ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ルドルフ・シュタイナー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

思考を消す段階

思考を消せば全知全能である。
このことは太古から、「無になれば不可能はない」「頭の中のおしゃべりを消せば神になる」などという言い方で言われてきた。
ちなみに、私は「全知全能」という言葉が好きなのだが、この言葉は、小学5年生の時に読んだ、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』(1870)の、潜水艦ノーチラス号のネモ船長のセリフで覚えた。

学校やテレビは、思考を消すことと真逆のことを教え称賛し、奨めることを全力でやっているので、思考を消すことの価値を知る者はほとんどいないと言って良い。
よく、物質主義、精神主義などと言うが、本当は、思考する主義と思考しない主義と言って良いかもしれない。
アンダーグラウンド・・・と言って良いかどうかは分からないが、あまり表立たず密かに、引き寄せの法則や、潜在意識による成功法則が人気があるが、引き寄せは思考を消すことで起こすことが出来る。
思考を完全に消せば(ただし意識はあること)全知全能であるが、そこまでいかなくても、思考が消える度合いに応じて引き寄せの力が強まる。

思考を消す第一段階として必要なものは教養だ。
特殊な例外を除き、教養なしで思考を消せる者はいない。
だが、現代人は、教養という第一段階からすっぽり抜けている。
あるいは、学校の勉強しか出来ないという教養のない者が多く、これが称賛されるのだから、世界はロクでもないものになる。
教養を得る最も効果的な方法は読書で、本は人類最高の発明品だと言う者もいるが、ある程度うなずける。
別に、どんな本を月に何冊などということはないが(そんなことを言いたがるのも学校とテレビの影響だ)、所詮、本を読まない者は大した者になれない。
とはいえ、本を読むことは楽しいことで、努力が必要なはずがない。
本を読み、健康な精神を持っていれば、自然に冒険に誘われて必要な経験も得られるだろう。
逆に、教養のない冒険者ほど迷惑で厄介な者はいない。

同級生
AIアート195
「同級生」
Kay


そして、何らかの特別な方法で心を消しにかかることになる。
思考によって作られ、思考が崇拝される世の中では、そんなことも必要になってしまった。
ただ、これに関しては金を払う必要はなく、金を払わせようとする者には気を付けることだ。
もっとも、数万円程度のお金なら払ううちに入らない。そのくらいなら、有効な投資である。

そして、思考を消す最上の方法である「私は誰か?」と自分に問うことにたどり着くが、ある意味、これも古い。
古くて悪いわけではないが、敵も対応してきているので、大きな効果が出難くなってきている。
そこで、「私は存在しない」という至高のマントラ(真言)が出来たが、これは、ある程度、レベルが高い者用かもしれない。
このマントラの根本的な提唱者はルドルフ・シュタイナーという天才だが、彼の本は概ね、おそろしく抽象的で、普通は読めたものではない。
あのコリン・ウィルソンすらそうであったと告白している。

私が、低かったレベルを上げた方法に、「ナ・ダーム」の呼吸がある。
右まゆの付け根の位置(眉間でも良いと思う)に意識を集中し、「ナ」と心で唱えながら鼻から短く息を吸う。
そして、「ダーム」と心で長く唱えながら、ゆっくり鼻から息を吐く。
「ナ・ダーム」は意味のない言葉で、思考が起こり難い言葉として作られた。
他にも、数息観といって、吐く息を心で数えながら、ゆっくり吐くことを心がけるという方法が効果がある。
自分に向いた方法を選ぶと良いが、目的が思考を消すことであることを知っておくと良い。








新(真)呪文「われなし」

潜在意識の活用による成功法則(現代の引き寄せの法則と同じ)で世界的に有名なジョセフ・マーフィーは、本来は「単語法」とも言うべき、特定の1つか数個の単語を繰り返し唱える方法を勧めていた。
だが、自身が牧師であることや、キリスト教徒である人々に受け入れられやすいことから祈りの言葉の形式を使ったり、時々の流行を取り入れたりして、単語法が目立たなくなったと思う。
マーフィーがよく勧めていたのは「成功」「富」、あるいはそれらを組み合わせ、「成功、富」という言葉を出来るだけ多く唱えることだった。
ただ、よく誤解されるように、これらの言葉を繰り返し唱えることで、心の中に成功や富のイメージを作るのではない。
そうではなく、ただ、淡々と唱え、それらの言葉を潜在意識に送り込む・・・というのは、実践的には良いが、実際は、これらの言葉を唱えることで、これらの言葉以外の思考を消すためであった。
もっと詳しく言えば、「成功」とか「富」という言葉は快の言葉なので唱え易く、初めはイメージを伴うが、長く唱えているうちに思考が消えるのである。
そして、思考が消えれば、マーフィーが潜在意識と呼ぶ魂の全知全能の力が現れるのである。
本当のカラクリはこの通りである。

だが、ラマナ・マハルシは、思考する主体である「私」に心を向ければ思考が消え易いことを発見し、「私は誰か?」と問うことを勧めたのである。
だが、後には、「私は誰か?」ではなく「私」とだけ唱えることも教えるようになった。
ひょっとしたら「私」の方が「私は誰か?」より効果的かもしれないし、いずれにしても効果があるのだから、好みで「私」と唱えても良い。
ただし、いずれにしろ、出来るだけ多く唱える必要がある。
ところで、日本人は「私」という呼称をあまり使わない。使うとしたら、ビジネスや学校といった改まった場で、普段は、「僕」「俺」「あたし」などと言う場合が多い。
だが、「僕、僕、僕、・・・」では、どうも感じが悪い。
それで、日本人には「南無阿弥陀仏」「アジマリカン」「トホカミエミタメ」といった言葉が好まれる傾向がある。
これらの言葉に優劣などあるはずがなく、自分が勧める言葉が最も優れているなどと言う者は相手にしない方が良い。
単に、これらの言葉を唱えることで思考を消すという以外の意味はないのだから。

百合が香る庭
AIアート189
「百合が香る庭」
Kay


ところで私は「われなし」「私はない」「私は存在しない」という、まさに聖者の教えと真逆の言葉を唱えるようになった。
すると、怪我や病気が急速に治っていくような感覚があるのは、それほど速やかに心が消えるからだろう。
ただし、これはやはり聖者の教えに反するので、お薦めする気は全くない。
ラマナ・マハルシが生きていた時の時代背景や、教えた相手が無知な人々であったことで「私は誰か?」が最適であったかもしれないし、今でも高い効果を示す。
まあ、私は勝手に「われなし」と唱えることとする。
これは、ニサルガダッタ・マハラジの至高のマントラ「私は在る」を否定し、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」も否定する。なぜなら、「われ思う」と言う時点で思っているのだから、われはあるということになる。
だが、ルドルフ・シュタイナーが「われ思うゆえにわれなし、われ思わずゆえにわれあり」を言ったのをヒントに、これを修正した。
コリン・ウィルソンが、「思おうが思うまいがわれはある」とデカルトを批判したように、私は、「思おうが思うまいがわれはない」とシュタイナーを批判・・・というのではないが修正したのだ。
シュタイナーは「われ思う」「われ思わず」の「われ」を自我の意味で言い、「われあり」「われなし」の「われ」を真の自分である魂の意味で使っているのだから混乱するのである。
言葉にする限り、「われ」「私」は自我であり、心であり、思考である。
よって、「われなし」「私はない」が正解であることは間違いないと思える。








IQを20%以上アップする

愚民とは本当に困ったものだ。
これは、私や誰かの見解ではなく、客観的事実だ。

本人に責任があるとは思わないが、地球人を愚かにするのに利用されたのがルネ・デカルトだ。
彼の有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」は、ある意味正しいが、とはいえ、その「われ」は、最悪のわれだ。
それから250年ほど経って、ルドルフ・シュタイナーが、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
と、多少マシなことを言ったが、これは、後半の、
「われ思わず、ゆえにわれあり」
だけで良いのだが、「ゆえにわれあり」は余計だ。
「われ思わず」だけで充分だ。
愚民に合わせるためには、余計なことも言ってしまう。
丁度、「考えるな、感じろ」の「感じろ」が余分であるように。

「われ思わず」あるいは「考えるな」で十分である。
これを静かに唱えていれば、そうそう悪いことにはならない。
そして、もっと使いやすい(良いわけではない。一般的に使いやすいだけだ)世界コマンドを作っておいた。
「私は何も考えない」(1000)
「私は何も信じない」(130)
「私は何も愛さない」(90)
数字は、大雑把な効果の目安だ。
とはいえ、「われ思わず」もなかなか好ましい。
「私は何も考えない」と同等なので、唱えやすそうなら使うと良い。

世界を再構成中
AIアート134
「世界を再構成中」
Kay


さて、世界コマンドもロクに続かない困った者達にも有益だが、IQを20~40%アップする訓練をご紹介する。
それは、頭の中で、出来るだけ早く、1から100まで数えることを繰り返すだけだ。
ただし、正確に数える。
正確に数えられないほど速く数えてはならない。
最初は、あまり速く数えられないかもしれない。
それどころか、とてもゆっくりとしか数えられない。
しかし、慣れれば、1秒で数回(100までを)数えられる。

ついでの話だが、IQ10万の(もちろん比喩だが)天才に、タイムリープについて聞いた。
誰でも、数千回、タイムリープしているらしい。
ただ、凡人(IQ400以下。比喩だがw)は、タイムリープ前の記憶が全くない。
記憶がなければ、タイムリープする意味は全くない(輪廻転生もだが)。
上の、カウントアップ訓練をやれば、そこそこ記憶が戻り、自覚はないが、ものが分かる状態になっているらしい。
記憶が戻るほど、記憶を持ってタイムリープがしたくなり、それをかなり自由に出来るようになるようだ。








『老子』第37章を一言で言えば「最良の指導者は空気のようなもの」

今回は『老子』第37章である。
この章を一言で言えば「最良の指導者は空気のようなもの」である。

老子は、優れた人間が悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から脱する方法を説くと共に、それを成し遂げた者が、その他の者(人民)に対しても、その装置の影響を軽くしてやり、うまくいけば、普通の庶民の中からも、目覚めることが出来る者があるよう教えたのだと思う。

良い君主というものは、自分が成しているという想いを持たない。
そのことを、この章では「王侯は、(道のように)何事も為さずに全てを為す」と言っているのである。
自分が成しているという想いを持たないとは、早い話が、思考をしないということだ。
思考をしなければ自然になる。
なぜなら、人間の思考とは不自然なものだからだ。
老荘思想、あるいは、道教で言う「道に従う」とは、単に、「自然である」ということだ。
余計なことを考えない自然な人には、誰もが従うのである。たとえ、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に支配された者であっても。

ルドルフ・シュタイナーは教育者としても際立っていたが、「良い教師とは空気のような存在」と言ったようだ。
それが、老子の言う「見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指に感じない」空気のような存在で、自然な存在とはそのようなものだ。
空気、あるいは、清流と言っても良いだろう。
そして、そのような存在が最も強い力を持つことは、自然において、空気や水がそうであるのと同じである。

1959年のアメリカ映画『ベン・ハー』で、こんな印象深い話がある。
主人公の青年ユダが、罪がないのに囚人となり、他の囚人と共に鎖でつながれて灼熱の砂漠を歩いて移動させられていた。
中継地の村に着いた時には、囚人達は死ぬほどの渇きを感じていて、村の人々は、自然な慈悲心から、囚人を護送する兵達だけでなく、囚人達にも水を与えた。
ところが、ユダは護送兵の隊長に嫌われていて、村人がユダに水をやろうとするのを止める。
我々だって渇いた記憶があり、渇いた時の水がどれほどの価値があるか知っている。
しかも、ユダは、灼熱の砂漠を何十キロも歩かされた後なのだ。
ユダは悲痛な想いで水を求め、なりふり構わず、護送兵の隊長の身体についた水さえ舐めようとする。
その様子を憐れみ、村人がユダに水を与えようとすると、護送兵の隊長は、それを乱暴に蹴散らして脅し、ユダに水を与えさせない。
絶望と悲痛の中、ユダは意識を失う。当然、そのまま死に至るはずであった。
だが、そこで1人の若者が水の入った器を持ってユダの所に行き、ユダの後頭部を水で冷やし、微かに意識が戻ったユダに水を飲ませる。
それに気付き、再び蹴散らしてやろうと護送兵の隊長が若者に向かっていくが、護送兵の隊長はなぜかその若者に近付けない。
その若者は、後で分かるがイエス・キリストであった。
弱った者に慈悲を施すのは、考えてやることではなく、自然な行いである。
それを自然に行うイエスに逆らえる者はいない。
そのことを示す印象深い場面であった。
私は、元ミュージシャンで、元ホームレスの男性が、あのイエスのようになりたいと言っていたのを覚えている。
それで、この映画のその場面を意識的に見たのであった。
イエスが登場する映画には、地球人を悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から解き放つ意思を持った善の宇宙人の介入により、隠されたメッセージが込められた作品が、他にもあるらしい。








究極の力ある言葉

私は、合氣道家の藤平光一氏の著書『氣の威力』で知ったが、「真理の言葉」を唱えると、何らかの原理で心身の力が拡張され、ちょっとした奇跡のようなことも起こる。
藤平氏の著書には、極めて単純な真理の言葉「重みは下にある」によって、藤平氏流には「氣が出て」、精神や肉体の力が高まるが、それだけでなく、不思議なことも起こる。
そのような状態では、引き寄せの力も強まるはずであり、藤平氏も、引き寄せとは言わないながら、それを示唆するようなことも書かれていたと思う。
それで私は、昔から、では、最上の真理の言葉は何であろうかと考えてきた。
その言葉が真理であればあるほど、また、高度な真理であるほど、発揮する力は大きいと思われる。

しかし、「愛は世界を救う」なんて、CMでよく見るような言葉はどうかというと、愛の定義にもよるのだろうが、こんな言葉が使われる場面での雰囲気を見ていると、あまり真理の言葉とは思えないのである。特に、庶民が「愛」という場合、あるものを愛すると同時に別のものを憎むということを平気でやる。確か、愛とは、分け隔てをしないものであったはずだが・・・
「愛の反対は憎しみではなく無関心」とか言う人もいるが、これだって、何かを愛するがゆえに、愛することが出来ないもの、価値がないと思うものを無視するだけのことである。
いずれにせよ、普通の人が言う「愛」自体が真理でないのだから、「愛は永遠」だの「愛こそは全て」だのは、いかがわしかったり、ハリボテだったりする。

デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を究極の真理としたが、これの本来の言葉である「疑っているわれは確かに存在する」なら、かなり良いが、思おうが思うまいが「われ」は存在するという簡単な指摘に対しても、なかなか反論出来ない。
面白いのは、ルドルフ・シュタイナーが「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」と言ったことで、私は「ああ、これは真理だ」と思ったが、一般的には禅問答のような言葉だろう。

そして、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」こそ、最高の真理であり、即、これが最高のマントラだと言った。
本当にそうなら、この言葉を唱えれば、超人、マスター、大師になり、引き寄せも自在になるはずだ。
しかし、そうはならない。
この言葉の問題は、「私は在る」の「私」が、自我か真我(魂)かはっきりしないことだ。
どちらかというと、自我を指していると思われるが、自我はあったりなかったりするし、仏教の立場では、自我は本来、存在していないし、自我が消えることが目標である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で語られているが、イギリスの偉大な技術者で思想家と言えるF.L.ローソンは、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
という言葉を真理とし、この言葉によって奇跡を起こした。
「神の他に何もない」は、「全ては神である」を言い換えた言葉と言えるが、確かに真理である。
しかし、自我にとって、これほどピンと来ない言葉もないし、自我が最も反発する言葉でもある。
その自我が黙るまで、粘り強く唱えれば、引き寄せ自在の超人になるのかもしれないが、いったい、どれだけの時間がかかるか分からない。

そこで、私なら、次の言葉を推したい。
「私は世界で唯一の考える主体である」
これは、ジョセフ・マーフィーの何かの本に載っていたのだと思う。
これに似た言葉と思ったのは、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『History(歴史)』というエッセイの中の、
「私はスフィア(天球)の所有者( I am owner of the sphere)」
だ。入江勇起男氏は、これを「私は世界の所有者」と訳しておられ、意味としてはその通りであると思う。
この「私」は、自我と言えば自我だが、エマーソンは自我と魂の融合をよく説いていたので、この「私」は、自我であり魂であると言え、自我も良い意味で満足するのであり、とても調和のとれた言葉だ。
それも含めた深い意味で、この言葉は「私は世界で唯一の考える主体である」と似ていると思う。
ただ、「私は世界の所有者」と言うのは、エマーソンのように精神が発達した者でないと、やはり抵抗がある。

そこで、私は、最高の真理の言葉は、やはり、
「私は世界で唯一の考える主体である」
と思う。
この言葉に馴染めば、あらゆる引き寄せを行う力になる。
他の引き寄せ法や鍛錬と共に、1日数度でも唱えれば、大きな力になると思う。
もちろん、この言葉だけ唱えるのも、非常に良いことと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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