ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ヴィクトール・フランクル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

死すべき状況下で奇跡的に生き抜いた者達の秘密

フランスの作家(映画監督、外交官でもある)ロマン・ガリーの小説『自由の大地』に、我々が精神の力を獲得するための、面白いヒントがある。
それは、この作品の中で、第二次世界大戦中、フランス兵がドイツ軍の捕虜になった時の話にある。
私は、この部分を引用したコリン・ウィルソンの『至高体験』で読んだ。
捕虜生活をしているうちに、フランス兵達は堕落し、モラル、品格をなくし、怒りっぽくなり、下品な言動を平気で行うようになった。
このままではまずいと思ったのだろう。フランス兵の隊長は、彼らに奇妙な命令を下す。
それは、「ここに少女が1人いると空想しろ」だった。
それだけで、フランス兵達は向上した。
下品なことを言ったら、少女に謝ったし、シャワーに行く時は身体をタオルで隠した。
フランス兵達は、モラルや品格を取り戻したが、おそらく、もっと重要な精神の力を取り戻していたはずだ。
ところが、わけあって、フランス兵の隊長が独房に入れられることになった。
独房というのは、刑務所等で、囚人に罰を課すためのもので、特に、このフランス兵の隊長が入れられた独房は厳しく、生きて戻ることは不可能と思われた。
だが、隊長は帰ってきた。
少女の空想を発案したことで分かる通り、隊長は精神法則を理解していた。
暗い独房の中で、隊長は、象の行進を想像したのだ。

コリン・ウィルソンは、これが重要な話であることは認識したが、どう重要なのかは全く分かっていなかった。

この作品では述べられていないが、隊長のやり方は、十分に引き寄せの力を得ることが出来る。
少女を空想するとは、「今、ここに少女がいる」と鮮明に想うことだ。
なぜなら、亀や自転車などはもちろん、他の種類の人間とも違い、男にとって、少女というものは、最も「今」を鮮明に感じさせる存在なのだ。
そして、少女の目を通して見る自分は、まさに、「今」の自分の姿である。
つまり、空想の少女によって、「今」を強く意識するようになるのである。
現代人は、過去の記憶や未来の空想に生きるようになってしまい、貴重な精神の力・・・その中には引き寄せの力も含むが、それを失ってしまっているのである。
だが、それを取り戻すには、ただ「今」を生きれば良いだけだ。
そして、独房に入れられた隊長は、やはり、少女を空想しても良かったのだが、暗くて話し相手のいない独房では、どうしても、過去の記憶や、未来の不安に心を占領される。
そこで隊長は、象の大群の行進という、激しく「今」を感じさせる空想を行い、生命力をMAXにしたのである。

同じ効果を上げた2例を述べる。

1つは、第二次世界大戦中、アメリカの艦船に魚雷で船を沈没させられた、日本の海軍の船の乗員の話だ。
日本兵達は、船の木材に掴まって漂流していたが、果て無く続く暗い海と、襲ってくるサメの恐怖に耐えかね、体力よりも気力を失って、一晩持たずに全員が死んだ。
だが、たった1人、生き残った男がいた。
彼は別に、特別に強い男ではない。
ただ、彼は、並外れた酒好きだった。
そこで、もう一度、陸に戻って酒を飲むことを想像したのだ。
この上なく酒を愛するこの男にとって、その想像は、激しく今を感じさせたのだ。
「俺は、今、酒を飲んでいる」としか思えなかったのである。
男は生命力を高めると共に、引き寄せの力も発揮し、日本船を引き寄せ救助された。実は、この男は、そんなことを何度も体験したのだ。
(『誰でも勝てる!完全「ケンカ」マニュアル』より。※実話の部分のみ引用。解釈は私のもの)

最後は、『夜と霧』で世界的に知られる、ナチス強制収容所から奇跡の生還を果たした、精神科医のヴィクトール・フランクルの話だ。
極寒の中、水のようなスープの食事のみで、ロクな服も着ずに、1日中、過酷な労働をさせられ、骨と皮だけの身体になり、ナチスの監視員に殴られ、夜は1つのベッドに9人が押し込めれ(横向きにならないとベッドに入らない)、苦しさに耐えられず、仲間の囚人たちが次々と高圧電流が流れる鉄条網に飛び込んで自殺していく中、フランクルは生き抜いた。
彼は、新婚だった妻のことを思い出していたのだが、ただ思い出に浸るだけでは、生き延びることは出来なかっただろう。
彼は、心の中で、常に妻と対話したのだ。
新婚の妻との空想の対話・・・これは、リアリティを引き起こし、彼に「今」を感じさせた。

これらのような、「今」を感じることで立派に生き抜いた者達の話は貴重である。
今夕の記事では、もっと変わった話を取り上げたいと思う。








強くあり続けた人に学ぶ

念仏を唱えてはならない人とはどんな人かというと、過去に念仏を唱えたり、あるいは、聞いている時に、こんなことがあったという人だ。
例えば、大地震が起こって家が崩れて生き埋めになったり、強盗が入って、家の人が殺されたり、自分が刺されて大怪我をしたりといった被害に遭ったり、その他の、恐怖や苦痛を感じる出来事があった人だ。
そんな人の場合、念仏を聞いたり唱えたりしたら、強制的に精神が異常状態になる場合がある。
それがどんな状態かというと、潜在意識が「念仏は危険」と判断し、すぐに逃げたり、戦ったり出来るよう、筋肉に血液を送り、脳や内臓や免疫機能への血液の供給が少なくなる。
それで、理性は通常より低いレベルになって感情に支配されたり、長時間続くと、内臓や免疫が弱い状態が続くことで体調が悪くなり、下手をすると病気になる。
宮沢賢治が、念仏や浄土仏教が大嫌いで、法華経が好きだったというのも、実は、まっとうな理由ではなく、上のような原因があったのかもしれない。

若者が切れやすい(我を忘れて狂気の状態になりやすい)と言われて長いが、切れる理由の1つはこんな感じだ。
まだ小さい頃、自分が何か失敗した時に、それを見ていた母親が怒りの言葉や罵倒の言葉と共に、その子を叩いたり、脅したりして、その子に恐怖を味あわせる。
すると、その子には、その記憶が潜在意識に残り、その子は大きくなっても、あの時の母親の罵倒する言葉(例えば「馬鹿」)を聞いたり、あるいは、母親の声や、母親の声に似た声を聞くことで、筋肉に血液が多量に流れて、脳への血流が少なくなって理性や思考力を失い、攻撃的になるのである。

切れるかどうかはともかく、子供は母親に関係する、理性や思考力を失う鍵を沢山持っている可能性が高い。
また、母親だけでなく、父親、きょうだい、さらには、家そのものにも、理性や思考力を失わせる何かがある場合も多い。
だから、実家暮らしをする者が切れやすかったり、理性や思考力を失って、無能化、さらには、狂人化する可能性が高いのである。
だから、実家は出来るだけ早く出、母親とは、なるべく早く別れる方が良いのである。

とはいえ、親やきょうだいや家に関係なく、どこにでもある何かが、あなたの理性や思考力を失わせ、内臓や免疫機能の働きを阻害するかもしれない。
それは、潜在意識の強制的反応なので、自分にはどうすることも出来ない。
どうしても怒りが抑えられない、恐怖や不安に負けてしまうというのが、潜在意識的反応であれば、いかに意思を振り絞っても勝てない。
例えば、床の上に置いた幅30cmの板の上を歩くのは簡単でも、板が、家と家の屋根の間に置かれたものであれば非常に難しく、高いビルとビルの間に置かれたものなら、能力的には何の問題もなく出来るはずなのに、恐怖に負けて決して出来ないのと同じだ。

あなたに恐怖を感じさせたり、無能状態に陥れるものが何か分かっている場合は、NLP(神経言語プログラミング)で治せるかもしれないし、分からない場合でも、アレクサンダー・ロイド博士が開発したヒーリングコードで治せるかもしれないが、いずれも非常に難しいかもしれない。それらのプロを名乗る人が信用出来るかどうかも分からない。
中村天風が、常に肛門を引き締めろと言い、岡田虎二郎が、常に腹に力を入れろと言い、また、高位の念仏行者が、常に念仏を唱えよと言うのは、彼らが意識的に分かっているわけではないかもしれないが、そうしている限り、潜在意識的にあなたを無能化する力が働かないからだ。
しかし、そんなことをするのは、やはり極めて難しい。

そこで、狂気に陥っても当然な環境にありながら、理性を保った人の経験が参考になる。
例えば、ナチスの強制収容所の地獄の生活で、長期に渡って理性を失わず、そして、生き延びたヴィクトール・フランクルの経験である。
幸いなことに、精神科医で心理学者であった彼は、強制収容所にいた時の自分の精神について、詳細に書き残してくれている。
例えば、彼は、新婚だった妻に、心の中でずっと話しかけていた。
彼が書いた『夜と霧』には、我々が理性ある人間であることを保つための貴重な知恵が見いだせるに違いない。








魂の声

道徳的、倫理的にやってはならないことだが、やったら楽しいし、やっても明らかに罰を逃れられる状況にある場合も少なくない。
そんな時、本当に、それをやってしまう者がいるし、最近は多くなっているようにも思う。
私が小学4年生の時、それが何だったかは忘れたが、悪いことでありながら、得だし、やっても誰にも咎められそうにない状況にあったことがあった。
私が、
「やってもバレないよね?」
と10歳年長の従兄に言うと、従兄は私を咎める風は全くなかったが、
「良心の問題だよ」
と言ったのを、私はよく憶えている。
その数年後、従兄は警察官になった。
ある時、下着泥棒を捕まえた後で従兄は、
「まあ、(下着泥棒の)気持ちは分かるがな」
と言ったことがある。
つまり、その犯人は良心が欠けていたのだ。
従兄は、表向きはあまり善人ではないのだが、良心の人だった。
ところが、世の中は、時が経つごとに、捕まるようなことは避けるが、捕まらずに済むと分かっていたら、良心に反したことをする者が多くなった。
多くの人間達が自分の良心を踏みにじっていた代表が、ナチス・ドイツだった。
自分の得や楽しさを選び、良心を捨てた人間達が、あまりに大きな悲劇を起こした。
我々は、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読み、良心を捨てた人間がどうなるかをしっかり確認しなければならない。
今や、ナチスのことを知っても「彼らの何が悪いの?」と言う者が多そうで恐ろしいが。

良心は魂の声だ(心理学的には「超自我」の声と考えることがあるらしい)。
良心に反したことをやり続けたら、魂の声が聞こえなくなってくる。
魂の声は、神の声であり、直観でもある。
IQ200の者が(本当はIQは150程度以上の判定は出来ないらしいが)いくら理屈で考えても、例えば、フォレスト・ガンプの例だが、IQ75の者が直観で導いた答に遠く及ばない。
直観、魂の声、神の声は、人間の知性をはるかに超えて優れていて、それだけでなく、完璧である。

14世紀のインドの聖者ナーマ・デーヴァ(ナーム・デーヴ)が、直観で、つまり、魂の声を聞いて、つまり、神の声を聞いて書いたと思われるのが『聖なる名前の哲学』で、この短い聖典を発見したラマナ・マハルシは、これを自ら書き写し、生涯、手元に置いた。
その第2章を引用すると、

名前そのものが形であり、形そのものが名前である。名前と形に違いはない。
神は顕現し、名称と形態を装った。名前ゆえに『ヴェーダ』が確立されたのである。
名前を超えたマントラはないと知りなさい。これに異議を唱えるのは愚か者である。
ナームデーヴ曰く、「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」。これは主の愛すべき帰依者にのみ知られる。

である。
(『あるがままに』、あるいは、『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』より)

神(あるいは仏)の名を唱えれば、神の声を聞くようになり、直観も強くなる。
これもまた、聖者達の直観、あるいは、魂の声が聞いたことだろう。
だが、神仏の名は、世俗の手垢がついてしまい、どうも抵抗がある場合も多いと思う。
例えば、「南無阿弥陀仏」の念仏も、神仏の名であり、それを唱えると、一切の問題が解決し救われるのだが、人によっては、この名に、宗教や葬式のイメージが強くて駄目だと言う者もいるかもしれない。

それなら、「ア」とだけ唱えると良い。
日本語は、一語一語に神が居る。その中でも「ア」は特別で、これだけで、あらゆる悩みが解決する。
最高神の名は「アウワ」である。
これは、古事記ではアメノミナカヌシノカミであるが、別の名もある。しかし、「アウワ」が根本の名である。
「アウワ」の周辺の神が、「トホカミヱヒタメ」の8神である。
「トホカミヱヒタメ」は、1つの呪文のようなものではなく、「ト」「ホ」「カ」「ミ」「ヱ」「ヒ」「タ」「メ」の8柱の神なのである。
「トホカミエミタメ」を祓詞として唱えることが流行っているが、おそらく、間違いである。
『言霊-ホツマ』を参照すれば、「トホカミヱヒタメ」の「ヒ」が「ビ」と発音されて「トホカミヱビタメ」となったが、今度は、「ビ」が「ミ」に変化してしまったのだと思われる。
例えば、「さびしい」を「さみしい」とも言うように、「ビ」は「ミ」に変化し易いからだ。
再度言うが、「トホカミヱヒタメ」は1つの呪文や祝詞、祓詞ではなく、8柱の神なので、その名を唱える時には、安易に続けて唱えるのではなく、一語一語丁寧に唱えなければならない。
言うなれば「ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ」といった感じだ。
YouTubeなどで「トホカミエミタメ」と唱えることがよく投稿されているが、私は良い印象を持たなかったので、調べてみたら、『言霊-ホツマ』の方が腑に落ちた。
各自で選べば良いことかもしれないが、参考になればと思う。








幸運はこんな心にやって来る

ナチスに迫害された生活や、強制収容所での実話を綴った書物として最も有名なものが、『アンネの日記』と『夜と霧』だと思う。
『アンネの日記』は14歳の普通の少女が書いたものだが、文学的でありながらしっかりとした内容と共に、あの状況で、明るさや道徳心を含めた、かなりの平常心を保っていることに驚く。
『夜と霧』は、オーストリアの精神科医で心理学者であるヴィクトール・フランクルが回想して書いたもので、彼が、地獄と言うに相応しい絶望的な状況の中で生き抜きながら、人間の心を失わずにいてくれたことで、私も、少しは人間を信頼しても良いような気になるのである。

ところで、一頃、アンニという名の、アンネ・フランクと同じ位の歳の少女が、やはり、アンネと似た状況の中で書いた『アンニの日記』が話題になったことがあった。
『アンニの日記』の文学的な価値は『アンネの日記』に劣らないとも言われ、やがて、『アンネの日記』同様、世界的ベストセラーになると言われたが、今では、ただひっそりと保管されているだけであるようだ。
これは、別に驚くに値せず、実を言えば、さらに別の、似た状況の中で書かれた、価値の高い日記や手記は、案外に多いのである。
『アンネの日記』の価値を全く疑うものではないが、やはり、これが脚光を浴びたのは、タイミングだったのである。
『禅とオートバイ修理技術』というベストセラーエッセイを書いたロバート・パーシングが述べていたが、自分の本がヒットしたのは、全くのタイミングで、本来は出版すら難しかったし、お情けで出版してくれた出版社も全く期待していなかったという。
それでいえば、『ハリーポッター』シリーズだって、どこの出版社も見向きもせず、そのまま埋もれたはずが、作者のJ.K.ローリングがたまたま原稿を持ち込んだ出版社の編集者の8歳の娘が、たまたまその原稿を読み、「続きを読みたい」と言ったことが出版のきっかけだった。
パーシングは、『アンクル・トムの小屋』だって、全く世に出なかった可能性の方が高いと言い、ひょっとしたら、これがヒットしたのも偶然中の偶然、つまり、奇跡だったかもしれない。
米津玄師さんだって、もう10年早く生まれてしまっていたら、あるいは、初音ミクさんがいてくれなかったら、もしかしたら、あの素晴らしい音楽の才能を世に示すことが出来たかどうか分からない。

世の中に、天才は案外沢山いるが、そのほとんどは世に出ないまま終わるのだと思う。
いや、そうではなく、実は誰もが天才なのだが、才能を発揮し、それを世に示すチャンスは、情報社会になって増えてきたとはいえ、やはり稀なことなのかもしれない。
作家で投資家であるマックス・ギュンターが『運とつきあう』で書いていたように、正直な成功者は皆、「自分が成功したのはたまたま」と言うのである。

サイコパスなどの精神的欠陥人間が成功することもあるし、それはそれで、何らかの意味はあるのかもしれない。
だが、道徳心を持った人間が、結局はうまくいくし、そうでない人間が成功しても、そう遠くなく破綻し、普通の人より哀れな状況に落ちる。
これは、理屈で考えてもそうなると思うが、直観的に誰もが分かることである。
もちろん、見かけの道徳心のことではない。
最初に述べた、『夜と霧』の著者フランクルが、こんな印象深いエピソードを記している。
彼と共に、ナチス強制収容所で酷い虐待を受けながら、共に、奇跡的に生きて帰れた男と道を歩いていた時のことだ。
作物を栽培している畑があったので、フランクルがそれを迂回しようとすると、その男は、このまま進むと言う。
もちろん、そんなことをしたら、畑を荒らし、作物を傷付けてしまう。
そんなことは、子供でも分かる。
しかし、その男は、自分達は、大変な理不尽を味わったのだから、当然、そうする権利があるのだと主張する。
フランクルは、決して、この男に人格的な欠陥があるとは述べなかった。
精神科医・心理学者であるフランクルには、この男の気持ちが理解出来るのである。
踏みにじられてきた人間の中には、他者を虐げることで気持ちを晴らしたい衝動を感じる者がいる。
だが、そんな気持ちを支配出来る人間に幸運はやって来る。
幸運は、流行の引き寄せの本に書かれているようなテクニックで掴めるものではない。
自分の世界を創造するのは心であり、幸運は、それを受けるに相応しい心にもたらされることは確かだと思う。








フランクル『夜と霧』の薦め

知識もノウハウも持っているのに、さっぱり駄目なやつというのは割といる。
あるいは、修行もかなりしていて、大きなことが出来る力はありそうなのだが、なぜか、前に出ると上手くいかないなんて者もいる。
あなたもそうではないだろうか?
なぜ望ましい成果を得られないのかというと、一言で言えば、「心が狭い」ためである。
逆に言えば、それほどの努力をしなくても、心が広い人間というのは、多少のピンチはあっても、最後は大団円(めでたい結末)に収まるのである。

よく、「鈍感力」とか「反応しない練習」みたいな本がベストセラーになるのは、それで心の安らぎを得られるからと言うよりは、それが、心の広さを得たことによる成果だからだ。
つまり、心が広くならない限り、(好ましい意味で)鈍感にならないし、過敏に反応してしまうのである。
ただ、読むと分かるが、それらの本は頭の良い人が書いたものらしく、あまり解り易くないし、実践となると、ほぼ不可能だ。希望は見えるのだが。

劇的に心が広くなった人物のお話に、ディケンズの『クリスマス・キャロル』がある。
守銭奴、強欲など、いろんな表現が出来るが、とどのつまり、心が圧倒的に狭いスクルージは、そのままで死んだ場合(それはまもなくだった)の悲惨さを見て、一気に心が広がった。
先に死んだ、生きている時はやはり心が狭かったマーレイの友情のおかげだった。
しかし、今の人が『クリスマス・キャロル』を読んでも、それほど共感はしないと思う。
なぜなら、何と、我々は、スクルージよりずっと強欲だからだ。
そりゃそうだ。スクルージの時代は、欲望をかき立てる商品やサービスは、今と比較にならないほど少ない。
案外、スクルージは、あのまま死んでも、今の時代の人間と比べれば、さほど悲惨な死に際や、もしあるとしたら、それほど悪い死後の世界ではなかったかもしれない。

それよりも、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読むと良い。
今の日本では、「安倍内閣は米国の言いなりだ」とか「安倍内閣は無能者の集団だ」といった意味合いのことを、ブログやTwitterにいくら書いても良く、過激な表現ほど「いいね」がもらえる傾向すらあるが、ナチスが支配する時代のドイツでは、そんなことを僅かに言っただけで、家族ごと「消えた」。
さらには、本当に言っただけでなく、「言ったとされた」だけで、さらには、ユダヤ人であるだけで、強制収容所に送られた。
ヴィクトール・フランクルはユダヤ人であるオーストリアの精神科医・心理学者で、1942年に強制収容所に送られ、1945年にアメリカ軍により解放され、奇跡的な生還を果した。
おそらく、少しの想像力があれば、読めば、心底ゾっとするだろうし、サイコパスでもなければ、フランクルに少しでも共感することは難しくはあるまい。
そのゾっとした度合い、フランクルへの共感の強さに応じて、心は広がるだろう。
何より、今の自分の状況は天国に等しいと感じ、不満がなくなる。健全な意味で現在に満足すれば、心が鷹揚になり、それが、心が広がったということだからだ。
ただ、確かに、今の日本では、ロボットを作るような教育や思考力を破壊する受験制度のために、想像力を失くしている者が多いので、必ず大きな成果が得られるかは疑問だが、それでも、少しの効果はあると思う。
これは別に、成功のための訓練ではないのだが、いずれにしても、広い心を持てば、人生はマシなものになるだろう。
尚、私は、個人的には、旧訳である、霜山徳爾版が好きである。あくまで個人的好みであり、人によって違うだろう。出来れば、両方読むことを薦めする。












当ブログオーナー、KayのAI書。もうすぐ(5月30日)発売。
新型コロナウイルス感染症の治療薬の開発でも、AIを使うと使わないでは、開発の速さや、完成した薬品の安全性で格段の差がつくと思われます。
なぜかと言いますと、多くの場合、AIの推測を基にプランを作って実行するのと、人間の論理や勘でそれをするのとでは、数倍~数千倍の効率の差があると考えられるからです。
人間の勘が優る場合もなくはないですが、それが形になるには、エジソンのように99%の努力が必要になります。
しかし、AIを味方にすれば、「1%の閃きと10%の努力」で成功するかもしれません。
そんなAIを使うコツを掴んでいただければと思います。
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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