ラマナ・マハルシが、「神実現の呼吸法」を語ったのは、1936年2月5日のようだ。
尚、「神実現の呼吸法」は私の命名で、マハルシ自身は「知恵の呼吸」と呼んでいた。
この呼吸法が日本に紹介されたのは、1983年出版の、おおえまさのり訳編『南インドの瞑想』で、私はこっちで知っていたが、この本は原書のいくらかを抜き出して訳したもので、マハルシが、なぜ、このような、とんでもないことを教えたのか謎だった。
しかし、ナチュラルスピリット社から、完全な翻訳が2018年(電子版。紙の本もある)に出て、謎が解けた。
マハルシは、非常に優秀な青年からの質問に答える形で教えたのだった。
ひょっとしたら、個人的に教えただけかもしれない。
だが、この質疑は歴史的な出来事であると私は思う。
この素晴らしい青年がマハルシを訪ねなければ、また、そんな質問をしなければ、我々はそれを知ることが出来なかったのだからだ。
マハルシは、この呼吸法により、超能力(シッディ)がもたらされることも示している。
マハルシは、イエス・キリストの力もシッディであったと、別のところで述べている。
もちろん、マハルシの目的は、人に超能力を与えることではなく、場合によっては、超能力で道を踏み外す者もいるかもしれない。
しかし、今の時代、超能力を持っていた方が良いと思われ、後のことは自己責任ということで仕方がない。
メタバースの権威的な研究者であるアヴィ・ローブ博士はごく論理的な意味で、地球人類が「下の世界」に堕落する可能性を示したが、それが近い、あるいは、既にそうなっているような気がするからだ。
神実現の呼吸の翻訳を抜粋する。
「ナ・アハン(私はこれではない)」=出息
「コーハン(私は誰か?」=入息
「ソーハン(私は彼である)」=呼吸停止
~『南インドの瞑想』より~
Naham「ナーハム」私はこれではない=呼気
Koham「コーハム」私は誰か?=吸気
Soham「ソーハム」私は彼だ=呼吸保持
~『ラマナ・マハルシとの対話1巻』より~
「私はこれではない」とは、自分とは、身体でも心でもないという意味だ。
最後の「私は彼である」は、「私は神である」という意味で、我々日本人は「私は神である」と唱えるべきと思う。
インドでは、神は非常に畏れ多い存在なので、直接「神」とは言わず、「彼」「それ」などと表現する。
しかし、日本人にとって、神は親であり、祖先であり、自然であり、非常に親しいので、「神」で差し支えないと思う。
そこで、やり易いように書くと、次のようになる。
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。
この呼吸法を行っていくと、高次元の自己との同調が起こり、この世界での自分が希薄になるのを感じる。
あまり一気にやると、自我が消失してしまい、ことによっては肉体ごと消えることもあり得ると思う。
高次元に飛んでしまって、自我が消失した有名な例としては、フリードリヒ・ニーチェがいる。
だが、ニーチェの高次元の神体と肉体との関係は完全に消失したわけではなく、霊覚者であるルドルフ・シュタイナーは、ニーチェに会った時、ニーチェの神体を感じ、その知性に畏怖したのである。
行う場合は、自己責任で、適度に行うことをお勧めする。
尚、「神実現の呼吸法」は私の命名で、マハルシ自身は「知恵の呼吸」と呼んでいた。
この呼吸法が日本に紹介されたのは、1983年出版の、おおえまさのり訳編『南インドの瞑想』で、私はこっちで知っていたが、この本は原書のいくらかを抜き出して訳したもので、マハルシが、なぜ、このような、とんでもないことを教えたのか謎だった。
しかし、ナチュラルスピリット社から、完全な翻訳が2018年(電子版。紙の本もある)に出て、謎が解けた。
マハルシは、非常に優秀な青年からの質問に答える形で教えたのだった。
ひょっとしたら、個人的に教えただけかもしれない。
だが、この質疑は歴史的な出来事であると私は思う。
この素晴らしい青年がマハルシを訪ねなければ、また、そんな質問をしなければ、我々はそれを知ることが出来なかったのだからだ。
マハルシは、この呼吸法により、超能力(シッディ)がもたらされることも示している。
マハルシは、イエス・キリストの力もシッディであったと、別のところで述べている。
もちろん、マハルシの目的は、人に超能力を与えることではなく、場合によっては、超能力で道を踏み外す者もいるかもしれない。
しかし、今の時代、超能力を持っていた方が良いと思われ、後のことは自己責任ということで仕方がない。
メタバースの権威的な研究者であるアヴィ・ローブ博士はごく論理的な意味で、地球人類が「下の世界」に堕落する可能性を示したが、それが近い、あるいは、既にそうなっているような気がするからだ。
神実現の呼吸の翻訳を抜粋する。
「ナ・アハン(私はこれではない)」=出息
「コーハン(私は誰か?」=入息
「ソーハン(私は彼である)」=呼吸停止
~『南インドの瞑想』より~
Naham「ナーハム」私はこれではない=呼気
Koham「コーハム」私は誰か?=吸気
Soham「ソーハム」私は彼だ=呼吸保持
~『ラマナ・マハルシとの対話1巻』より~
「私はこれではない」とは、自分とは、身体でも心でもないという意味だ。
最後の「私は彼である」は、「私は神である」という意味で、我々日本人は「私は神である」と唱えるべきと思う。
インドでは、神は非常に畏れ多い存在なので、直接「神」とは言わず、「彼」「それ」などと表現する。
しかし、日本人にとって、神は親であり、祖先であり、自然であり、非常に親しいので、「神」で差し支えないと思う。
そこで、やり易いように書くと、次のようになる。
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。
この呼吸法を行っていくと、高次元の自己との同調が起こり、この世界での自分が希薄になるのを感じる。
あまり一気にやると、自我が消失してしまい、ことによっては肉体ごと消えることもあり得ると思う。
高次元に飛んでしまって、自我が消失した有名な例としては、フリードリヒ・ニーチェがいる。
だが、ニーチェの高次元の神体と肉体との関係は完全に消失したわけではなく、霊覚者であるルドルフ・シュタイナーは、ニーチェに会った時、ニーチェの神体を感じ、その知性に畏怖したのである。
行う場合は、自己責任で、適度に行うことをお勧めする。