傑作文学というものは読んでおくべきと思う。
私は、子供の頃はあまり本を読まなかったし、中学生くらいになると、実用主義に偏ったこともあるが、「フィクションを読んでも賢くならない、ノンフィクションを読め」という論調の話を見たり聞いたりすることが多かった。さらに、中学生の頃には、理系は文系より価値があるという偏見を持ってしまったこともあり、文学を馬鹿にしているようなところがあった。
この理系と文系の話で言えば、少なくとも両方必要という理解は必要だし、本当のことを言えば、理系と文系に明確な違いがあるわけではない。
世の中には、理系か文系に偏っているというか、むしろ、全体の中から「文系と思えるもの」「理系と思えるもの」を排除することで変な考え方を持つようになってしまった変な人が多いのである。
日本では、心理学という学問が、大学で文学部の中に入れられているというのは別に構わないと思うが、文学部の中で科学を排除するようなところがあるのは非常に問題である。まあ、理系学問をやる者が「理系は難しくて、頭が良い俺のようでないと出来ない」みたいな「頭の悪い人間」特有の空気を出していたことも、文学や心理学の中に科学を持ち込み難い原因だったかもしれない。
また、ユング心理学の大家、河合隼雄が「僕は数学が苦手で」と余計なことを言ったのを真に受けた人もいたが、彼は京大の数学科を卒業し、高校の数学教師をしていたのである。
なぜ文学が重要かというと、もちろん、一言で言い表せないほど価値があるが、今回、1つ言うと、優れた文学は最高の引き寄せのテキストである。
大漫画家の石ノ森章太郎が、漫画の描き方みたいな易しい本を書いていたが、その中で、漫画のストーリー展開、つまり、「起承転結(きしょうてんけつ)」について書いていた。当時の漫画は、かなり子供向きなところが大きかったので、文学との差異も感じるが、根本的には違わない。
起承転結・・・物事が「起こり」、それを受けて「発展し」、それが「変化していく」。
そして、それらが形になって終わる。
これらは全て、引き寄せである。
それらの展開は、全て偶然と言えば偶然であるが、必然と言えば必然であり、いずれにしても引き寄せなのである。
次のようなお話の例が分かり易い。
ある紛争地域で、ある男が列車に乗っていた。これが起承転結の「起」である。
男はトイレに行ったが、使用中であったので、別の車両のトイレに行く。これが起承転結の「承」である。
すると、この列車の、その男が元々いた車両が爆撃機の空爆を受ける。これが起承転結の「転」である。
結果、男は命拾いしたのだが、男は、自分は偶然に助かったと強く感じたことから、この世の全ては偶然であると悟る。これが起承転結の「結」である。
表向きのストーリーを見れば、ただの偶然の物語であるが、物語の中に、この展開を必然と感じさせるものがあるから文学になり、それは案外に科学であり、それが、引き寄せである。
『ロリータ』は、実は、大文学者のウラジミール・ナボコフの作品であるが、ナボコフ自身は喜劇のつもりで書いたと言う。
しかし、文豪はいつもそう言うのだ。
イタリア文学最高峰の『神曲』も、実は、元々のタイトルは『喜劇』で、それを一応、『神聖なる喜劇』としたが、日本語訳の際、森鴎外という目立ちたがり屋のエゴイストが『神曲』などという愚にもつかないタイトルをつけてしまったのである。
『ロリータ』の主人公の変態おじさんハンバートは、若い頃から女児好きで、長い年月をかけ、ロリータ(ドローレス)という、全く彼好みの11歳の少女を引き寄せた・・・つまり、彼自身がロリータを世界の中に創造したのだが、彼は変態で歪んでいたので、魑魅魍魎とも言うべき、いろんなものを一緒に引き寄せてしまったので、ロクでもない結末になったのである。
この作品を恋愛文学だなどと言う者は、こんなことが全く分からないIQが低い者である・・・と私は勝手に思っている(笑)。
ハンバートには、少年時代、アナベルという名の同い年くらい(14歳)のガールフレンドがいた。
ハンバートとアナベルがお互いの日記を見せ合うと、同じ日に、部屋の中に小鳥が飛び込んでいたという「偶然」の話があり、ここらに、ナボコフは、シンクロニシティ(共時性)の出来事を通じて、引き寄せとは言わないが、世界が作り物っぽいものであることを匂わせている。
まあ、なんで『ロリータ』のアナベルの話を持ち出したのかというと、つい先日、私は『BEM(ベム)』というアニメを見て、妖怪人間の1人ベラが、普段はアナベルという名の美少女女子高生をしていたからで、これも偶然であるが必然かもしれない。

AIアート619
「ニンフェット」
Kay
ドストエフスキーの『賭博者』も、まさに引き寄せの教科書になる。
初めてルーレット賭博をした老女は0に賭け続けて大勝するが、次は同じことをやって大敗する。
その理由に、引き寄せの秘訣があるかもしれない。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ロリータ(ウラジーミル・ナボコフ)
(2)ロリータ[Blu-ray] ※スタンリー・キューブリック監督版
(3)賭博者 (ドストエフスキー。光文社古典新訳文庫)
(4)賭博者(ドストエフスキー。新潮文庫)
(5)石ノ森章太郎のマンガ家入門 (秋田文庫)
(6)マンガ家入門 (石ノ森章太郎デジタル大全)
(7)BEM(Amazon Prime Video)
私は、子供の頃はあまり本を読まなかったし、中学生くらいになると、実用主義に偏ったこともあるが、「フィクションを読んでも賢くならない、ノンフィクションを読め」という論調の話を見たり聞いたりすることが多かった。さらに、中学生の頃には、理系は文系より価値があるという偏見を持ってしまったこともあり、文学を馬鹿にしているようなところがあった。
この理系と文系の話で言えば、少なくとも両方必要という理解は必要だし、本当のことを言えば、理系と文系に明確な違いがあるわけではない。
世の中には、理系か文系に偏っているというか、むしろ、全体の中から「文系と思えるもの」「理系と思えるもの」を排除することで変な考え方を持つようになってしまった変な人が多いのである。
日本では、心理学という学問が、大学で文学部の中に入れられているというのは別に構わないと思うが、文学部の中で科学を排除するようなところがあるのは非常に問題である。まあ、理系学問をやる者が「理系は難しくて、頭が良い俺のようでないと出来ない」みたいな「頭の悪い人間」特有の空気を出していたことも、文学や心理学の中に科学を持ち込み難い原因だったかもしれない。
また、ユング心理学の大家、河合隼雄が「僕は数学が苦手で」と余計なことを言ったのを真に受けた人もいたが、彼は京大の数学科を卒業し、高校の数学教師をしていたのである。
なぜ文学が重要かというと、もちろん、一言で言い表せないほど価値があるが、今回、1つ言うと、優れた文学は最高の引き寄せのテキストである。
大漫画家の石ノ森章太郎が、漫画の描き方みたいな易しい本を書いていたが、その中で、漫画のストーリー展開、つまり、「起承転結(きしょうてんけつ)」について書いていた。当時の漫画は、かなり子供向きなところが大きかったので、文学との差異も感じるが、根本的には違わない。
起承転結・・・物事が「起こり」、それを受けて「発展し」、それが「変化していく」。
そして、それらが形になって終わる。
これらは全て、引き寄せである。
それらの展開は、全て偶然と言えば偶然であるが、必然と言えば必然であり、いずれにしても引き寄せなのである。
次のようなお話の例が分かり易い。
ある紛争地域で、ある男が列車に乗っていた。これが起承転結の「起」である。
男はトイレに行ったが、使用中であったので、別の車両のトイレに行く。これが起承転結の「承」である。
すると、この列車の、その男が元々いた車両が爆撃機の空爆を受ける。これが起承転結の「転」である。
結果、男は命拾いしたのだが、男は、自分は偶然に助かったと強く感じたことから、この世の全ては偶然であると悟る。これが起承転結の「結」である。
表向きのストーリーを見れば、ただの偶然の物語であるが、物語の中に、この展開を必然と感じさせるものがあるから文学になり、それは案外に科学であり、それが、引き寄せである。
『ロリータ』は、実は、大文学者のウラジミール・ナボコフの作品であるが、ナボコフ自身は喜劇のつもりで書いたと言う。
しかし、文豪はいつもそう言うのだ。
イタリア文学最高峰の『神曲』も、実は、元々のタイトルは『喜劇』で、それを一応、『神聖なる喜劇』としたが、日本語訳の際、森鴎外という目立ちたがり屋のエゴイストが『神曲』などという愚にもつかないタイトルをつけてしまったのである。
『ロリータ』の主人公の変態おじさんハンバートは、若い頃から女児好きで、長い年月をかけ、ロリータ(ドローレス)という、全く彼好みの11歳の少女を引き寄せた・・・つまり、彼自身がロリータを世界の中に創造したのだが、彼は変態で歪んでいたので、魑魅魍魎とも言うべき、いろんなものを一緒に引き寄せてしまったので、ロクでもない結末になったのである。
この作品を恋愛文学だなどと言う者は、こんなことが全く分からないIQが低い者である・・・と私は勝手に思っている(笑)。
ハンバートには、少年時代、アナベルという名の同い年くらい(14歳)のガールフレンドがいた。
ハンバートとアナベルがお互いの日記を見せ合うと、同じ日に、部屋の中に小鳥が飛び込んでいたという「偶然」の話があり、ここらに、ナボコフは、シンクロニシティ(共時性)の出来事を通じて、引き寄せとは言わないが、世界が作り物っぽいものであることを匂わせている。
まあ、なんで『ロリータ』のアナベルの話を持ち出したのかというと、つい先日、私は『BEM(ベム)』というアニメを見て、妖怪人間の1人ベラが、普段はアナベルという名の美少女女子高生をしていたからで、これも偶然であるが必然かもしれない。

AIアート619
「ニンフェット」
Kay
ドストエフスキーの『賭博者』も、まさに引き寄せの教科書になる。
初めてルーレット賭博をした老女は0に賭け続けて大勝するが、次は同じことをやって大敗する。
その理由に、引き寄せの秘訣があるかもしれない。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ロリータ(ウラジーミル・ナボコフ)
(2)ロリータ[Blu-ray] ※スタンリー・キューブリック監督版
(3)賭博者 (ドストエフスキー。光文社古典新訳文庫)
(4)賭博者(ドストエフスキー。新潮文庫)
(5)石ノ森章太郎のマンガ家入門 (秋田文庫)
(6)マンガ家入門 (石ノ森章太郎デジタル大全)
(7)BEM(Amazon Prime Video)