ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

中道

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第44章を一言で言えば「ほどほどに」

今回は『老子』第44章である。
この章を一言で言えば「ほどほどに」である。

実を言うと、「この章を一頃で言えば」なんて、どの章も同じになっても全く不思議はなく、もう何度か、同じものを使ったかもしれない。
それほど、『老子』の主張は一貫しており、しかも、とてもシンプルなのである。
だから、どれか1つの章がピンとくれば、後は全部分かるのだと思う。
ただ、同じことを、微妙に言葉を変えて言うのも、感じ方が変わって良いところがあると思うので、もう少し、あるいは、最後まで続けようと思う。
とにかく、『老子』は本来簡単である。
あなたが、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配下に置かれていなければね。

超実用的な哲学や行動原理が必要な時・・・たとえば、戦国時代や戦争中によく言われるのが、孔子や徳川家康が重要なことであると言った「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」や、「何事もほどほどに」ということである。
言い換えれば「極端はいけない」ということで、仏教ではそれを「中道を行く」と言うのである。
たとえば、コーヒーに砂糖を入れると美味しいと思ったとしても、入れてもせいぜい3個までで、10個も入れたら飲めたものではない。
あるいは、いくら酒が好きでも、意識不明になるまで飲むのは飲み過ぎである。
ところが、世の中には、限度を知らない者が多い・・・ではなく、「ほどほどに」が金言になるほど、やり過ぎてしまう者が多いのだ。
上司が失敗した部下を叱る時や、親がいたずらをして人に迷惑をかけた子供を怒るのだって、限度がある。
ところが、多くの者が、その限度を簡単に超えてしまい、弱い者を傷付け、駄目にしてしまうことが多い。
これらは、つまるところ、精神が未熟ということであるが、実のところは、悪の宇宙人のマインドコントロール装置のせいである。
我々は既に、数万年以上の修行をしているのに、生まれ変わるごとに記憶を消されてしまい、1から修行をしなくてはならない。
だが、人間は、たかだか数十年では、なかなか人格が高度になったりはしない。
しかし、地球上では、せいぜい数十年しか修行が出来ないのだ。
いわゆる人格者と言われる人達は、前世以前の記憶を、無意識にでも保持していて、過去生での修行の成果が現れているのである。
言い方を変えれば、自分が本当は何者であるかを少しでも思い出せば、ただちに人間性が向上し、自分にも周囲の人達にも好ましい存在になる。
それには、いつも言う通り、「私は誰か?」と自分に問うだけで良いのである。
ということは、「私は誰か?」と問うているのに、人格が幼稚であるのは、問い方が足りないのである。
1日10分も問うていないのではないかと思う。
というのは、1日10分も問うていれば、そこそこには向上するし、引き寄せの力もついているはずなのだからだ。
いわゆる発達障害というのは、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の影響をモロに受けている者の特徴と思う。
しかし、全ては「私は誰か?」と問うことで解決すると思う。








『老子』第23章を一言で言えば「自然に」

今回は『老子』第23章である。
この章を一言で言えば「自然に」である。
「自然な」・・・これほど美しいものはない。
『老子』の、特にこの第23章は難しく感じるかもしれないが、老子は難しいことなど言わない。
この章も、最も大切な「自然であれ」ということを書いているだけである。

昔、有名な007俳優であったショーン・コネリーがテレビCMの中で、
「美しいか。美しくないか。それが行動の基準だ」
と言うものがあったが、本当に美しいものは「自然さ」が備わっている。
だが、現代人はそれを忘れている。
現代人そのものが不自然になっているのだ。

たとえば、筋肉がついた逞しい男性の身体は美しい。
しかし、過度に筋肉がついた身体を見たことがあると思うが、あれが美しいことはない。
不自然な筋肉だからだ。
また、女性の大きな胸を美しいと感じる人は多いが、最近のアニメやゲームで、ヒロインの若い女性が異常に大きな胸をしていることがよくあるが、あれも、どう見ても、少しも美しくない。
だが、これらのものがもてはやされるのは、現代人の感覚が不自然になっているのである。
不自然になることを、老子は「道から外れる」という言い方をする。それは、荘子や列子でも同じだ。
現代人は、そして、現代の社会は、かなり道から外れてしまっている。

いくつかの『老子』の翻訳・・・たとえば岩波文庫では、この章の最後は、
「支配者に誠実さが足らなければ、人民から信用されないものだ」
とあるが、この文章は、それまでの文章の続きとしては唐突感が大きく、後世に付け加えられたとする説がある。
あるいは、この一文について、全く別の言葉による意訳をした翻訳もある。
だが、この「誠実」についても、本当の誠実とは自然なものだということを理解しておくと良い。
不自然な誠実は少しも美しくはなく、災難の元にもなりかねない。
それを表現したのが、シェイクスピアの『リア王』だ。
この作品(戯曲)で、長女と次女は、父のリア王をどれほど深く愛しているか美辞麗句を並べ、それを聞き愚かなリア王は喜んだ。
だが、三女は「私は当たり前に父上を愛しています。それ以上でも以下でもありません」と言い、リア王を怒らせた。
「当たり前に愛する」という自然さを、リア王が分からなくなっていたことが不幸の原因である。

自然さは、過激でも極端でもない。
仏教では、極端を排することを「中道」と言うらしい。
仏教だって、本来は自然さを尊ぶものなのに、形骸化、権威化した仏教は不自然さが多い。
だから、賢い人は極端を避ける。
過度なマッチョ、過度な巨乳も、避けるべき極端だ。
『バガヴァッド・ギーター』にも、「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎるのもよくない」とあるように、極端を避け、自然であることが良い。
頑張り過ぎるのもよくないが、怠け過ぎるのも当然よくない。
子供やペットを甘やかすのは、決して悪いことではないが、それにも限度があるということだ。
「徹底的にやる」ことが悪くないこともある。
しかし、それすら、限度を守って「徹底的にやる」ものである。
限度を超えた「徹底的」は災禍を起こすのである。

自然さ・・・この最も貴いことを忘れてはならない。








アリエッタ的な生き方

オペラにさして興味がなくても、子供の時から一度くらいは、会話をふざけてオペラの真似でやったことがあると思う。
例えば、
「どこ行くの?」
と言う時に、文字で書くと、
「山田さあん、どこ、行くの、ですかあー」
と半分歌うように言うようなものだ。
オペラで、セリフを旋律をつけて言う(歌う)のをレチタティーボ(「朗唱」の英語。イタリア語風にレチタティーヴォと言うことも多い)と言うようだ。
ただ、レチタティーボには、本当にセリフを会話言葉で言う場合もあるようである。
一方、アリアは、叙情的に歌い上げる長い歌で、詠唱と訳されるようだ。
アリアといえば、有名な『G線上のアリア(ジーせんじょうのアリア、または、ゲーせんじょうのアリア)』というヴァイオリンの独奏(ピアノ伴奏付)など、楽器の独奏曲に付けられたものにもあるが、オペラでは独唱の歌である。
レチタティーボとアリアの中間的なアリオーソというものがある。
また、短いアリアのことをアリエッタと言い、アリオーソもその意味でも使われるらしいが、アリオーソやアリエッタも楽器の演奏曲の中にもあり、我々音楽の素人にはなかなか難しい。

昨年、5月に東京のBunkamuraオーチャードホールで、そして、11月にパリの名門オペラ劇場シャトレ座で公演された、初音ミクをプリマドンナに起用したオペラ『THE END』に対し、現地のオペラファンが、「ちゃんとしたオペラの形式になっていた」と言っていたが、オペラなのだから当たり前なのであるが、これは、「しっかりとしたオペラ作品だった」という意味と思う。
この作品、登場人物は、初音ミクと、謎の訪問者の女、そして、喋る変な(?)動物の、2人と一匹しか登場せず、オペラでいう、アンサンブル(重唱)やコーラス(合唱)はない。
しかし、序曲からはじまり、多くのレチタティーボと4つのアリア、1つのアリオーソ、そして、2つのインタールード(間奏曲)から構成させる素晴らしいオペラ作品だったと思う。
初音ミクのようなヤマハのVOCALOID技術を使ったボーカロイドは、言葉を普通に話すことが難しく、旋律的な言い方の方が自然に聴こえるらしいので、本当のところ、初音ミクはオペラ向きなのかもしれない。
そして、私は、『THE END』のおかげで、オペラの構成について少し分かるようになってしまった。有り難いことである。

先程も述べたが、アリオーソ、または、アリエッタという、レチタティーボとアリアの中間的な歌、あるいは、短いアリアといった意味の独唱がある。
どちらかというと、アリオーソという言葉は、バッハのアリオーソなど、楽器の演奏曲の名でよく聞くかもしれない。
ところで、オペラでなくても良いと思うが、セリフ調の歌と長い詠唱の中間のような歌が美しいものになるのではないかという気がする。
小説にも、短編とも長編ともいえない、中編のようなものが丁度良いと思うことがある。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』は、分類するなら短編であるが、あれらを中編と言っても良いのではないかと思う。

丁度良いものを、徹していないという意味で、中途半端と言うこともある。
また、しっかりしていないことを「いい加減」などと言う。
ところで、「いい加減」という言葉は、「良い加減」と見れば、実は好ましい言葉なのだろう。
面白いことに、叱責する言葉で、
「いい加減なやつだ」
「いい加減にしなさい」
といったふうに、「いい加減」が、「中途半端」と「良い加減」という、違う意味で使われていることがある。
「いい加減なやつだ」の「いい加減」は「中途半端」で、「いい加減にしなさい」の「いい加減」は「良い加減」だ。

仏教の本質の教えは、極端に走らない中道を説くというもので、これが「良い加減」のことを言うのだと思う。
お釈迦様は、29歳まで王子様として贅沢三昧で暮らし、出家して修行者になってからは長期の断食といった苦行をするという、両極端をやってみたところ、結局のところ、どちらも良くはなく、丁度良い「良い加減」の中道に真理があると悟ったのだという。
中道について、難しいことを言う仏教の専門家もいる。
「百尺竿頭に一歩を進むめたところに中道があるのじゃ」
など、ややこしいことを言わないで欲しいものだ。
中道とは、求めて得られるものではない。
『荘子』が言うように、余計な名誉や利益を求めず無になれば、つまり、無為自然であれば、自ずと中道、つまり、「良い加減」になる。
余計なものを求めないとは、天が与えてくれるもので満足するということだ。
こちらが無であれば、元々が中道にいて、丁度よいのである。

『THE END』の中の、『声と言葉のアリア』は、アリアなのだが、レチタティーボ的な、あるいは、アリオーソ的なアリアだったように思う。
最初は静かに始まり、次第に叙情的になり、激しい打楽器の音が情感を高め、魂を揺さぶり、聴いている私を死の世界に誘う。
死を知り、無になれば、自然に中道・・・良い加減になる。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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