ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

中島敦

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

思考を消した人間の姿

思考を消せば全知全能である。
どんな困難な問題を抱えている人でも、「私は誰か?」と自分に問うことで思考を消せば、問題は無かったことになる。
しかし、それを納得させることは非常に難しい。
なぜ難しいのかというと、思考をしているからだ(笑)。
だが、魂に導かれて「私は誰か?」と問うようになっても、継続が難しい。
なぜ難しいのかというと、やはり思考をするからなのである。

ところで、では、いつから思考するようになるのだろう?
正確には分からないが、私の場合は、小学3年生の途中からと分かっている。
小学2年生の時、こんなことがあったからだ。
学年の最後のあたりだったが、担任教師が、クラスメイト全員をランキング付けしたことがあった。
総合成績ということと思うが、1クラス40人なら、1番から40番まで順位をつけ、それをクラスの中で発表した。
「1番は〇〇君」
と発表されると、皆が拍手した。
2番も3番も拍手された。
私は下の方だったと思うが、やはり拍手された。
今の時代、こんなことをすれば、その教師や学校は非難されるかもしれない。
下の方の子が劣等感を感じて可哀そうだとか、順位付けの害悪が主張されるなどだろう。
ところが、私は、そんな順位に何も感じていなかったのだ。
「あいつより下とは納得がいかない」だの「あの子に勝って嬉しい」だのは全くなかった。
本当にどうでも良かったのである。

朝の挨拶
AIアート175
「朝の挨拶」
Kay


『荘子』にこう書かれている。
「真の知恵者は古代人であった。彼らは区別をしなかった。やがて区別をするようにはなったが優劣はつけなかった。だが、優劣をつけるようになると愚かになった」
思考とは、区別をすることから始まる。
そして、思考が大きくなると優劣をつけるようになる。
小学2年生の時の私は、区別はするが優劣はつけなかった。
たとえば、背が高い子と低い子がいたり、駆けっこが速い子がいれば遅い子がいることは分かったが、背が高い方が良いとか、駆けっこが速い方が偉いといった考えは全くなかった。
すでに親や教師に多くの偏見を叩きこまれてはいたが、区別はしても差別はしなかったのだ。
そんな当時の私は、大人の基準で言えば奇跡と言うしかないことを自然に起こしていた。
ただし、4歳頃には、叩き込まれた偏見のせいで自在に世界を動かすほどの力はなかったが。

「私は誰か?」と自分に問い、思考が消えていくと、優劣をつけなくなる。
そして、さらに進めば、区別をつけなくなる。
中島敦の『名人伝』で、究極の進歩を遂げた弓の名人は言う。
「我と彼の区別がつかない。鼻と口の区別がつかない。善と悪の区別がつかない」
書かれてはいないが、この名人は全知全能である。
思考を消した人間について、ここまで端的に描いた文学はそうはないと思う(ただし、このお話は中国の『列子』『戦国策』の引用である)。
この弓の名人が、どんな修行をしたかは書かれていない。
だが、「私は誰か?」と自分に問う以上の修行はない。








エア修行のすすめ

エア・ギターというものをご存知と思う。
早い話が、「ギターを弾いているフリ」で、誰でもすぐに出来る。
ミュージシャンの中にも、「ギターが弾けない」からという理由で、ステージでエア・ギターを行う人もいる。
しかし、エア・ギターそのものを独立したものとして取り組み、高度なパフォーマンスを見せるアーティストもいる。
そして、近年では、エア・ギターの競技会も盛んで、1996年からは世界大会も実施されているが、実際にはギターが全く弾けないアーティストが優勝したこともある。

本来はエア・ボクシングと言っても良いと思われる一人で行うボクシングは、一般にはシャドー・ボクシングと呼ばれているが、シャドー・ボクシングの本当の効果は未知なものであると思うのだ。
そして、近年、国内では、エア・ボクシングの競技会も実施されるようになり、この競技に参加する人も増え、プロ化もされているようだ。おそらく、世界に広がるのではないかと私は思う。

脳科学者の茂木健一郎氏は、英語上達の重要な訓練として「エア・英会話」を挙げていたが、エア、つまり、仮想で行うことは、現実にも効果を現すのである。
いかなることに関しても、エア行為は上達、進歩に有益であるが、実は、想像以上の効果があるのである。
私は、ある高名な空手家が、実際に巻藁(藁で棒を巻いた、正拳などを打ちつける道具)やサンドバッグを叩く訓練をする者と、空突きをする者に分けてやらせたところ、空突きをしたグループの方が上達していたということを著書に書いているのを見たことがある。

エアー・XXXXXは、「ごっこ」とも言えるが、「ごっこ」は人間だけが行えるものであるだけでなく、人間の無限の可能性を示すものであることに気付いているだろうか?
『列子』や、中島敦の『名人伝』に登場する弓の名人は、手に何も持たないまま、弓矢を射る格好をするだけで、空を飛ぶ鳥が落ちて来る。
弓の名人は、訪ねて来た弓の名手に対し、「お前は、射の射は知っているが、不射の射を知らない」と言う。
これは、エア弓道を超えたサイコ(精神)弓道である。
神を目指す者は、これを、ただのお伽噺と捉えず、その深い意味を知るべきと思う。

仙道家の高藤聡一郎氏は、著書の中で、信憑性のある話として、ある不思議な老僧のことを取り上げている。
金槌で釘を打ち込むのも難しい堅い木に、その老僧は、指1本で軽く押さえるだけで釘を入れてしまった。
その僧に、どうやってやるのかと尋ねると、修行方法だけ教えてくれた。
その僧は、実は修行らしきことは全くしないのだが、瞑想中に、大木を地面から引き抜くことをずっと想像していたら、ある時、出来そうな気がして、実際にやってみたら出来たという。
次は、大岩を持ち上げることを想像してみたら、やはり出来た。
それで今は、山を持ち上げることを考えているのだという。
想像とはいえ、山を持ち上げるほどの者にとって、釘を指で差し込むことなど、あまりに容易いのである。
私も、想像で高い屋根に飛び上がる行をやっているが、やはり、驚くほど身軽になったのである。
また、国内でも、想像で滝行をすることを勧める霊能者もおり、僅かな日数、実際に滝に打たれるより、想像で毎日やった方が余程良いと言う。

私が常にお奨めしている、人を超える法は、腕振り運動や、心の微かな声の呪文であるが、このエア修行も、是非追加したい。
別にやらなくても良いが、やれば、超人になる速さや到達するレベルが高まることは間違いないだろう。
尚、ごく基本として行うべきこととしては、少食(極端なものではなく、満腹するまで食べて自分を甘やかさないこと)と、規則正しい生活(なるべく早い同じ時刻に起きる)がある。
基本だけですら確実に実施すれば、どう考えても駄目な人間に留まるはずはないのである。
まして、その上の、腕振り運動や、心の微かな声の呪文をやれば、人を超えるだろう。
そして、エア修行に励むことで超人になれる。
だが、まずはエア行為を楽しむと良いと思う。
『僕は友達が少ない』に登場する美少女、三日月夜空が、小鷹に出会うまでは頻繁に行っていた「エア友達」との会話は、実は彼女を特殊な存在に高めたことに注意しなければならない。









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「心を込めろ」なんて簡単に言う者はただの馬鹿である

「心を込める」という言葉があるが、これほど分からない言葉もない。
例えば、「心を込めた料理」と言うことがあるが、豪華でも心の込もっていない料理もあれば、ごく質素でも心が込められた料理もあるだろう。
我々は「心の込もったサービス」を求めるが、それは、本来は、単に「品質が高い」とか「上手い」サービスではないはずだ。
心の中では、「この下賎(身分の卑しいこと)の者が!」と思いながら、高品質なサービスをすることだってできるのだが、そんなサービスをされるのは嫌だろう。

「心を込めて挨拶しなさい」だの、「心を込めて掃除しろ」だの言う者は馬鹿に決まっている。
だって、心を込めるなんてものは強制されてできるものじゃないなんてことは「馬鹿でも分かる」ことじゃないか?

「愛しているよ」と女の子に言うと、彼女は「今の、心が込もってない」と文句を言う。
そりゃきみぃ、あんたが、心を込めて「愛してる」って言われるに値しないってだけのことじゃないのかね?

「心を込める」も「気持ちを込める」も同じだろう。
映画『燃えよドラゴン』で、少林寺の拳法の達人リーが、弟子の少年に稽古をつける場面があった。
「蹴ってみろ」
リーが弟子に命じると、弟子はリーに向かってハイキックを繰り出して見せる。
するとリーは、険しい顔で、少年を見下しながら、
「何だ今のは?」
と詰め寄る。
「気持ちを込めるんだ!もう一度!」
とリーに言われた少年は、あきらかに腹を立てた様子で、勢いを増したキックを出す。
するとリーは、より蔑んだ表情でまた弟子に詰め寄る。
「込めろと言ったのは『気持ち』だ。『怒り』じゃない」
そして、弟子に繰り返し、蹴りをやらせるが、その中に良い蹴りがあった。
そこでリーは、少し微笑み、
「どんな感じがした?」
と尋ねると、弟子は、「えーっと・・・」と考える。
すると、リーは少年の頭を手ではたき、
「考えるんじゃない!感じるんだ!」
と戒める。
西洋人から見れば、「東洋の神秘」とか「曖昧で訳の分からない東洋の問答」だ。
いや、今や、我々東洋人にとっても、ほとんど同じである。

どうだろう?
難しいだろう?
こんな難しいことを、いとも簡単なように、「心を込めろ」なんて言うのは、やっぱり馬鹿なことなんだ。

心の込もった行いとは、どんなものだろう?
それを荘子は「無為の為」と言ったのだ。
「行為の無い行為」という意味であるから、言葉の上では明らかに矛盾だ。
そして、「無為の為」なんて言われたって、分かりゃしない。
この「無為の為」を説明する「馬鹿な先生」は多い。
そんな「センセー」は、やれ、存在論だの、量子論だの、心理学だの難しいことを言って、無為を「説明した気になって」自己満足しているが、誰も分からない。
分からないのは、聞いている者が馬鹿だからとでも言いたげだが、言ってる本人が分かっていないだけのことなのだ。

だが、『荘子』を、「心を込めて」読むことは無理としても、「真面目に」読めばだんだん分かってくる。
いや、正しくは、「無心に」読めばだ。
いやいや、この「無心に」こそが、「心を込める」ってことなのだ。
心ってのは、込めちゃうと消えちゃうのだ。いや、消すことが込めることだ。

『列子』にも似た話があるが、中島敦の『名人伝』に、「無為の為」を示す良いものがある。
天下一の弓の名人を目指す男が、修行を積み、いよいよ師と対決したら、全く互角で勝負はつかずに終り、2人は抱き合ってお互いの技量を讃える。しかし、この時、師は不吉なことを言う。
「我らの技など、真の名人に比べれば児戯のごとし」
びっくりした弟子は、すぐに師に言われた真の名人を訪ねる。
天下一を熱望するこの男は、名人の前ですぐさま矢を射て、自慢の腕を披露する。
名人は、「まあ、そこそこはやるようじゃな」と言う。
そこで、名人は、彼を、崖のてっぺんの、ぐらぐらする岩の上で矢を射てみろと言う。
しかし、男はそこに立つと、恐くて、へたり込んでしまう。
そこで、名人が代わってそこに立ったが、名人は弓を持っていない。
しかし、名人が矢を射るふりをしただけで、鳥が空から落ちてきた。
あまりの技量の差を思い知り平伏する男に、名人は言う。
「お前は射の射は知っていても、不射の射は知らぬ」

法然は、念仏をひたすら数多く唱えることを薦めた。法然自身、1日6万回唱えたという。
しかし、弟子の親鸞は、心を込めてただ一度唱えさえすれば良いと言った。
法然は一応、親鸞のような考えを否定し、「私はそんなことは言っておらぬ」と戒めた。
やはり、「心を込めて念仏を唱えること」は難しい。
それなら、空念仏でも数多く唱えれば、その中で心が込もることもあろう。
法然や、そして、親鸞自身、そう考えたのかもしれないのだ。

本当に心を込めるとは、次のようなものだ。
あなたが本当に愛している人が目の前にいたとしよう。
あなたは、「愛している」と言ってはならない。
しかし、相手を見ていたら、自然に、「愛してる」という言葉が出てきたとする。
それが、心の込もった「愛している」だ。
心が込もった行為や言葉とは、自然に出てくる行為や言葉なのだ。
これを無為自然と言う。









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武蔵は剣を忘れれば良かったのだ

プロ野球やプロサッカーには、熱狂的なファンがいることはご存知と思うが、それらのスポーツに全く関心を持たない者はもっと多い。
私の知り合いの男性が、好きな女性を野球の観戦に誘ったことがあった。彼は、熱狂的な阪神ファンだったが、その女性はプロ野球に全く興味がなかった。この男性のアプローチが最悪だということはお分かりだろう?この男性は、その女性の趣味を聞いて、それに合わせるべきだったが、仮にそうしたとしても、今度は男性の方が退屈だったろう。
ある年配の男性は、孫娘に好かれようとして、孫娘が好きなアニメのプリキュアを好きなフリをしようとしたが、興味が無いのでさっぱり憶えられない。そして、そのわざとらしいプリキュアファン振りは、孫娘に嫌われてしまう。
一方、別の年配の男性は、孫娘に、自分の趣味を押し付けようとしたが、彼としては善意だった。しかし、孫娘はそれに全く関心が無かったので、おじいさんから距離を置くようになった。

ある父親は、子供達になぜ嫌われているのか全く理解できなかった。欲しいものは買ってあげているし、個性も尊重してあげているつもりだ。自分はさっぱり好きではないが、娘がビジュアル系ロックバンドの熱狂的ファンであることも容認している。
しかし、その父親は、自分の趣味のことを、子供達に延々と熱く語って聞かせる癖があった。父親としては、それは好感を持たれると思っているのだが、それが嫌われるほぼ唯一の理由だった。

小学校などでも、子供達は、同じ趣味を持った者同士がグループになる。
しかし、自分と同じ趣味を持った子供がいなければ、その子は、どこかのグループの子達が持っている趣味に合わせて仲間に入れてもらうしかないが、嫌々やっている雰囲気はグループの子達に伝わるので、いずれ仲間外れにされるだろう。
あるいは、その子が、他の子達の趣味に合わせるのがどうしても嫌なら、最初から友達は出来ない。
アンデルセンは、子供の頃から、神話と人形遊びが趣味だったが、そんな趣味を持った男の子は1人もおらず、当然のことながら友達はいなかった。アンデルセンの家には、1冊だけだったが、文学の本があったが、他の子達の家には物語の本なんて1冊もなかったのだ。

ルイス・キャロルという数学者は、友達といえば13歳以下の少女ばかりで、度々、彼女達を招いてお茶会を開き、面白いお話をしたり、一緒に遊んだ。そして、キャロルが少女達に出した手紙は10万通とも言われる。しかし、見つかった限りでは、男の子に宛てた手紙は1通だけで、しかも、その内容は「私から手紙をもらえなくてもがっかりしてはいけない」といった、実は男の子に手紙を出したくない言い訳だった。
ただ、キャロルは別にロリコンではなく、少女達と仲良くなるためにおかしなお話を作ったのではない。もしそうなら、あれほど多くの少女達の友達は出来なかった。
私もある時期、どういうわけか、毎日、家に小学生の女の子達が遊びに来ることがあったが、その時、キャロルって、すごい忍耐があったのではないかと思ったものだ。正直、遊び相手になるのは大変だった。

人間というのは、プログラミングされたロボットに過ぎないが、プログラミングは生まれる前に組み込まれ、生まれてからは環境によって条件付けられる。趣味というのも、生まれつきのプログラミングと、生きている中での条件付けにより、決まったり、変わったりする。
一生、あまり変わらない者もいれば、頻繁に変わる者もいる。
私は、ひどく頻繁に変わる方だ。昨日までは熱中していたことも、今日にはすっかり醒めているということもよくあった。
そんなプログラミングなのだろう。
宮本武蔵という人は、一生、剣術を趣味とするようプログラミングされていたようだ。剣術が趣味だと言ったら悪いかもしれないが、それも趣味であることには違いない。

ところで、中島敦の『名人伝』や、それとほぼ同じお話が『列子』の中にあるが、その中に、長い修行の末、弓の天下一の名人になった男が登場する。
その男が、家の中にある、あるものを見て思う。
「これはなんだろう?どこかで見たことがあるような気がするが・・・思い出せない」
それは弓だった。
彼は、悟りを開いていた。善と悪の区別なく、我と彼の区別は、既に消失していた。
忘れてしまう程度のものであるからには、弓だって、武蔵の剣術同様、趣味に過ぎない。
趣味があるうちは、悟りからは遠く、この世界でもがき苦しむしかないのである。
武蔵は、剣、あるいは、木刀を見て、「これはいったい何だろう?」と思うようになっていれば、自慢話ばかりして嫌われるじいさんにならなかったかもしれない。
ただ、武蔵は、そんな自分の愚かさを自覚してもいた。養子に迎えた息子には、剣術は一切教えず学問をさせ、息子は安楽に生きることができたのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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