ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ルドルフ・シュタイナー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

地獄の世界でやむを得ず持つべき力

ラマナ・マハルシが、「神実現の呼吸法」を語ったのは、1936年2月5日のようだ。
尚、「神実現の呼吸法」は私の命名で、マハルシ自身は「知恵の呼吸」と呼んでいた。
この呼吸法が日本に紹介されたのは、1983年出版の、おおえまさのり訳編『南インドの瞑想』で、私はこっちで知っていたが、この本は原書のいくらかを抜き出して訳したもので、マハルシが、なぜ、このような、とんでもないことを教えたのか謎だった。
しかし、ナチュラルスピリット社から、完全な翻訳が2018年(電子版。紙の本もある)に出て、謎が解けた。
マハルシは、非常に優秀な青年からの質問に答える形で教えたのだった。
ひょっとしたら、個人的に教えただけかもしれない。
だが、この質疑は歴史的な出来事であると私は思う。
この素晴らしい青年がマハルシを訪ねなければ、また、そんな質問をしなければ、我々はそれを知ることが出来なかったのだからだ。

マハルシは、この呼吸法により、超能力(シッディ)がもたらされることも示している。
マハルシは、イエス・キリストの力もシッディであったと、別のところで述べている。
もちろん、マハルシの目的は、人に超能力を与えることではなく、場合によっては、超能力で道を踏み外す者もいるかもしれない。
しかし、今の時代、超能力を持っていた方が良いと思われ、後のことは自己責任ということで仕方がない。
メタバースの権威的な研究者であるアヴィ・ローブ博士はごく論理的な意味で、地球人類が「下の世界」に堕落する可能性を示したが、それが近い、あるいは、既にそうなっているような気がするからだ。

神実現の呼吸の翻訳を抜粋する。

「ナ・アハン(私はこれではない)」=出息
「コーハン(私は誰か?」=入息
「ソーハン(私は彼である)」=呼吸停止
~『南インドの瞑想』より~

Naham「ナーハム」私はこれではない=呼気
Koham「コーハム」私は誰か?=吸気
Soham「ソーハム」私は彼だ=呼吸保持
~『ラマナ・マハルシとの対話1巻』より~

「私はこれではない」とは、自分とは、身体でも心でもないという意味だ。
最後の「私は彼である」は、「私は神である」という意味で、我々日本人は「私は神である」と唱えるべきと思う。
インドでは、神は非常に畏れ多い存在なので、直接「神」とは言わず、「彼」「それ」などと表現する。
しかし、日本人にとって、神は親であり、祖先であり、自然であり、非常に親しいので、「神」で差し支えないと思う。
そこで、やり易いように書くと、次のようになる。

(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。

この呼吸法を行っていくと、高次元の自己との同調が起こり、この世界での自分が希薄になるのを感じる。
あまり一気にやると、自我が消失してしまい、ことによっては肉体ごと消えることもあり得ると思う。
高次元に飛んでしまって、自我が消失した有名な例としては、フリードリヒ・ニーチェがいる。
だが、ニーチェの高次元の神体と肉体との関係は完全に消失したわけではなく、霊覚者であるルドルフ・シュタイナーは、ニーチェに会った時、ニーチェの神体を感じ、その知性に畏怖したのである。

行う場合は、自己責任で、適度に行うことをお勧めする。








奇跡のコースター

懐かしいものが出てきた。
アニメDVD『涼宮ハルヒの憂鬱4 笹の葉ラプソディ』の付録の1つであるコースター(コップ受け)だ(もう1つの付録は、中学1年生のハルヒのイラスト)。

haruhi coaster.png2

これには、面白い思い出がある。
それは、旧ブログに書いたが、上のDVDを購入したのと同じ時期に、英国の作家コリン・ウィルソンが、ルドルフ・シュタイナーについて書いた『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』を購入したことで起こる。

haruhisteiner_2

購入日は、
『涼宮ハルヒの憂鬱4 笹の葉ラプソディ』2010年3月24日
『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』2010年4月15日
で、こういったことが、Amazonの「購入履歴」で簡単に調べられるのだから便利だ。

その、『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』の表紙の赤い正方形部分と、そのコースターがぴったり一致するのである。

stach_1

stach_2

まあ、なかなかないことだ。

その時、私は「面白い」とは思ったが、それほど驚かなかった。
このようなこと(偶然の一致としては極めて珍しいこと)は、私には、子供の時からよくあることだった。
そんな話は、時々、このブログで紹介しているが、例えば、私が小学4年生の時、天文の知識は全く無かったが、いつも、満天の星の中から、土星を一発で特定したことや、中学1年生の時、以前見たテレビドラマを録画したくて、テレビを付けて録画装置のリモコンを持ち、放送されることを期待したら、しばらくしたら、まさに、その放送が始まり、希望通り録画することが出来た。
奇跡と言えば奇跡である。

また、こんなことを思い出した。
ローラ・インガルス・ワイルダーの自伝の1冊目である『大きな森の小さな家』で、ローラがまだ小さい子供だった時、彼女の父親のチャールズが、彼女に、こんなお話をしてくれる場面がある。
「昔、ある男が、大きな猫と小さな猫を飼っていた。男は、壁に、猫たちの出入り口として、大きな猫のために大きな穴を、小さな猫のために小さな穴を空けた・・・」
その時、ローラが、
「え?でも・・・」
と口を挟むと、ローラは、母親か姉に、「人の話を途中で遮るのは良くない」と注意された。
実は、私は、この話のおかしさを、少し考えなければ分からなかったので、小さいローラより頭が悪いのかもしれなかった(笑)。
しかし、そんな間抜けなこと(2匹の猫のために2つの穴を空ける)を素でやる、その男の馬鹿さよりはマシだと思って、気を取り直した。
まあ、そんな馬鹿が実在するとも思えなかったが。
その後、しばらくして、数学者の矢野健太郎の『すばらしい数学者たち(新潮文庫)』を読んだ。
その中に、人類で最も有名な数学者・物理学者と言えるかもしれない、アイザック・ニュートンの章があった。
雰囲気的に、こんなことが、ニュートンについて書かれていたと思う。
「ニュートンは、時々おかしなことをする人だった。猫を2匹飼っていたが、大きな猫の出入り口用に大きな穴を、小さな猫の出入り口用に小さな穴を空けた」
つまり、「そんな馬鹿、本当にいるわけがない」と思った馬鹿は、
「世界は暗かった。そこで神は言った。『ニュートンをこれへ』。すると世界は明るくなった」
とまで言われた、人類最高の天才アイザック・ニュートンであった。
天才とは、少々変わっているものかもしれない。

私は、自分にはありふれていた奇跡を再現する原理と起こし方を探求し、少しは分かったので、なんとか伝えようとしているのである。








いよいよ秘儀が明かされる

『アラジンと魔法のランプ』のお話は、象徴的な意味でだが、実話であり、イメージとしては、あのまま受け取っても構わない。
つまり、宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)の本体に近い強力な力が存在し、いかなることでも実現出来る。
人間は、潜在的には、そこにアクセスする力があるが、実際は、極めて少数の者しか、それをやっていない。
そして、普通の人間でも、もっと下位ではあるが、創造の力に近付くことが出来、ある程度の望みを叶えることが出来る。
ここらのことは、ドーリル博士版の『エメラルドタブレット』に書かれていることに近いと思う。

気付いている人も多いが、今の世の中は、悪の勢力が魔法のランプを握っている。
悪については、ルドルフ・シュタイナーの『悪の秘儀』のルシファー的な力について参照すれば理解し易いが、いずれにしろ、シュタイナーの時代から、悪の勢力は増大し続け、現代の世の中は、かなり悪い状況になっている。
下手をすれば、我々は悪の言いなりであり、生命も自由も尊厳も、悪の手の内にある状態である。
だが、上に述べた通り、我々には魔法のランプはなくても、ある程度の力に触れることは出来る。この力は、『アラジンと魔法のランプ』では、指輪の魔神として描かれている。
ランプの魔神が大型のプラズマ砲なら、指輪の魔神は小型の光線銃で、まともにやりあっては敵わない。
だが、数を集めれば対抗出来るし、何より、光線銃が護身になる。我々は、護身を深刻に必要としている。
上の『悪の秘儀』にヒントがあるが、我々が指輪の魔法、あるいは、光線銃を得るには、炭を少量接種することが望ましい。
炭成分であれば良く、今は、炭の安価なサプリがあるので、それで十分である。

そして、後は、心がけの問題である。
世界を動かすような巨大な力を持とうとせず、小さな範囲で威力を発揮する美しい力を望めば良い。
それは丁度、人間の思念が正確に一方向に向くと、指向性の強いコヒーレント光(例えばレーザー光線)がCGを作るように世界を構築する、小さな範囲では万能の力だ。
これを自在に使うには、心を静かにする訓練、集中する訓練が少し必要になる。
腕振り運動や、マントラを繰り返し唱えることを勧めていたのも、そのためであった。
世界が限界に近付いたので、そろそろ、おおっぴらに秘儀を明かそうと思う。
超重要な参考書を以下にご紹介する。












疑わず、信じず

ファクトチェック(事実確認)なんて言葉が流行っているが、ファクトチェックなんて、どのくらい可能なのだろう?
フランスの数学者・哲学者のルネ・デカルトの結論は、「ファクトチェックは一切不可能」だった。
私もこれに同意する。
だが、デカルトは、何か1つくらい、ファクト(真実)が分かるのではないかと探し続け、それなら、「ファクトかどうかと疑っている私は存在する」ことだけは確実にファクトだとした。
この説は、
「疑っている私は確かに存在する」
と言い表された。しかし、どういう経緯かは分からないが、これが、
「われ思う、ゆえにわれあり」
として、現在も伝えられている。
これに対し、思おうが思うまいが私は存在しているという主張もある。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、それを(思おうが思うまいが私は存在する)さらに洗練させ、こう言ったらしい。
「あなたが本当に納得出来ることは、あなたが存在しているということだけだ」
私も、いったんは、これに納得した・・・つもりでいた。
しかし、今は全く信じていない。
一方、ルドルフ・シュタイナーは、形としては、「われ思う、ゆえにわれあり」へのアンチテーゼ(否定の主張)としてかもしれないが、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
と言ったようだが、私も、むしろ、こっちに与する(あくまで「むしろ」だ)。
ただし、このシュタイナーの言葉は、いかなるファクトチェックも出来ない。
まず、「われ思う、ゆえにわれなし」であるが、「思っているわれがない」ことのファクトは証明しようがない。
次に、われが思わなければ、われがあることを証明出来ない。

『荘子』の中で、賢者に対し、「全ては不可知ということですか?」と尋ねると、賢者は、「そんな判断を求めるな」と言う。
余計だが言っておくと、「全てが不可知か?」に対し、イエスと言えば、不可知でないことが1つ出来てしまうし、ノーと言っても「全てが不可知かは分からないことが分かっている」という矛盾が生まれる。まあ、こんな話が好きな人もいるようであるが。

今、マスメディアでもネットでも、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが多量に飛び交っているが、何が本当かは全く分からない。だが、分かったつもりになっている人が多いだろうし、分かっているような顔でペラペラと解説する識者やインフルエンサーもいっぱいいる。
私は、どの情報も解説も、疑いはしないが、信用もしない。
ヒトラーが悪魔のような人物であったというのは世界の常識であるが、これも捏造かもしれない。しかし、たとえそうであっても、我々には絶対に分からないのだ。
だから、いかなることも「疑いはしないが、信じもしない」というのが正しい態度である。
これは、笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯らし紋次郎』のヒーロー、紋次郎がよく言った言葉だ。
学校に行ったことも、本を読んだこともない紋次郎が最も賢いということになるが、そのはずだと思う。
実際、紋次郎は恐ろしく賢い。
もちろん、学校も本も役に立つこともあるが、害になることも多い。それを認識した上でなら、学校や本で遊ぶのも良いだろう。

何も信じず、一切の判断をしなければ、自ずと正しくなる。
なぜなら、そんな時にのみ、意識の数万倍(あくまで喩え)賢い無意識が出てくるからだ。
腕振り運動というのは、淡々と数を数え、努力なく腕を振ることで、判断を離れる行である。








無意識が描いた絵画

1人の人間が世界を支配する力の大きさは、その人が、無意識をどこまで解放するかで決まる。
無意識の一部が、瞬間的に出てくるだけでも、奇跡のようなことが起こることがある。
では、どうすれば、無意識が解放されるかというと、意識(自我)が消えることによってだ。
しかし、例えば、酒を飲んで「意識が消えるほど」酔っぱらっても、全く超人になるわけではない。
同様に、興奮した人間に鎮静剤を打ち、意識を弱くしたら天才になったなんて話も、あまり聞いたことはない(あることはあるのだが)。
また、諜報機関や、場合によっては警察が使うという自白剤という特殊な薬物を注射された人間も、自我意識は弱くなるが、むしろ、心身の能力は著しく低下する。

確かに、芸術家には、覚醒剤の使用により無意識を表出させることで、優れた創造性を発揮する者もいるのだが、覚醒剤が良好な効果を見せることはむしろ稀で、大抵は酷いことになる。
サルトルでさえ、覚醒剤を試してみたら、ロクでもないことにしか、ならなかったという。

一方で、こんな注目すべき話がある。
ルドルフ・シュタイナーが、心神喪失した後のニーチェに会った時、ニーチェは確かに、通常の知的能力を失っていたが、シュタイナーは、ニーチェの偉大な英知を感じ深い感慨に襲われたと言う。
それは、シュタイナーの認識違いや妄想だったのだろうか?
そうではない。もし、信じることが出来るなら、シュタイナーは高次元を知覚する能力を持っており、ニーチェの霊的英知が輝いているのを見たのだ。
とはいえ、人間は、直観的な確信が持てない限り、何も信じることは出来ないので、この話を無闇に信じるわけにはいかないが、疑わない方が可能性は広がる。

話がややこしくならないうちに、正解を述べなくてはなるまい。
簡単に言えば、自我意識が隠れただけでは、相変わらず凡人なのだ。
酒を飲んだり、失神したり、眠ったり、麻薬でラリっていても、すぐに自我意識は戻ってくる。そんな者は、高い能力を発揮することはない。
確かに、危機一髪の時に異常な能力を発揮する、いわゆる「火事場の馬鹿力」といった場合もある。
この場合は、自我が隠れたのではなく、自我の周波数が変わったのだ。
そして、自我の周波数を変えるのは、生命体の力だ。
たとえて言えばだが、周波数が変わらない自我は、「隠れても臭い」のである。
だが、周波数が変わってしまえば、無臭か、あるいは、香しいものになる。まあ、あくまでたとえだが。
ニーチェは、自我の周波数が高くなり過ぎて、脳の、化学的・電気的な機能に適応出来なかったのである。
まあ、それは特殊な作用の結果であり、我々がそんな状態になることはない。
そこで、我々は、自我の周波数を高め、自我と共存しながら無意識を解放すれば良い。
そのためには、腕振り運動を、自分が振っているという自覚のない、限りなく静かで自然な状態でやれるよう、日々励むのが、最も易しい方法なのだと思う。
ついでに言えば、優れた芸術作品は全て、度合いはあるが、芸術家が無意識状態の時に描かれている。
そんな作品は沢山あるが、例えば、ギュスターヴ・モローの『ヘーラクレースと水蛇(ヒュドラー)』は、完全無意識状態で描かれたものだ(特に、線画の習作の方が良いのだが)。
モローの作品は、特に無意識を感じるが、それは、彼が、画家が名声を掴むための場所であるサロンを拒否したことに関係するのだと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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