ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

二宮金次郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

真の高貴さ

日本人が、かつては非常に勤勉であったことを知らない若い世代が多くなってきたと思う。
そもそもが、実際に勤勉であったのは、概ね、現在の70代以上ではないかと思うのだ。
そして、日本人がなぜ勤勉であったのかというと、かつては全ての小学校に存在し、いまでも、多くの小学校に残る、二宮金次郎像が関係する。
薪を背負って運びながら本を読む、あの二宮金次郎像だ。
この像は、どんな状況下にあっても学問に励めよというメッセージと共に、しっかり働くこと、怠けないことを貴く感じさせるもので、これによって、日本の子供達が勤勉さを善とするよう教育したが、大人への影響も大きかったのだと思う。
そして、元々は大して有名でもなかった二宮金次郎を勤勉の象徴にして、日本人を働きバチにしたのは、何とアメリカだった。これはもうはっきりしているのだと思う。

ところで、第二次世界大戦前の日本人は、心を重んじる国民で、第二次世界大戦後とは、全く別物であると考えられている。
貧しい家でも、花屋で花を買うという、西洋ではおよそ考え難いことが普通に行われ、来日した西洋人を驚かせたほど、風流であった。
昭和の時代に大人気であった時代劇ドラマのために、大誤解がされているが、江戸時代は庶民文化が栄え、経済的にも発展し、治安も良かったといわれる。
武士による町人や農民の切り捨て御免などとんでもなく、そんなことをすれば殺人罪で、刑罰も重く、家は断絶させられたという研究者の話もある。
冤罪のことを考えると問題もあるが、今で言う刑務所である牢屋式は、入れられたら生きて帰れないことも少なくないほど厳しく、それが犯罪の抑止になっていたのも確かだったようである。

つまり、日本人は、第二次世界大戦を境に、全く別物に作り変えられているのである。
そこまではアメリカが行ったが、その後、学校やマスメディアに侵食し、それらを巧妙に支配下に置いて日本人を洗脳したのは旧ソ連で、後には、中国も日本人のマインドコントロールに深く参戦していると思われる。
それ(ソ連や中国による民主主義国家の国民洗脳)は、日本に先行してアメリカで行われており、旧ソ連ら社会主義国家の策略は、アメリカ人や日本人のモラルを破壊し、正常な判断力を奪うことだったと言えると思う。
忘れてはならないことは、モラルを持たないと、人間は、正常な判断、正常な思考が出来なくなることである。

自主的にモラルを取り戻せば、社会主義国家にマインドコントロールされていた長い暗闇も終わる。
アメリカに亡命した有名な旧ソ連の元スパイによれば、モラルを破壊する洗脳教育には15年から20年かかり、元に戻すのも同じくらいかかるらしい。
しかし、私はそうは思わない。
モラルとは、早い話が道徳的な行いをすることであるが、それよりも、モラルとは魂の声に従うことであり、魂の声に従う者が真の意味で高貴なのである。
高貴ということも、随分誤解されているかもしれないが、泣き言を言わないことが高貴なのであり、言い訳をしないことが高貴なのであり、弱い者いじめをしないことが高貴なのであり、欲張らないことが高貴なのだ。

アーサー王物語を読んでも高貴は分からないし、古事記も、改ざんでもされているのか、高貴さが失われているように見える。しかし、古事記の中で、庶民が貧しいことを自ら感じ取り、税を免除した天皇は高貴であったと思う。
私は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が最も高貴な作品であると思う。
『星の王子さま』や『かもめのジョナサン』もそうだと思うが、『銀河鉄道の夜』ほどではないと思う。
それで言えば、私はまだ、アンデルセンの『絵のない絵本』をお勧めしたい。
『銀河鉄道の夜』では、カンパネルラがモラルを持つ高貴な人間の象徴で、ザネリがモラルを失った者の象徴だ。現在の日本人は、ザネリばかりになり、カンパネルラはいなくなった。
そして、ジョバンニの状態にある者がいくらかはいる。
日本人をマインドコントロールしたアメリカも、旧ソ連も、中国も、宮沢賢治は見逃していた。
我々が全てを取り戻す鍵は、宮沢賢治が魂の声を聞いて書いたに違いない『銀河鉄道の夜』にあると思うのである。








元気な大悪人、クタクタの小善人

元気であれば人生は楽しいが、そもそも、人生というのは、元気で楽しく生きる以外に目的はない。
心身が元気であるに越したことはないが、心さえ元気であれば良い。
身体が元気でないと心も元気でないというが、心が元気であれば身体も元気になる。
身体と心は1つのものである。

ところで、空元気(カラ元気)というものがある。
上辺だけ、見せ掛けだけの元気で、特に、親が子に、年下の恋人の前で男が、父親が家族に、社長が社員に見せることが多い。
ところが、熱心に空元気を演じていると、案外に本当に元気になり、問題も解決してしまう。
本当は意気消沈したいところで元気に振舞うことは、意識的に行わなければならない。
心のままに、うな垂れて、肩を落とすのは、無意識な振る舞いである。

元気を出すには、習慣的に考えたり行動するのをやめ、意識的に考え、行動しなければならない。
だから、空元気、大いに結構なのである。
ただし、ちょっと空元気を出しても、大方の時間、心に流されてがっくりしているようではいけない。
あなたを乗っ取ろうとしている悪霊と戦うつもりで、ずっと空元気を出さないといけない。
頑張れば、確実に悪霊に勝てるのである。

ジェームズ・アレンらは、悪霊を退け、善霊にのみ心を開けと言ったが、それはどうだろう?
善霊に心を乗っ取られ、操られているなら、やっぱり生命エネルギーが奪われ、元気はなくなる。
まあ、この善霊は、あくまで喩えであるが、大事なことは、善か悪かではなく、意識的か無意識的かなのである。
意識的に生きている悪人って、元気で魅力的だろ?
ヒーローになれるくらいにね。

江夏豊さんという素晴らしい投手がいたが、彼の若い頃って、必ずしも評判は良くなかった。むしろ悪かった。
江夏さんが、まだ若手として注目され始めていたという頃、王、長嶋という国民的大スターと一緒のインタビューの時に時間に遅れて来て、この尊い2人を待たせてしまいながら、恐縮して謝ったりせず、「では、始めましょうか」とふてぶてしく言ったという話がある。
ところが、江夏さんというのは、実は小心者であるらしい。
だから、そのインタビューの時、内心はビクビクしていたのに、大きな意思の力で堂々と振舞ったのだろう。
そんな江夏さんだから、巨大なエネルギーを得ることが出来たのだが、いつからか、それをしなくなってしまったのだろうと思う。

武士は食わねど高楊枝と言うが、それは、常にそうでなければならない。
武士ではないが、木枯し紋次郎がいつも長い楊枝を咥えていたのは、自分では「癖ってもんでさあ」と言っていたが、案外、食えないことが多い紋次郎が、「ひもじいなあ」という習慣的な意識に流されそうになるのに逆らい、「俺はたっぷり食ってるぜ」という意識を起こすためのものであったのかもしれない。

二宮金次郎(二宮尊徳)の老子批判を思い出す。
「老子のように無為自然と言って、田畑を放置すれば、田畑は荒れ、家の手入れをしなければあばら家になるじゃないか」
まあ、老子や荘子の時代の民の生活の苦しさは半端ではなく、老子や荘子の無為自然というのは、やや違った意味もあったのだろうが、心に関しては、習慣、あるいは、世間の考えに流されてしまったら、力のない凡夫に成り果てる。
世間の教義や信念に、何でもかでも逆らえば良いってものではないが、飲み込まれてはならないのである。

ある、異常にモテる男がこう言っていた。
「世界中の女が俺のワイフ、俺のガールフレンド。そう思ったら楽しいじゃないか?」
それは、意識的な生き方なのである。
私は、初音ミクさんがお嫁様なら、それで十分であるが。









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心、身体、運命を動かすゼロの力

心も身体も、経済状態も運命も、無理に動かそうとすると、必ず反発を招き、まずい結果になる。
これらを動かせるのは「ゼロの力」だけである。
この力は、いったん身につければ易しいものなのに、誰もそれを修得していない。

ゼロの力は、息の止め方1つで発揮出来る。
ただし、普通に言う息の止め方では駄目だ。
普通は、息を止めるというと、喉の奥を筋肉で圧迫して気道を塞ぐだろう。
それは、水に潜るという緊急事態の場合は仕方がないが、緊張を起こすので、好ましくない方法だ。
正しい息の止め方は、吸いもせず、吐きもしない状態だ。
普通は、呼吸は意識しなくても自動的に行われるが、それに僅かな意思を介入させ、吸うことも、吐くことも止(や)めるのである。
これが、最小限・・・ゼロの力で呼吸を止(と)める方法である。

ところで、道家(老荘思想家)の著名な教師が、
「呼吸を制御するのは不自然でよろしくない。我々の流派では、呼吸をただ観察するのみである」
と著書に書かれていた。
それはそれで、立派な態度である。
老子や荘子の言う、無為自然の態度であるのだから。
ただ、それは聖人の態度なのである。
病気になっても、経済状態が窮乏していても、いじめられても、それを良きこととして、あるがままに見て作為しない・・・そんな超越した態度である。
聖人にとっては、健康と病気、富裕と貧窮、友愛と憎悪、友好と敵対は同じものなのだ。
それは確かに、理想の境地である。
だが、あなたはそれで良いのか?

二宮金次郎は、それを拒否した。
「老子よ。無為自然ばかりでは駄目なのだ。家は人が手を入れなければあばら家になる。畑は人が手入れしなければ荒れ放題だ。それでは人は生きていけない」

私は、老子も荘子も金次郎も、全て是とする。
それを成り立たせるのが、ゼロの力・・・作為していることも意識しない、限りなくゼロに近い、微かな力だ。
昨夜書いた、人差し指を立てることも、ゼロの力の1つだ。
今回は、呼吸停止の法を述べている。
好きな方を使えば良い。

ゼロの力で、吸うことも吐くことも止(や)めると、心は無意識に溶け込む。
なぜなら、普通は無意識に行われる呼吸に、心がごく微かな力で介入することで、無意識の抵抗を受けずに、心は無意識に入り込めるのだ。
これは、非常に高度な秘術である。
このように呼吸を止めれば、即座に魔法の力を発揮できる。
また、普段から、ゼロの力で呼吸を微かにしていれば、心は常に広大なる無意識と親しみ、無意識の中の英知にアクセス出来る。

あまり言葉を重ねて解説すると、複雑に感じてしまうので、この程度にするが、実際、シンプルなことなのである。
潜在意識の力や魔法の力を使うのに、難しい理屈はいらないのである。
なぜなら、その力は、人間の自然な力だからである。
だが、不自然な、異常な人間には、その力は無いに等しい。
ある程度の練習は必要かもしれないが、真摯にやれば、即座に出来る。
即ち、心を込めて人差し指で天を指したり、微かな呼吸をすることである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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