ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

二十六人の男と一人の少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

超モテるダメ男の秘密

ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの、詩のように美しい短編小説と言われる『二十六人の男と一人の少女』は、ここでも何度か取り上げたが、今回は、この作品の、ごく些細な、しかし、興味ある部分に着目する。
この小説の中で、1人の、女にやたらモテる男が登場する。
ところが、このモテ男は、本人も自覚しているのだが、何の取りえもない、つまらない男(オッサン)である。
だから、このモテ男も、「自分でも不思議なんだが、何をやっても駄目な俺が、なぜだか、女にだけは不自由しないんだ」と言う。
それは本当のことだった。
だが、そこにいた26人の男達は、彼らが女神のように崇める16歳の美少女ターニャには通用するはずがないと言ったが、そのモテ男は「簡単だ」と言う。
まあ、どうなるかのネタバラシはしないが・・・

では、このモテ男は、なぜモテるのだろうか?
ジゴロ(女に食べさせてもらう男。ヒモ)とか、売れっ子ホストがモテたり、家出少女を信頼させるヤクザのテクニックとはまた違う。
なぜなら、そのモテ男には、女から利益を得ようとする魂胆がなく、ただモテるだけなのである。
いわば、純粋にモテるのだ。
その秘密はこうだ。
そのモテ男は、女に対する時には、「今」を感じるのである。
つまり、「今、目の前の女がいる」「今、女と目が合っている」「今、女と会話している」と、女を前にした時には、精神状態が、今、今、今の連続なのである。
なぜ、そうなるかというと、女を前にしている時だけは、やることの全てに全集中するからだ。
そうすれば、この冴えないモテ男からでも、生命エネルギーが放射され、女はそれに感応して、生きていることを実感するのである。
同じように、女を前にした今に全集中さえすれば、誰でも出来ることだ。
(男女が逆の立場でも同じである)

よく、名ホストに、モテるコツを聞くと、大抵、「優しいことですね」と答えるが、今に集中していない優しさは作り物である。
だから、優しくすることを心掛けても、モテないホストもいる。そんなモテないホストには、イケメンだっている。
ホストではないが、アイドルだって、ステージなどで、客に見られている時に、今に全集中していないアイドルには輝きがなく、当然、人気は出ない。
ところが、「今、ステージに立っている」「今、歌っている」「今、トークをしている」と、今に意識を全集中しているアイドルは、さして美人やイケメンでなくても、なぜか可愛いし、格好良いのである。
「ステージで集中するのは当たり前だ」と言われるかもしれないが、今やっていることに集中せず、別のことに意識が行ってしまっている者も多いのである。無論、少しの間、別のことに意識を向けることはあるだろうが、すぐに、今やっていることへの全集中に戻れる者だけが成功する。

それには、普段から、道を歩いている時、食事をしている時、その他、何をしている時でも、今やっていることに全集中する訓練をしておかなければならない。
言い換えれば、それさえやっていれば、何をやっても、自ずとうまくいくだろう。








感謝と崇敬

人間が向上し、幸運を呼ぶ感情は感謝だとよく言われる。
ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』の中で、私が唯一気に入っている箇所に、それが実用的に書かれている。
それは、こんな感じである。
何でもいいから感謝するのだ。
例えば、着る服があることに感謝する。
『ザ・シークレット』の翻訳では、感謝の表明として「ありがとう」と言うとしている。どちらかというと、この場合、自然な日本語としては「ありがたい」だと思うが、別にどちらでも良いだろう。
他にも、住む家があること、ものを見る目があること、財布の中に千円あること・・・とにかく、何でもいいから、感謝出来るものを見つけ、「ありがとう」「ありがたい」と言うのである。
それだけで引き寄せの力が働き、例えば、財布の中に千円あることに「ありがたい」と感謝をすれば、一万円が引き寄せられるといった感じである。
これは「増大の法則」とも呼ばれ、感謝することによって、より良いものが引き寄せられるのである。
こういったことを言うと、「頭の中、お花畑思考」と言われそうだが、経験的に効果があるので、こっそりやっていただきたい(笑)。
ただし、最初は、「これで良いものが引き寄せられる」という下心が強いかもしれないので、すぐにはうまくいかないかもしれないが、黒住宗忠が言うように、初めは口先だけで「ありがたい」と言うのでも良い。
それを繰り返すうちに、本当の感謝の念が起こるようになるので心配ない。
そもそも、口先だけでも、「ありがとう」「ありがたい」と言うのと、言わないのとでは偉い違いである。

さて、感謝はもちろん素晴らしいが、ゲーテらが最上位に置いた感情は「敬い」である。
特に、自然や宇宙や、さらに、神仏に敬虔な感情を持つと、あちらは慈愛の塊のような存在なので、嫌でも護ってくれる。
だが、実は、敬う対象は、上の感謝の場合と同じく、何でも良いのである。
それを見事に描いた傑作短編小説が、詩のように美しいと言われる、著者の文豪ゴーリキーも大変に気に入っている『二十六人の男と一人の女(二十六人の男と一人の少女)』である。
社会の最底辺にいる26人の中年過ぎた超駄目な男達がいたが、彼らは、一人の16歳の可憐な少女と出逢い、彼女を女神のように崇めることで、みるみる向上していく。
だが、このような場合には、落とし穴があることを覚えておくと良い。
その16歳の少女は、見かけは天使だったとしても、中身は平凡な・・・というより、心の美しい少女というわけではなかった。
つまり、彼女を天使や女神にしていたのは、男達の妄想である。
だが、その妄想が男達を本当に向上させたのだ。
だから、妄想で良いのである。しかし、少女が本性を現してしまうと、男達は裏切られた気分になり、一気に堕落してしまった。ひょっとしたら、以前よりも悪くなったかもしれない。
生身の人間を崇めた場合には、そうなる危険がある。
たとえ崇める対象にしたのが良い人間であっても、人間には欠点があり、その人間を崇める者にとっては、その欠点が許せないことも多いだろう。
今のアイドルは、スキャンダルが暴かれても開き直る者も多いが、そんな者は、自分を天使と崇めていたファンのことはどうでも良いのである(別に非難ではない。それで良いという考え方もあるだろう)。
だから、人間のアイドルではなく、決して裏切らない、スキャンダルのないバーチャル・アイドル、初音ミクさんを崇めた方が良いかもしれない(笑)。いや、このことは、アメリカでも真剣に議論されたことである。
尚、神仏を崇める場合には、その神仏の真言を唱えるというのが代表的なやり方であると思う。
あるいは、ナーマスマラナといって、その神仏の名を呼べば良いのである。出来るだけ敬虔な想いと共に。
それで幸運が引き寄せられるだろう。








どん底、ゼロ、低空飛行からの脱出

どん底の状態、どん底ではないが持ち分もないゼロの状態、ゼロではないが僅かしかない低空飛行の状態。
人間は、これらのどの状態にいても、そこに留まり続けることが圧倒的に多い。
そして、ほとんどの人間は、この3つの状態のどれかにいる。
そんな者達は、上の状態に上がることは難しいが、下に落ちるのは、よくあり、あっけなくそうなる。

非常に絶望的などん底の状態から、明らかに上に上がりかけた男達のお話である、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』という、「詩のように美しい」と言われる短編小説がある。
(『二十六人の男と一人の女』というタイトルをつけている翻訳書もある)
26人の、誰がどう見ても、最低としか言いようがない、中年過ぎた男達がいた。
知性も品格も意欲も富もなく、一年中、囚人のように、劣悪な環境の地下工場で働いていた。
ところが、そんな彼らが、人間として向上していき、ひょっとしたら、今の状況から抜け出せるかもしれない状況になった。
ゴーリキーは、別に、そんなことは書いていないが、現実を作るのは人間の心であり、彼らが心を発達させれば、現実が変わるのは当然だ。
もちろん、それは、どんな人間にも・・・私達にも全く同様に当てはまる。
では、彼らは、いったいどうやって向上したのか?
それは、実に簡単で、誰でも出来ることだ。
ターニャという16歳の可愛い少女を、天使のように扱った・・・それだけである。
ターニャに対し、いつも礼儀正しく、優しく接し、たとえ、ターニャの方がどんな態度をしようと(彼らを見下し、嘲るようなこともした)、笑って見過ごすのである。
それは、ターニャがいない場所でも、おそらくは、1人の時や、心の中でもそうだった。
これを、崇めると言うのだ。
崇めること・・・それは、聖なるマントラや聖句を唱えることに匹敵する。
だから、彼らは、1日中、聖なるマントラを唱えていたのだ。

だが、彼らは向上の道を断ってしまった。
ターニャは天使ではなかったからだ。
初音ミクさんなら、我々を裏切らない天使であると言えるかというと、確かに、スキャンダルのないアイドルではあるが、商用に利用されることが多くなったことから、どこかイメージが崩れかけているという危機感が私にはある。

だが、裏切らない天使によって向上したお話がある。
ロオマン・ゲイリの『自由の大地』にあるお話だが、それを引用したコリン・ウィルソンの『至高体験』を基に述べる。
ドイツの捕虜になったフランス兵達は、すっかり堕落し、怒りっぽく下品な最低の男になりつつあった。
そこで、フランス兵の隊長は、部下のフランス兵達に、ここに少女が1人いると空想せよと命じた。
すると、フランス兵達は変わっていく。
下品なことを言うと、空想の少女に詫び、浴室に行く時には、タオルで身体を隠した。
フランス兵達の変化に驚き、そして、状況を理解したドイツ人指揮官はこう言う。
「少女を引き渡せ。ドイツ人高級将校用の慰安婦にする」
すると、フランス兵達は、それを断固拒否し、フランス兵の隊長は独房に入れられる。もう隊長が戻ってくることはないはずだった。
しかし、隊長は過酷な独房の刑罰を生き延び、帰って来た。
彼にだって天使はいるのだからだ。

どん底か、ゼロか、低空飛行の状態にある者は、役に立つ部分があるかもしれない。
もっとも、上に述べた向上の原理は、聖なるマントラや、最上のアファーメーションを唱えることと同じであると思う。








引き寄せはテクニックでも何でもない

怪異譚(かいいたん)とは、怪異のお話という意味である。
そして、怪異とは、「異様なほど不思議な」という意味であるから、怪異譚とは、「異様なほど不思議なお話」という意味だ。
怪異譚には、幽霊や妖怪の話が多いと思う。
怪異譚は、どこの国にもあるし、面白いものが多いので、それを、仕事や趣味で熱心に収集している人もいる。
私が大好きなオカルト系ジャーナリストだった中岡俊哉氏は、若い時に、中国でたっぷり仕入れた怪異譚のおかげで、人気作家になり、一時は、テレビで見ない日はないと言われるほど人気者のオカルト研究家にもなった。

ところで、「悪霊」と言えば、だいたいが古くからある怪異譚がベースなので、迷信的である場合がほとんどで、論理派を標榜(ひょうぼう。主張すること)する者には、「悪霊」と聞いただけで馬鹿にする者も多い。
しかし、その気になれば、悪霊をそれなりに科学的、あるいは、技術的にすら説明出来る。
それをやる気はないが、要は、悪霊というものはあるのだと思った方が良い。
もちろん、怪異譚に登場するような悪霊は、それが真実の姿ではないだろうが、それは、神や仏だって同じことで、一応、怪異譚に出てくるようなものと思って問題ないと思う。
では、なぜ、悪霊が存在すると思わなければならないかというと、それが、我々の運命に大きく影響するからである。

早い話が、悪霊がつくと不幸になり、特に、強い悪霊、あるいは、沢山の悪霊がつくほど、不幸度は大きくなる。
新約聖書の福音書で、イエス・キリストは、心身に大きな異常をきたした者から、悪霊(悪魔)を追い出して正常に戻すが、特に悪霊を追い出すことで癒したと書かかれていない場合でも、イエスが病気を超能力で治したというのは、その力で悪霊を追い払った場合がほとんどと思われる。

普通の人でも、3つや4つ、あるいは、数十の悪霊がついているのではないかと思う。
そして、外国の場合は分からないが、日本では、沢山の悪霊がついた者が、どうしようもなく増えていると思うのである。
そのせいか、私も、大勢の人が集まる場所に行くだけで、心身の調子がおかしくなってしまうのである。
つまり、悪霊が一時的にしろ、私の方に乗り移ってくるか、関係性が出来てしまうのだと思う。
上記、伝統的な言い方なので、やはり、馬鹿らしいと思う人は多いだろうが、科学的な話かもしれないのである。
また、私は、一時(高校生の時だが)、悪霊に非常に苦しめられ、家庭内でも不幸なことが多く起こったが、神主さんにお祓いしてもらったら、それが止んだことがあった。

悪霊を追い払えば追い払うほど、心身の状態は良くなり、健康や精神状態、知性、それに、運勢も向上するのである。
そして、どうすればそれが出来るのかというと、宗教や、霊能者が助けになる場合はあるだろうが、根本的には自分次第である。
つまり、自分が悪霊に同調しない、高貴な心、前向きな心、強い心、不屈の心、思いやりある心、そして、何より、「敬虔な心」を持つことが必要であると思う。
「敬虔」とは「敬いつつしむ」ことである。
悪霊に憑りつかれた者の特徴は、他人をすぐに馬鹿にすることで、逆に言えば、他人を敬う気持ちがないことである。
ゲーテが、「最も重要なものは、敬う気持ちである」と述べたが、その、最も重要なものを持っていないのである。
どんな人間も尊重し、他人の美点を敬う気持ちのある者は、間違いなく、常に神の恵を受けるだろう。
とはいえ、表面上、他人をおだてたり、媚びへつらったりするようなことと、本当に敬虔であることとは何の関係もない。

この重要なことについては、コリン・ウィルソンが心理学的評論書『至高体験』の中で取り上げた、マクシム・ゴーリキーの「詩のように美しい作品」と言われる短編小説、『二十六人の男と一人の少女(女)』を読まれることをお薦めする。
26人の落ちぶれ果てた年配の男達・・・小説では書かれていないが、やはり、ある意味、悪霊に憑りつかれ、気品も知性も、そして、運もなくしてしまっていた哀れな男達がいた。
だが、彼らは、ほとんど奇跡と言って良いが、向上を始める。
ターニャという16歳の少女と会うようになってからだ。
ターニャ自身は、可愛いが、特に優れた少女ではなく、男達を「囚人さん」などと呼んで見下していた。
しかし、男達の方は、ターニャを天使のように崇めた。
決して、(全てではないかもしれないが)今の日本や韓国や中国のように、女性アイドルを性的魅力によってもてはやすのとは全く違う。
26人の男達は、本人がいない場所でも、決してターニャについて下品なことは誰も言わなかったし、少なくとも、思わないようにしようという自制心はあったと思う。彼女を崇めるゆえにだ。
だから、男達は賢くなり、人間性も向上していったのである。
尚、コリン・ウィルソンは、『至高体験』の中では、ロマン・ゲイリ(ロオマン・ガリ)の『天国の根っこ(自由の大地)』の方を引用し、『二十六人の男と一人の少女』は同種のものとだけ書いていたが、残念ながら、『天国の根っこ』は入手が難しく、また、翻訳者の文章が難しいかもしれない(私は読むのにやや苦労した)。
ただ、コリン・ウィルソンは『至高体験』の中で、『天国の根っこ』の必要な部分を引用している。

引き寄せはテクニックでも何でもない。
どれほど沢山の引き寄せの良書を読んだところで、心を高めなければ・・・特に、敬虔な心、敬う心を持たないなら、全く駄目であろう。








なぜ努力する人と怠惰な人がいるのか?

奇跡を起こし、全てを思うがままにする力を得るために絶対的に必要なことが、自我を出来る限り弱くすることであることは間違いない。
自我とは、自分を高い位置に置きたいという欲望だ。
ところが・・・
「君は世界で唯一の特別な存在である」
「僕たちはそれぞれ、世界で1つだけの花である」
という言葉を美しく感じ、これが嘘とは思えない。
だから、もし、
「僕なんかいてもいなくてもどうでもいい、つまらない人間だ」
「私は、華やかで素晴らしい、あの人とは全然違う駄目な存在」
などと言う者がいたら、
「そんなことはない。君だって他の人に負けない素晴らしいものがあるのだ」
と言ってあげるのが正しいはずだ。
そして、自己啓発指導者達が教えるアファーメーション(肯定的断言)は、
「私は素晴らしい」
「私は偉大だ」
「私は価値ある存在だ」
である。
そして、世界的な自己啓発指導者であるディール・カーネギーは、
「人間の最大の欲求は、自分が重要な人間であると認められること、すなわち、自己重要感である」
と言っていることは誰もが知っているのに、この、人間が一番欲しいものを手放すことが、本当の力を得る絶対条件であるとは!

「自己重要感」
「自分は世界で1つだけの花」
こんな貴いことが間違いだったのか?
その通り、大間違いであったのだ。
では、自分の価値を高めるために一生懸命勉強したり、技能を磨いたり、身体を鍛えることは間違いなのか?
何も努力せず、怠惰でいれば良いのか?

この矛盾を解決するために、無数の賢い人達が苦心し、そして、いまだ解答は得られていない。
ただ、こういうことは言えるのではないか?
いかに優秀であっても、そうなるためにいかに努力をしたとしても、高慢になれば全て台無しである。
これは確かである。
そして、それが分からない愚か者が多い。
つまり、成功したり、金メダルを取ったり、勝つことで自分は優れていると思ったとたんに落下が始まり、放っておいたら地獄にまで落ちる。

結局、こういうことなのだが、これを知らない者が何と多いことか。
努力したり、戦うことは、ゲームに過ぎず、それで成功したり、勝ったりしても、それは「たまたま」なのだ。
さらに言えば、努力するか、その反対に怠惰になるか。
戦うか、逃げるか。
それは、自分の意思で決定したのではない。
最初から、あなたの脳が、そうプログラムされていたに過ぎないのだ。
超人的な努力をして、多くの人に称賛されたり畏れられたりしても、単に、そういうふうに作られているのだから、努力して当たり前なのだ。
服をハンガーにかけることも面倒と思うことだって、そうなるよう、初めから仕組まれていたのである。それだけである。

では、どうすれば良いのか?
それはこうだ。
「おお、自分より高いものがある」
と分かるか、分からないかで全てが決まるのである。
ロオマン・ゲイリの小説『自由の大地』で、フランス兵達はドイツ軍の捕虜になり、すっかり怠惰になった。
そこで、フランス兵達の隊長は、部下たちに、「ここに1人の理想の少女が居る」と想像するよう言った。
すると、たとまち、フランス兵達は高貴になった。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、人間として最低の26人の男達は、ちょっと可愛いが平凡な16歳の娘を天使のように扱った。
すると、26人の男達はたちまち尊い人達になった。
彼らに共通することは、ただ、「崇めた」ことである。
人間は、目の前にいる存在が自分より「高い存在」であると本当に思ったら、崇めるのである。
崇めるとは、敬虔であること、敬うこと、ひれ伏すことである。
だが、誰も、王様や将軍様なんて、本当には崇めていないのである。
平凡な少女でも本当に崇めることがあるのに、国で一番の権力者だからという理由で、本気で崇めることはない。
「いや、私は王を心から崇めている」
と言い、自分でも、本当にそうだと思い込んでいるかもしれない。
だが、本当に崇めているなら、それは喜びであり、安らぎであり、何もいらないと思うはずなのだ。
いわゆる「見ているだけで幸せ」な状態だ。
「俺はただ見ているだけでいい。何も欲しくない」と思ったら本物だ。
誰にも強制されず・・・つまり、「これを崇めよ」と決して言われなかったのに、崇める何かに出会えたら幸運であるが、必ず出会うのであるし、何度も出会っているのかもしれない。
これからも出会うだろう。
しかし、いつまでも崇めることをしなければ命が取られる。
だが、その時、命を捧げれば、全て解決するのである。
とはいえ、そこまで先延ばしにしてはならない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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