私は、自信と勇気について、さらに悟った。
勇気というのは、自覚出来ない自信なのだと。
どんなに無茶と思えることも、それに挑戦することが正しいと感じる時は、心では自信がなくても、魂からの誘(いざな)いを感じているのだ。それなら、どうしたってうまくいく。
一方、魂からの誘いがないのに、無茶なことをやろうとすることを「匹夫の勇(血気にはやるばかりのつまらぬ勇)」と言うのだ。
1960年代の漫画『サイボーグ009』の中に、漫画史に残る名場面があり、2001年の3度目のアニメ化でも採用された。
それは、『サイボーグ009』のヒーローである009と、敵のミュートス・サイボーグ達の中でも最強のアポロとの1対1の対決の時だった。
009とアポロは、精神も身体も高速化する加速装置が組み込まれていて、人間には見えない高速で動きながらレーザー銃で撃ち合う中、至近距離でお互いレーザー銃の銃口を向け合ってしまう。このままでは相打ちで両方死ぬ。
その時、アポロがレーザー銃を捨て、009に言う。
「俺たちは優れた性能を持つサイボーグだ。その力で戦おう」
009は同意し、やはりレーザー銃を捨てる。
すると、アポロは自分の能力を009に教える。
その能力は、身体を高熱化し、触るものを焼き尽くすこと、さらに、手の平から岩をも溶かす熱線を発し、指先からは超高温のレーザー光線を発することが出来ることだった。
そして、アポロが009に問う。
「お前は他にどんな能力を持っているんだ?009」
それに対し、009は、
「後は・・・勇気だけだ」
と答える。
つまり、009には加速装置以外の能力はないのだ。
いわゆる、「格好いいセリフ」で、読者の印象に残るのだが、なぜ格好いいかというと、全く勝ち目がない戦いに009が堂々と男らしく挑もうとするからだろう。また、009が、先にリスクを取ったアポロの男らしさに応えた格好良さもあるだろう。
だが、結果、009はアポロのレーザー光線に胸を貫かれて海の中に沈む。
この場面に騙された日本人は膨大な数だ。
009は、勇気と言ったが、本当は自信もあったのだ。
それは、当時20代だったに違いない、作者の石ノ森章太郎さんも、魂では分かっていたが、心では分かっていなかったかもしれない。
だが、石ノ森章太郎さんは、魂の声を感じていなければ、あの場面は描けなかったはずだ。
漫画家、小説家などの作家で成功する人とは、魂の声を感じることが出来る人である。
つまり、上の場面で、009は、「結局は勝つ」という魂からの声を感じていたはずなのである。
なぜなら、思考が消えた人間は魂が味方し、魂は全知万能で、我々が知る中で最も近い概念では神(あるいは仏)だからだ。
009は、頭では無謀と分かっていてもレーザー銃を捨てた時、思考も一緒に捨てていた。
思考を持ったままではレーザー銃を捨てることは出来ない。
「捨てろ」
これが魂の指示である。

AIアート609
「花がある家につく妖精」
Kay
ゴーリキーの『二六人の男と一人の女(少女)』に、女たらしの元兵士の労働者(パン焼き工)が登場する。
彼は、何か取りえがあるわけではなく、多少、体躯が良いことを除けば駄目男だ。
だが、彼は女にはモテモテなのだ。
彼は言う。
「可笑しいじゃねえか。俺がウインク1つすれば女は俺にメロメロなんだ」
彼のようになりたければ、
「なぜか分からないが、俺のウインク1つで女はメロメロだ」
をマントラとして唱えればいいだけだ。ただし、脳が思考出来ずにそれを受け入れるほどの時間、唱えることが出来ればだ。
私も高校時代、ウインクこそしなかったが、それに似た自信があって、本当に微笑むだけで、どんな女の子とも仲良くなった。
きっと、小説か漫画に登場するモテモテ男のセリフが、丁度良いマントラになっていて、その言葉を昼となく夜となく繰り返したのだろう。
『二六人の男と一人の女(少女)』では、26人の男たちは、その元兵士の女たらしに、自分達が天使と崇める16歳の美少女ターニャは、お前などには落とせないと言い、それに対し、元兵士は、2週間で落とすと啖呵(たんか)を切った。
元兵士は、本当は心では自信がなく(ターニャは普通の手練手管が通用しそうにない子供だ)、面子と勢いで言ってしまったのかもしれないが、彼は「結局はうまくいく」と感じていたのだ。
「結局はうまくいく」
「どうしたってうまくいく」
これが魂の声であると同時に、魂を味方につけるマントラでもある。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)二十六人の男と一人の女(ゴーリキー)
(2)サイボーグ009(1) (石ノ森章太郎デジタル大全)
(3)トーチェ氏の心の法則
(4)信念の魔術(C・M・ブリストル)
(5)積極的考え方の力(ノーマン・V・ピール )
(6)神さまの周波数とシンクロする方法(志賀一雅)
勇気というのは、自覚出来ない自信なのだと。
どんなに無茶と思えることも、それに挑戦することが正しいと感じる時は、心では自信がなくても、魂からの誘(いざな)いを感じているのだ。それなら、どうしたってうまくいく。
一方、魂からの誘いがないのに、無茶なことをやろうとすることを「匹夫の勇(血気にはやるばかりのつまらぬ勇)」と言うのだ。
1960年代の漫画『サイボーグ009』の中に、漫画史に残る名場面があり、2001年の3度目のアニメ化でも採用された。
それは、『サイボーグ009』のヒーローである009と、敵のミュートス・サイボーグ達の中でも最強のアポロとの1対1の対決の時だった。
009とアポロは、精神も身体も高速化する加速装置が組み込まれていて、人間には見えない高速で動きながらレーザー銃で撃ち合う中、至近距離でお互いレーザー銃の銃口を向け合ってしまう。このままでは相打ちで両方死ぬ。
その時、アポロがレーザー銃を捨て、009に言う。
「俺たちは優れた性能を持つサイボーグだ。その力で戦おう」
009は同意し、やはりレーザー銃を捨てる。
すると、アポロは自分の能力を009に教える。
その能力は、身体を高熱化し、触るものを焼き尽くすこと、さらに、手の平から岩をも溶かす熱線を発し、指先からは超高温のレーザー光線を発することが出来ることだった。
そして、アポロが009に問う。
「お前は他にどんな能力を持っているんだ?009」
それに対し、009は、
「後は・・・勇気だけだ」
と答える。
つまり、009には加速装置以外の能力はないのだ。
いわゆる、「格好いいセリフ」で、読者の印象に残るのだが、なぜ格好いいかというと、全く勝ち目がない戦いに009が堂々と男らしく挑もうとするからだろう。また、009が、先にリスクを取ったアポロの男らしさに応えた格好良さもあるだろう。
だが、結果、009はアポロのレーザー光線に胸を貫かれて海の中に沈む。
この場面に騙された日本人は膨大な数だ。
009は、勇気と言ったが、本当は自信もあったのだ。
それは、当時20代だったに違いない、作者の石ノ森章太郎さんも、魂では分かっていたが、心では分かっていなかったかもしれない。
だが、石ノ森章太郎さんは、魂の声を感じていなければ、あの場面は描けなかったはずだ。
漫画家、小説家などの作家で成功する人とは、魂の声を感じることが出来る人である。
つまり、上の場面で、009は、「結局は勝つ」という魂からの声を感じていたはずなのである。
なぜなら、思考が消えた人間は魂が味方し、魂は全知万能で、我々が知る中で最も近い概念では神(あるいは仏)だからだ。
009は、頭では無謀と分かっていてもレーザー銃を捨てた時、思考も一緒に捨てていた。
思考を持ったままではレーザー銃を捨てることは出来ない。
「捨てろ」
これが魂の指示である。

AIアート609
「花がある家につく妖精」
Kay
ゴーリキーの『二六人の男と一人の女(少女)』に、女たらしの元兵士の労働者(パン焼き工)が登場する。
彼は、何か取りえがあるわけではなく、多少、体躯が良いことを除けば駄目男だ。
だが、彼は女にはモテモテなのだ。
彼は言う。
「可笑しいじゃねえか。俺がウインク1つすれば女は俺にメロメロなんだ」
彼のようになりたければ、
「なぜか分からないが、俺のウインク1つで女はメロメロだ」
をマントラとして唱えればいいだけだ。ただし、脳が思考出来ずにそれを受け入れるほどの時間、唱えることが出来ればだ。
私も高校時代、ウインクこそしなかったが、それに似た自信があって、本当に微笑むだけで、どんな女の子とも仲良くなった。
きっと、小説か漫画に登場するモテモテ男のセリフが、丁度良いマントラになっていて、その言葉を昼となく夜となく繰り返したのだろう。
『二六人の男と一人の女(少女)』では、26人の男たちは、その元兵士の女たらしに、自分達が天使と崇める16歳の美少女ターニャは、お前などには落とせないと言い、それに対し、元兵士は、2週間で落とすと啖呵(たんか)を切った。
元兵士は、本当は心では自信がなく(ターニャは普通の手練手管が通用しそうにない子供だ)、面子と勢いで言ってしまったのかもしれないが、彼は「結局はうまくいく」と感じていたのだ。
「結局はうまくいく」
「どうしたってうまくいく」
これが魂の声であると同時に、魂を味方につけるマントラでもある。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)二十六人の男と一人の女(ゴーリキー)
(2)サイボーグ009(1) (石ノ森章太郎デジタル大全)
(3)トーチェ氏の心の法則
(4)信念の魔術(C・M・ブリストル)
(5)積極的考え方の力(ノーマン・V・ピール )
(6)神さまの周波数とシンクロする方法(志賀一雅)