ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

一休

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

今のオリンピックはバベルの塔

一休さんは、自分の遺言書の包みを弟子に渡し、「本当に困った時に開けよ」と言った。
現在の、新型コロナウイルスの流行は、人によってはどうにもならないほど困っているだろうから、一休さんの遺言書を見たいかもしれない。
そして、後に弟子が本当に深刻な状況に陥った時、それを開くと、そこには、「心配するな、なんとかなる」と書かれていたという。
まあ、風説かもしれないが、一休さんらしいとも思える。

ビートルズの『レット・イット・ビー』も、だいたいそんな歌だと思う。
「僕が困難に陥った時、聖母マリアが現れ、尊い言葉を告げられた。レット・イット・ビー(あるがままに)と」
また、荘子の言う「無為自然」も、「自然のなりゆきにまかせ、何もするな」であり、全く同じことと思う。
賢者が「あるがままに」と教えた例なら、他にも沢山ある。

しかし、サイフの中に金がない人に対して「あるがままに」などと言うのは、親切でも適切でもない。
日本政府は、国民に現金支給を検討していると言うが、それも、5万円とかせいぜい10万円といったケチな話・・・それどころか、支給ではなく貸すだけとかで、「ないよりはマシ」とすら思えない人も多いに違いない。
イギリスでは、ジョンソン首相が、これを機にベーシック・インカム・・・つまり、国民に無条件で一定額を恒常的に支給する制度の導入に肯定的であると言う。
凄い肩書をいっぱい持つ、超優秀なある学者が、何かの本で、日本は既にベーシック・インカム状態と書かれていたと記憶している。しかし、ちっともそんな感じがしないのは、その学者先生も指摘されていたと思うが、あらゆる手続きが難しいからだろう。いや、難しいというより、意図的に解らないようにしているとしか思えないほどいい加減であると私は感じる。

それはともかく、一休さんら賢者達を信用し、心配せず、なりゆきにまかせてみようか・・・
私はいつもそうやって得ばかりしてきたが、誰でもうまくいくのだろうか?
それで、思い出すことがある。
スウェーデン映画『処女の泉』(1960)だ。
非常に信心深いキリスト教徒である、裕福な地主テーレは、一人娘のカリンを溺愛していた。
カリンが何歳の設定なのか分からないが、当時二十歳くらいだったカリン役のビルギッタ・ペテルソンを幼い雰囲気にして15歳くらいに見せようとしていたのかなあと感じる。
そのカリンが、浮浪者の3人兄弟にレイプされた上、丸太で殴り殺される。
カリンの父親テーレは腕力も逞しく、その3兄弟を叩き殺して(一人は子供だった)復讐を果たし、殺害現場に残されたカリンの遺体に逢う。
その時、父親が言ったことが印象的だった。
「あなた(神)は見ていたはずだ」
つまり、自分はこんなに信心深く、日頃からキリスト教徒として恥ずかしくない生き方をしているのに、なぜ、娘を助けてくれなかったのかという恨みであろう。
この世に神はいないのだろうか?

一休の「心配するな、なんとかなる」というのは、「あなたは神仏に守られている」という意味と思って良いと思う。
一休は禅宗の臨済宗の僧であるが、尊敬する法然や親鸞に倣い、念仏を上げていたと思う。
その念仏の教えを説く仏典の1つである『観無量寿経』には、念仏を唱える者を、観自在菩薩、勢至菩薩が常に守ると書かれてあり、これは信仰の賜物である。

カリンの父も、信仰の対象が違うだけで、同じことを信じていたのだろう。
では、カリンななぜ守られなかったのかというと、荘子流には、テーレもカリンも、作為が過ぎたのだと思う。
テーレは自分の信仰振りを、自慢するとまでは言わなくても自己満足するあまり狭量であったし、カリンも身の程を知らなかった。
テーレのカリンに対する偏愛は、所詮、個人のエゴであり、本当の愛ではない。
だが、テーレが、カリンの遺体があった場所に、自分の手で教会を建てることを神に誓うと、カリンの遺体があった場所から泉が湧き出た。
カリンの本当の世話をしているのは神だとテーレが気付き、自分のすべきことだけをして余計なことをしなければ、カリンは守られていたのだ。
テーレがカリンの所有権を神から奪った分、カリンの身は危うくなっただけなのだ。
今のオリンピックはバベルの塔だ。
その身の程知らずが、人間の手に負えないウイルスを生んだのだと思う。

「心配するな、なんとかなる」と本質的に同じ意味の言葉がアラブに伝わっている。
それは、「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」だ。
人間がすべきことは、ラクダをつないでおく位のことだ。
スポーツがそんなに良いものなら、まず、全ての人が公平にスポーツが出来るよう工夫をすれば良い。ビジネスを始めたら、無駄を省きつつ、顧客に優れたサービスを提供出来るよう工夫すれば良い。こういったことは誰でも出来ることだ。

偉大な人間とパートナーになった時、謙虚な賢い人は身の程をわきまえ、自分の仕事は何かを正しく認識するだろう。
それを、神とのパートナーシップにまで発展させて考えれば良いのだ。
役割を間違えなければ、神の加護を受け、全てうまくいく。
だが、浅はかに神の領域を侵すと、最初は小さく、そして、いつまでも改めなければ大きな調整が行われる。
例えば、賢い神が作った小さな生命によって。








霊力を普通に使うには

日本人は、特に仏教徒という訳ではないが、家単位で仏教の檀家(寺に所属すること)というものになってる場合が多い。
だから、「私の家は浄土宗だ」「私の家は臨済宗だ」などと言う。
なぜそんなことになっているのかというと、江戸時代にキリスト教を排除するために、民衆全部を無理矢理仏教徒にするための政策がいまだ残っているからのようだ。

私の家もそうなのだが、浄土真宗が最も多く、次が浄土宗なのだと思う。
この2つの宗派の教えは、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、死後、極楽浄土に行けるというシンプルで解り易く、それは、現在の仏教の主な出番であるお葬式に実にマッチするので都合が良い。

それで、少し真面目に浄土宗や浄土真宗について学ぶ者も、「極楽浄土は死後に行く安楽な世界で、そこに行くためには生きている間に念仏を唱えれば良い」と理解しているのだと思う。
実際、浄土宗や浄土真宗の経典である『無量寿経(大無量寿経)』や『観無量寿経』を見ると、表向きはそう書いてある。表向きはと言ったのは、経典というのは、それほど単純に書かれておらず、解釈が難しいからである。
それでも、「極楽浄土は死後に行く、キリスト教で言う天国のようなもの」「念仏を唱えることで極楽浄土に行ける」というのが、浄土宗や浄土真宗の正統な教えとなっているのだと思う。
これについては、法然や親鸞、あるいは、一遍らの時代、民衆は、生きている間の希望がほとんどなく、せめて死後の世界で幸福になれると説くしかなかったという事情があったのだと学校で教わったものだ。

だが、親鸞より後の(室町時代の)臨済宗の僧侶、一休が、法然や親鸞を大変に誉め、自らも念仏を唱えていたが、彼が、念仏と極楽浄土の正しい教えを説いていることは、本来、もっと理解しておくと良いと思う。
一休は、「極楽浄土は西の遠い彼方にあると言われるが、実際には南、即ち、皆身・・・我々の中にある」と言ったが、これも、民衆に解り易い喩えであり、正確には、極楽浄土は、今、ここにあり、どこにでもあると言ったのである。
スターウォーズで、ルークがヨーダに「フォース(霊的な力)なんてどこにあるんです?」と問うと、ヨーダは「どこにでもある。ここにも、ほら、そこにも」と言うが、ルークには理解出来なかった。
しかし、理解するしないに関係なく、フォースも極楽浄土も同じで、どこにでもあるのである。
だが、それが解るためには、極楽浄土が、この世と重なり合うように存在する異次元の世界であると理解しなければならないが、正確には、重なり合っているという訳でもないだろう。しかし、人間の感覚的には、せいぜい、重なり合うと言うしかないのである。

ジョセフ・マーフィーは、潜在意識のことを、フロイトが言うものとはやや異なる、あらゆる力の源のようなものと言い、ヨーダのフォースに近いと言えなくもないが、『あなたも幸せになれる(原題:THE COSMIC ENERGIZER)』で、潜在意識を「宇宙の活力(THE COSMIC ENERGIZER)」と呼び、それは万能の力であり、宇宙に偏在する、即ち、あらゆるところにあると説いている。

極楽浄土、フォース、潜在意識、宇宙の活力は、全て同じで、最近、物理学者の保江邦夫さんが「素領域理論」で物理学で説明しているのが、解り易いとは言えないながら、一応、それらを統一した考え方になっていると思う。
これらは全て、実用的と言っては下品なのかもしれないが、実際の力になるものであるのだから、そのように習得するべきと思う。








↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

一割の理性

昨日も書いたが、人間は、心配をしなければ、安心していれば、何でもうまくいくし、全てうまくいくと思って安心していると、本当にうまくいく。
しかし、医者が、心配してやるべき患者の心配をせず放置したため、患者が全身麻痺になったり、死んだりする例は少なくない。
教師が、心配してやるべき生徒を心配せず、手を打たなかったため、生徒が深刻な状況に陥ってしまうことも多い。
本当に、これは何なんだろうと思う。
だが、このことを理屈で考えていくと、複雑になって混乱し、収拾がつかなくなる。
答はシンプルなはずなのだ。

つまり、人間、9割はいい加減で良いが、1割の理性を持っていなければならないのである。
先日、亡くなられた敬愛すべき賢者、竹村健一さんはよく「僕なんか、ええ加減ですよ」「ええ加減が一番ですよ」とよく言っておられたが、彼は9割いい加減でも、1割は真面目だったのだ。
ところが、ある東大出の仏教学者が、「良い『いい加減』は、仏教で言う中道のことで、これは『いい湯加減』です。しかし、中庸は『ぬるま湯』なんですよ」と、うまいことを言ったが、こんな理屈では何も変わらない。
最初に述べた、患者を殺す医者や、生徒を破滅させる教師は、1割の理性も放棄したのだ。

いや、まだ違うなあ。
安心の仕方も大切なので・・・と、だんだん理屈っぽくなると、そろそろ混乱するので、早く結論を出さねばならない。
一休さんは、弟子への遺言の封を閉じ、「本当に困った時に空けよ」と言って渡した。
そして、弟子達が、本当にどうにもならない状況に陥った時に、それを開くと、「心配するな。なんとかなる」と書かれていた。
大切なことは、「なぜ、なんとかなるか」である。
ラマナ・マハルシは、「汽車に乗っているのに、自分の荷物を頭に乗せて苦労する必要はない。荷物を降ろして安心しなさい」と言ったが、これは、神の万能の力を汽車の力に喩えたのだ。
因幡の源左(いなばのげんざ)は、牛に3束、自分も1束、草を運んでいたが、どうにも疲れたので、牛に自分の分も乗せたら、牛は全く平気だった。それを見て悟ったという。この場合、仏の力を牛の力に喩えて解ったのだ。
一休も、「仏が守ってくれるから心配するな」と言ったはずなのだ。
だが、患者を殺す医者とは、汽車にも乗らないか、荷物を忘れる者だし、草を刈らなかったり、牛を導かない者である。
神も仏も、そんな者はどうしようもない。

こういったことを、ひっくるめてうまく言ったのが、スーフィー(イスラム教神秘主義)の格言、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
である。
少し長く言えば、
「神を信用して安心しろ。だが、ラクダは自分でつないでおけ」
ということだ。
アメリカの公式モットーは、
「イン・ゴッド・ウィ・トラスト(我々は神を信頼する)」
である。
しかし、やはり一言足りないのだ。
これに、Googleのモットーをくっつければ良い。
「我々は神を信頼するが、邪悪にならない」
私は、スーフィーの言葉の方が好きであるが。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

心配せずに済む方法

人間の理想は「泰然自若」、つまり、「落ち着いていてどんなことにも動じない」ことだ。
それは、簡単な言い方をすれば「いっさいの心配をしない」ということだ。
しかし、流行歌には、「心配ないからね」とか「君はそのままでいい」なんて歌うものが多いが、私は、そんな歌を聴く度に虫唾が走ったものだった。
いや、言葉そのものは正しいのだが、甘えた人間がそんなことを聴くと、逃避や怠惰に陥るに決まっているからだ。
けれども考えた。
もし、困難に際し、逃避し、責任を果さず怠惰になる者というのは、心配が絶えないものなのだ。

一休さんの遺言が「心配するな。なんとかなる」だったそうだ。
私が聞いたところでは、一休さんは臨終にあたり、弟子に封を渡し、「本当に困った時に空けよ」と遺言したらしい。
そして、弟子達にどうしようもない困難が襲い掛かった時、それを空けると、中に入っていた紙には、「心配するな。なんとかなる」と書かれていたようだ。
じゃあ、一休さんが、なぜ、最初にそう教えなかったのかというと、徹底的にピンチにならなければ、その言葉が響かないからだと思う。

心配しない人のことを「楽天家」と言う。
ヘレン・ケラーは、徹底した楽天家であったと思う。しかも、若い時からそうだったはずだ。
彼女の境遇では、楽天家でなければやっていられなかったに違いない。
そして、それでうまくいったのだろう。

トラインの『In Tune With The Infinite』には、楽天主義の80過ぎの女性が25歳以上には見えなかったという話がある。
確かに、心配は人を老化させるが、楽天は若さを保つ、あるいは、若返らせるのかもしれない。
そもそも、心配は心が苦しく、辛いものだ。
仕事がなくて、家族を養えないような状況で、心配しないというのは難しい。
しかし、ラマナ・マハルシは「働く運命にあれば仕事は避けられないが、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない」と言ったようだ。
心配したからといって、何か良くなる訳ではない。

でも、心配があるから、防御をしたり、蓄えたりする。
いや、それは嘘でね。心配する者というのは、防御も蓄えもしないし、防御や蓄えをする人というのは、心配だからではなく、ただの合理性からなのである。
心配する人の防御は防御にならないし、蓄えも出来ないものだ。
『アリとキリギリス』で、アリが蓄えたのは義務感からだし、キリギリスが蓄えなかったのは、安心していたのではなく、心配から現実逃避をしていたのだろう。

確かに、やり手は用心深い。
だが、心配から来る用心深さは裏切られる。
やり手の用心深さは義務のようなものだ。

究極の一言はこうである。
「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
ラクダをつなぐ程度のことは、義務としてやっておくことだ。
すると、不思議と心配がなくなるし、うまくいくものである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

念仏の威力を多面的に語る

改めて、「南無阿弥陀仏」という念仏がなぜ良いのか説明する。
経典によれば、西の方角の彼方に西方極楽浄土という究極のユートピアである仏国土があり、その世界の主は、宇宙最高の智恵と力を持った阿弥陀如来という仏様なのだが、その仏様の名を呼べば、死後、その国に生まれて、永遠に平和に暮せることになってる。
さらに、高僧の教えによれば、阿弥陀如来の名を呼べば、大いなる加護が得られる。
その阿弥陀如来の名の呼び方が「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来様にすべておまかせします)」という念仏なのである。
こんな話を信じる人も信じない人もいるだろうが、今の時代、まともに信じる人は少ないだろう。
だが、信じるからといって馬鹿ではないし、信じないからといって罰当たりな訳でもない。
心のイメージに嘘も本当もないし、心のイメージに価値がなかったり、さらに、力がない訳ではない。それどころか、驚くべき力がある。

我々がスマートフォンを有り難がる理由は、それで「つながっている」と思うからだが、人間自体に通信機能がないと思うのが誤解である。
別に、ESP(超感覚的知覚)のことを言っているのではないが、それとも関係するかもしれない。
電子は、人間が観察すれば粒子であるし、観察しなければ波動である。
この事実を見ても解るように、人間は元々通信機能を持っており、その通信は電磁波で行われているのではなく、その通信メカニズムは未知ではあるが完璧であり、通信速度は無限であると思われる。
人間の通信を受けるのは電子に限らないかもしれないが、電子は確かに通信を受けるのであり、電子はいかなる場所にもあり(宇宙空間にもある)、電子同士も通信するので、人間の心の作用が、どれほどの規模でどれほどの作用を及ぼすかは想像も出来ない。
物質世界は電子の影響を受けるので、人間の心は物質世界に影響を及ぼし、しかも、その影響は、様々な相互作用で大きくなっていくのだと思う。

宗教的にも、一休は、別に経典に書かれた西方極楽浄土にケチをつける気もなかっただろうが、
「西方極楽浄土は西にあるのではなく、南にある。南とは皆身のことで、我々の中にある」
と言い、我々の心が仏、つまり、阿弥陀如来であると言った。
これは、量子論とも通じた説明であると感じる。

また、阿弥陀如来は、元々は、アミターバ、アミターユスという名であるが、頭の「アミ」という部分はそのままである。
そして、キリスト教で「アーメン」と言い、神道で「アマテラス」という最高神がいるように、AM(アミ、アメ、アマ)という音に、国や地域を超えた効果があるのだとも言われている。
脳科学者の中野信子氏は、マ行の音に意味があることを『脳科学からみた「祈り」』に書かれていて、私にはこじつけっぽく思えたが(正直、私はこの人の話は半分信じていない)、やはり何か意味があるのかもしれない。
中野信子氏は「南無妙法蓮華経」という言葉を取り上げて説明していたのだが、もちろん、「南無阿弥陀仏」にも当てはまる。
そもそも、共に、先頭に「南無」があり、ここにマ行の音(さらにAMの音)があるのであるから、「南無観世音菩薩」も「南無弥勒菩薩」も同じで、念仏に「南無」を付けるのは、音の効果の意味もあったのかもしれない。

さらに、声に出す出さないに限らず、常に念仏を唱えていれば、余計なことを言ったり、考えたりせずに済む。
イエスが「人は口に入るもの(食べ物)で穢れたりしない。口から出るもの(言葉)で穢れる」と言ったように、悪い言葉を使うほど、脳にダメージを与えることはなく、それは、心、あるいは、心臓に悪いということにもなると思う。
また、言葉は心から出るのであり、悪い考え、悪い心の言葉は、魂を汚す。
そうであれば、それをせずに済む念仏は非常に良いものである。
天才発明家の中山正和氏は、世界最高レベルの能力開発の専門家であったが、彼は、般若心経の呪文を唱えることで、頭のイメージを乱す悪い言葉や考えを切ることを薦めていたが、それも同じことなのだと思う。
しかも、既に述べた通り、念仏は、音としても良く、さらに、阿弥陀如来という人間を超えた存在を認めることでもあるのだが、人間がそのように思うことは、この上なく優れたことなのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード