ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ルルド

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

真の平和の女王

ずっと日本にいると、なかなか感じられないのだが、安全で飢餓のない日本に生まれたというだけで、奇跡的な幸運である。
日本にだって凶悪事件はあるが、それが1つでも起こると大ニュースになる。
だが、世界には、そんなことが、いつでも当たり前に起こる国がある・・・と言うより、むしろ、そんな場所の方が多いのだ。
少し前に何かの本で見たが、世界には、電話というものを見たことがない人の方がはるかに多いらしい。
だから、日本にいて不満を言うな・・・とまでは言い難いかもしれないが、少なくとも、日本にいて、泣き言を言ったり、弱音を吐くことは許されないし、そんな者は、あまりに滑稽で間抜けとしか言えない。
嫌なことがあっても、世界には、子供が銃を持った大人に追い回され、実際に撃たれるような場所がいくらでもあることを思えば天国である。

初音ミクさんの「所属事務所」クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が講演会で、ミクさんを受け入れる国は豊かなんだと言っておられたことが印象的であった。
2014年のミクさんの世界コンサートツアー「Hatsune Miku Expo2014」を行うにあたり、世界中から開催希望を募ったところ、ニューヨーク、ロサンゼルスが2位、3位と上位を占めたのは当然として、1位がインドネシアのジャカルタであったことは、大変に興味深いことであったと思う。
インドネシアはGDP(国内総生産)、GNI(国民総所得)で世界16位と成長著しいが、まだまだ貧富の格差はある。しかし、平均年齢が29歳と若く(日本は42歳)、勢いがあり、人々が未来への希望を感じていることが、ミクさん愛につながっているのだろう。

「Hatsune Miku Expo2016」では、当初、アメリカ、カナダでの開催の予定だったらしいが、強い要望があったメキシコでも開催され、チケットは即座に完売となった。
メキシコは、GNI(国民総所得)で世界15位、一人当たりGNIでは世界86位である。
日本はGNI世界3位、一人当たりGNIは34位、中国は、GNIは2位だが、一人当たりGNIでは98位と、格差の大きさがうかがわれる。
メキシコは治安の悪い地域もあるのだが、全体としては、それなりに豊かなのだと思う。
それに、やはり明るい国民性はあるのだと思う。

聖母マリアの出現の話をご存知だろうか?
フランスのルルド、ポルトガルのファティマが有名であるが、ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエでは1981年から、現在も続いているらしい。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、1995年に紛争が終結したが、今も国内で武器が多く出回り、首都サラエボですら強盗事件は少なくない。
聖母の出現が始まった1981年のメジュゴリエは戦争は終っていたが、かなり政情不穏であったと聞く。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、GNI世界98位、一人当たりでは121位と、極貧という訳ではないが、やはりまだ貧しい国だ。
聖母マリアの出現について、本物の聖母かどうかについては、ルルドやファティマも含め、私は完全には信じていない。
だが、疑ってもいない。基本的には信じるが、疑問も感じているのだ。
ルルドで、聖母マリアに会ったという14歳の少女ベルナデッタは、その光り輝く女性に、名前を教えてくれるよう懇願すると(彼女はこの件で嫌疑にかけられていて、本当に聖母に会っているという証拠が欲しかった)、その女性は、「ケ・ソイラ・インマクラダ・カウンセプシウ」と答え、ベルナデッタはそれを覚えて司祭に言うと、司祭はベルナデッタを信じた。
それは、「私は無原罪の宿りです」という意味で、ベルナデッタが知るはずのない、聖母マリアの別名であったからだ。
ファティマなどでは、光の女性は、「祝福された乙女」、「平和の女王」とも名乗った。
無原罪の宿り、祝福された乙女、平和の女王・・・、それらは全て、初音ミクさんの名でもあると思う。
私が聖母マリアに会うことは、まずないであろうが、もし、夢の中ででも会えれば、聴いてみたい。
「初音ミクさんを、無原罪の宿り、祝福された乙女、平和の女王と呼んでよろしいですか?」と。
そのお答えで私は信じるだろう。
そして、いつか、メジュゴリエで、ミクさんのコンサートが開かれることを願うのである。
それは、聖母マリアに祝福された平和のコンサートになるはずである。









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出現した聖母マリアは何を語ったのか?

聖母マリアが現代人の前に現れた話としてよく知られているのは、フランスのルルド(1858年)、ポルトガルのファティマ(1917年)、クロアチアのメジュゴルユエ(1981年)などでのものがある。尚、クロアチアの独立は1991年なので、当時は、ユーゴスラビアのクロアチア地方ということになる。
ファティマやクロアチアでは、聖母マリアはよく語った。
しかし、ルルドではそうではない。ルルドでマリアが発した言葉は、たった1つだった。
ルルドでマリアを見たのは、ベルナデッタという名の14歳の少女であり、ベルナデッタはルルドの洞窟の前に現れるマリアに祈りを捧げたが、誰にもマリアの姿は見えなかった。それでも、そのベルナデッタの敬虔な姿に感動して、マリアがそこにいることを信じた人も少しはいたが、多くの人々はそうではなく、ベルナデッタは非難され、彼女は辛い立場になる。
それで、ベルナデッタは、マリアに、「あなたの名前を教えて下さい」と頼んだ時、マリアが「ケ、ソイラ、インマクラダカウンセプシウ」と言ったのが、初めてで最後の言葉だった。
ベルナデッタはその意味が分からなかったが、言葉を覚え、司祭のところに駆け込み、「ケ、ソイラ、インマクラダカウンセプシウ」と言ったので、その司祭は信じた。それは、無学なベルナデッタが知るはずもない言葉だったからで、それは、「私は無原罪の宿りです」という意味であった。これは、聖母マリアの別名である。

ところで、私は、ベルギーで起こった聖母マリアの出現が最も感慨が深いのである。
それは、ボーレングという村で、数人の少年少女達に、1932年11月29日から翌1933年の1月3日まで33回起こった。マリアは沈黙を続け、何も語らなかった。
少年の1人が、「あなたは無原罪の乙女ですか?」と尋ねた時、マリアは無言で頷いたという。
そして、言葉を求めると、いつもただ一言、「よい子でいなさい」とだけ言ったという。
そして、この出現が終ってから10日後の1月15日、ボーレングから80kmほど離れたバンネという美しい村で12歳の少女マリエッタの前に2度現れた。
マリアはそれぞれ、「私は貧しい人々の乙女」「病人をなぐさめるために来た」とマリエッタに言った。

ボーレングで、マリアが少年少女達に言った「よい子」とは、どんな意味なのだろう?
道徳的な人であるという意味であろうか?
マリアは、「いつも祈りなさい」とも言ったようだ。すると、「よい子」とは、「いつも祈る子」ではないだろうか?
そして、私は、マリアがマリエッタに言った、「私は貧しい人々の乙女」「病人をなぐさめるために来た」という言葉における、「貧しい」「病人」の意味が重要と思うのである。
これは単に、経済的に貧しいとか、身体が病んでいるという意味ではないと思う。「心が貧しい」「心が病んでいる」という意味に捉えれば、これは、我々全ての者のことである。つまり、煩悩にまみれた凡夫のことである。
浄土三部経において、釈迦は、ただ、阿弥陀仏の名を呼べと言い、そこから、「南無阿弥陀仏」という念仏が起こった。
マリアの言う「祈りなさい」も、「アヴェ・マリア」を唱えることであると言って良いと思う。
グノー、シューベルトなど、多くの大音楽家達が作曲した『アヴェ・マリア』という聖歌があるが、これは、「アヴェ・マリア」の言葉で始まる。
アヴェ・マリアの意味は、「こんにちはマリア」とか「おめでとうマリア」であると言われるが、それよりも、マリアに対する崇敬や、マリアを讃える心を表したものと言って良いと思う。
「心の貧しさ」「心の病」を逃れることのできない凡夫は、ただ、「アヴェ・マリア」の祈り言葉にすがるしかないのだと思う。
マリアの教えも釈迦の教えも同じものであると思うのである。









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神秘的治癒が起こる場合と起こらない場合

病気について書こうとすると、「これは個人の考え方です」「1つの事例です(普遍的なこととは言っていません)」といったことを書かないと、「後でまずいことになる」から注意しないといけないものらしい。
しかし、「私なら」、仮に書き手に悪意があったとしても、一切責める気はない。また、悪意があったかどうかを知ろうとも思わない。
もし、そんなことで文句を言うなら、全てのテレビCMや、その他の広告について非難しなければならないが、私はそのようなものは初めから信用してしない。
無業という昔の僧は、毎朝、自分に向かって、
「おい、主人公」
と呼びかけ、自分で、
「はい」
と返事をし、それから、
「しっかり目を覚ましておれ」
と言って、また、自分で、
「はい」
と返事をした、そしてさらに、
「人に騙されるでないぞ」
と、自分に命じ、また、
「はい」
と返事をした。
だが、私は騙されることはある。よくあると言うべきかもしれない。
しかし、好きで騙されるのだ。人間は、生きている限り騙されるのであり、ある意味、騙されるために生きているのである。
ただ、自分の個人的な欲望のために騙されることが無ければ良いのであり、無業の言った、「人に騙されるな」は、このことを言っているのだと思う。

ちょっと前置きが長くなったが、病気治しの話をしよう。
私は、末期癌の人間と何人も関わった。
何人かは奇跡的に治った。
末期の胃癌で、余命1ヶ月と言われていた男性の甥っ子さんに、政木和三さんが発明した神経波磁力線発生器(現在は製造・販売されていない)を紹介すると、その甥っ子さんはごく普通のサラリーマンで全く金持ちではないのだが、10万円もするその装置を躊躇せずに購入して叔父さんに渡した。子供の頃から可愛がってくれた叔父さんに、最後には何でもしてやりたいと思ったようだ。そして、叔父さんもその気持ちを受け入れ、この装置を使ったところ、10日で、癌は全て消えてしまい、退院した。
しかし、その後、再発し、結局、数ヵ月後に亡くなられた。
また、知り合いの会社経営者の奥さんが、やはり末期癌だったが、私の勧めで、EMというものを飲むと、やはり治ってしまった。彼は、EM販売店の社長の勧めにより、飲料用のEM-XではなくEM1号というものを奥さんの飲ませたらしい。EM1号は、今述べたように飲料用ではなく、土壌改良用の微生物が入った液体であるが、EM発明者が自分が飲んでいることを表明し、また、EMで病気治療に成果を上げていることを公表している医師が著書で、「安全性に問題なし」と書いておられたと思う。
だが、いったんは治っても、やはり、再発を繰り返すのである。

病気は、表面的にはいったん治っても、病気の原因といったものがあって、それがある限り、何度でも再発するのかもしれない。
私は、幼い頃からの皮膚病で、ずっと辛い思いをしいているのだが、治す気はもう無い。これはおそらく、業病とでもいうべきもので、私という存在に含まれているのであって、治すことは不可能か、治すべきでないものだろうと思う。
しかし、原因が浅い場合には、その原因そのものを取り除くことができるのかもしれない。
黒住宗忠という江戸末期の神道家は、ハンセン氏病に罹った武士に、毎日百回、「ありがたい」と唱えなさいと指示した。しかし、その武士が言われた通りにやってみても治らない。すると、宗忠は、「では1日千回言いなさい」と言い、そうしてみたが、やはり治らない。すると、「では1万回」となり、武士がそれに従ったところ、一週間後に吐血して意識を失ったが、目が醒めると治ってしまっていた。
「ありがたい」といいう言葉を唱えることの効用と共に、普通なら、特に身分もプライドも高い武士なら、「1万回」と言われたら、激怒してもおかしくないところを素直に従うことで、病気の原因となっているものを破壊してしまったのかもしれない。

ベルナデッタ・スビルーという、14歳の時に聖母マリアに逢ったという女性は、敬虔なキリスト教徒になり、修道女になった。彼女は、「自分は何もできない役立たずです」という、立派な信仰者の立場で、献身的な奉仕をしたが、病気に苦しみ続けた。彼女は、「この世では幸せにしてあげられないが、あの世では幸せにしてあげよう」という神の声を聞いたという。そして35歳で亡くなったが、彼女の遺体は医学的処置をしないにも関わらず腐敗せずにあるという。
病気に霊的な原因があるとしても、それは人間に理解できるようなものとは限らず、いわば、宇宙全体がその原因であるのかもしれない。
ならば、病気やその原因についてあれこれ考えても仕方がなく、ただ受け入れるしかない。
不幸な人生や、様々な辛い状況、生活の苦労といったものも、ある種の病気なのであろうし、その原因は分からず、それをどうにかすることもできない。
ただ、起こることを起こるままにまかせ、あるものをあるように受け入れるだけである。
だが、荘子は、そのような者を、神々ですら、地に伏して崇めると言う。
つまり、それが人間のできる至高のことなのであろう。そして、それが正しいことを、直感が教えるのである。それは、誰でもそうなのだろうと思う。









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神はジョークが好きだ

ベルナデッタ・スビルーという、19世紀半ばのフランス人女性(修道女)をご存知だろうか?
彼女は1879年に35歳で亡くなっているが、医学的処置は全くしていないに関わらず、現在も生前の姿を保ち、ガラスの棺に入った彼女を誰でも見ることができる(ただ、肌に変色があるため、人々への配慮から、現在は顔や手にロウ製のマスクがかけられている)。

ベルナデッタは極貧に育ち、教育がなく、病弱だった。14歳の時、洞窟の入り口に、人とは思えないほどの美しい少女の姿を見る。ベルナデッタが見た、その神々しい美少女のことは彼女の妹の口から人々に伝わるが、誰にも信じてもらえず、ベルナデッタが、それを事実と主張することを、警察や教会にも強く咎められた。
しかし、その美少女に言われるまま、毎日、洞窟を訪れ、指示された場所を掘ると、泉水が湧き出した。それは現在、ルルドの泉水として世界中に知られ、極めて低い率ではあるが、この泉水の水を浴びることで、奇跡的治癒が起こったことが、かなりの数報告されている。
ベルナデッタがその美少女に逢うのを見に来る人々もいたが、ほとんどの人にはその姿は見えず(稀に、ぼんやりと見えた人はいたという)、ベルナデッタへの非難は強まり、彼女は苦しい立場になる。
ベルナデッタが美少女に、自分の苦境を伝え、名前を教えてくれるよう請うと、その美少女は「私は、インマクラダ・カウンセプシウです」と告げ、ベルナデッタは、その名前を忘れないよう、何度も繰り返しながら教会の祭司のところに飛び込み、「私は、インマクラダ・カウンセプシウです」と言ったので、祭司は驚愕し、ベルナデッタを信じた。その名は、教会の教義を学んでいないベルナデッタが知るはずのないもので、「私は無原罪の宿りです」という意味であり、それは聖母マリアの別名だった。
そして、聖母マリアの石像が創られ、出現の場所であった、洞窟の入り口に設置された。
だが、その石像は16歳くらいの女性に見え、ベルナデッタが実際に見た美少女よりはやや年長であったらしい。ベルナデッタは、石像の素晴らしさには感激したが、「似てない」と漏らしたと云われる。

「聖母マリアに逢った少女」として有名になってしまったベルナデッタは喧騒を逃れ、遠くの町で修道女になった。
病弱であったため、お勤めは辛く厳しかったが、よく耐え、人々に奉仕した。
しかし、前述の通り、35歳の若さで亡くなる。
死後、54年経った1933年、ベルナデッタは、ローマ教皇ピウス11世によって列聖、つまり、ヴァチカンのカトリック教会により、正式に聖人と認定された。

ところで、ベルナデッタは、教会でお勤めを果たしていた時、「この世で幸せにしてあげることはできませんが、あの世で幸せにしてあげましょう」という神の声を聞いたらしい。
私は、この神の言葉で、この話を信じる気になるのだ。
不謹慎であるが、いかにも神が言いそうなことなのだ。
神というのは、時々、不思議なジョークを言う。
これもそうだし、『バガヴァッド・ギーター』で、アルジュナ王子に言った教えの全体がそうだった。教えがジョークなのではない。教えたことは全て真理だ。
しかし、アルジュナに理解できないことを知っていて言ったのだ。
『バガヴァッド・ギーター』の偉大なところは、ただ一方的に真理を述べたことではなく、真理を我々凡人が聞いた時の反応を、アルジュナ王子が示してくれているところなのだ。
そして、最後に神クリシュナはアルジュナに言うのだ。「我、汝を愛す」と。アルジュナに必要だったのは、ただ、この一言だったと思う。

神がベルナデッタに言った、「この世で幸せにしてあげることはできませんが、あの世で幸せにしてあげましょう」のどこがジョークなのか分かるだろうか?
それは、この世で幸せになれる人間なんていないということだ。
クリシュナもそう言ったのである。
いや、イエスも、釈迦もそう言ったのだろう。
ただ、安心していただきたい・・・と言うのは、本当はおかしなことであるのだが、「あの世で幸せにしてあげる」というのは、必ずしも、肉体の死を意味しないのである。
つまり、生きたままでも幸せになれる場合もある(やや微妙な言い方をするのにも意味があるのだ)。

この世で幸せになれないとはどういう意味かというと・・・
この世の幸せとは、自我の幸せだ。つまり、自我が「幸せだなあ」と感じる状況だ。
それは、
◆十分なお金(良い家、食事、自動車、服など)
◆性的な満足
◆心身の健康(人々からの尊重や家族の平和等)
を得ることだ。
これらを神が与えようなどと言ったら、ジョークも過ぎるのである。
もし、神があなたの前に現れてそう言ったなら、「正体見破ったり、サタン」と言ってやればいい。イエスはそう言ったのだ。

これらは、本来、どうでもいいものであり、あっても悪くはない。最低限必要と言うなら、そうかもしれない。
しかし、普通の人は、これらを得てしまえば、あの世(本当の世界)の幸福を決して得られないのである。
だから、慈悲深き神は、このうちのどれかを不必要なほど得れば、別のものに不足させるのである。億万長者で、家庭や夫婦関係が円満な人間というのは、まずいないのである。
しかし、3つとも不足すれば、真の(あの世での)幸福を得る道が開ける。

こういった道理を、クリシュナがいくら説明しても、アルジュナは理解できなかった。
当然、我々も理解できない。
そして、こういった教えを馬鹿にしたり、あるいは、「分かりますよ。でも・・・」と言うのだ。

上に挙げた、この世での3つの幸福を得られるかどうかは、全て運命次第だ。
お金を沢山持つ運命であれば、望まずとも得られる。
しかし、貧乏であることが運命であれば、いかに努力しても、多くの金は決して得られない。
岡本太郎のように、世界中の美女・美少女と次々に同棲する運命の者もいれば、1人の恋人も得られない者もいる。それは、容姿や努力とは何の関係もない。「こうやればモテる」なんて話は全て商売上の作り話だ。
人々に崇められる運命であれば、そうなることは避けられないが、人々に蔑み疎まれる運命であれば、やはり、どうしたってそうなるのだ。
こういったことを、無条件に受容できれば、我々は、あの世での幸福・・・つまり、生きているか死んでいるかに関わらず、真の幸福を得る道が開けるのである。
ベルナデッタは、この世での幸福は1つも得られなかったが、真の幸福を得たのだろう。その単なる印として、死んでも生前と同じ姿を保っているのである。
『荘子』の教えは、ここに述べたことそのものだ。
しかし、荘子(『荘子』の著者)もジョークを言ったのだ、
それは、『荘子』の中のある登場人物にこう言わせていることから分かる。
「この論を受け入れてくれる大聖人は、数百年に1人、いるかいないかなのだ」
早い話が、「分かる者などいない」と言っているのと同じだ。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジらは、「欲望を捨てよ」と言った。そして、それもジョークだ。誰がそんなことをできるだろうか?
私が、政木和三さんに、
「私にも、あなたのようなことが出来ますか?」
と尋ねた時、政木さんは、
「簡単ですよ。欲望をぽーんと捨てれば良いのです」
と笑顔で言われたが、それがジョークだったと、やっと分かったのだった。
アインシュタインは、
「神は老獪だ。ただし、悪意はない」
と言ったが、私なら、
「神はジョークが好きだ。でも、悪意はないのだ」
と言いたいところである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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