ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ルドルフ・シュタイナー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

IQを20%以上アップする

愚民とは本当に困ったものだ。
これは、私や誰かの見解ではなく、客観的事実だ。

本人に責任があるとは思わないが、地球人を愚かにするのに利用されたのがルネ・デカルトだ。
彼の有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」は、ある意味正しいが、とはいえ、その「われ」は、最悪のわれだ。
それから250年ほど経って、ルドルフ・シュタイナーが、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
と、多少マシなことを言ったが、これは、後半の、
「われ思わず、ゆえにわれあり」
だけで良いのだが、「ゆえにわれあり」は余計だ。
「われ思わず」だけで充分だ。
愚民に合わせるためには、余計なことも言ってしまう。
丁度、「考えるな、感じろ」の「感じろ」が余分であるように。

「われ思わず」あるいは「考えるな」で十分である。
これを静かに唱えていれば、そうそう悪いことにはならない。
そして、もっと使いやすい(良いわけではない。一般的に使いやすいだけだ)世界コマンドを作っておいた。
「私は何も考えない」(1000)
「私は何も信じない」(130)
「私は何も愛さない」(90)
数字は、大雑把な効果の目安だ。
とはいえ、「われ思わず」もなかなか好ましい。
「私は何も考えない」と同等なので、唱えやすそうなら使うと良い。

世界を再構成中
AIアート134
「世界を再構成中」
Kay


さて、世界コマンドもロクに続かない困った者達にも有益だが、IQを20~40%アップする訓練をご紹介する。
それは、頭の中で、出来るだけ早く、1から100まで数えることを繰り返すだけだ。
ただし、正確に数える。
正確に数えられないほど速く数えてはならない。
最初は、あまり速く数えられないかもしれない。
それどころか、とてもゆっくりとしか数えられない。
しかし、慣れれば、1秒で数回(100までを)数えられる。

ついでの話だが、IQ10万の(もちろん比喩だが)天才に、タイムリープについて聞いた。
誰でも、数千回、タイムリープしているらしい。
ただ、凡人(IQ400以下。比喩だがw)は、タイムリープ前の記憶が全くない。
記憶がなければ、タイムリープする意味は全くない(輪廻転生もだが)。
上の、カウントアップ訓練をやれば、そこそこ記憶が戻り、自覚はないが、ものが分かる状態になっているらしい。
記憶が戻るほど、記憶を持ってタイムリープがしたくなり、それをかなり自由に出来るようになるようだ。








『老子』第37章を一言で言えば「最良の指導者は空気のようなもの」

今回は『老子』第37章である。
この章を一言で言えば「最良の指導者は空気のようなもの」である。

老子は、優れた人間が悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から脱する方法を説くと共に、それを成し遂げた者が、その他の者(人民)に対しても、その装置の影響を軽くしてやり、うまくいけば、普通の庶民の中からも、目覚めることが出来る者があるよう教えたのだと思う。

良い君主というものは、自分が成しているという想いを持たない。
そのことを、この章では「王侯は、(道のように)何事も為さずに全てを為す」と言っているのである。
自分が成しているという想いを持たないとは、早い話が、思考をしないということだ。
思考をしなければ自然になる。
なぜなら、人間の思考とは不自然なものだからだ。
老荘思想、あるいは、道教で言う「道に従う」とは、単に、「自然である」ということだ。
余計なことを考えない自然な人には、誰もが従うのである。たとえ、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に支配された者であっても。

ルドルフ・シュタイナーは教育者としても際立っていたが、「良い教師とは空気のような存在」と言ったようだ。
それが、老子の言う「見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指に感じない」空気のような存在で、自然な存在とはそのようなものだ。
空気、あるいは、清流と言っても良いだろう。
そして、そのような存在が最も強い力を持つことは、自然において、空気や水がそうであるのと同じである。

1959年のアメリカ映画『ベン・ハー』で、こんな印象深い話がある。
主人公の青年ユダが、罪がないのに囚人となり、他の囚人と共に鎖でつながれて灼熱の砂漠を歩いて移動させられていた。
中継地の村に着いた時には、囚人達は死ぬほどの渇きを感じていて、村の人々は、自然な慈悲心から、囚人を護送する兵達だけでなく、囚人達にも水を与えた。
ところが、ユダは護送兵の隊長に嫌われていて、村人がユダに水をやろうとするのを止める。
我々だって渇いた記憶があり、渇いた時の水がどれほどの価値があるか知っている。
しかも、ユダは、灼熱の砂漠を何十キロも歩かされた後なのだ。
ユダは悲痛な想いで水を求め、なりふり構わず、護送兵の隊長の身体についた水さえ舐めようとする。
その様子を憐れみ、村人がユダに水を与えようとすると、護送兵の隊長は、それを乱暴に蹴散らして脅し、ユダに水を与えさせない。
絶望と悲痛の中、ユダは意識を失う。当然、そのまま死に至るはずであった。
だが、そこで1人の若者が水の入った器を持ってユダの所に行き、ユダの後頭部を水で冷やし、微かに意識が戻ったユダに水を飲ませる。
それに気付き、再び蹴散らしてやろうと護送兵の隊長が若者に向かっていくが、護送兵の隊長はなぜかその若者に近付けない。
その若者は、後で分かるがイエス・キリストであった。
弱った者に慈悲を施すのは、考えてやることではなく、自然な行いである。
それを自然に行うイエスに逆らえる者はいない。
そのことを示す印象深い場面であった。
私は、元ミュージシャンで、元ホームレスの男性が、あのイエスのようになりたいと言っていたのを覚えている。
それで、この映画のその場面を意識的に見たのであった。
イエスが登場する映画には、地球人を悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から解き放つ意思を持った善の宇宙人の介入により、隠されたメッセージが込められた作品が、他にもあるらしい。








究極の力ある言葉

私は、合氣道家の藤平光一氏の著書『氣の威力』で知ったが、「真理の言葉」を唱えると、何らかの原理で心身の力が拡張され、ちょっとした奇跡のようなことも起こる。
藤平氏の著書には、極めて単純な真理の言葉「重みは下にある」によって、藤平氏流には「氣が出て」、精神や肉体の力が高まるが、それだけでなく、不思議なことも起こる。
そのような状態では、引き寄せの力も強まるはずであり、藤平氏も、引き寄せとは言わないながら、それを示唆するようなことも書かれていたと思う。
それで私は、昔から、では、最上の真理の言葉は何であろうかと考えてきた。
その言葉が真理であればあるほど、また、高度な真理であるほど、発揮する力は大きいと思われる。

しかし、「愛は世界を救う」なんて、CMでよく見るような言葉はどうかというと、愛の定義にもよるのだろうが、こんな言葉が使われる場面での雰囲気を見ていると、あまり真理の言葉とは思えないのである。特に、庶民が「愛」という場合、あるものを愛すると同時に別のものを憎むということを平気でやる。確か、愛とは、分け隔てをしないものであったはずだが・・・
「愛の反対は憎しみではなく無関心」とか言う人もいるが、これだって、何かを愛するがゆえに、愛することが出来ないもの、価値がないと思うものを無視するだけのことである。
いずれにせよ、普通の人が言う「愛」自体が真理でないのだから、「愛は永遠」だの「愛こそは全て」だのは、いかがわしかったり、ハリボテだったりする。

デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を究極の真理としたが、これの本来の言葉である「疑っているわれは確かに存在する」なら、かなり良いが、思おうが思うまいが「われ」は存在するという簡単な指摘に対しても、なかなか反論出来ない。
面白いのは、ルドルフ・シュタイナーが「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」と言ったことで、私は「ああ、これは真理だ」と思ったが、一般的には禅問答のような言葉だろう。

そして、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」こそ、最高の真理であり、即、これが最高のマントラだと言った。
本当にそうなら、この言葉を唱えれば、超人、マスター、大師になり、引き寄せも自在になるはずだ。
しかし、そうはならない。
この言葉の問題は、「私は在る」の「私」が、自我か真我(魂)かはっきりしないことだ。
どちらかというと、自我を指していると思われるが、自我はあったりなかったりするし、仏教の立場では、自我は本来、存在していないし、自我が消えることが目標である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で語られているが、イギリスの偉大な技術者で思想家と言えるF.L.ローソンは、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
という言葉を真理とし、この言葉によって奇跡を起こした。
「神の他に何もない」は、「全ては神である」を言い換えた言葉と言えるが、確かに真理である。
しかし、自我にとって、これほどピンと来ない言葉もないし、自我が最も反発する言葉でもある。
その自我が黙るまで、粘り強く唱えれば、引き寄せ自在の超人になるのかもしれないが、いったい、どれだけの時間がかかるか分からない。

そこで、私なら、次の言葉を推したい。
「私は世界で唯一の考える主体である」
これは、ジョセフ・マーフィーの何かの本に載っていたのだと思う。
これに似た言葉と思ったのは、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『History(歴史)』というエッセイの中の、
「私はスフィア(天球)の所有者( I am owner of the sphere)」
だ。入江勇起男氏は、これを「私は世界の所有者」と訳しておられ、意味としてはその通りであると思う。
この「私」は、自我と言えば自我だが、エマーソンは自我と魂の融合をよく説いていたので、この「私」は、自我であり魂であると言え、自我も良い意味で満足するのであり、とても調和のとれた言葉だ。
それも含めた深い意味で、この言葉は「私は世界で唯一の考える主体である」と似ていると思う。
ただ、「私は世界の所有者」と言うのは、エマーソンのように精神が発達した者でないと、やはり抵抗がある。

そこで、私は、最高の真理の言葉は、やはり、
「私は世界で唯一の考える主体である」
と思う。
この言葉に馴染めば、あらゆる引き寄せを行う力になる。
他の引き寄せ法や鍛錬と共に、1日数度でも唱えれば、大きな力になると思う。
もちろん、この言葉だけ唱えるのも、非常に良いことと思う。








地獄の世界でやむを得ず持つべき力

ラマナ・マハルシが、「神実現の呼吸法」を語ったのは、1936年2月5日のようだ。
尚、「神実現の呼吸法」は私の命名で、マハルシ自身は「知恵の呼吸」と呼んでいた。
この呼吸法が日本に紹介されたのは、1983年出版の、おおえまさのり訳編『南インドの瞑想』で、私はこっちで知っていたが、この本は原書のいくらかを抜き出して訳したもので、マハルシが、なぜ、このような、とんでもないことを教えたのか謎だった。
しかし、ナチュラルスピリット社から、完全な翻訳が2018年(電子版。紙の本もある)に出て、謎が解けた。
マハルシは、非常に優秀な青年からの質問に答える形で教えたのだった。
ひょっとしたら、個人的に教えただけかもしれない。
だが、この質疑は歴史的な出来事であると私は思う。
この素晴らしい青年がマハルシを訪ねなければ、また、そんな質問をしなければ、我々はそれを知ることが出来なかったのだからだ。

マハルシは、この呼吸法により、超能力(シッディ)がもたらされることも示している。
マハルシは、イエス・キリストの力もシッディであったと、別のところで述べている。
もちろん、マハルシの目的は、人に超能力を与えることではなく、場合によっては、超能力で道を踏み外す者もいるかもしれない。
しかし、今の時代、超能力を持っていた方が良いと思われ、後のことは自己責任ということで仕方がない。
メタバースの権威的な研究者であるアヴィ・ローブ博士はごく論理的な意味で、地球人類が「下の世界」に堕落する可能性を示したが、それが近い、あるいは、既にそうなっているような気がするからだ。

神実現の呼吸の翻訳を抜粋する。

「ナ・アハン(私はこれではない)」=出息
「コーハン(私は誰か?」=入息
「ソーハン(私は彼である)」=呼吸停止
~『南インドの瞑想』より~

Naham「ナーハム」私はこれではない=呼気
Koham「コーハム」私は誰か?=吸気
Soham「ソーハム」私は彼だ=呼吸保持
~『ラマナ・マハルシとの対話1巻』より~

「私はこれではない」とは、自分とは、身体でも心でもないという意味だ。
最後の「私は彼である」は、「私は神である」という意味で、我々日本人は「私は神である」と唱えるべきと思う。
インドでは、神は非常に畏れ多い存在なので、直接「神」とは言わず、「彼」「それ」などと表現する。
しかし、日本人にとって、神は親であり、祖先であり、自然であり、非常に親しいので、「神」で差し支えないと思う。
そこで、やり易いように書くと、次のようになる。

(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。

この呼吸法を行っていくと、高次元の自己との同調が起こり、この世界での自分が希薄になるのを感じる。
あまり一気にやると、自我が消失してしまい、ことによっては肉体ごと消えることもあり得ると思う。
高次元に飛んでしまって、自我が消失した有名な例としては、フリードリヒ・ニーチェがいる。
だが、ニーチェの高次元の神体と肉体との関係は完全に消失したわけではなく、霊覚者であるルドルフ・シュタイナーは、ニーチェに会った時、ニーチェの神体を感じ、その知性に畏怖したのである。

行う場合は、自己責任で、適度に行うことをお勧めする。








奇跡のコースター

懐かしいものが出てきた。
アニメDVD『涼宮ハルヒの憂鬱4 笹の葉ラプソディ』の付録の1つであるコースター(コップ受け)だ(もう1つの付録は、中学1年生のハルヒのイラスト)。

haruhi coaster.png2

これには、面白い思い出がある。
それは、旧ブログに書いたが、上のDVDを購入したのと同じ時期に、英国の作家コリン・ウィルソンが、ルドルフ・シュタイナーについて書いた『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』を購入したことで起こる。

haruhisteiner_2

購入日は、
『涼宮ハルヒの憂鬱4 笹の葉ラプソディ』2010年3月24日
『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』2010年4月15日
で、こういったことが、Amazonの「購入履歴」で簡単に調べられるのだから便利だ。

その、『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』の表紙の赤い正方形部分と、そのコースターがぴったり一致するのである。

stach_1

stach_2

まあ、なかなかないことだ。

その時、私は「面白い」とは思ったが、それほど驚かなかった。
このようなこと(偶然の一致としては極めて珍しいこと)は、私には、子供の時からよくあることだった。
そんな話は、時々、このブログで紹介しているが、例えば、私が小学4年生の時、天文の知識は全く無かったが、いつも、満天の星の中から、土星を一発で特定したことや、中学1年生の時、以前見たテレビドラマを録画したくて、テレビを付けて録画装置のリモコンを持ち、放送されることを期待したら、しばらくしたら、まさに、その放送が始まり、希望通り録画することが出来た。
奇跡と言えば奇跡である。

また、こんなことを思い出した。
ローラ・インガルス・ワイルダーの自伝の1冊目である『大きな森の小さな家』で、ローラがまだ小さい子供だった時、彼女の父親のチャールズが、彼女に、こんなお話をしてくれる場面がある。
「昔、ある男が、大きな猫と小さな猫を飼っていた。男は、壁に、猫たちの出入り口として、大きな猫のために大きな穴を、小さな猫のために小さな穴を空けた・・・」
その時、ローラが、
「え?でも・・・」
と口を挟むと、ローラは、母親か姉に、「人の話を途中で遮るのは良くない」と注意された。
実は、私は、この話のおかしさを、少し考えなければ分からなかったので、小さいローラより頭が悪いのかもしれなかった(笑)。
しかし、そんな間抜けなこと(2匹の猫のために2つの穴を空ける)を素でやる、その男の馬鹿さよりはマシだと思って、気を取り直した。
まあ、そんな馬鹿が実在するとも思えなかったが。
その後、しばらくして、数学者の矢野健太郎の『すばらしい数学者たち(新潮文庫)』を読んだ。
その中に、人類で最も有名な数学者・物理学者と言えるかもしれない、アイザック・ニュートンの章があった。
雰囲気的に、こんなことが、ニュートンについて書かれていたと思う。
「ニュートンは、時々おかしなことをする人だった。猫を2匹飼っていたが、大きな猫の出入り口用に大きな穴を、小さな猫の出入り口用に小さな穴を空けた」
つまり、「そんな馬鹿、本当にいるわけがない」と思った馬鹿は、
「世界は暗かった。そこで神は言った。『ニュートンをこれへ』。すると世界は明るくなった」
とまで言われた、人類最高の天才アイザック・ニュートンであった。
天才とは、少々変わっているものかもしれない。

私は、自分にはありふれていた奇跡を再現する原理と起こし方を探求し、少しは分かったので、なんとか伝えようとしているのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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