ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

リルケ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

世界はこうして造られる

世界は、物質的に何かが存在している訳ではなく、我々が目を向けた時(正確には意識した時)、我々の内部にいる魔術師が、目を向けた先に、一瞬で世界を構築するのだと主張する人は昔からいたが、現代の科学は、それが正しいことを解明している。
有名な、アインシュタインとインドの詩聖タゴールとの対話で、タゴールは、「我々が見ていない限り、月は存在しない」と断言したが、アインシュタインには信じられなかったらしい。

問題は、「我々が好きなような月を作れるか」だが、実際、作っているだろう。
月より、星の方が分かり易く、星空は心の中そのものだ。
詩人、農民、エンジニア、科学者を問わず、心が澄んでいる時は、皆、星は語りかけてくると言う。
アンデルセンの『絵のない絵本』の月は、アンデルセンの魂だし、ライオネル・マリア・リルケの『夢』の第七夜では、あるロシアの若者は、星は神様や天使の目であると信じていたが、彼がそう思っているならその通りだ。

皆、魂は美しく、世界も美しくあるはずだが、魂に近いところにある心が、世界を台なしにしてしまう。
そう、人生をとても残念なものにしてしまうのだ。
『ラーマーヤナ』のヒロイン、シータの父親のジャナカ王は、その心を見つけ、死刑にしてしまった。
もっとも、心が無ければ、世界も存在しないのだが、普通の人の心は、荒れて淀んだ湖だ。
世界は心が見せる幻だとしても、良い詩人や画家が描く世界が美しいように、我々は目の前に美しい世界を作り出すことが出来る。
淀んだ心が邪魔さえしなければ。
そして、心を静かにする方法は、単に、静かな呼吸をすることだということを、誰もが、何度も聞いたはずなのだ。
私も、力強くそう教える声や文字を、何十回も聴き、見た覚えがある。
不安というのは、世界が美しくないか、美しくない世界が現れる予感と共にある。
そんな時、呼吸を静かにすると、世界や世界の因子が変わっていくのを感じて安心するのである。
我々の内にいる、世界を作る魔術師(それは神か仏のようなものかもしれないが)の邪魔をしてはならない。
極めて呼吸が少ない神人は、自在に世界を構築しているのである。









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不思議な体験

インドの聖者ラマナ・マハルシは、魂の座は人体の中では、胸の中央から指2本分、右にあると言ったようだ。
私は全く信じていなかったが、今日、ちょっと面白いことがあった。
私は、少し寒い部屋で、ソファに座ったまま、半ば眠っていた。
1つのサブウーハー(重低音用スピーカー)と合わせた3つのスピーカーから、初音ミクさんのミニ・アルバム『HATSUNE MIKU EXPO 2016 E.P.』の音楽が流れていた。
CDをMP3に変換して、スマートフォンに取り込んだものだ。
ピアノのみの伴奏の『星のカケラ』が驚くほど素晴らしくて感激した。
『HATSUNE MIKU EXPO 2016』日本ライブ・ツアーのテーマ曲『Blue Star』は、オリジナルとは別に、2つのリミックス・バージョンが収められていて、これがまた、どれも良い。
そして、『Blue Star』の「Carpainter/TREKKIE TRAX」リミックス・バージョンを聴いている時だった。
気がついたら、着ていた緑色のトレーナーの首のところを押し下げるようにして侵入させた左手の手の平を、胸の中央から、少し右(ほぼ、指2本分)に押し当てていたのだ。
全く無意識にだ。
半分眠っていたのと、寒さに弱い私が、少し風邪をひきかけていたこともあって、自我が完全に退き、私のエス(無意識の中の生命力)がそうさせたのだろう。
それは、全く自然なことに感じ、意識が戻っても、とても心地良かった。
全ての曲が終わり、何かの低い振動音が聴こえる中、胸の右側に左手を当てたままでいたら、純粋な意識が輝きながら広がるのを感じた。
解脱とまではいかないが、内部の魂と交流した神秘的体験と言えると思う。
マハルシはやはり正しかったのだ。

このミクさんのアルバムは、「星」をテーマにしているのだと感じる。
そして、私は最近、サンスクリットで「星」を意味する、「ターラー」という言葉をずっと想っていたのだ。
ターラーとは、私がにわか信仰を始めたターラー菩薩様(多羅菩薩、ターラ菩薩)の名だ。
サンスクリット語では、「瞳」のことも、ターラーと言う。
ミクさんの青い瞳もまた、Blue Starで、地球と全く等しいのである。

ドイツの詩人・作家ライネル(ライナー)・マリア・リルケの『夢』という神秘的な小説がある。小説と言っても、2~3ページなのだが。
青空文庫内の「ここ」で、無料で読める。
まあ、ロシアを「露西亞」、モスクワを「莫斯科」と表記する古い文章だが、それ以外は、そう読み辛いことはないと思う。
短いが、精神を覚醒させる素晴らしい作品だ。
その中で、あるロシア人の若い労働者が、星が神様の眼や天使の眼であると信じているとある。
この短いお話は、リルケが見た夢のようで、不思議な少女が一人登場する。
彼女は、星が人間の眼であることを知っていた。
その少女は、いったい何だったのだろうか?
天使か、精霊か、あるいは、ターラー菩薩様だろうか?

ターラー菩薩様と、初音ミクさんと、リルケ氏、そして、バガヴァン・ラマナ・マハルシのおかげで、思わぬ素敵な体験が出来た(もちろん、音楽を創作してくれたクリエイターの方々のおかげでもある)。
まるで、ターラー菩薩様の緑色の羽衣や、初音ミクさんの緑色の髪に触れたような気がするが・・・気がするだけだろう。
女神様の羽衣や、それに等しい、ミクさんの髪に触れさせていただけるような徳は全くないし。









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星を見る不幸な人は1人もいなかった

顔を上げることの大切さは、いくら強調しても足りないので、再度述べておきたい。
最後まで顔を上げ続ける者だけが成功する。
世間では、走り続けることの大切さがよく言われるが、うつむいて走っていたら、天使が近付いて来たって分からないし、崖に向かって走っていることも分からず、気がついた時は真っ逆さまだ。
そりゃ、古代ギリシャの数学者で哲学者だったターレスのように、星の観察に熱中するあまり地面の穴に落ちて、奴隷の女に笑われたという有名な話もあるので、足元にも気をつけないといけないが、いつまでも足元ばっかり気にして人生を終えるのが人間なのだ。
地に足を着けるってのは、考えることだ。
顔を上げるというのは、行動することだ。
考えるばかりじゃ、いけないってことだ。
いつかは、思考という鎖を解き放って、空に飛ばないといけない。

私は、この5年ほど、毎日、肉体のトレーングを欠かしていないし、特にこの3年近くは、朝晩2回のトレーニングを1日も欠かさない。
目的らしいものもなく、そんなことをやっていて、すっかり人間離れしてきた。
しかし、最近は、ややメニューの多い夜のトレーニングをちょっとシンドイと思うようになっていた。
ところが、顔をあげてやることを意識するようになったら、途端に身体が軽くなり、またトレーニングが楽しくなった。
私がいつもお薦めしている腕振り運動にしたって、顔をあげてやれば最大の効果が出る。
スクワットでも、うつむいてやると、姿勢が悪くなって、効果が少ないばかりか、腰を痛めかねない。
腕立て伏せも、うつむいてやる者が多く、すると身体が曲がってしまって、やはり効果が少なく、しかも、肩や肘を悪くするのである。

運が悪くなっていたら、星を見ると良い。
絶望している時は、是非とも星を見るべきだ。
古代から、沢山の人達が星を見て、神に救い上げられている。
BOAさんの『Every Heart~ミンナノキモチ~』という、アニメ『犬夜叉』のエンディング曲であった、恐ろしいほど素晴らしい曲がある。
その中で、「星たちが話す未来は いつも輝いていた」というところがある。
ここを聴いた時、私は恍惚としたものだ。
それは、太古の昔から、星を見上げていた人達が皆、感じていたことだ。
星が語りかけてくることは、高い精神と同調する人なら誰もが知っている。

ジョージ・アダムスキーは、UFOを見たければ、野外に出た時、空を見上げるクセを持てと言っていた。
あの人のUFOや宇宙人の話が本当かどうかは分からないし、どこか怪しい感じがしないでもないのだが、貧しいポーランド移民だった彼が、その思想で沢山の人達に信奉され、優れた影響を与えていたのは紛れも無い事実だ。
あなたも、UFO・・・あるいは、天使を見つけるつもりで、野外では度々、空を見上げれば良い。
今の人は、いつもスマートフォンを見てうつむいているので、天使が沢山飛び回っていても気付かないし、幸運も全て逃している。
天使もUFOも、よく見ないと見えないところがある。
動きが速いし、地上近くまで来るUFOは、そんなに大きくない。
数百メートルという距離が、ものをいかに小さく見せるかは意外なほどなのだ。
だから、飛行機にあまり乗らない人が、稀に飛行機を近くで見ると、その予想外の大きさにひどく驚くのだ。
ロケットの巨大さなんて、見れば、人生が変わるほどだ。
そして、天使やUFOを見れば、そして、それを認識できれば、その人の人生は決定的に変わるのである。その時から、彼(彼女)は空に向かうのだからだ。

天からは、精妙な陽気が降ってきている。
空を見上げる者が、それを感じ、そして、感じることでそれを受け入れる。
その時には、もう以前と同じ人間ではなくなっている。
『まほろまてぃっく』というアニメで、まほろが「時々、見上げてみなくっちゃ、空の青さは分からないよ」という、妙なハナ歌を歌うのをよく覚えている。
空を見上げることがない人間がいかに多いことか。
そして、星を見ない人がすっかり多くなってしまった。
ライネル・マリア・リルケの『夢』というお話に、星は、閉じた瞼から抜け出した人間の目だと書かれている。
ある意味、まったくその通りなのだ。
それは、宇宙霊と一体化した純粋な魂の反映だ。
星を通して、我々の魂がそれを見るのである。
星を多く見ながら不幸な人は、人類史上、1人もいないのだ。
たとえ目が見えなくなって、顔を上げれば、星を感じるのである。
顔を上げれば、我々の中の星が、宇宙全体と呼応するからである。









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夢について

今朝見た夢をよく覚えている。
夢というのは、つい今しがた見たものでも忘れてしまって思い出さないこともあるが、幼い頃に見た夢でもよく覚えているものもあると思う。
どんな夢をよく覚えているのかというと、悪夢とか、あるいは、非常に美しいといった印象深いものが多いのかもしれないが、そのような夢を必ずしも覚えている訳ではない。
では、本当はどんな夢を覚えているのかというと、リアリティのある夢なのであるが、これは、決して、目が覚めている時のような感覚が強いという意味ではない。
そうではなく、夢も、目覚めも同じだと感じさせる夢だ。

夢を描いた私が好きな小説はライネル・マリア・リルケの『夢』の第7夜。なぜ第7夜かというと、それだけが青空文庫で訳出されていて、色々な電子書籍でほぼ無料で読めると思う。
この作品の夢もまた、夢も目覚めも同じと感じさせるものだった。
江戸川乱歩は「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という言葉がよほど好きだったらしいが、これも夢のリアリティを強調した言葉だと思える。
黒澤明の映画『夢』は、全て、自分が見た8つ夢を映画化したもので、これもまさに、うつし世と夜の夢が渾然としたものだと思う。
この映画の中の『桃畑』で、雛人形の化身達が踊る光景がひどく美しかった。
また、桃の花の精と思われる少女は、割合に普通の人間の女の子のようだが、何か奇妙な神秘性があったのは、状況や振る舞いが変わっていたからだろうと思った。

私が今朝見た夢のことを少し書く。
ある場所に本田さんという金持ちの家があるということが、なぜか私に分かった。
これは、目覚めの世界とは何の関係もないことで、なぜ私がそんなことを知っているのかの合理的な理由は何もない。
ただ、歩いていくと、確かに大きな家があり、表札もないのに、そこが本田さんの家だと、「なぜか分かってしまった」。
私は、この広い家の庭で、ゴルフの練習をする場所を借りたいと思っていた。
私は普段、ゴルフをしないし、なぜ、ゴルフの練習をしなければならないのかは分からない。
しかし、そのことについて別段、不審な感じはなかった。
ただ、その家に近付くと、本田さんと思しき、いかにも金持ちそうな紳士が、先に庭でゴルフの練習をしていた。
どんなのが「いかにも金持ち」かというと、これは全く私の感覚であるが、落ち着いた柔らかい感じの人で、私は彼がひどく苦手なのだ。
それは、彼には、何かの圧力があるからだと思う。
自分が金持ちになりたければ、彼と融合すれば良いというのは分かるが、そもそも彼には近寄り難い。
私は、別の練習場所を探さねばならなかった。
本田氏の家の庭は広く、別の場所もありそうだったが、私は、その家で練習場所を借りる気がしなくなり、その隣の、何かの施設のような場所で練習しようと思った。
そこには、まずまずの練習場所があるように思えた。
ただ、私がしたいのは、実際は、ゴルフの練習ではなく、何かを的に当てる練習で、アーチェリーというよりは弓、ダーツというよりは、投げナイフだった。

理屈では説明し難いが、私には夢の意味がよく分かった。
的を得る人といいうのは、落ち着きがあって、私にない優れたところのある人だ。
その人の印象をはっきり持ったので、私は彼を見習った方が良いのかもしれない。
的を射抜くには、的に執着してはならない。
的は自分の中にあり、落ち着いていれば・・・ペースを乱さず悠然としていれば外しようがない。
そういうことである。
夢は大切にした方が良い。









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夜空の星と瞳の関係

人が眠っている様子を見る機会は、昔の時代に比べて少なくなっていると思う。
人が本当に無防備な状態で寝ている姿はなかなか面白いし、何かに気付くことも多いのに残念なことである。
電車の中で本当に熟睡してイビキを立てている者も稀に見るかもしれないが、それはむしろあまり見たくないというだけでなく、そんな者は細胞が緊張しており、自分の家で寝ている時とは違うのである。

岡本太郎の『今日の芸術』に書かれているが、西洋で女性の裸体画が多いのは、西洋の家では、部屋に鍵をかけてしまえば、侵入される恐れがほとんどないので、冷房がなかった時代では、女性でも、部屋に鍵をかけて裸になっていたからだという。
一方、日本の、ふすま1枚隔てた部屋ではそんなことはできないから、日本でヌード画は不自然であり、文化風習の異なる西洋の絵の真似をするなという主張であったと思う。
フランスに長く留学し、フランスの大学で民俗学や哲学を学び、そこにいた多くの外国人と交流し、そして、あらゆる国の美女、美少女達と同棲していた岡本太郎が言うのだから、説得力もあるというものである。
それで言えば、確かに、西洋の絵には、ヌード画だけでなく、人が眠っている絵にも印象的なものが多い。
フランスのモローの『夜(ナイト)』は、夜の女神自身が眠っているという、考えてみればおかしなものだが、それで通ってしまうし、文句なく神秘的な素晴らしい絵である。
モローに限らず、西洋の絵画では、目を伏せた人物は、眠っているように感じるものが多いと思う。

眠ってる人の姿を見るのは良いことであり、重要なことに気付かされる。
それは何かというと、自我、あるいは、心が身体と共にない人間の姿である。
そこに、神秘性や崇高さがある。
心を持たない人間には、言い様のない美しさがある。
ある意味、眠っている姿は人間の理想である。
だから、人が無防備に眠っている姿は、見ている者に安らぎを与える。
年を取るにつれて、心が身体にからみつく度合いが大きくなり、眠っていてすら、心と関わりを持つようになってしまう。
そんな寝顔は美しくないのだが、そんな人でも、疲れ果てて、心を完全に放棄して眠っている時、「つきものが取れた」ように、安らかな顔になっている。
我々は、美しい寝顔をしていること、そして、日中でも、そのような顔をすることが、 願うべき理想であり、それを、天使や神になった者と言うのである。

どこかの民族には、人は眠ると、目がその人から離れて空に浮かび、星になるというお話があるようだ。
お伽噺のようなものだが、どこか「本気で」心惹かれるところがあるのではないだろうか?
眠っている人の魂は、星のように崇高で、まるで神々のように、下界を静かに見下ろしているのだから。
リルケの『夢』第7夜(青空文庫で無料で読める)には、「都会では、人々は心配が多くて眠れなかったり、夜更かしをするので星が少ない」と書かれているが、それを笑う気にはなれない。
夜空の星を見上げていると、星達が話しかけてくるようだったり、その慈愛に満ちた眼差しに見つめられているように感じるかもしれない。
そして、心が洗われ、生まれ変わり、不思議な活力を得る。
崇高な人物の眼差しは、まさにそんな星のようである。
心を星の世界に解き放って眠っている者、あるいは、つとめを終えて永久の眠りについた者を見て、我々は人としての真の有り様を知り、自ら星になろうと思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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