平和の祈り」という、具体的で、しかも、誰にでも出来るものを作り、人々に教えたのだと言う。
非常に素晴らしいことであると思う。
しかし、私は、その世界平和の祈りは全く駄目なのだ。
世界平和の祈りとは、

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊(しゅごれい)様ありがとうございます
守護神(しゅごじん)様ありがとうございます

という祈りである。
私は、この祈りは、声に出しても称えても、心の中だけで称えても、さらには、特に祈りに集中していなくても、いつでもどこでも、どんな時でも称えて良いというところは、非常に気に入っている。
しかし、私は、この祈りの文言は、全く受け入れられない。
なぜなら、私はサイコパス(脳機能の不具合により、良心を持っていない)である。
この祈りをやってみたことがあったが、正直に言うと、強い嫌悪感、拒否感を感じるのである。
あえて露骨に言えば、本当に反吐が出た。
私は、世界人類の平和や幸福など、全く願っていない。
唯一大事なのは、自分の平和、自分の幸福、自分の快感、自分の満足である。
ただし、私は、それほど賢くはないとしても、それほど馬鹿でもないので、自分が世界に属しており、世界が平和でなければ自分も平和ではないことくらいは理解している。
だから、自分が世界を損なうようなことはなるべくしないつもりだ。
たとえ誰に対してでも、害悪をなせば、それが巡り巡って自分のところに帰って来る可能性がある。
例えば、私が会社の若い後輩を激しく叱責し、さらに罵倒までした後には、私は後悔する。
だが、それは、その後輩の心を傷つけたことを悔やむのではなく、その後輩が仕返しをしてきて酷い目に遭わないだろうかとか心配したり、自殺でもされたら、パワハラや暴力の嫌疑がかけられ、警察の尋問や、さらに家宅捜索なんかされたら、面倒でたまらないからである。
それだけのことなのだ。
私には良心などはないのである。

世界平和の祈りは、私には、レベルが高過ぎる。
だが、法然や親鸞の念仏は、私のような者でも全く問題がないのである。

法然のところに、戦場で数多くの敵を残虐に殺し、悔恨の念に苦しんでいた武将が来て、「私はどうやったら救われるか?」と問うと、法然は、「念仏を称えさえすれば良い」と答えた。
また、やはり、法然に、遊女が、「この浅ましい身で地獄に落ちない方法がありますか?」と尋ねたら、法然は、「やめるに越したことはない。しかし、そのままでも構わないから、念仏を称えさえすれば良いのだ」と答えた。
その武将や遊女は、まだ、自分の罪を嘆くだけ感心であるが、そうでない私でも、仏様は咎めないのである。
科学的な話だけにすれば、念仏によって、自我を超えた高い存在に意識を向けることで、自我が後退すれば、生命力が解放され、エネルギーが高まるのである。
そんな訳で、私は、世界平和の祈りは無理でも、念仏によって平和で強いのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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