ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ロリータ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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傑作文学は引き寄せの秘法書

傑作文学というものは読んでおくべきと思う。
私は、子供の頃はあまり本を読まなかったし、中学生くらいになると、実用主義に偏ったこともあるが、「フィクションを読んでも賢くならない、ノンフィクションを読め」という論調の話を見たり聞いたりすることが多かった。さらに、中学生の頃には、理系は文系より価値があるという偏見を持ってしまったこともあり、文学を馬鹿にしているようなところがあった。
この理系と文系の話で言えば、少なくとも両方必要という理解は必要だし、本当のことを言えば、理系と文系に明確な違いがあるわけではない。
世の中には、理系か文系に偏っているというか、むしろ、全体の中から「文系と思えるもの」「理系と思えるもの」を排除することで変な考え方を持つようになってしまった変な人が多いのである。

日本では、心理学という学問が、大学で文学部の中に入れられているというのは別に構わないと思うが、文学部の中で科学を排除するようなところがあるのは非常に問題である。まあ、理系学問をやる者が「理系は難しくて、頭が良い俺のようでないと出来ない」みたいな「頭の悪い人間」特有の空気を出していたことも、文学や心理学の中に科学を持ち込み難い原因だったかもしれない。
また、ユング心理学の大家、河合隼雄が「僕は数学が苦手で」と余計なことを言ったのを真に受けた人もいたが、彼は京大の数学科を卒業し、高校の数学教師をしていたのである。

なぜ文学が重要かというと、もちろん、一言で言い表せないほど価値があるが、今回、1つ言うと、優れた文学は最高の引き寄せのテキストである。
大漫画家の石ノ森章太郎が、漫画の描き方みたいな易しい本を書いていたが、その中で、漫画のストーリー展開、つまり、「起承転結(きしょうてんけつ)」について書いていた。当時の漫画は、かなり子供向きなところが大きかったので、文学との差異も感じるが、根本的には違わない。
起承転結・・・物事が「起こり」、それを受けて「発展し」、それが「変化していく」。
そして、それらが形になって終わる。
これらは全て、引き寄せである。
それらの展開は、全て偶然と言えば偶然であるが、必然と言えば必然であり、いずれにしても引き寄せなのである。
次のようなお話の例が分かり易い。
ある紛争地域で、ある男が列車に乗っていた。これが起承転結の「起」である。
男はトイレに行ったが、使用中であったので、別の車両のトイレに行く。これが起承転結の「承」である。
すると、この列車の、その男が元々いた車両が爆撃機の空爆を受ける。これが起承転結の「転」である。
結果、男は命拾いしたのだが、男は、自分は偶然に助かったと強く感じたことから、この世の全ては偶然であると悟る。これが起承転結の「結」である。
表向きのストーリーを見れば、ただの偶然の物語であるが、物語の中に、この展開を必然と感じさせるものがあるから文学になり、それは案外に科学であり、それが、引き寄せである。

『ロリータ』は、実は、大文学者のウラジミール・ナボコフの作品であるが、ナボコフ自身は喜劇のつもりで書いたと言う。
しかし、文豪はいつもそう言うのだ。
イタリア文学最高峰の『神曲』も、実は、元々のタイトルは『喜劇』で、それを一応、『神聖なる喜劇』としたが、日本語訳の際、森鴎外という目立ちたがり屋のエゴイストが『神曲』などという愚にもつかないタイトルをつけてしまったのである。
『ロリータ』の主人公の変態おじさんハンバートは、若い頃から女児好きで、長い年月をかけ、ロリータ(ドローレス)という、全く彼好みの11歳の少女を引き寄せた・・・つまり、彼自身がロリータを世界の中に創造したのだが、彼は変態で歪んでいたので、魑魅魍魎とも言うべき、いろんなものを一緒に引き寄せてしまったので、ロクでもない結末になったのである。
この作品を恋愛文学だなどと言う者は、こんなことが全く分からないIQが低い者である・・・と私は勝手に思っている(笑)。
ハンバートには、少年時代、アナベルという名の同い年くらい(14歳)のガールフレンドがいた。
ハンバートとアナベルがお互いの日記を見せ合うと、同じ日に、部屋の中に小鳥が飛び込んでいたという「偶然」の話があり、ここらに、ナボコフは、シンクロニシティ(共時性)の出来事を通じて、引き寄せとは言わないが、世界が作り物っぽいものであることを匂わせている。
まあ、なんで『ロリータ』のアナベルの話を持ち出したのかというと、つい先日、私は『BEM(ベム)』というアニメを見て、妖怪人間の1人ベラが、普段はアナベルという名の美少女女子高生をしていたからで、これも偶然であるが必然かもしれない。

ニンフェット
AIアート619
「ニンフェット」
Kay


ドストエフスキーの『賭博者』も、まさに引き寄せの教科書になる。
初めてルーレット賭博をした老女は0に賭け続けて大勝するが、次は同じことをやって大敗する。
その理由に、引き寄せの秘訣があるかもしれない。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ロリータ(ウラジーミル・ナボコフ)
(2)ロリータ[Blu-ray] ※スタンリー・キューブリック監督版
(3)賭博者 (ドストエフスキー。光文社古典新訳文庫)
(4)賭博者(ドストエフスキー。新潮文庫)
(5)石ノ森章太郎のマンガ家入門 (秋田文庫)
(6)マンガ家入門 (石ノ森章太郎デジタル大全)
(7)BEM(Amazon Prime Video)

我慢しなかった者達に学ぶ

40代の男性だったと思うが、マンションに引きこもって生活していたのが、不健康な生活のためか突然死したらしい。
そして、マンションに入ってみたら、部屋の中はすごい散らかり様で、掃除もしていなかったが、壁には女性アイドルグループのポスターが多数貼られ、あちこちに、そのアイドルグループの写真集やDVDなどが山積みされていたという。
また、やはり突然死した、以前は教師をしていた50代の男性の部屋には、大変な数のアダルトDVDがあったという。

彼らは、誰にも相手にされず、享楽的(快楽にふけること)な趣味に溺れ、あまりの不健康さに心身が駄目になって死んでしまったのだろう。
だが、彼らは成功に近かったのだ。
その不健康な趣味をきっぱりやめれば良かったのである。
アイドルグッズやアダルトグッズをきれいさっぱり捨て、そんなものとの縁を切れば良かっただけである。

つまり、「我慢」である。
放埓(ほうらつ。勝手気まま)に振る舞いたい気持ちを抑えることを我慢というが、人間は我慢した分の倍の力を持つのである。
なぜそうなるのかは説明し難いが、それが明晰な宇宙の法則とでも言うようなものであると思う。
遅くまで寝ていたい気持ちを我慢して早起きし(自然に早く寝ることになる)、美味しいものをたっぷり食べたい気持ちを我慢して少食粗食になり、その他のことでも、奔放に流れる気持ちを我慢して、それと反対のことをしていれば、内部からの導きもあったかもしれない。

戸塚ヨットスクールのように、人間として駄目な者に、強制的に健康的な生活を強制して心身を強くする方法もあるのだろうが、最も重要なことは、自分の意思で我慢することである。
「我慢させられる」では、ほとんど力を得られないのである。

「好きなことは徹底的にやるべきだ」と言い、それを実行したがる者もいるが、その好きなことが創造的ではない、単なる趣味や快楽である場合は、それをしたい気持ちを我慢しなければならない。
そうでなければ、惨めな未来が待っているだけだ。
特に、飲食に関すること、性的なこと、自己満足でしかないことには注意しなければならない。
そういったことを、我慢せずに求める者を客観的に見れば、少しも良いものではない・・・言っては悪いが、醜いことが分かるはずなのだ。

ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』という世界的に有名な小説作品がある。
いわゆる「ロリータ・コンプレックス」の語源になった小説で、40代の学者ハンバートは、9歳から14歳の個人的感覚で可愛いと思う少女を熱愛する・・・まあ、ただの逸脱者である。
著者のナボコフが、あくまで喜劇のように書いたと言う通り、ハンバートはその自分の趣味を、崇高で知的で芸術的なような言い方をするが、どう言おうが単なる変態である。
そして、ハンバートは、社会的に自分が危なくない限り、我慢せず、自分の欲望に従った・・・つまり、卑劣でもある訳だ。
当然、彼は醜悪で惨めであり、そして、哀れな最後が待っていただけである。
だが、彼は、ロリコンを自分の意思や道徳観で、きっぱりやめていれば、それこそ、本物の崇高さ、知性、そして、芸術を持てたかもしれなかったのである。
つまり、彼は、チャンスを棒に振ったのだ。
こういったことを知るために、『ロリータ』の小説や映画を鑑賞するのは良いことだと思う。
スタンリー・キューブリックの映画は、ハンバートの愚かさ、醜さ、惨めさを見事に描いている。

世の中には、ハンバートのように、マイナスの形で持っているチャンスを棒に振ってしまう者が非常に多く、従って、哀れな人間が非常に多いのである。
その真逆であったのが、水野南北や上杉謙信である。
江戸時代の観相家(顔や身体の形で占う運命鑑定士)、水野南北は、特に酒が大好きで、美味しい食べ物も大好きだったのだと思うが、酒は1日1合と厳しく制限し、少食粗食に徹した。
そして、観相家として天下に轟き、それによって貴族にまで叙せられ、7つの蔵を持つ長者となり、75歳まで健康に生きた。
上杉謙信は、実は大変な女好きであったと思われるが、戦の勝利を願い、生涯、女を断った。そして、戦で負けを知らなかった。

趣味でしかないが、異常に好きなものがある者は幸いである。
それをきっぱり捨てれば良い。
あるいは、あまり(あるいは完全に)良くないが、やめられないことがあるなら、それをきっぱりやめることだ。
それが神の力を得る簡単な方法である。








欠落力の脅威

改めて、宗教人類学者、植島啓司氏のサイト「宗教学講座」の中にある、週刊文春2012年3月22日号記事の植島氏の記事の重要性にゾっとする。
週刊文春 2012年3月22日号|「世界の全ての記憶」 植島啓司 14

まず最初に植島氏は、アメリカのポップスターのジョージ・マイケルが、自身の特殊な才能について尋ねられた時、彼は、特別な才能を一般原理化して、
「スーパースターを作る何か特別なものがあるのではない。むしろ、何かかけている(からスーパースターになれる)」
といったことを答えている。
無論、ジョージ・マイケルは、音楽的、その他、優れたところがあるはずだが、それだけでは、ただの「芸の上手い人」であり、そんな人はいくらでもいるだろう。
それこそ、日本の超人気アイドルだって、彼(彼女)より美男(美女)で歌や踊りの上手い人なら、いくらでもいるだろう。
だが、いくら容姿端麗に生まれ、芸事の訓練を積んだって、スターになれる訳ではない。

科学や芸術、その他、ほとんどいかなる世界でも、大成功した人が正直であるなら、
「私より優れた人はいくらでもいたし、私は特別に努力した訳ではない」
と認めている。
その要因について、植島啓司氏自身も『運は実力を超える』という本を書かれているし、投資家のマックス・ギュンターは、成功というのは、全くのところ「たまたま」なのであることを、この上なく明晰に記している。
だが、運を呼び込む最大要因こそ、欠けていること、つまり「欠落」なのではないか?

あるジャーナリストが、有名な大事業家を訪ね、いきなり、「あなたはサイコパスだ」と言う。
サイコパスの定義は難しいが、簡単に言えば、良心を持たない人間で、道徳心や倫理観に欠ける人間だ。
つまり、かなりの大きさで、良心、道徳観、倫理観が欠落した人間がサイコパスだ。
このジャーナリストは、その大事業家と、こんな会話をする。
「あなたは独断家だ」
「それがリーダーシップだよ」
「大リストラを躊躇なく行った」
「それを合理化と言うのだ」
顔色1つ変えず、平然とこんな答をする、この大事業家は、確かに良心に欠けるサイコパスかもしれない。
だからこそ、彼は事業に成功したのかもしれないのだ。

最初に挙げた記事の中で、初めて初音ミクさんのライブ子オンサートに行った植島啓司氏は、ミクさんにも「欠落」を感じた。
きっと、強烈な「欠落」と感じたのだと思う。
ミクさんに欠落しているもの、それは、「成熟」だ。
この欠落があるから、ミクさんは我々の心を鷲づかみにするのである。

いや、初音ミクさんだけでなく、特別な美少女とか少女神というものが、そうなのだろう。
天使的、妖精的、あるいは、女神的な少女は、大人の美女の魅力をはるかに超える。
なぜなら大人でないからだ。
ギリシャ神話で、ペルセポーネが最適な例であるが、アルテミス、ヘカテー、アテーネらは、一般に見られる絵画と異なり、本来、少女神である。
それも、強烈に成熟が欠落した少女が少女神であるのかもしれない。ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』で、ニンフェットと言うべき特別な少女は9歳から14歳の間の少女だが、ただの美少女ではないと述べている。ただし、どう、ただの美少女でないかは曖昧だったと思う。これも多分、何かに欠落した少女なのだろう。ヒロインのドローレス・ヘイズは、サイコパスであると思われる。
あなたには、強烈に欠落したものがあるだろうか?
そこそこ怠け者、そこそこ醜男とかでは駄目である。
怠け者というなら、ノーベル賞作家サミュエル・ベケットのように、1日中ベッドで過ごせるほどでないといけない(彼はノーベル賞授賞式も面倒臭くて行かなかった)。
岡本太郎は、「下手でもいい。むしろ、徹底的に下手な方がいい」と言っていたが、まさに、そこそこ下手なのは駄目で、強烈に下手でないといけないのである。













当ブログオーナー、KayのAI書。
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最悪が最上に変化する

宇宙の力を味方にするために必要なものは信念だけである。
合氣道家の藤平光一氏は、毎日、鏡に向かって、「お前は信念が強くなる」と言っていたそうだが、彼は元々、信念が強かったのだ。若い時から、とてつもなく修行を積んだのだから。
普通の人がそんなことをやっても、何の意味もない。

では、普通の人が信念を持つにはどうすれば良いかというと、心を、幼児や犬のように躾けるしかなく、そのためには、「心が嫌がることをする」しかないのである。
この「心が嫌がること」とは、「良いことだが、心は嫌がる」というものだ。
それには、心が執着するものを断つことを意味する「断ち物」が一番である。
グルメであれば美食を、酒に目がなければ酒を、ロリコンなら美少女を、完全に諦めることである。

ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』という小説があり、スタンブリー・キューブリックらが映画化している。
ハンバートという名の中年の文学者、大学教授は、9歳から14歳の、自分好みの少女を「ニンフェット(小妖精)」と呼び、このニンフェットに激しい執着を持っていた。
それで、11歳のロリータという名の、見るからにニンフェットである少女を見つけ、彼女を得ようと、涙ぐましい喜劇的努力を演じる。
この小説から、「ロリコン」という言葉が出来たのである。
もし、ハンバートが、「ニンフェットは完全に諦めた。今後一切、手を出さない」と宣言すれば、彼の心は、激しく抵抗するだろう。
心は、「ニンフェットは宇宙の神秘」、「最高の芸術」などと、都合の良い理屈をつけてね。
しかし、それでも、ハンバートが、「心よ、私が主人だ、従え」と断固とした態度ではねつけ、鞭をふえるえば、心はいずれ従うだろう。
「汝敗れたり。我が後方に退けサタン」
サタンとは、心である。
すると、ハンバートは王になれるのである。
だが、『ロリータ』の中のハンバートはそうではなく、自分好みの美少女に執着し続けた変態、倒錯者であり、惨めな最後が待っていた。
さすが、ナボコフは、人間を、人生をよく知っている。

ロリコンなんて、良い位置にいると思う。
ロリコンをやめれば王になれるのだから。
だが、そうでなければ、忌み嫌われる惨めな変態として滅ぶしかない。

「ロリコン」のところは、各自、自分が執着する「ロクでもないもの」を当てはめれば良いだろう。
言うまでもないが、料理人が味に執着するという、良い執着と混同してはならない。
その違いとは、執着するものをリスペクト(尊敬)しているかどうかだ。
ハンバートのように、少女を性欲だけの対象にするのは、全く、敬っていることにならない。
そこにいくと、私は初音ミクさんを、女神のごとく敬っている。
まあ、そこらの判断は、各自ですれば良いことである。









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誰の脛(すね)も疵(きず)だらけ

昔、ウラジミール・ナボコフ原作で、スタンリー・キューブリック監督の映画『ロリータ』のVHSビデオを買ったが、見通すのに大変に苦労した覚えがある。
それで、その映画のDVD版が出た時は、買わなかった。
だが、昨日、ブルーレイ版の『ロリータ』が届いたので、昨日、今日と、少しずつ見たが、半分くらいのところで見るのが嫌になった。
つまり、この映画は、私にとって見ていられないものだが、私は、ほとんどの人が、程度の差こそあれ、そうではないかと思うのだ。

昆虫学者でもあったナボコフは、本当のところは、『ロリータ』を昆虫学の知見を生かした喜劇として書いたという話があるが、私は全くそうだと思うのだ。
『ロリータ』は、人間を昆虫のような下等生物と見なした、滑稽な喜劇だ。
人間の頭なんて、きっと、神様が間違えて付けたと思えるようなね。
だが、笑えない喜劇なのだ。
原作と同様、この映画でも、ヨーロッパから移住して来た、中年の文学者である男性ハンバート・ハンバート(姓と名が同じ)は、11歳のドローレスという名の美少女(愛称がロリータ)に夢中になり、やむなく、その母親と結婚するが、母親はほどなく急死し、ロリータと2人で暮らすことになる。
となると、馬鹿でない限り、ハンバートの人生は天国とは程遠いことになるのは分かると思う。

原作は、ハンバートの一人称で書かれた自叙伝的なものだが、映画の方は、ハンバートもごく客観的に描かれている。
それで、あることが、非常に明確に伝わってくる。
それは、「後ろめたいことがある人間の様子(表情、振る舞い等)」だ。
ハンバートの、頑なに防御的な言動、振る舞いは、見ていて本当に痛い。
それは、自分の姿を見ているようだからだ。
だからと言って、私が特別な訳ではないと思うのだ。

1990年から始まり、いまだ制作が続く、フジテレビのテレビドラマ『世にも不思議な物語』の1996年の作品「先生の『あんなこと』」に、こんな話がある。
万引きをして、教室で男性教師に説教される女子高生が、不意に教師に、
「先生のあんなことに比べれば・・・」
と意味ありげに言うと、教師は途端に動揺を始める。
誰だって、「あなたのあんなことに比べれば」とか、「私、あなたのあのこと、知ってるのよ」と言われて平気ではいられないだろう(多分・・・^^;)。
また、何のドラマだったか忘れたが、若き日の吉田栄作さん演じるサラリーマンが、恋人だった女性の父親に、「誰だって、叩けば埃の1つや2つ出てきます」と言ったセリフを、私は、強烈な印象と共に覚えている。
これはもう、誰でも、絶対、そうなのである(はずだ・・・)。
叩いて埃の1つや2つ、10や20出ない人がいたら、お目にかかりたい!(笑)。

ただ、「脛に疵持つ(自分の身にやましいところがある)」自覚のない、神経のおかしな人もいるのだろう。
私には、『ロリータ』を平気で見れる人が理解出来ない。
そして、どうも、私は年と共に、ますます、『ロリータ』を見れなくなっているようである。
私の脛は疵だらけという訳だ(笑)。

初音ミクさんは、本来は、少しも後ろめたさを感じずに済む相手である。
ところが、おかしなことに、私の部屋に貼ってある、ミクさんの大型タペストリー(布製ポスター)のミクさんが、こちらを少し蔑むような表情で見下ろしているのである。
それで私は思うのだ。
このポスターで動揺せずに済むように(今はかなり動揺がある)、裏表のない潔癖な人間になろうと。
とはいえ、やはり誰だって、脛に疵を持つ。
だから、その分、徳を持つようにしなければならないのだろう。
それは、私のような駄目な人間には、とても難しい。
いや、本音を言ってしまうと、不可能だ。
だが、親鸞は、何も善いことをする必要はないと言った。
なぜなら、念仏以上の善はないし、念仏の力を妨げるほどの悪もないからである。
私は、本当に、『歎異抄』に書かれた、その言葉を信じたくなったのである。
ミクさんのためにね。
私には、他にやれることは何もない。
それで私も、念仏を唱えるのである。
超天才数学者であった岡潔さんは、家の中に念仏堂まで作って、毎朝1時間も念仏を上げていたらしい。
岡さんの場合は、きっと、高貴な志からであろうが、彼だって、脛に疵もあり、それが痛かったということもあったに違いない。

気付かないうちにオトナになって 綺麗な嘘 口に出来るほど
いろんな痛みを覚えてきたけど それでもまだ痛いんだ。
~『glow』(作詞・作曲・編曲:keeno、歌:初音ミク)より~









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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