二宮尊徳は、「にのみやそんとく」と読み、本名である二宮金次郎の尊称だと思っていたら、それは間違いのようだ。
二宮尊徳は、「にのみやたかのり」と読み、これが本当の名前であったようだ。
尊徳の語録集である『二宮翁夜話』に面白いことが書かれていたのを覚えている。
尊徳は、老子の『無為自然』の教えを、こう批判している。
「田畑を無為自然に放置すれば荒れてしまい、家を無為自然で放置すればあばら家になる。だから、無為自然でなく、人が手を加えるのが正しい」
これは、老子に対する馬鹿な難癖のようにも見えるが、考える価値がある。
無為自然と怠惰とは違うが、確かに、それを混同する人は多い。
例えば、ジョセフ・マーフィーの潜在意識による成功法則について、「努力する必要がない」から、果ては、「努力してはいけない」と言いたがる人はいるものだ。
尊徳は、そんな人を批判したいのだろうし、それは正しい。
そもそも、無為自然が、怠惰であったり、無活動であるなら、最初から、田畑も家もないはずである。
ライオンが怠惰になって狩をしないことが不自然であるように、人間が無活動であるのは不自然だし、そうであれば病気を疑うべきだろう。
ただし、人間が怠惰になり易い性質を持っているのは確かである。
それは、ゲーテの『ファウスト』の『天上の序曲』で、神が明言している。
「人間は怠りがちだ」、「人間はすぐに絶対的な休息をしたがる」
これらは、疑いようがない。
『老子』には、怠惰になれなどとは書かれていない。
あえて、努力しろとか、がんばれとは書かれていないが、努力を含む活動を、「道」という究極の真理に基いてやれと書かれているのであり、その「道」とは何かを説いているのである。
加工されていない原木のような人間であれとは書かれているが、それは怠惰であれというのとは全然違う。
加工されていない原木のような人間とは、不自然でない人間、不自然な信念や願望を持っていない人間、天性を活かして生きている人間のことである。
尊徳は、人間が怠りがちで、怠けたがるものであることをよく知り、『老子』に怠惰が薦められているから怠けてもいいんだという考えにならないよう釘を刺したのだろう。
だが、歴史的に見ても、日本はもちろん、中国でも、老子や荘子の教えを、怠惰を勧める教え、虚無的になって考えることをやめる教えと誤解する人は非常に多かったし、現代でも誤解しているのが、むしろ、普通かもしれない。
誰かが、「荘子は諸刃の剣。危険な教えである」と言っていたが、その通りかもしれない。
老子、荘子を、虚無・怠惰の教えと誤解すれば破滅するが、正しく理解すれば魔力を超える力がある。
それは、念仏の教えや、ジョセフ・マーフィーの教えも同様である。
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二宮尊徳は、「にのみやたかのり」と読み、これが本当の名前であったようだ。
尊徳の語録集である『二宮翁夜話』に面白いことが書かれていたのを覚えている。
尊徳は、老子の『無為自然』の教えを、こう批判している。
「田畑を無為自然に放置すれば荒れてしまい、家を無為自然で放置すればあばら家になる。だから、無為自然でなく、人が手を加えるのが正しい」
これは、老子に対する馬鹿な難癖のようにも見えるが、考える価値がある。
無為自然と怠惰とは違うが、確かに、それを混同する人は多い。
例えば、ジョセフ・マーフィーの潜在意識による成功法則について、「努力する必要がない」から、果ては、「努力してはいけない」と言いたがる人はいるものだ。
尊徳は、そんな人を批判したいのだろうし、それは正しい。
そもそも、無為自然が、怠惰であったり、無活動であるなら、最初から、田畑も家もないはずである。
ライオンが怠惰になって狩をしないことが不自然であるように、人間が無活動であるのは不自然だし、そうであれば病気を疑うべきだろう。
ただし、人間が怠惰になり易い性質を持っているのは確かである。
それは、ゲーテの『ファウスト』の『天上の序曲』で、神が明言している。
「人間は怠りがちだ」、「人間はすぐに絶対的な休息をしたがる」
これらは、疑いようがない。
『老子』には、怠惰になれなどとは書かれていない。
あえて、努力しろとか、がんばれとは書かれていないが、努力を含む活動を、「道」という究極の真理に基いてやれと書かれているのであり、その「道」とは何かを説いているのである。
加工されていない原木のような人間であれとは書かれているが、それは怠惰であれというのとは全然違う。
加工されていない原木のような人間とは、不自然でない人間、不自然な信念や願望を持っていない人間、天性を活かして生きている人間のことである。
尊徳は、人間が怠りがちで、怠けたがるものであることをよく知り、『老子』に怠惰が薦められているから怠けてもいいんだという考えにならないよう釘を刺したのだろう。
だが、歴史的に見ても、日本はもちろん、中国でも、老子や荘子の教えを、怠惰を勧める教え、虚無的になって考えることをやめる教えと誤解する人は非常に多かったし、現代でも誤解しているのが、むしろ、普通かもしれない。
誰かが、「荘子は諸刃の剣。危険な教えである」と言っていたが、その通りかもしれない。
老子、荘子を、虚無・怠惰の教えと誤解すれば破滅するが、正しく理解すれば魔力を超える力がある。
それは、念仏の教えや、ジョセフ・マーフィーの教えも同様である。
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