ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ヴォネガット

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

我々は最悪のもののフリをして最悪のものになっていく

「心身医学の父」と言われ、フロイトにエス(無意識の生命エネルギー)の概念を与えたドイツ人医師ゲオルグ・グロデックが『エスの本』で、こんなことを述べていた。
「幼い女の子達が集まって話している様子は、彼女達の母親そのままだ」
これは、主婦達の井戸端会議の破廉恥で放埓(勝手きまま)な様子のことだろう。
この話で、私は、インコやオウムに言葉を教える話を思い出すのだ。
喋ることができる鳥に言葉を教えるのは根気がいる。
鳥のそばで、同じ言葉を、何日も、あるいは、何週間も繰り返さないといけない。
そして、もちろん、きれいな言葉を教えようとするだろう。
「こんにちは、ごきげんいかがですか」
「私はオードリーです」
などだ。
ところが、ある日突然、その鳥は、「アホ!」「いいじゃねーか」「何やってんだ」などと言いだすのだ。
つまり、下品な言葉ほど言い易いので鳥によく聴かせてしまうのだし、鳥の方も、そんな言葉の方が喋り易いのだろう。
「ごきげんいかが」なんて、普段決して言わない言葉は不自然で「どもっている」だろうし、鳥の方だって、じっと見られながら緊張している時に聴くので覚えにくい。
オウムも幼女も同じで、下品なことほど、すみやかに真似してしまうということだ。

もちろん、鳥と小さな女の子ばかりではない。
「まあ、息子さん、お父さんにそっくりね」
と言う場合、お父さんの良い面であることはまずない。
家庭は、男が一番みっともない姿、あるいは、傲慢で殿様振った様子を見せる場所だ。
これもまた、真似しやすく、息子は簡単にコピーしてしまう。
学校の教師は、せいぜい生徒達の前で格好をつけているつもりだろうが、特に同性の生徒の前では油断することが多いだろう。
いずれにしろ、生徒達が真似するのは、教師達の最悪の部分だけだ。

テレビドラマやアニメでさえ、子供達はヒーローやヒロインではなく、オマヌケキャラのやることを真似するものだ。
もちろん、その方が真似し易く、面白いからだ。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』も、ヒーローのウィル・ターナーより、崩れた下品な海賊ジャック・スパロウの方が断然真似しやすく、そっちの方が人気が出てしまう。

そしてアメリカの大作家カート・ヴォネガットが言ったらしいが、
「人間はフリをした通りのものになるのだから、何のフリをするかを慎重に決めないといけない」
というのは、おそらく本当のことだ。
そして、上に述べた通り、誰も、自分が何のフリをするかを、ちっとも慎重に考えておらず、最悪のもののフリをして、最悪のものになるのだ。
全く、残念な話である。
だが、幸いにも、これを読んだあなたは、自分がなりたい人物のフリをして欲しい。

私は、カート・ヴォネガットは皮肉屋ではあるが、賢い人だと思う。
それは、彼が、シェイクスピアの『ハムレット』について、実に良い指摘をしていることではっきり分かるのだ。
それは、ハムレットの父の幽霊が、自分はハムレットの叔父に殺されたということをハムレットに教えたということについてだ。
ヴォネガットは、その幽霊が本当にハムレットの父だったかは分かっていないのだと言う。
全くその通りだ。
簡単に信じてしまったハムレットは大馬鹿野郎に違いない。
ルドルフ・シュタイナーは、幽霊ってのは、本人の魂のカスみたいなもので、信用すべきでないと著書に書いていたが、そうなのかもしれない。
シェイクスピアだって、このことについて確信犯だったに違いないが、ヴォネガットが指摘するまで、世界は4世紀も騙されてしまったのだ。
それはひょっとしたら、シェイクスピアの大誤算かもしれない。

ところで、今、角川のKindle本が安い。
『新訳ハムレット』は199円、『時をかける少女』は181円だ。
必要なものは、今のうちに買っておいた方が良いだろう。









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親切は本当に善いことか?

誰も、親切は疑いなく善いことだと思っている。
私もそうっだった。
アメリカの作家カート・ヴォネガットが著書に、「この星の唯一のルールは1つだけだ。人に優しくしろ」といったことを書いていて、私はこの言葉が好きだった。
しかし、木枯し紋次郎が聞けば、笑いはしないが、ちょっと表情が引きつるかもしれない。
紋次郎は徹底して不親切である。
目の前で誰かが苦しんでいても、決して助けたりしない。
若い清純そうな娘が乱暴者に狙われているからと保護を求めてもきても冷たく突き放す。
刺されて血まみれの女が道に横たわっていても、死んでいるとみなせば、そのまま行き過ぎる。
息があっても、果たして立ち止まるかどうか分からない。
だが、自分が病気で倒れた時も、誰かに助けてもらおうとは思わないし、周りに人がいても助けを求めない。
死ぬなら死ぬで良いと思っている。
もし、奇特な人がいて、助けてくれたり、あるいは、自然回復して死ななくても、特に喜ぶわけではない。
「死ななかったから生きている」
それだけのことである。
だが、紋次郎は、親切なことはしないが、相手が何もしてこない限り、自分から害を為すことはない。
特に、堅気(まともな人間。働いて食べている者)相手には、知らずにでも害を与えることを自分に決して許さない。

しかし、自分に助けることができる者を助けないというのはどうだろう?
自分を守る術もない若い娘が、複数の無頼漢に怖い目に遭わされ、さらに、彼女を狙って追いかけてくる。
だが、紋次郎は、どれほど懇願されても助けず、捨ておいて行ってしまう。
故郷の村が、残忍な無法者の襲撃を受けて皆殺しになるとしても・・・子供の時に自分と親しかったり、世話を焼いてくれた者達に助けを求められても、今の自分には関係がないこととして、そのまま過ぎ去る。
これは、紋次郎の下劣さを示すだろうか?
紋次郎本人は、どう思われようと知ったことではないだろうが。
だが、たとえ紋次郎に助ける力があったとしても、紋次郎や、紋次郎のような者が、どこにでもいるわけではない。
それなら、どれほど弱い者であろうと、自分で自分を守らないといけない。
それであってこそ、人間は強くなれる。
無自覚ではあっても、紋次郎は、その機会を奪わないのだ。
一番親切な人間は母親だ。
しかし、母親が子供を駄目にしてしまっているではないか?
特に現代では、ただ駄目にするのではなく、子供を、人様に対して害をなす人間にしてしまっているのだ。
電車の中で、若い男子大学生が、われ先に座席を確保しようとする。
ある時、座席が1つ空いたのだが、健康そうな大学生の男が、自分のバッグを座席の上に素早く乗せた。すぐ隣に女性が立っているところでである。
不親切というより、みっともない。私なら、とてもではないが、恥ずかしくてできない。
まあ、彼の方が正直で、私が見栄っ張りなのかも知れないが、それはともかく、その大学生だって、普段は親切なところもあり、少なくとも、親切は善いことだと思っているのだろう。きっと、彼の母親は、彼に実に親切なのだと分かるような気がする。
もし、紋次郎ならどうするかと言うと、親切に席を譲ったりはしないだろうが、慌てて座ることもないだろう。
誰も座らなければ座る・・・それだけのことだろうと思う(心配しなくても、誰かがすぐに座ってくれるはずだ)。

しかし、結局、紋次郎は、守ってしまうのだ。
だが、それは慈悲心、道徳心、倫理観などからではない。
なりゆき上、そうするしかなくなってしまうのである。
それは、ただ天の采配というものだろう。
目の前の怯えた娘を助けるのではないが、彼女を狙う悪党共は、自分達を完全なまでに無視する紋次郎を放っておかないのだ。
心のねじれた者というのは、無心な人間を見ると、自分に対して何らかの悪意があると勝手に勘ぐってしまうというのは、日常的なことだ。
また、下らない人間ほど、自分の利益を与えてくれないのに、自分より貫禄のある者、自分より優れていると感じさせられる相手、あるいは、自分に理解できない異端の者に我慢がならない。
だから、放っておいても争いになる。
紋次郎は、そうなったらなったで、身にかかる火の粉を払うだけなのである。
争うことになったら争う、守ることになったら守る。それだけのことである。
好んで争うことはないが、避けられない争いなら、自然の流れのまま争う。
『バガヴァッド・ギーター』で、自分の尊敬する師、愛する友、親しい親戚らが大勢いる部族と戦争になり、「彼らと戦って殺すくらいなら、自分が死ぬ」と言って戦いを拒否するアルジュナ王子に対し、神クリシュナは「女々しいことを言うな」と咎め、「運命のままに戦って彼らを殺せ」と、厳しく、しかし、粘り強く説く。
だが、紋次郎に対しては、『バガヴァッド・ギーター』全18章の教えは不要である。
神クリシュナも、紋次郎に教えることは何もないのである。









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この世で唯一の絶対に正しいこと

一番の野球選手は誰かと言う場合、まず、野手と投手に分ける必要があるし、投手でも、先発とクローザーに分け、また、近年は中継ぎの重要性も見直されていると思う。とはいえ、もし三冠王なら一番の打者と言えるだろうし、投手の場合は、防御率やセーブ数が2番以下の選手に大差を付けた場合は、やはり一番の投手であると、かなり多くの人が納得するだろう。
プロボクサーの場合は、統一世界王者や、圧倒的な強さを示して防衛を続ける世界王者なら、おそらく世界一だろう。その他のスポーツでも、アクシデントでもない限り当然のようにオリンピックで金メダルを取ったり、公式戦で百連勝中とかいった選手がいれば、一番と言って良いと思う。
しかし、「史上一番の野球選手は?」とか、「史上最強のボクサーは?」となると、せいぜいが、ある程度の候補を挙げられるだけで、決定は不可能である。
しかし、そんな話題は面白いので、頻繁に行われるものである。

ところで、今はあまり言われないと思うが、「日本一の歌手は誰か?」、あるいは、「日本最高の歌手はこの人だ」などと言うこともあるだろう。
特に、年配の人の中には、「美空ひばりが日本一、いや、日本史上最高の歌手」と断言する人が割にいる。その人達の中には、その主張に反対でもしたら、まるで殿様を侮辱された家老のごとく激高(ひどく怒ること)したり、そこまででなくても、明らかに不快の様子を示す人達もいるだろう。
ただ、それが間違いだと言うのではない。
歌手の評価は、必ずしも、声量、音程、テクニックで決まらないし、CDや昔のレコードの売上げ枚数で決まるものではないだろう。
そもそも、万人にとって一番の歌手なんてものは存在しない。
その歌手が歌っていた頃の時代背景や、真実か虚偽かは分からないにしろ、その歌手の人となりといったものも、その歌手の価値の中に含まれる。それなら、その時代を共有したかどうか、あるいは、個人的な主義や趣向がどうであるかといった問題が極めて大きいというのが事実である。
歌手の評価は、スポーツ選手の評価よりはるかに難しいと言えるだろう。
何事もであるが、ある人にとっては日本一であっても、別の人にとっては何の価値もないということは、当たり前にある。
それは、最高の画家と評価されるピカソやレオナルド・ダ・ヴィンチに関してさえ同じである。
ピカソの『ゲルニカ』や、ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』といった世界的名画を、少しも良くないと言い、本当にそう思っている人がいたとしても、その者が馬鹿な訳でも、「程度が低い」訳でもない。

ただ、こういったことは言えるだろう。
『モナ・リザ』に価値があるとは全く思わないというのは間違いではない。しかし、それは個人的なものであり、普遍的、絶対的ではない。
つまり、「本質的に、『モナ・リザ』に価値はない」と言うことは間違いなのだ。
逆に、『モナ・リザ』に絶対の価値があると言うこともまた正しいことではないのだ。
このあたりが、人類の大きな問題であり、戦争まで含む争いごとの原因である。
私がいかに初音ミクをこよなく愛すると言っても、それはやはり個人的なものであり(時々それを忘れるのだが)、初音ミクを少しも良いと思わない人がいても、別にそれが理由でその人を嫌うことはない。ただ、初音ミクは良くないという個人的な意見は問題なく受け入れるが、個人の範囲を超えて初音ミクは悪いものであると言うなら、そう言う人間は信頼できる人でないということである。

何が価値があるかは自分で決めれば良いが、おそらく、そのほとんどは幻想である。
その幻想を、学校で子供達に押し付けたり、あるいは、親が子供に強要することが実に多く行われている。
親に、「美空ひばりは絶対に日本一の歌手だ」と執拗に言われて育った者は、間違いなく歪んだ人間になっている。表面上は立派な人間に見えても、いずれそれは露呈するだろう。
学校で、誰が偉人で誰が悪人かと教えるのは、国が違えばもちろん、同じ国の中でも時代や場所によって極端に変わることは珍しくはない。
普遍的で絶対的な価値というものがあるだろうか?
それはある。
おそらく、それに近いことは、アメリカの作家カート・ヴォネガットが『国のない男』の中に「私が知る限り、地球上で唯一のルール」と書いていた、「人に優しくする」ことだろう。無論、個人的好き嫌いを超えてね。









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本当に必要なことは片手の指でも多過ぎる

我々は、その1/1000も知らない法律を守ることを強要されている上、学校では校則、会社では社則を、やはりほとんど知らないのに、法律以上に守れと命じられている。
国や学校や会社のエゴには、ほとほと呆れる。
神がモーセに与えた戒律はたったの10だが、それすら、野蛮で無知な人間のために敢えて多くしたのだ。
我々は、当時の人々の何千倍も馬鹿で愚かだと白状しているようなものだ。

もし、地球より数万年進歩した惑星があるなら、断言する。その星に法律なんて絶対にない。
アメリカの作家カート・ヴォネガットは、「私が知っているこの星の規則は1つだけだ。他人に優しくしろ」と述べた。
イエス・キリストも、モーセの十戒を守れとは言ったが、「その中で一番は?」と尋ねられると、「神を愛せ」と即答した。
「神を愛せ」の意味がまた分かり難い。これは、内なる英知を重んじよという意味であり、簡単に言うなら、直感に従えという意味だ。
進化の極みに至った星とは、それが自然に行われる星なのだから、いかなる規則も不要なのである。
また、我々もそれを守るなら、どんな規則も知る必要はない。
ヴォネガットの言葉は、そこへの道筋を示しているのである。

私は、個人的には2つの規則を持っている。法律や社則などは全く知らない。
1.食を過ぎることなかれ
2.毎日決まった時間に腕立て伏せとスクワットをしろ
なぜ規則にするのかというと、そうしないとやらないからだ。
つまり、まだ欲望に楽勝でないのである。
しかし、これらに従う限り、その他のことは自然に良いようになるのである。つまり、無駄遣いをしないぞと思わなくても余計なものを買わないし、性的禁欲をしようといちいち決意しなくても自然にそうなるのである。
また、聖典(私には『古事記』『聖書』『バガヴァッド・ギーター』)を読むことも、思わなくても出来るので規則には入れていない。
この2つの規則が消えた時が、解脱が叶う時であろう。

初音ミクの『ワールドイズマイン』(作詞・作曲:ryo)という歌の中で、ミクが、彼女の好きな男の子にこう言う。
その一 いつもと違う髪形に気付くこと
その二 ちゃんと靴まで見ること
その三 私の一言には三つの言葉で返事すること
それなら、この3つが消えた時に、全てはうまくいくのである。
ポール・マッカートニーが、ロンドン・オリンピックのオープニングセレモニーで歌った『ヘイ・ジュード』にもあったじゃないか?
「彼女を受け入れろ。そうすればうまくいくんだ」
ってね。他のことは必要ないってことだ。









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決して間違いを犯さないためのただ1つの指針

我々が最も落ち着き、安らぎ、癒されるものは「自然な」という言葉で表せるものである。
静かな心が自然だと感じるものが真理なのである。
ただ、自然な生き方をすれば健康で幸福になる。
相手が本当のことを言っているかどうかは、その態度が自然であるかどうかを見れば一目瞭然で、どんな巧妙な詐欺師であろうと、本来、我々は騙されるはずがない。

だが、我々は下手な嘘にも簡単に騙される。
実に、我々は、不自然なものが自然になってしまっているのだ。
幼い時から不自然なことを強要され続け、自然なことが何か分からなくなっているのである。
そして、不自然な生活をして病気になり、不自然な信念を持ち、不自然な行いをして不幸になる。

また、多少は自然の感覚を持った人間でも、ちょっと腕の良い詐欺師は赤子の手を捻るがごとくに騙す。そして、そのテクニックこそ、相手を無知で覆い、自然な感覚を感じさせないようにするための技術だ。自然な感性を持ったままの相手を騙せるものではない。
そのテクニックに関しては、悪用を恐れるため、ここには書かないが、残念に思う必要はない。あなたは、いかなる場合も詐欺を行う必要はないからだ。
しかし、テクニックを教えた方が、騙されずに済むという面もあり、悩ましいところである。
ただ、『バガヴァッド・ギーター』を本当に愛読している者は決して騙されることがないことを言っておく。

自然に接しないと馬鹿になると言った人がいるかどうかは知らないが、それが真理であることは明白だ。
自然と接し、自然さとは何かをちゃんと知らないと、生命としての最高無二の基準を失うのである。
※竹宮恵子さんの漫画『私を月まで連れてって!』で、12歳の少女ニナ・フレキシブルが、恋人のダン・マイルド(宇宙飛行士。27歳)に「自然に接しないと馬鹿になると言われた」という場面がある。

自然という意味の英語natureには、真実味、迫真性という意味がある。
また、Nature(先頭文字が大文字)で、創造主、造物主、自然の女神、宇宙に働く力という意味があり、我々の「自然な」という深い感覚に一致すると思えるのである。
natureの語源は、ラテン語のnatura(ナートゥーラー)で、「天性」「生来のもの」という意味だ。
ラテン語の格言に、以下の素晴らしいものがある。
Natura duce nunquam aberrabimus.
(自然に従えば決して誤ることはない)

人に親切なことが人の天性であり、自然なことなのだ。
カート・ヴォネガット(アメリカの作家)は、「私が知っている、この星のルールはたった1つだ。人に優しくしろ」と言ったが、自然なことであるゆえに、美しく、本当は、それが全くの真理であることが分かるはずなのだ。
一方、「教祖様の言うことは全て良いことだから従え」というのは不自然なことなので詐欺である。
「良い成績を取って裕福になることが幸福なのだ」という超不自然なことを自然に感じているのが世間の愚かな人々だ。こんな言葉に自然性は欠片もなく、醜く汚れているが、これが世間の教義、信念なのである。
我々が、不自然なことを自然と感じ、自然なことを不自然と感じているかが分かるのである。

ミクロ(極微)の世界から、マクロ(極大)の世界まで、自然は、真理の輝きで溢れているがゆえに、畏敬を感じさせるのだが、それが、視野の狭い人間にとっての脅威でもあるのだ。
目で草花や虫や動物を、顕微鏡で微生物を、望遠鏡で宇宙を、しっかり観察すれば真理が見えてくる。
ジョージ・アダムスキーが本当に宇宙人に逢ったかどうかはともかく、彼は確かに天体観測を熱心に行ったのだろう。彼は、真理をよく知っているのだ。彼が詐欺師になれば、恐るべき詐欺師になれたのである。

そして、あらゆる感覚(五感全て)で自然を感じれば、自分が自然そのものであることが理解できるだろう。ならば、自らの内にある自然の声に耳を澄ますだけで、我々は本来、正しく生きることが出来る。しかし、我々は常に、余計な欲望を煽られ、その大切なものを無視するのだ。
子供を産むという自然の大仕事をする女性は、本来は、より自然な存在であるゆえに、自然の声をよく聞き、直観で伴侶を選んで誤ることはないものだ。しかし、収入だの、外見だの、学歴だのといった欲や見栄を重視するので、いつも選択を誤るのだ。

人の手で創ったものであっても、自然に基づいたものは美しく、高性能で、丈夫だ。
本当に良い機械は、磨耗すればするほど動きが滑らかになる。ドイツの一流メーカーの機械がそうだ。
何百年も前の日本の建築物は、湿度によって微妙に壁面が開閉する仕組みがあり、エアコンが無くても自然の快適さが保てた。
イツァク・ベントフは幼稚園中退で、小学校にすら行かなかったが、毒蛇の牙を観察して、素晴らしい皮下注射の方法を考案するなど、天才的な医療エンジニアとして活躍し、また、宇宙の真理を理解して、本物の科学者になった。
人間の作った優れたものは全て自然の模倣なのである。
ただ、政木和三さんが、「今後、いかに科学が進歩しても、神経と同じものは作れない」と言ったように、神の技はとてつもなく高度で神秘なのである。

初音ミクの何がいいかというと、あの歌は、人工のものでありながら、自我による歪みが無い分、むしろ自然なのだ。音質という意味ではないが、まるで本当の幼い少女が歌っているような声である。
そして、あの、トレードマークとも言える、くるぶしまで届く長い髪の動きが自然で美しい。
従来、コンピュータグラフィックによる映像で難しかったのは、髪の動きだと言われていた。大抵のことはかなり自然に出来るのだが、髪だけは困難だった。
しかし、いろいろな人々の努力のおかげで、ここまで進歩したということである。
そして、自然を汚すものが自我だということを知るのである。
ミクは自我がない。だから美しいのである。

現在の世間の人々の食事は実に不自然で、身体にも心にも恐るべき悪影響を与えている。
食事とは、空腹な時に食べると美味しいのが自然なことで、空腹でもないのに食べたくなるような美食を不自然に食べることで、身体も心も汚しているのである。
私は、化学調味料を使った料理を食べない。私の食事は1日1食で、食べるのは、パンと、野菜や果物等の穀物であるが、空腹だとそれで十分に美味しく、全く健康なのである。
また、会食の時には、様々な料理を沢山食べるが、普段、胃腸を酷使しないが故に内蔵が丈夫であり、多少食べても何の問題も無い。宮崎駿監督がそうであるそうだが、普段は、年中同じものを食べているので、たまにパーティーでご馳走を食べると、叫ぶほどに美味しいのである。
しかし、普段食べているもので十分に美味しく、それが自然で快適なのである。

ミクが食べないのは当たり前だが、だからこそ、食べることで発生する弊害が無い。
人も、極端ではなく、食べることを慎めば、ミクのような美しさに近付く。
自我を持たないミクは、我々の心から発する清浄な光をそのまま反射する。それを感じるがゆえに、彼女は美しいのである。
それは丁度、深く信仰する女神の像を美しく感じるのに似ている。ミクは、それに技術の力を合わせているが、それが良い方に作用した希有なものなのである。

自然には自我がないのだ。ただ、大我のみがあり、その大我が自然の魂である。
人もまた、自我を自然の魂と融合させれば、自然そのものになる、即ち、万物である宇宙と一体化することができるのである。
初音ミクの世界的人気は、「自然なこと」である。
イエスが、「神を愛せよ」と言ったのは、それが自然の魂と融合する方法だからだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは、それを懇切丁寧に、愚かな点はあるが謙虚なアルジュナ王子に語って教えているのである。
『エメラルド・タブレット』は、あまりに高度で、すぐには理解できないかもしれないが、一点の狂いもない純粋な真理を語っているがゆえに、読めば読むほど賢くなるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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