ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

五井昌久

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

愚直とは

幕末から明治の武士、軍人、政治家であった勝海舟(かつかいしゅう。1823~1899)は、
「事を遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない」
と言ったらしい。
短く言えば「愚直であれ」だが、この「愚直」がちょっと難しい。
愚直は、「馬鹿正直」といった意味だが、こう言うと、道徳的な馬鹿正直と考えてしまう人が多いと思う。
愚直は、辞書的には
「正直なばかりで臨機応変の行動をとれないこと。また、そのさま。ばか正直」
という意味らしいが、ちょっと違うような気がする。
というのは、これではただの馬鹿という意味だからだ。

とはいえ、「愚直」で分かる人は分かる。
多くの人は「なんとなく分かる気がする」といった感じではないかと思う。
もちろん、全く分からないという人も多い。

日本人は愚直な民族であった。
だが、現在は全くそうではない。
愚直の反対である「小賢しい」「ずる賢い」「小利口」な人間が多く、それを「コスパが良い」ともてはやすのが流行りである。

愚直な人は、大切なことではコスパとやらを全く重視しない。
日本人だけではないだろうが、現在の日本人は、大切なことでコスパを最重要視するようになり、大切なものを失ってしまった。
政治、医療、教育の分野は、愚直さが大切な場合が多いが、コスパ重視の政治家、医者、教育者が多くなってしまった。

それはともかく、引き寄せのコツなんて愚直そのものだ。
私が子供の頃、即座に庭を猫でいっぱいにするほど引き寄せが上手かったのは(猫の扱いなどは全く知らない)、愚直であったからで、一般的な意味では馬鹿な子供だった。

宗教家の五井昌久さんの本で読んだが、戦争中、五井さんが小学生の時、学校で服の配布が行われたが、もらえる条件が「今着ている服の他に服がないこと」だった。
五井さんは、もう1枚あったのでもらわなかったが、それで家に帰ったら「馬鹿」と怒られたらしい。
服をもらわなかったのは五井さんくらいのもので、明らかに裕福な家の子でももらっていたらしい。
学校の方でも、そんなものだと考え、ゆるくやっていたのだろうと思う。
こういう五井さんのような人が愚直と言うのだと思う。
私は宗教家としての五井さんのことはあまり知らないが、少なくとも子供の時は珍しい愚直な子供であったことが分かる。

もう1つ面白い例がある。
「魔法を使って治している」とまで言われた天才精神科医だったミルトン・エリクソンは子供の時、日本でいう中学生になるくらいまでだったかもしれないが、辞書を引く際、初めのページから・・・つまり、aから順番に見ていったらしい。
そもそもが、彼の家には、本といえば聖書と辞書しかなかったが、エリクソンは辞書を選び、辞書をずっと読んでいたという。
この両方の効果により、エリクソンは知識が多くなったと述べている。
まさにこれは、コスパは最悪である、愚直の極みのように感じる。

咲きたての花
AIアート510
「咲きたての花」
Kay


これら、愚直な人間、あるいは、愚直な人間のやることを馬鹿にする人間が圧倒的なのだと思う。日本でも。
だからこそ日本は終わりなのである。
逆に、これらを見て、敬いや憧れの気持ちが起こる人が多ければ人類は存続すると思う。

◆当記事と関連する書籍のご案内◆
(1)私の声はあなたとともに―ミルトン・エリクソンのいやしのストーリー
(2)天と地をつなぐ者
(3)氷川清話 付勝海舟伝
(4)トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇 (岩波文庫)
(5)白痴1 (光文社古典新訳文庫)

なぜ悪人は案外正しいのか?

志賀一雅博士の「よかった・ありがとう」呼吸の原理により、引き寄せの全ての謎が解けると、世間にある引き寄せ(「成功」とか「幸福」と表現されることも多いが)のほとんどが片手落ちであることも分かった。
YoiTubeでエックハルト・トールやブルース・リプトンといった引き寄せの巨匠のような人達の引き寄せの講義を見ると、非常に曖昧で、結局何をすれば良いのか分からないし、肝心なことが示されていないように思う。彼ら自身は分かっているのかもしれないが、西洋的価値観の中で生きている彼らは、うまく表現出来ないのかもしれない。

最も重要なことは、最近書いているように、「快感から喜びの表現」で、これにより、脳と宇宙が共鳴する。
まあ、このあたりの原理は全部すっ飛ばして「よかった・ありがとう」呼吸をすれば良いのだが、多くの人は、片手落ちである有名人の教えに乗せられて時間を何十年も無駄にする。
(スピリチュアルな有名人に比べ、志賀博士はあまり知られていない)

世の中では、「ツイてる」「幸せだ」といったプラスの言葉とか天国言葉というものを唱えれば幸福になると教えている人が人気があったりするが、それで成功した人は本当はいないと思う。
「ツイてる」と言えばつく(幸運に恵まれる)と言うが、それはない。そもそも、「ツイてる」と唱え続けることは無理があり、心が歪んでくると思う。
そんな無理を続けられる人であれば、他を蹴落として自分だけ金持ちになることも出来るのかもしれない。しかし、本人の心は本当は悲惨であるはずだ。でなければ、あんな芝居がかったセミナーをしたりはしない。

江戸末期の神道家、黒住宗忠が、とても洞察あることを言っていた。
それは「悪人は案外、良いところがある」である。
ただ、これを、「悪人は明るいから」と、誤った解釈をしていた書籍があった。
宗教家の五井昌久氏も「小善人になるくらいなら大悪人になれ」と言われたらしく、これは知恵ある言葉であるが、正しく解釈出来る人が滅多にいない。
悪人というのは、強引に欲しいものを奪って大いに快感を感じ、そして、喜びの雄叫びを上げる。
これはまさに、成功の黄金式である「快感から喜びの表現」に見事に倣っている。
そして、大陸の狩猟民族においては、この「強奪→快感→雄叫び」は全く正しいことで、弱い者から食べ物を奪い取って自分が生きるという弱肉強食の法則は、今の資本主義社会そのものだ。
ただ、弱肉強食が有効なのは物質次元だけであり、力があれば、若い間は確かに、数パーセントの幸せは得られる。
だが、人間の魂は、物質次元の力よりはるかに大きな・・・分かり易い表現をすれば、数千倍とか数万倍の力を持っている(実際はそれよりはるかに大きいと思うが)。
物質次元、資本主義次元に囚われると、極めてチャチなものしか得られず、歳を取ると惨めになり、死ぬ時に後悔する。どんな金持ちであっても・・・いや、金持ちであるほどだ。
いきなり全部言っても混乱するかもしれないので、徐々にIQを高めながら理解していただければと思う。

波の音
AIアート322
「波の音」
Kay


そのため(IQを上げるため)にも、とりあえず、「よかった・ありがとう」呼吸をすると良い。
「富がある・幸せだ」呼吸が合うなら、それで良い。
「よかった」と思いながら息を吸い、「ありがとう」と思いながら息を吐くのである。
「富がある」と思いながら息を吸い、「幸せだ」と思いながら息を吐くのである。
ちなみに、息を吸うだけで快感なのであるから、呼吸がいかに大切かが分かる。








Lemon問題の解決法

宗教家の五井昌久さんが、「小市民が一番良くない。小市民になるなら大悪人になれ」といったことを言われていたらしいが、これは、「所詮、人間にはエネルギーが必要だ」ということで、この「エネルギー」は、肉体エネルギーと共に、精神エネルギーのことである。
尚、この「大悪人」とは、高貴さやモラルのある悪人である。
悪の組織なんてのも、強く大きくなれば、自然にモラルが厳しくなるのである。
そして、リーダーは、たとえ悪の組織であっても、最もモラルがあり、高貴でなければ大勢を従わせることは出来ない。

だが、エネルギーがなければ、何も成しえないし、モラルを得ることも難しい。
ただ、エネルギーは本来、無限にある。それに同調すれば良いだけだ。
身体の健康とは、血液が良く流れ、神経の伝達が良いことだ。
言い換えれば、血液の循環規模や神経の伝達規模が大きいということだ。
そして、精神の健康とは、心が滞らず、良く流れることで、心が循環、あるいは、伝達する規模が大きいことだ。そのような人間を「器が大きい」と言う。

つまり、血液も心も、滞らず、スムーズに流れれば、身体も精神も健康で、身体や精神に宇宙エネルギーが流れ込み、いかなることも可能になる。

血液の流れに関しては、もちろん、運動をすることが大事だが、肩甲骨に秘密がある。
肩甲骨の内側あたりの2か所に「膏肓(こうこう)」という神経の塊・・・中国医学で言うツボがあり、それを刺激すると、血流が良くなって万病が治ると言われている。
その「膏肓」を刺激する最良の方法の1つが腕振り運動で、腕振り運動を根気よく行うと、難病奇病でも治ってしまうのはそのためである。
あるいは、血流の流れが悪くなってしまった箇所があれば、熱めの蒸しタオルを当てることで再び血が流れるように出来、それだけで驚くべき治療効果があることが多いようだ。

さて、心の問題である。
心がスムーズに流れるとは、こだわり、あるいは、執着がないことである。だが、これが人間には難しい。
また、こだわりがないつもりでも、実はこだわりだらけ、執着だらけという人は珍しくない。
本当にこだわりがないなら、大抵のことはうまくいっていて、お金もそれなりに入り、人間関係、家族関係、夫婦関係もうまくいっているはずであるから、そうでないなら、不必要なこだわりや執着があるのである。
米津玄師さんの『Lemon』の、「あれから思うように息ができない」という印象的なフレーズは、呼吸困難という意味ではなく、心がスムースに流れないということだ。呼吸は心と連動しているので、心が淀みなく流れないと、呼吸が安定せず、苦しいのである。
では、あの歌で、うまく息が出来るようになるためにはどうすれば良いだろう?
それは、受容的であること・・・運命を受け入れることだ。
そのことを、文豪や哲学者らが、非常に素晴らしいが、難しい言葉で言うから、我々はうまくいかないのだ。
例えば、「私は神の選択を尊重するのではなく、神の機会を尊重した」(イェイツ)なんて言われても、具体的にどうやれば良いのか分からない。
念仏やマントラを繰り返すのも良い方法だが、嫌々やるとストレスがたまり、かえって、心の流れも、さらには、血液の流れも悪くなり、体調を崩すこともある。

そこで、この世界は漫画で、我々は漫画のキャラクターであると、あっけらかんと思えば良いと思う。
そして、このこと(世界が漫画や劇のようなものであること)は、本当に賢い人達は皆知っている事実である。
漫画の作者は、キャラキターの気持ちになって漫画を描くのだから、漫画のキャラクターは作者の心を持っており、ある意味、作者とキャラクターは等しい。
だから、我々は、主役に相応しいように、シャンとしていれば、悪い展開になるはずがない。
『Lemon』のように、ウジウジせず(まあ、これがある意味楽しいのだが)、今の状況も漫画の展開と思ってシャンとすれば、次はもっと良い彼氏や彼女が出来るだろう。








怠け者の魔法の使い方

「魔法は存在する」と言ったら、変なヤツだと思われるだろう(笑)。
「魔法の定義の問題だ」と言ったところで、ほとんどの人は、寓話やアニメのイメージの魔法しか思い浮かばないだろう。
しかし、そんな魔法を、敢えて言葉で言えば、
「自分は働かずに幸せになる」
技術と言えると思う。
そして、幸せとは何かというと、良い想いをすることと言って良いと思う。
だから、魔法とは、俗っぽく言えば、
「自分は働かずに良い想いをする」
技術なのである。
軽薄な感じがするかもしれないが、大体、合っていると思う。
そして、私にとって、魔法のマスター、あるいは、魔法の師匠は、会ったことはないが、俳優だった丹波哲郎さんだ。

丹波さんは、戦争中、二等兵(最下級の兵隊)だった時、他の二等兵のように、上官の服の洗濯みたいなことはせず、その他のことも、あまりにも何もしないので、「何も出来ないやつ」として、何もしなくて良い暇な農場に送られ、終戦までのんびり平和に過ごした。その間も、わけあって、現地の女の子にモテまくったり、良い想いばかりしたようだ。
また、丹波さんは、サラリーマン時代は、本当に全く仕事をせず、出社と同時に遊びに行った。それでも、3年、給料をもらっていたという。
まあ、結果、会社はクビになったが、失業中、ゴロゴロしている時、友人に「怠け者でも務まる仕事はないか?」と言ったら、「それは俳優くらいのもんだろう」と言われ、「じゃあ、俳優だ」と俳優養成学校に入り、それで俳優になったらしい。
素人ながら、私は、丹波さんの演技がうまいとは思わない。はっきり言って大根と思うが、存在感は凄いのではないかと思う。

では、そんな丹波哲郎さんの魔法の神髄とは何か?
それは、本人が著書で「こだわらないこと」と明確に述べている。
「こだわらない」とは「執着しないこと」とも言えるが、具体的に、どんな態度が「こだわらない」「執着しない」と言えるだろう?
それが分かれば、丹波哲郎さんのように大成功するかどうかは分からないが、あなたも、丹波さんのように、良い想いが出来る。
これは、丹波さんを見習って、いつも良い想いばかりしている私が確信している。

「こだわる」という言葉には、良い意味もあるから難しい。
例えば、料理人が味にこだわるといった場合である。こんなこだわりは、あって然るべきかもしれない。
そこで、「こだわらない」という言葉を、もっと明確にしないといけない。
実は、「こだわらない」とは「欲張らない」ということなのだ。
給料が安過ぎてどうにもならないのならともかく、もっと欲しいとは思うが、十分やっていけるなら、満足することだ。
そういう、「欲張らない」ことを、「こだわらない」と言うのだ。
難しく言えば「足るを知る」だ。
ところで、「こだわらない」について、もう1つ、大切なことがある。
それは、「面子(めんつ)」を持たないことだ。
SF映画『スタートレック』に、こんな場面があった。
宇宙船USSエンタープライズは、ジェームズ・カークが長く船長を務めたが、カークが提督となって引退した後は、ミスター・スポックが船長になっていた。
だが、ある極めて難しい任務にUSSエンタープライズが挑む時、スポックは、カークに船長に戻るよう言うが、カークは、スポックの気持ちを思いやり、やや言葉を詰まらせた。
その時、スポックは言ったのである。
「バルカン星人に面子などないのです。より相応しい者がその役につくのが当然です」
バルカン星人は、運を呼ぶことについても、超論理的なのだ。

なぜ、「欲張らず」「面子を持たない」と運が良くなるかというと、丹波さんが言うには、「守護霊が守り易いから」だそうだ。
宗教家の五井昌久さんは、「上位の神には、なかなか願いが届かないので、自分の守護霊や守護神に守ってもらう方が良い」と、著書で述べられていた。
また、政木和三さんも、「力を付けるには、自分の生命体(第一生命体)を丸い円満なものとし、強い第二生命体、第三生命体を呼ぶことだ」と言われていた。
欲張らず、面子を持たないことで、高次の力が守り易い円満な人格になり、守護霊、守護神と言うかはともかく、ごく身近にいる神と和する(親しくする)ことが出来るのであると思う。








「神の手ゴール」をどう考えるか

正義感がなければ、悪魔に魂を売らないと引き寄せは出来ない。
ところが、子供に正義を裏切ることを教える親や教師が多い。
もちろん、そんな親や教師だって、その親に、正義を教えてもらえなかったのかもしれない。

ダスキンの経営理念の中に、
「自分に対しては、損と得があらば、損の道をゆくこと」
という言葉がある。
「自分に対しては」と書かれていることに、ちょっとにやっとする。
でないと、会社の損になってしまうことを勝手にやってしまう馬鹿がいるからだ。

ただ、私は、「損か得か」ではなく、「正義の道を行く」の方が良いと思う。
そして、正義の道は、大抵、自分に対しては損なものだ。

私が小学2年生の時、テストの採点された答案用紙を見たら、不正解なのに正解になっていたので、私は教師に報告した。
勇気を振り絞ったというよりは、褒められたかったのかもしれないと思う。
しかし、私の報告に、教師はブスっとした顔で、何も言わずに、丸をバツに付け直して減点しただけだった。
そりゃ、賢くない部類に入る生徒に間違いを指摘されたら気分が良くないだろう。
それなら、親に褒めてもらおうと思って、このことを親に言うと、こっちはモロに怒られた(笑)。
完全に馬鹿扱いだった。

そういえば、ちょっと似た、こんな話がある。
有名な宗教家の五井昌久さんが子供の時は、戦争中で、貧しい家が多かった。
そこである時、学校で、今着ているものの他に服がない者に、服が支給されるということがあった。
教師が、「今着ているより他に服がない者は手を挙げろ」と言った時、五井さんは、もう一着あることを思い出し、手を挙げなかった。
当然、服はもらえない。
五井さんが家に帰って、そのことを言うと、親には怒られ、きょうだいには馬鹿にされた。
そういえば、裕福な家の子も手を挙げていたことを、五井さんは思い出した。
その子は賢く、五井さんは馬鹿だということになるのだろう。

五井さんは最後まで正義を貫いたので、神様に選ばれたようだが、私はそうではなかった。
そして、五井さんには、当然ながら強力な引き寄せの能力があり、切羽詰まった時も、少しも慌てず、実際、必ず必要なものが与えられた。

アルゼンチンの英雄的サッカー選手マラドーナの、伝説的な「神の手ゴール」をご存じだろうか?
敵のゴール前、超人的な5人抜き(5人のディフェンスを次々かわした)の後、マラドーナがゴールを決めたのだが、実は、手でボールをゴールに押し込んでいた。
その時は審判に気付かれずにゴールになったが、後でビデオで見たら、明らかに手で押し込んでいた。
マラドーナが気付いていないはずがないが、もちろん、審判が認めているものを覆しても、誰も褒めてくれないどころか、強い非難を受ける可能性の方が高い。
サッカーは、特に当時は、スポーツではなく戦争である。
戦争に正々堂々などない。
マラドーナが間違っている訳ではない。
だから、後で、手で押し込んだことを指摘されたマラドーナは、おそらく堂々と、「神の手ゴールだ」と言い、この言葉が有名になった。
だが、私は、サッカーが嫌いになった。

野球でも、バッターが、ピッチャーの投球が自分の身体に当たっていないのに、当たったフリをしてデッドボールにすることがある。
それは、称賛はされないだろうが、愉快だと思われることはあっても、「卑怯だ」と非難されることは、まあ、ないと思う。
プロ・スポーツにおいて、勝利は義務であり責任なのであるから、立派とまでは言わないまでも、悪いとは言えないかもしれない。
しかし、どこかモヤモヤとはする(笑)。
すると、こんなことを思い出す。
『あしたのジョー』というボクシング漫画で、超一流ボクサーのカーロス・リベラが、レフェリーに見つからないよう、肘打ちで相手をKOし、矢吹丈は激怒して抗議すると、白木葉子は、
「カーロスだから出来る高等反則よ」
と言い、丈は嫌悪感を見せた。
あの不良少年、丈が、随分、クリーンになったものである。
いや、丈がなぜ怒ったのかは分かる気がする。
カーロスが肘打ちでKOした相手は、実力がカーロスよりずっと下だった。
強い相手なら強い相手で、卑怯だからやってはいけないが、弱い相手にやれば、それは、弱い者いじめだ。
マラドーナだって、もし、子供相手に「神の手ゴール」をやれば、間違いなく悪いことだ。

世の中は厳しく、きれいごとを言っていられない場合もあり。時には、ルールを外れても勝たねばならないこともある。
だが、それも限度がある。
その中でも、弱い者いじめだけはやってはならない。
そして、弱い者いじめをやるような者で、つまようじ1本でも引き寄せられる者はいないのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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