ポール・マッカートニーの『レット・イット・ビー』も、アニメ映画『アナと雪の女王』の挿入歌『レット・イット・ゴー』も、これらの曲名は日本語では「あるがまま」と訳されるが、ニュアンスがやや違うらしい。
いずれにしても、これらの言葉の微妙で深い感覚は、英語を話す人と日本人ではかなり違うはずだ。それどころか、英語を話す人達の間ですら、それぞれが感じることは、おそらく相当違うはずなのだ。
「レット・イット・ビー」は静かで受容性のある賢者の言葉のようであるが、「レット・イット・ゴー」は、それに比べ、現実的・物質的で分かり易く若い人に響き易い感じはあると思う。

日本語の「あるがままに」だって、日本人の解釈の仕方、感じ方は、千差万別だろう。つまり、それぞれで全く違うと言って良い。
私は、「あるがままに」は、「普通に」「自然に」「当たり前に」という言葉を使う方が良いと思う。

それでも、「レット・イット・ビー」も「レット・イット・ゴー」も、良い印象のある言葉であることには間違いないし、「そのままでいいのよ」というニュアンスはあるのだろう。
だが、歌詞を見ると、作詞者の「レット・イット・ビー」と「レット・イット・ゴー」の違いが分かるように思う。
「レット・イット・ビー」は、まさに、「何も変えなくていい」という感じだが、「レット・イット・ゴー」は、「このままじゃダメ」という想いが込められている。

引き寄せ的には、自分が貧乏人という設定のまま「あるがままに」だと、いつまでも貧乏人だ。
「レット・イット・ゴー」では、その設定を変えようという意思が感じられる。
そのために、恐れずにチャレンジし行動しようというものだ。「なんでもやってやる」という雰囲気だ。
それは良いことなのだが、ここで欧米式の行動主義、合理主義のために、ほとんどの人が失敗する。
本当は、「自分の設定を変えるために行動する」のではなく、「自分の設定を変えて行動する」でなくてはならない。
設定を変えるための行動は不自然で無理がある。
しかし、設定が変わった後なら、自然で「あるがまま」に、普通に、当たり前に行動する。行動しているという感覚もない。

自分でうまく自分を設定出来ないのは、自分の設定を、親とか、学校とか、メディアに決められるようになってしまったからだ。
親からは「お前は大したことは出来ない」と設定され、教師からは「強い者に従う」よう設定され、メディアからは「得することと快楽を追い求める」よう設定された。
「レット・イット・ゴー」では、「私は大したことが出来るのよ。それを証明して見せる」と言って頑張るのだが、それは苦労した上に失敗する道だ。修羅の道、餓鬼の道だ。
そうではなく、「大したことが出来る私」として、「あるがままに」「普通に」「自然に」「当たり前」に生きれば良いのである。
呼吸する生物として、当たり前に呼吸しているようにだ。
これを「呼吸する生物らしく呼吸しようとする」のが、引き寄せでよく言われる「金持ちらしい振る舞いをすれば金持ちになる」というものだ。
そうではなく、金持ちとして普通に生きれば良いだけなのである。その場合、いちいち自分が金持ちだと意識することもない。
いちいち自分が日本人であると意識しなくても、当たり前に日本人であるようなものだ。
アメリカ人になりたいなら、アメリカ人という設定にして、アメリカ人として普通に生きれば良いのである。まあ、そんな設定変更をしたがる人は少ないとは思うが。

私が知っている金持ちは、昔から何かと「金があるからな」と言っていたものだ。
彼は「お金がある私」と設定しているのである。
前に言った、教育者のコリンズ式だ。
どんな「なぜ」にも「私が賢過ぎるから」と答えさせたように、この金持ちは、いかなる理由も「金があるからな」になる。
彼は祖父に金があると設定されたようだ。
普通の人が「金があるからな」と言うと、やや違和感を感じる。まあ、繰り返せばいつかは慣れるが。
それよりも、「お金がある私」として普通に生活した方が良いだろう。

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あるがままに
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